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次の時間は体育だった。
更衣室は、ロッカーはなく各々スポーツバッグを持っていき、着替えを入れて棚にしまっておくようになっている。盗難があったらどうするんだと思うが、一日に何十人も使うのだからこれが一番合理的なスタイルなのだ。
わかってはいるが、千咲は不安だった。
「何やってるの、千咲?」
「いや、ちょっと」
制服を詰めたあと、バッグに南京錠をかけているのを秀美に発見され、言葉を濁す。嫌がらせ防止とはっきり言うには人が多すぎた。
自意識過剰かもしれないが、用心に越したことはない。なにしろ、何が「いじめ」に発展するかわからない今日この頃だ。今日の友は明日の敵、特に女子の間ではいつ何が起きても不思議ではない。
小学校の頃に、彼女はそれをいやと言うほど見てきた。
「千咲、先生来るよ。行こう」
秀美に促され、他の女子たちと一緒に千咲は体育館へ出た。
今日はバスケットボール。体育はいつも二限だ。待機の間、千咲はロッカールームの入り口の方をちらちらと見ていた。体育館の中に作られているから、外部から入ることなど不可能に近い。違うクラスの生徒が入ってきたら、まず教師に注意されるからだ。構造上、窓もない。
間違いなく、神経質になっている。そんな自分に気が滅入った。
目立たず、何事もなく。いいことなんてなくていいから、とにかく日常がいやになるような出来事が起きなければいい。
雅史が千咲の日々に入ってきてから、ずっとびくびくしている。
昼休みからぐずりだした空は、下校時刻になると完全に号泣していた。
「しばらくやみそうもないなぁ」
一人教室に残って、暇つぶしに復習などしながら、千咲は外のどしゃぶりにためいきをついた。雅史は今日は来ていなかった。委員会でもあったのだろうか。
体育のバッグ、靴箱、椅子。とにかく千咲の私物には、なんの異変も起きなかった。用心していたのがばからしくなるほどに、周囲は彼女を放置している。
考えすぎ、あるいは疑心暗鬼になりすぎていたのかもしれないと思えてくる。そもそも、現実は少女漫画ではない。学園のアイドルに好意を寄せられたからって、嫌がらせがこれでもかと起きる道理はないのだ。
苦笑が浮かぶ。そして、自然に雅史のことが頭に浮かんだ。
優しい先輩。穏やかだけど行動力がある。そのほかのことを、まだあまり知らない。好きなことや嫌いなこと、食べ物。
知っていったら、どうなるんだろう。
「あ、近江さん!」
どきっとした。
教室の入り口へ、恐る恐る顔を向ける。
鼓動がまた騒ぐ。
雅史がいた。
「よかった、間に合って」
心なしか息を弾ませ、彼はすたすたと近づいてきた。腰を浮かせた彼女の前に、ひょいと何かが差し出される。
「これは……?」
「まだ止みそうもないし、よかったら使って」
紺色の、折りたたみ傘だった。水滴がほとんどついていないし、きちんとまとめられているから、使われていないのが一目でわかる。
「え、でも……」
一本しかないのなら、二人で使うしかないのでは。想像してしまい、思わず赤くなる彼女に、彼は。
卑怯なことに、彼は。
「気にしないで」
微笑んだ。ゆっくりと、それはそれは劇的に。
目の前で、こんな顔をされたら。
もともとの素材がいいのに、優しい笑顔になぞなられたら。
首筋が熱い。
「友達のうちから借りてきたんだ。俺のはあるから、気にしないで使って」
「えっ?」
と、いうことは。
わざわざ傘を借りに行って、また戻ってきてくれたのか。
千咲の、ために?
胸の奥から何かがせり上がり、爆発した。目の前が真っ白になり、足がふらつく。
「あ、ど、どうしたの?」
驚いている雅史の声が、わんわんと反響して聞こえた。
自分の分の傘があるなら。
気にしないで、そのまま家に帰ってもいいのに。
かまわないでも、よかったのに。
いや、むしろ一つの傘で帰ってもいいはずなのだ。
「なんで、わざわざもう一本を?」
「え、だって」
雅史は、少し首をかしげる。
「俺の傘、あんまり大きくないし。二人で入るのはいやかなって」
「いやだなんて……」
恥ずかしいような、どうしようもない気持ちになって、うずくまりたくなった。
優しい人。
気を遣わせてしまった。
自分なんかのために。
「先輩は」
「ん?」
「どうして、私に……その、告白したんですか?」
有栖川美優のような美少女でも、秀美のような可愛くて明るい子でもなく。
どうして。
雅史は、再びゆっくりと微笑んだ。
「毎朝電車で一緒になるし、道の途中でも見かけて、いいなって思うようになったんだ」
「見かけて……」
拍子抜け、というか。予想外の答えに力が抜けてしまう。一目惚れとか、前世からの縁と言われても困るが。
「俺のこと、あのときまで知らなかったんだろうから、びっくりして当然だと思う」
静かに彼は続け、千咲は我に返り耳を傾けた。
「まだ一週間も経ってないけど、今日までで俺の印象ってどうなったのかな」
「印象、ですか」
「うん」
また、耳が熱を持つ。耳だけではなく、指先も、胸も、吐息すらも。
どう答えれば、いいのだろう。
「私は……」
好きだ、とはまだ言えない。
「先輩と一緒にいると……楽しいし、嬉しいです」
今は、これが精一杯だ。
「そう」
雅史は。
何かを噛みしめるように、深くうなずいた。