おねショタを描く際は、健全な場面にこそ力を入れるべき
皆様方は「おねショタ」というジャンルをご存知だろうか
いや、そもそもご存知でなければこのエッセイを開いてはいないはずだ。
それを踏まえた上で改めて書き記しておくのだが、おねショタとは、「お姉さん×ショタ」のカップリング及びそれに準ずる作品を表す言葉である。
この「おねショタ」なる言葉を耳にした、或いは口にしたとき、皆様方の脳裏には多種多様な恋模様がありありと描き出されるだろう。
そしてそのどれもが、素晴らしく胸を弾ませる尊さを持っていることは、他ならぬ皆様方が実感しているはずである。
お姉さんがショタの真っ直ぐな瞳にたじたじになってるところとか……いいよね……
——しかし、果たしてそれだけなのか
おねショタはカップリングの一形態であり、我々はその中で繰り広げられる恋愛模様を拝み胸を熱くする……本当にそれだけなのか
すでにお察しのことと思うが、要するに、おねショタには『R-18』に相当するものが多いのだ。
男の欲望全ての器とも言うべき、見事な美貌と見事な肉体を持ったお姉さんが、純真無垢なる少年に性の手解きを行う、といったものだ。
そういう作品を目にした我々は、恋に胸を弾ませ胸を熱くする——などという平易な感情を起こすだけに留まらず!
お姉さんの弾む胸に目を奪われては別のところを熱くしているわけである!
なんたる煩悩、なんたる性欲。
コトを終えてふと我に返り、己の罪深さに頭を抱えた夜も幾星霜。
だが、私はR-18おねショタを否定したいわけではないのである。むしろお世話になっている。
身も蓋もないことを言うが、おねショタなんてものは元来、抜くためにある。
私のちっぽけな反省など、夜が明ければ露と消え、朝日と共に昇り来る白濁が再び私を支配するのだ。
さて話を本筋に移すが、私はそうした作品を読み終わった後、常に思うことがある。
それは、「この後どうなるんだろう」ということだ。
特にビッチ系お姉さんがショタに手を出すものに対しては一際そう思う。
お姉さんが散々ショタをいじめ抜いた後、そのショタは捨てられてしまうのではないか?
ショタにとっては、自分の大切なものを奪ったお姉さんが、唯一無二の女神のように見えるかもしれない。
しかしお姉さんからすれば、彼は数多くいる中の1少年に過ぎないのである。
増して「少年の初めてを奪うことに興奮するタイプのお姉さん」であれば、一度抱いた少年から興味を失くすこともあり得るのだ (まあそのような展開を迎える作品を見たことはないのだが)。
例え純愛ものであってもその懸念は拭えない。
悲しいかな、それは「おねショタ」であるが故の懸念なのだ。
ショタからお姉さんに好意を向けている場合でも、はたまたその逆であっても、少年との本気の恋愛に興ずる女が普通であるはずがない。
保護者的視点で見守るなら良いが、そこから恋愛や性行為に発展できるのなら、その女は素質がある。
彼女たちは「ショタコン」である。
彼女たちに普通の恋愛を期待してはいけない。
それは単に、彼女たちが異常性愛者だからだ。
私の懸念はそこに収束される。
作中においてどれほど深く繋がったとしても、どれほど激しいセックスを行なったとしても、いずれ「おね×ショタ」の関係性は失われてしまうのだ。
よほどの思い入れがないと、2人の関係はそこで終わる。
ショタが成長して青年になった時、お姉さんという名の異常性愛者は、まだ恋心を燃え上がらせることができるのか。
たった一つ、この一抹の不安をこそ、私は恐れてやまないのだ。
性の対象を狂わされ、その狂わせた元凶たるお姉さんに見放された少年のことを想うと悲惨でならない。
(※ショタからお姉さんへの気持ちは年を経ても色褪せないものとする。)
本来はこうも堅苦しく語る内容ではないがともかく何が言いたいのかというと
お姉さんとショタは末長く幸せなカップルであってほしい
これに尽きる。
ビッチ系に関しては作品の根底に関わる部分なのでとやかく言えないが、純愛ものにあたっては、「末長く」を大事にしてほしい。
(2人の姿が最も輝く瞬間を切り取り描くことに意義があるのかもしれないが、ここは恥を忍んで野暮を言う)
では、その願望を叶えてくれるものは何か——
何を隠そう、「健全パート」だ。
「恋」! そして「愛」!
そこにこそ力を入れるべきだと私は主張する。
お姉さんがショタをまさしく子ども扱いし、からかうように精通させたりするのも悪くはない。悪くはないよ……ああ、うん、いいね。イッてる瞬間のショタの表情も、心底楽しそうにしてるお姉さんも、そして次の日もシゴかれにやってくる展開も、好き……
けれどそれでは! その後が気になって仕方ないのだ!
その場ではショタにキュンキュンきてるお姉さんも、時がたてばどうなるか分かったものではない!
古典的だけど少年が必死に告白したり、分不相応にプロポーズしたり。なんかそういうアレがほしい。
お姉さんは困ったように笑いながらも内心狂喜乱舞してそれを受け入れてほしい。
ついでに言うと、お姉さん側には、その子に軽く依存してるような姿とか、その子との将来を思い描いて興奮してる姿とか見せてほしい。
男の哀れな欲求を満たすためのおねショタであっても、甘酸っぱい初恋を描くかの如き心意気で取り組んでほしいのだ。
お姉さんの異常性愛を、真剣な恋心に仕立て上げる技量があってほしいのだ。
お姉さんが豊満な心と体でショタを包み込む、それが本編なのは間違いない。成人向けだろうが一般向けだろうが、そこを外すおねショタは存在しないと言っていいだろう。
私自身、おねショタを読む時はその場面を今か今かと心待ちにする。
しかし私は、安易に行為におよぶおねショタが好きではないのだ。
言っている意味がわからないかもしれない、しかし理解してほしい。性欲を満たすためだけに生み出されたおねショタには、多大なる不安が付き纏うということを。
そして恋愛描写に力が入っている作品ならば、安心できるということを。
『相手に惚れるきっかけとなった場面』
『気持ちをまっすぐにぶつける告白』
『行為前の少しのためらい』
『終わった後のピロートーク』
こうした要素が揃っているととても嬉しい。
お姉さんは、何をもってしてその少年を好きになるのか、それを理解したい。少年側の視点もあれば尚良しだ。
その少年に他とは違う何かを感じ、そこに惚れる姿を見せていただければ、私は
「ああ、この人はただショタが好きだからこの子に夢中になっているわけではないんだ」
と頷けるわけだ。
たとえショタでなくなっても、その恋心に斜陽が差すことはなく、その関係が末長く続いていくことを想像させてくれる。
それがいかに読者に救いを与えるか、おねショタ好きな人ならば分かってくれるのではないだろうか。
これは偏見だが、おねショタ好きは基本的に寝取られ嫌いだ。
ちょっと考えてみてほしい、少年を狂わせるような理想的お姉さんが存在したとして、周りの男がそんなお姉さんを狙っていないなんてことがあり得るだろうか?
繰り返すが、相手は完璧に理想的なお姉さんである。その辺の美人キャラとはわけが違う。
お姉さんが他のショタに手を出すパターンはどうか。
お姉さんとショタ2が付き合っている場面をショタが1が目撃すれば、あどけない脳細胞は瞬時に死滅するだろう。
斯様に、おねショタとはこの上なく尊いジャンルでありながら、この上なく崩壊の危険を孕んだジャンルなのである。
孕むのはショタの子どもだけにしてほしいものだ。
読者には想像の余地がある。それは良い方向にも悪い方向にも、無限大に広がっている。
その無限を有限にできるのは作者のみ。
「互いの瞳には互いしか映っていない。この2人の恋路はもう絶対に揺るがない。他の連中が入り込む余地など微塵もない。数年後だろうが数十年後だろうが、変わらず愛を育んでいる」
それを読者に感じさせることが、作者の役目ではないだろうか。
尊さとはつまり安心感である。
私にとっては、それがお姉さんとショタの間で営まれる恋愛なのだ。
なんなら話の最後に「しばらくして、2人は幸せな家庭を築きました」とか書いてほしい。
もうマジで推しカプには末長く幸せになってほしい。
何もそのパートを長々やれと言っているわけではない。力を入れるとはそういう話ではない。
ただ、そういう場面があると助かるし捗る。
捗るというのは、描写ごとの対比により、エロシーンにも日常シーンにも深みが増すという意味である。
特にエロ同人は賢者タイムとセットなものであるからして、私の「この関係はどこまで続けられるのか」という懸念は、性欲に反比例するかのように大きくなっていく。
少年が必死に腰を振っているものも、お姉さんが下品に跨っているものも、当然、それだけで十分に欲を満たせる。抜ける。
しかしてショタが捨てられる可能性を秘めているうちは、決して気は抜けぬ。
エロ同人を読んでおきながら語るのもおこがましいが、私はおねショタというジャンルを恋愛の一形態として捉えているので、やはり2人の恋路を応援したいし、2人には報われてほしいと思ってしまうのだ。
恋愛描写が、そこを解決してくれる。
この気持ちもまた、おねショタ好きならきっと理解してくれると思う。
エロ同人について話したので、ここで同人に関するとある説を提唱したい。
いつかネットで「男性向け同人誌はカツ丼、女性向け同人誌はコース料理」なる例えを目にしたことがある。
それは実に的を射ていると思うし、そうあるのが需要にかなっていると思う。
しかしおねショタについてだけは、私の見解はやや異なる。
皆様は『バキ』を知っているだろうか。『範馬刃牙』の名を。
メインは格闘漫画なのだが、作中に出てくる料理がとても美味しそうなことでも有名だ。本文ではひとまずバキ飯と呼称する。
そのバキ飯の中に、非常に興味深い食事が出てくるので、それを紹介したい。
それは主人公である範馬刃牙が、父親の範馬勇次郎と自宅で食卓を囲むという、実に感慨深いシーンに登場する。
それが以下の
「焼き魚にたっぷりの大根おろし」
「キュウリの浅漬け」
「メカブに……」
「ゴハンとミソ汁……と」
「まん中にステーキだ」
というものである。
そう、これだ。私が提唱したいのは——
「おねショタはバキ飯であるべき説」
あくまで上記のメニューのみを指すものだが、カツ丼の例になぞらえて例えるとするならば、これがまさしく理想のスタイルなのである。
まず、あれらは一つのちゃぶ台の上に並べられる。
であれば、当然真っ先に目につく、そして食べたいと思うのは……ステーキだ。
要するにこれがセックス描写、一般向けならお姉さんがショタ相手にハァハァ言ってる場面に当たる。
メインは間違いなくここ、ここを見るためにおねショタを読むのだ。
だがステーキだけでは栄養の偏りが心配だ。私には一抹の不安が残る。
「そもそもステーキを喰いに来てんだからイチイチそんなこと気にするなよ」
とあなたは思うかもしれない。
確かにその通りだ。私がおねショタを読むのは、性欲を満たすためという部分が大きい。
しかし
だからとて抜けるシーンだけを見る
これも「真のおねショタ好き」とは言い難い
日常も見る
ベッドシーンも見る
両方を共に尊いと感じ——
活力に変える度量こそが
おねショタには肝要だ
というわけだ。
そして日常にあたるのが、ステーキを囲む副菜である。
副菜あってこその主菜、主菜あってこその副菜。
最初にミソ汁をすすり、焼き魚を頬張る。
口内の水分がほどよく保たれたところでステーキにかぶり付き、白飯をかき込む。
再びステーキの脂を全身にみなぎらせるのも良い。キュウリやメカブで口を整えるのも大切だ。
カツ丼のように「ドーン!」とくるわけではなく、コース料理のように上品に味わうものでもない。
しかしながらそこには侘び寂びがあり、そして貪るに適した快楽が待ち受けている。
全てが調和しあうことで、読者の不安を拭い去り、充足感がいつまでも尾を引く一食となる。
おねショタはこのスタイルを貫くことで、その深みを何倍にも増すことができるのではないか。
本当に心からおねショタが好きであるならば、抜けるかどうかだけでなく、お姉さんとショタの恋にも気をかけるべきなのだ。
そして読者は、でき得る限りそこに割り込まず、ただ黙して応援に徹するべきなのだ。
賢なる私曰く——、
ショタに自己投影して抜くのが本質だとは思うが、それは自分とお姉さんがセックスしている場面を想像しているのに他ならない。
それは、自分がお姉さんを寝取る場面を想像していることと同義である。
自分が〇〇くんになりきるとしても、実際には〇〇くんを差し置いて自分が割り込んでいるのだ。
おねショタに自己投影する隙などあってほしくはない。
自分の理想を自分で穢すなど、あってはならない——。
とのことだ。まさに賢者然とした態度。素晴らしい。これが私の理想とする理論。
でも溜まってる時は抜きます。
伝えたい内容が多くて話が行ったり来たりだったが、私は恋愛ものとしてのおねショタを推したい、というのが結論だ。
また、ここで語った内容はほぼR-18同人についてだったが、もちろん一般向けのおねショタについても同じことを提唱したい。
お姉さんがただ少年を愛でるのではなく、少年の純真な姿や熱い想いに胸を打たれ、次第にその少年を本気で好きになっていく過程を描いてほしい。
言うなれば、私が求めるおねショタとは、お姉さんが「ショタコン」から脱却する話だ。
ただ少年に反応するだけのお姉さんでは、応援したくなるような恋愛など望むべくもない。
まあ一般向けは元々恋愛に比重が置かれているので、言うまでもないかもしれないが改めて——
数多いる少年の中から「彼」を選び、「彼」と共に歩んでいく。
そういう話が、見たいのだ。
そういう話を、書いていきたいのだ。