1.楓子さんの絶叫
『Chance!』の最終話から3カ月ほど過ぎた頃のお話となります。
八月初旬の昼下がり、インターホンが鳴った。外はうだるような暑さ。真夏のこんな時間帯に訪問してくるのは誰だろうとモニター画面を見ると、そこに映っていたのは高校の友人であり親戚の一人でもある雨宮翔(あめみやしょう)だった。
「あ、雨宮?」
カメラレンズにボーっとした顔を向け佇む姿に、リクはそう呼びかける。突然やって来てインターホンのモニターに一人映る雨宮。このシチュエーションは嫌でもあの日を思い出す。
あれは二年前の秋。大荷物を持った雨宮が家出だと言って突然やって来た。そして四日間居座り、リクは面倒な事態に巻き込まれた。そんな、できれば相手をしたくない奴がアポもなく、一体何をしにやって来たのか。嫌な感じしかしない。
「お、桜井。中に入れてくれ。広瀬に用事があってきたんだ」
リクの声のあと、雨宮はボーっとした顔を急に笑顔にして言った。
「広瀬に用事?」
「おう」
雨宮と広瀬。同じ空間にいることさえ極力避ける二人。滅多に口もきかない。雨宮は一体広瀬になんの用事があるというのか。『広瀬に用事』という言葉にリクの直感は、これは絶対に碌な用事ではないと警告を発していた。しかしこの熱中症が流行っている炎天下、このまま涼ませもせずに追い返すのは気の毒だ、などとも考えてしまった。
「鍵を開けるから入ってくれ」
お人好しと言われるリクは、それ以上は考えず、雨宮を簡単に家の中に迎え入れた。
部屋に入って来た雨宮は、二重にしているのに中が重いからであろう、手持ち部分が細く伸びきっている大きなビニール袋を右手に下げていた。左肩からはたすき掛けの鞄を下げている。身につけている白いTシャツには、胸から腹にかけて迫力のある毛筆字体で『一触即発!』と書かれていた。何かまずいことが起きそうな予感が、じわじわと押し寄せてくる四字熟語である。特にそれを着ているのが雨宮だと。
「あ~、やっぱり室内は涼しいぜ。外は灼熱地獄だった。まずは土産だ。皆で食べてくれ」
雨宮は右腕をまっすぐ伸ばして、ビニール袋をリクに突き出した。
「あ、あり……がとう」
リクはたどたどしく礼を言ってそれを受け取った。なんだろうと袋の中を覗き込むと、大きい立派な西瓜が一玉入っていた。見た目通りずっしりと重い。水分が多くて美味しそうだ。とりあえず、リクはそれを食卓の上に置いた。雨宮が帰ったら、冷蔵庫内に場所を作って入れて冷やそうと思った。
「広瀬はコンビニに買い物に行ってくれてるんだ。だから戻って来るまで、ちょっと待っていてくれ。実は先週お父さんの寝室のエアコンが壊れて、一昨日やっと修理がきたんだ。お父さんはエアコンなしの寝室に耐えられなくて、夜中にリビングに移動してソファで横になったりしていたら、夏バテ・睡眠不足気味。で今週は疲れ果ててて、今、やっとエアコンが直った寝室で昼寝してる。チャンスはお父さんの部屋で一人でなんか、仕事するって言ってた」
リクは雨宮にそう説明して、雨宮にはソファに座ってもらった。それから雨宮がインターホンを鳴らす前まで、一人食卓で勤しんでいた受験勉強に戻ろうとしたのだが。
「桜井、ちょっとこれ読んでみてくれないか?」
雨宮はたすき掛けしたショルダーバッグを肩から外すとその中から、厚さ数ミリの、紙の束を取り出した。
「何これ?」
紙の束を突きつけられたリクは何も考えず、自然な流れでそれを受け取ってしまった。紙の束は向かって左上をホチキスで斜めに留めてあり、『資料』とのみ真ん中に太く大きく書かれた白い紙が一番上になっている。ここが表紙のようだ。繰ってみると、表紙以外はワードで書いたらしき文章がびっしりとプリントされていた。
「ま、読みゃわかる」
雨宮はそれだけ言った。雨宮は何を書いてきたのだろうか。読むのに時間がかかりそうだが、リクはこの受け取ってしまった紙の内容が凄く気になった。これを読まずして勉強に戻っても、集中はできそうもない。リクは食卓に戻らずに雨宮の隣に座って、紙に書かれた文字を読み始めた。
『資料』
物心ついたばかりの頃の俺のお気に入りのおもちゃは、プラスチック製の日本刀と、幼稚園児くらいのサイズの大きなクマのぬいぐるみだった。
おもちゃ箱の中にはビニール製のボールもあった。レールの上を走る電車もあった。ミニカーもあった。部屋の隅には小さなぬいぐるみ達が積まれていた。しかし当時の俺は、それら全てに興味がなかった。俺にとってそれらは遊ぶための物ではなく、ゆくゆくは刀を使って破壊するための物品だった……が、どれも刀を使うための敵と見做すには小さい。
俺はおもちゃ箱の中のそれらを、あえて無視してやった。そして三歳児の俺の仮想の敵は自然と、このデカいクマになった。
プラスチックの日本刀のおもちゃにトーチの力を込め、クマ公の額に叩きつける。
クマは額を凹ませるだけで、ビクともしない。そして刃型の凹みはすぐに元に戻る。
じきに中が空洞のプラスチックの刀はよれよれになり折れ曲がった。これでは逆に、小さくても硬い金属製のミニカーなど真っ二つにできないではないか。
これはトーチの力を込めるには適さない、父親は何でこんな役立たずの代物を俺に与えたのか。三歳の俺はそんな風に思考し、日に日に不満が募っていった。そしてとうとうある日。
なら。
なら、適した物を手に入れればいい。となると、次は木刀だ。父親は何を考えているのか日本国内の観光地に行っては、現地の土産の木刀を買い漁っていた。そして部屋に飾る。その当時の時点で、父親は十本以上の土産木刀を手に入れていた。
その木刀が並んでいるのは父親の書斎。一本ずつ柄を下にして床に置かれ、本棚に窪みを作り、そこに立てかけ並べられている。不安定なそれらは東京なら当然よく起きる地震の度に滑り落ち、床に散乱していた。しかし父親はあまり気にせず、その度に木刀を丁寧に並べ直していた。
俺は母親がトイレに入っている隙に、父親の書斎に忍び込んだ。そして一番部屋のドアに近い場所にある木刀を一本引っ掴むと書斎を飛び出し、猛スピードで自分の部屋に向かった。
俺は階段を駆け上がりながら、右手に木刀の重みを感じていた。それと共に握った感触も。
最高である。これでクマは殺れる。
『翔、翔、どこにいるの?』
母親が俺を探す声がする。じきにこの部屋にもやって来る。母親に見つかったら木刀を取り上げられる。時間がない。
俺は自分の部屋に飛び込むと両手でしっかりと木刀を握り直す。そして飛び上がると重力に任せ、クマのぬいぐるみに襲いかかった。トーチの力を込めた木刀を力一杯振り下ろす。クマは頭頂部から真っ二つになり、クマの置かれていた床にのめり込んだ木刀の周辺に亀裂が入り、部屋中に物凄い音と振動が響いた。
やった。やはりこれだ。この感触だ。これを求めていたのだ。俺は満足して微笑んだ。
『翔!』
部屋のドアの方から母親の声がした。誇らしく感じた俺は、笑顔のまま母親の方を見る。目が合った母親は恐ろしいものでも見たような顔をすると、耳を劈くような悲鳴を上げた。のちに俺が『楓子(ふうこ)さんの絶叫』と名付けた声だった。
読んでくださってありがとうございました。