40.朝顔を育てたよ
裏庭というほどの広さでもない。コンクリートで固められていて植物も植えられない。四方を家屋と塀に囲まれた、ただ隅に物置が一つポツンと置かれているだけの狭いスペースが、家の裏にある。そのスペースに出ているエドが、今ジョウロで水を撒いている。エドはこのスペースに朝顔の植えてあるプランターを置いて、その土に水をやっているのだ。この朝顔はエドが春に種から植えて、ここまで育て上げた。
これはエドから聞いた話だ。
五月連休明け。何を考えたのかエドはフラワーショップ小野に、土とプランターを買いに行った。
『日本の花を育ててみたい』
エドがそう言うと店長の小野さんは、
『じゃあ、朝顔を育ててみるか? 日本原産じゃないけど、夏になるとあちこちの家でこの花が咲くよ。日本じゃ有名な植物だ。きれいだよ。今から植えると丁度いい』
と言ってエドに土とプランターとのちに必要になる支柱を売った。
『種か苗は?』
とエドが聞くと小野さんは、
『エドさんには特別なのをあげるよ。お代はいらない』
と言って、ジッパーの付いた名刺サイズくらいのビニール袋に入れた、何粒かの朝顔の種をくれた。
『これは『朝顔の職人』と呼ばれる、大輪を咲かせることで有名なおじいさんが、昨夏自分が育てた大輪朝顔の種を集めて、知り合いに分けてくれたものの一つだ。そのおじいさんの種は何か特別なことをしなくても、普通に世話して育てれば、よその家よりもずっとでかい立派な花が咲く。俺が保証するよ』
小野さんは胸を張ってそう説明した。
エドは朝顔栽培セットとなるそれ一式を、家に持って帰ってきて種を植えて世話をした。八月の今、朝顔は一メートル五十センチ以上の高さまで成長して葉が茂り、小野さんの説明通り毎朝巨大な花を咲かせている。
チャンスはその大輪の写真を毎朝撮り、アメリカのキースに送っている。写真を受け取ったキースからは、お礼と優しい言葉が返ってくるそうだ。
「桜井、エドおじさんはまだそうか?」
広瀬の声がした。チャンスを抱いてベランダから裏庭を見下ろしていたリクは、その声に振り向く。
「もうじきに終わるんじゃないかな」
もうすぐ夕食の時間だ。食卓で勉強していたリクと広瀬は、食卓上の勉強道具を片付けた。
夕食の準備はエドがしてくれたから、あとはキッチンにある料理を温めなおして食卓に運べばいいだけだ。そこでインターホンが鳴った。
「誰だろう」
「俺が出る」
広瀬がそう言ってモニターに近づくと、相手と話を始めた。リクは再びベランダに出て朝顔を見下ろす。水やりを終えたエドは、今度は朝顔の枯れて落ちた葉っぱを拾い集めている。
一方の広瀬はモニターの向こうの人物と何か言い合っている。ベランダからではよくは聞こえないが、何かトラブっているのだろうか。
「広瀬、どうしたんだ?」
リクは広瀬の元へ向かうと声をかけた。
「雨宮だ」
広瀬はそう言った。リクは広瀬の横からモニターを覗き込む。確かに雨宮だ。
「なんで、雨宮が?」
リクは広瀬に尋ねた。
「渡す物があるから家に入れろと言っているんだが、どう考えても、碌なものじゃない気がする」
広瀬はそう言った。特に表情もなく、目をキョロキョロさせながら画面に映る雨宮。リクも広瀬と同感だ。
「どうしたんだ?」
室内に戻ってきたエドが尋ねた。
「家の外に雨宮が……」
言いにくそうに広瀬が言った。
「また何か面白いことでも見つけたかな。入れてあげなよ」
エドにそう言われ、広瀬は見るからに嫌そうに、ノロノロと玄関のドアの鍵を開けるボタンを押す。ほどなくして雨宮がリビングに現れた。
「こんにちは」
雨宮はまずエドに頭を下げた。それから雨宮はいきなり、たすき掛けにした鞄の中から、厚みのある、くたびれた封筒の束を取り出した。リクにとっては以前に見覚えのある封筒。それは銀行名の入った……。
「いや、すまなかった。チャンスからお金を返されて気づいたんだ。あれじゃあ安過ぎたなって。考えてみればチャンスほどの頭脳に仕事を依頼して、あの値段はなかった。一桁間違えた。失礼だった。で、これでいいだろう?」
雨宮は笑顔で言うと封筒の束をリクに差し出した。リクは封筒を見てポカンと口を開ける。その状態のまま頭の中で考える。あの封筒の中身は現金だ、間違いなく。しかもあの厚みからして考えたくない額の。なんでこんなことになってしまっているのか。
「チャンス、雨宮にはなんて言って返したんだ?」
リクはまず、腕に抱えているチャンスに尋ねる。チャンスは少しだけ顔を上に向けた。
「リク様に返せと言われたから返しますと」
「それだけ?」
「それだけ」
「他にも説明が必要だよね」
「は? どんな?」
リクは眩暈がした。なぜ返金する理由を雨宮に伝えないのか。だからこんなことになってしまっているのではないか。
「雨宮、とりあえずそれは受け取れない。持って帰ってくれ」
リクは次に雨宮に言った。
「え? これでも足りないか?」
雨宮の口から出た言葉にリクは、『そうじゃない!』と、自分の頭の中で突っ込みを入れた。とにかく、雨宮には一からちゃんと説明せねばならない。
「雨宮、いい加減にしろ」
リクの横に立つ広瀬が言った。
「お前、わかっていてやっているんだろう!」
なおも言う広瀬は怒りを含んだ声だ。
「何を?」
雨宮は広瀬の声のトーンに反応する様子もなく、無感情の声のまま広瀬に尋ねる。
「チャンスから聞いた。お前はチャンスに、代筆について桜井に話せば、桜井は絶対に反対するから黙ってろと入れ知恵したそうだな。それならお前は、桜井がチャンスにバイト代を返金させた理由が何だか察しがついているはずだ。それなのに札束持ってここへやって来た。それは常識外なことをされて困る桜井の反応を見て楽しむためだ」
広瀬が言い終わると雨宮は、チャンスに視線を向けた。
「ふん。まぁ、そんなもんか。広瀬って面倒なのがいたんじゃ」
雨宮は鼻を鳴らしてから、つまらなそうにそう言うと封筒を鞄にしまった。リクはそこでやっと頭が働いた。今広瀬が話したことをリクもチャンスから聞いていたが、雨宮の行動とその対処で頭がいっぱいになっていて思い出せなかった。広瀬がいてくれてよかった。
「桜井でもう一回ぐらい、かき回して楽しめるかと思ったんだが。頭の回る広瀬がいるんだから、もうちょっとしっかり作戦を立てなきゃ駄目だったな。そう簡単には楽しませてくれないか」
雨宮は肩をすくめた。
「そうか、じゃあ帰れ」
広瀬はそう言ってキッチンへ向かったが。
「え~、晩飯食わしてくれないのか? カレーの匂いがするぞ」
雨宮は広瀬の後ろ姿に向かっていった。広瀬は足を止めて振り返る。その瞳は怒りに満ちている。
「そういうのを図々しいと言うんだ」
広瀬ははっきりとした口調で言うだけ言って、キッチンへと入って行った。
「お口の中がカレーの用意してるぅ。このカレーの準備が整った人間を追い返すのかぁ。人でなしぃ」
雨宮は食らいついてくる。
「まぁ、いいじゃないか。せっかく遊びに来たんだから。今日はドライカレーだから多めに作ってあるし、トウモロコシや枝豆も大量に茹でたし、俺が食べようと思って買っておいたフランスパンもある。無着色ウィンナーもあったな。あれも焼こう。それでなんとかなるだろう」
「エドおじさん、ありがとうございます」
雨宮は礼を言ってから、不敵な笑顔でキッチンにいる広瀬の方を見た。広瀬は目を細めて雨宮を睨む。面白くないのだろう。でもエドがいいと言っているのでは、広瀬は雨宮追い出しようがない。
「やはり労働の対価、バイト代はもらっておくべきですよ。雨宮がいいんなら、あの札束全部。あ~、もったいない」
リクの腕の中のチャンスがボソッと言った。リクはそれを聞き流した。
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