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質問:いきなり美形に好きですといわれたら、どうしますか?
千咲の場合は、こうだった。
近江千咲は、鞄を取り落としそうになった。うしろから続々とやってくる通勤通学ラッシュの人々を避けるため端の方に寄ったのは、脳ではなく脊髄の冷静さの賜物だった。
「あの……?」
たった今、交際を申し込んできた相手、千咲と同じH学園高等部の、夏服である指定ワイシャツの胸ポケットに三年生の校章をつけた少年は、一緒に端によって困ったように首をかしげていた。間が持たないのだろう。
彼女は、とりあえず腰までの髪を背に払い、鞄をきちんと抱え直して、口を開いた。
「急がないと遅刻します、大川先輩」
「え? あ!」
腕時計を確認し、彼は飛び上がった。
「ほんとだ! 近江さん早く!」
「へ?」
と、言ったときには、千咲は彼に手を引かれ、学校までの道を走らされていた。
「ぎゃあああ!」
とんでもない声が、喉から飛び出す。捕まれていた手首がその拍子に解放され、千咲は思いきりダッシュした。膝下までのスカートがからみついてうっとうしいが、かまっていられない。
「あ……」
呼び止めようとしたのかもしれないが、彼女は百メートル走一三秒台の俊足を生かし、ゴールの校門までをひた走ったのだった。
「あんたバカぁ!?」
懐かしのアニメキャラのようなトーンで、友人の田中秀美は千咲の朝の事件を評してくれた。
生まれてこの方染めたことのない髪を腰まで伸ばしているだけの千咲とは対照的に、今日も可愛らしく涼しげなショートカットをヘアピンでまとめている秀美は、性格も明るくはきはきしているのだが、いかんせん興奮しやすいところがあった。
「大川先輩だよ!? よりによって大川先輩なのに!」
「声でかいよ」
購買の、よく冷えた牛乳を堪能しながら、千咲は友人の興奮を宥める。教室のあちこちで机を固めて、わめきながら昼食を取っていても、女子高生とは常にあらゆる情報をキャッチすべく、耳を三六〇度展開しているのだ。まして、三年二組大川雅史は毎日何かしら注目を集める人物である。
まず、顔がいい。次に、頭がいい。さらに、性格もいい。そして、彼女がいない。
小学校高学年以降、第二次性徴を終えた女たちが群がらないわけはないという存在で、そうなると、熾烈な競争が繰り広げられるのは必至なのである。
つつがなく小学校、中学校を卒業できた幸運を常に忘れない千咲としては、高校もあと一年普通に過ごしたい。夏休みが終われば本格的な受験勉強が始まるというのに、男あさりにも精を出せるほど、学力に余裕もないというのもある。
「もったいない……」
秀美はぶつぶつ言っている。弁当箱をしまい、千咲はずずーと最後の牛乳を啜った。
「五時間目家庭科室だから、さっさとしないと遅れるよ」
これでこの話は終わりだと言外に告げてやると、ようやく彼女も教科書とノートの準備を始めた。
千咲としては、クラスの他の女子への意思表示でもあった。
自分は、大川雅史になど興味はない。だからそっちはそっちで勝手に騒いでいればいい。
こんなことで、日常の平穏を失いたくはなかった。