8帰ってきた場所
あの日を境に、リックと会話するときには筆談が加わった。
おはようと挨拶をかわし、胸ポケットから紙とペンを取り出すと文字へおこす。
それを私へ見せると、改めてゆっくり発音してくれるの。
言葉を話せるように覚えるように、そんな彼の優しさに胸が暖かくなる。
彼は私とクリスの口喧嘩が始まると、どうでもいい事でも真剣に聞いて答えを導いてくれたのよね。
こうして彼と過ごしていると、エリザベスの時の記憶が何度も蘇るわ。
そんな時ふと思う。
エリザベスがこの世界でも存在していたとして、リックは3年前にいなくなった私をどう思っているのだろうか?
今の彼を見る限り普段通りで、それがなぜか寂しく感じる。
なんて自分勝手な感情なのかしら。
隠しておきながら、なに調子のいいことを……。
ここへ来てもうすぐひと月が経つそんなある日。
語学力もいい感じに成長したとみせ、そろそろ街へ移動させられると思っていたがその連絡は一向にこない。
まだ北の塔へ居てもいいのかしらね……?
窓から沈む夕日を眺めていると、いつものようにリックが夕食を運んできた。
「夕食をお持ち致しました」
扉が開き顔を向けると、そこにはエリザベスだった頃大好物だった料理が現れた。
独特な香りで癖のある味と食べづらさに、好き嫌いがはっきりと分かれる代物。
クリスもリックもこの料理が嫌いだったのよね。
私が食べている姿をいつも怪訝そうに見つめていたわ。
リックは匂いを嗅がないよう息を止めているのだろうか、無表情で素早くテーブルへ料理をセットしていく。
その様子にクスリと笑うと、私はすぐに椅子へ腰かけ、ナイフとフォークを両手に持った。
昨日は苦手な料理だったからさらに嬉しいわね。
味覚はエリザベスの記憶があるせいか、はたまたエリザベスだからなのか……。
好き嫌いは3年前この世界に居た頃から変わっていなかった。
試しに苦手だった料理を食べてみたけれど、やっぱり美味しくないのよね。
目の前にメインディッシュが置かれ匂いが漂うと、涎が出そうになる。
グゥ~と腹の虫が音をたてると、私は大きな殻をナイフで切り、身を取り出した。
一口運ぶと、独特の風味が口いっぱいに広がる。
あぁ~幸せだわ、またこの料理を食べられる日がくるなんて。
さすがにあの世界でここまで独特な料理はなかったものね。
近いと言えばエスカルゴかしらね、まぁエスカルゴは嫌いだったけれど……。
口に広がる風味を楽しみながら、至福のひと時を満喫していると、リックが驚いた様子でこちらを見つめていた。
「美味しい ですか?」
「はい すごく 美味しい」
そう片言で答えると、リックはじっと私を見つめたまま何かを考え込んでいた。
そんな彼を横目に、料理を口に運んでいると、次第に気にならなくなっていった。
それからも私を追い出す計画は進んでいないようで、数週間たった今でも北の塔で生活していた。
しかし城の内情を知っている身としては不安が募る。
この国、いえ、特に城にいる貴族たちは聖女を神格化している者も少なくない。
そんな彼らが聖女ではない私に不信感を抱かないわけがないの。
どうにかしろと王に抗議し、排除する動きがないとは思えない。
だからこそさっさと私をここから追い出したいはずなんだけれど。
そんな事を考えていたある日、リックが街へ出かけるとやってきた。
街がどんなところか案内してくれるようだ。
これはきっと北の塔から出す下準備だろう。
ここへ来てもうすぐ二月。
貴族たちが騒ぎ出しそろそろ限界とみた。
やっとこの生活から解放される。
眼鏡も髪のセットも毎度毎度面倒だったのよね。
平民地区へ行けば、エリザベスが存在していたとしても、わかる人なんてそうそういないわ。
だってエリザベスは歴とした公爵家の令嬢。
いつも馬車で移動していたし、顔を覚えている人も少ないでしょう。
この世界で平民暮らしの経験ないけれど、異世界ではごく普通の一般人で、掃除洗濯、家事全般、それにバイトもしていたからきっと問題ないわ。
眼鏡をかけ髪をセットし用意されていた服へ着替えリックを待っていると、トントントンとノックの音が響いた。
「おはようございます」
「おはよう」
眼鏡越しにニッコリ笑いかけると、私は彼を追うように塔を出て行った。