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その朝、上履きに入っていたものを見て、千咲は思考を止めた。
異臭がする。何かぐっしょりとした黒っぽい塊は、もともとは果物か何かだったのだろうか。
「何これ……!」
一緒にのぞき込んだ秀美が、絶句して眉をひそめる。
「生ゴミ……じゃないかな」
口に出してみると、さらに嫌悪感が増した。誰がやったのかは知らないが、学校まで生ゴミを持ってくるとは、ずいぶんと変な方面にまめである。
「職員室でスリッパ借りてこよう。ちょっと履く気にならない」
「あ、うん……つきあうよ」
気遣うように秀美が見つめてくるのに、うなずきを返す。
五日前から、覚悟していた。
対策を考えたりも、していた。
それでも、腹の底がもやもやする、いやな怖気は抑えられなかった。
上履きを見せ事情を話すと、担任は不快そうな顔をしたがスリッパを貸してくれた。教師というものは、小中高と通してたいていこういう問題には拒絶反応を示すのだろうし、頼りにならないと思っていた方が間違いない。手配して新しい上履きを用意すると言ってくれただけましだと考えることにして、千咲は秀美と一緒に教室へ向かった。
「この分だと、私の机とかも無事じゃすまないかも」
「淡々とそういうこと言わないでよ。しかもあんたが当事者なのに」
それはそうなのだが、うろたえたり怖がったりしても無意味なのも事実だ。
半開きのドアから、何食わぬ顔をして教室に入り、自分の机を見やる。一見して、変わったところはなさそうだ。
いつも通り、ざわざわとした中歩を進め、鞄を秀美に持ってもらい、ひょいと身をかがめる。
濡れぞうきんが詰め込まれていた。
「やれやれ」
このところ毎日重いのを我慢して、教科書を全部持ち運んでいてよかった。
「ちょっと、何これ!? 誰がやったの!?」
腹に据えかねたのか、秀美が声を上げる。ざわめきが静まり、すべての視線がいっせいに二人の方に集中した。
「秀美、落ち着いて」
「だって、千咲!」
「先生来るよ」
あくまでも冷静に言ってやる。秀美の興奮はそれで収まっていき、クラスメートたちも残り少ない朝の休み時間を再び雑談に費やしにかかる。
親しく関わらない限り、同じ教室にいてもそれは他人。他人がどんな目に遭おうと、関係ない。
そんな考え方を責めようとは思わない。千咲もそう思っている。
だが。
こちらに危害を加えてくるのなら、徹底的に迎え撃ってやろう。
ゆっくりと教室を見回し、ある一点で目を留める。
ひそひそとささやき交わし、何がおかしいのかしきりに笑っている、女子の集団。
クラスでも大きなグループで、いつも七、八人で固まって行動している。その中の一人に、あの少女がいる。
有栖川美優。
「どうする? 先生に言う?」
ぞうきんを取るのを手伝ってくれながら、秀美がおずおずと訊いてきた。
「言ってもなんにもしてくれないと思う。何かするとしたら、私が屋上かどっかから飛び降りたあとの記者会見くらいだろうね」
「またそういうこと言う!」
「自分で何とかするしかないってこと。手伝ってくれる?」
「何を?」
説明しようとしたところで、担任が入ってきた。しかたなく秀美は自分の席に戻っていく。
案の定、千咲の上靴については少ししか言及しなかった担任の話を聞き流し、あれこれと考える。
原因と思われるのは、やはり雅史とのこと。昨日、帰り際彼に傘を返して、それから一緒に少し寄り道をしたのだ。成績も普通、運動もできない、そして教室では以前と同じように目立たないように過ごしている千咲が急に嫌がらせの標的になる理由を、他に思いつかなかった。
机の下で、掌に隠していた紙切れをそっと開く。ぞうきんと一緒に押し込まれていた。
『イイキニナルナ、ブス』
不自然に角張った筆跡で、赤ボールペンを使って書いてある。
こういう場合の悪口で容姿に触れているのだから、やはり雅史に関係する可能性が高い。
対抗手段として、一番いいのは動かぬ証拠を手に入れて、突きつけてやることだろう。そして、ことを公にしてやることだ。そのためには、どうすればいいだろうか。
ふっ、と。
千咲は息を呑み、次いでゆっくりと唇をほころばせた。
一番簡単な選択肢、雅史から遠ざかるという選択が微塵も頭に思い浮かばなかったことに、今気づいたのだ。