19.雨宮の企み2
田端は立ち上がるとそのティッシュで、首、胸、脇と丁寧に拭っていく。どうやら田端が取り出したのはウェットティッシュではなく、体の汗や脂汚れを拭き取るペーパーのようだ。拭い終わると田端はそのティッシュを、ソファの近くにある小さなプラスチックのゴミ箱に放り込んだ。
ペーパーで体の手入れを始めてから、田端はタオルで拭いていた時よりも表情や行動が一段とウキウキしてきていた。ニヤニヤしてみたり、小声で鼻歌を歌ってみたり、上機嫌でどこか気味が悪い。
田端はしゃがむと、広げた荷物の中の二本のスプレー缶を両手に一つずつ持ち数秒間その二本を交互に見比べた。
「へへ。こっちがいい」
田端は決心がついたのか一本をバックパックに戻し、残した一本を右手に持ち替えて缶を数回上下に振った。それから立ち上がると顔から下の上半身中に、右から左から正面から更に肩越しに背中に向けてと、あらゆる方角からスプレーを噴射し始めた。
「田端! 何すんだ! 粉っぽい! 煙い!」
雨宮が文句を言った。田端の持つスプレーは制汗スプレーのようだ。田端は何秒間もスプレー缶の中身を浴び続ける。しかしスプレーされた霧の大半は体にはへばりつかず、体の周りをフワフワ漂っている。田端の立つソファ周辺はパウダーを含んだ真っ白い煙が充満していた。
文句を言う雨宮は、丁度三つ目のコップの麦茶の残りを飲んでいた。そこに向かってもろにスプレーが噴射される時もあり、雨宮はゲホゲホと咳き込みながら、左手の平で蓋をするように右手でコップを持って、ソファから逃げ出した。雨宮は一目散にキッチン内に避難する。
リク達の座る食卓の方にも白い粉が漂ってくる。それと共に鼻腔を襲う、むせ返るほどのシトラスの臭気。ここまで大量だと、爽やかなシトラス匂いでも香りがきつ過ぎて不快だし、手で払っても次から次へと空気中を流れてくる粉には思わず咳き込みたくなる。
「田端! ばらまき過ぎだ! こっちは飲んでるんだ! 迷惑な!」
雨宮がキッチン内からそう怒鳴った時には、田端はすでに噴射をやめ、スプレー缶をバックパックにしまっていた。
「迷惑なのはお前らだ! ここは図書室と一緒だ! 静かにできないなら出て行け! さもないと窓から蹴り出すぞ!」
追い出すのは諦めていたらしい広瀬だったが、この騒ぎにとうとうキレた声で言った。その途端に雨宮と田端は同時にピタリと動きを止めた。それから数秒間、雨宮と田端は互いに目を合わせる。この数秒間がアイコンタクトを取っているようで、リクはなんだか嫌な間だと感じた。
「ワリィ、ワリィ。静かにするから、そう怒んなよ。大人しくするよ」
広瀬に対して、ニヤニヤしながら気持ち悪いくらい下手に素直な返答をした田端は、やっとTシャツを手に取って頭から被る。
「だって、ほら、人間身だしなみは大事だから、な」
田端はそう言って今度は床に広げた荷物の中から、葉書くらいのサイズの黄緑色の薄っぺらいプラスチックの板と、持ち手の部分と髪をとかす部分がくっつくように半分にたたまれた、携帯用ヘアブラシを拾い上げた。田端はその二つを持ってソファに座る。薄っぺらい板に見えたのは、実は数枚の層になった板で、田端はそれを一枚ずつ広げると写真立てのような形に組み立て、ローテーブルの上に置いた。板に見えたのは携帯用の鏡だった。次に田端はたたまれたブラシを伸ばして使用できるようにし、鏡を見ながら髪をとかし始めた。
「桜井、あいつらのことは放っておけ。勉強に集中しろ」
思わず田端の行動に目が釘づけになってしまっていたリクは、広瀬に注意されて我に返った。そうだ。リクは勉強をしなくてはいけないのだ。
視界に雨宮の姿が入った。雨宮はソファに戻って行こうとしている。その手にはもうコップはない。多分、麦茶のコップは飲み終えてシンクに置いていったのだろう。代わりに左手にはカップアイスが一つ握られていた。右手にはアイス用の金属スプーンも。いつの間にとリクは思ったが、口にするのはやめた。たかがアイス一つのことで、これ以上気疲れしたくない。それにしても全く、雨宮は油断も隙もない。
ローテーブルの上にはまだコップが二つ残っている。そのコップの一つには、ヒヤヒヤ棒の外袋と棒が無造作に突っ込まれている。氷がとけた水に半分浸かっている外袋。雨宮は自分で片付ける気はなさそうだし、片付ける人に対する気遣いもない。水に浸かっている袋を、あとで片付ける者の身にもなって欲しいと思った。あんなにびしょ濡れの外袋を燃えるゴミとしてそのままゴミ袋に入れては、ゴミ出しのマナー違反だろう。少し水をきらなくては。そしてそれは当然、そんな細かいことが気になるリクの仕事だ。
気を取り直してリクは、雨宮が来る前までやっていた勉強内容の続きに取りかかった。夏休みは受験生にとっては貴重なのだ。
あれっきり雨宮と田端は静かだ。これならいてもらっても邪魔にはならない。チラリと見ると床の上に広げられていた田端の荷物は綺麗に片付けられ、田端本人はソファに座り雨宮の書いたあの資料を読んでいる。そして田端の真ん前のローテーブルの上にはなぜか、スマホとタブレットが並べて置かれている。
雨宮は食べ終えたアイスのカップに蓋を戻してコップの横に置き、スプーンはヒヤヒヤ棒のゴミの入っていない方のコップに突っ込まれていた。そして雨宮もスマホを弄っている。
しかし、先程の田端の一連の行動は変だ。ビニール袋の中のアイスもバックパックの中身も、あれほどグチャグチャに突っ込む田端が、身だしなみだけは念入りにしていた。日頃、身だしなみに対して田端は、そんなに細かい人間だったろうかと思う。今まで何度か暑い季節にリクの家に来たことはあるが、制汗スプレーやブラシや鏡など見たことがない気がするのだが。なぜ今日はそんな物をここへ持って来たのだろうか。Tシャツだって本当に着替えを持ち歩くようになったのか怪しい。今日だけの気がする。
理由をつけては長時間居座る雨宮が企んでいることと、田端のおかしな行動は関係があるのだろうか。
などと考えたところでリクにわかるはずもない。気にするだけ時間の無駄だ。勉強に集中するしかなかった。
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