襲撃
翌朝、わたしは部屋のドアを叩く音で目覚めた。反射的に髪に手をやり、魔法薬の効果を確認する。
薬が切れる前に飲み続けているから意識がある間は男になっているはずだが、確認はほとんど癖になっていた。
「はい・・・」
寝起きの低くかすれた声が出た。
「申しわけありません、リーセント様。あの・・・レイ様のお部屋で少し困った事態になりまして」
ドアの外からかけられた声が侍女長のものだと気づいた時に完全に覚醒した。あの侍女長が困っているなんてよほどのことだ。
起き上がってはたと気づく。寝る前に胸に巻いたさらしは外してある。つまりは首から上が男、下は女性の状態だ。
「すぐに準備してレイ様のお部屋にうかがいます」
迅速に支度をし、そして部屋の裏にあるレイ様の寝室の前まで急ぐ。そこには侍女長とクロー隊長が真剣な顔をして小声で相談しているようだった。
「・・・何事ですか?」
「おう、リン。すまぬな、さっき寝たところだったろう」
向かいの部屋で寝ているクロー隊長は、わたしが戻って来たのも知っていたらしかった。
「ええ。今一体何時です?」
「6時だ」
聞いてため息が出る。夜中の会議中に王弟に呼び出され、戻って来たのは3時頃だったのだ。それからようやくベッドに倒れ込んだのが4時。つまりは2時間しか寝ていない。
日頃の訓練から徹夜や短時間での睡眠というのは慣れているが、さすがにここのところ、ずっと2、3時間の睡眠が続いていて、疲れている自覚がある。
本来なら今日は昼からの出仕で良かったので、少しは眠れると喜んでいたのだ。
「で、どうしたのです」
「実は、30分ほど前に新米の侍女がお茶をお持ちしたのですが・・・中から彼女の悲鳴が」
「穏やかではありませんね」
耳をすますが、今は静かだ。
「ええ。それで外からお声かけをしたのですが、レイ様から入室を拒まれまして。どうしてもと言うならリーセント様を呼べと」
2度目のため息が出た。整えた髪をかき乱したくなる。
「・・・わかりました。念のため、彼女の着替えの準備をお願いできますか?」
さすが侍女長、着替えはすぐに手渡された。わたしは深呼吸をして、ノックをする。
「レイ様。リンです」
「・・・ああ」
本来執事は自分の主人の部屋に入室する時にノックなど必要ない。敢えてしたのは、レイ様と同室にいる侍女にも心の準備が必要かと配慮したためだ。
静かにドアを開けると、最悪な機嫌だと一目でわかるレイ様が、ガウン一枚の姿でソファにふんぞり返っており、ベッドの上には小さなシーツの塊が見るからに震えていた。
ベッドの周りに、レイ様の服と、何よりお仕着せの侍女の制服が破れて散乱しており、わたしは思わず眉をしかめた。
「レイ様は外でお待ちください」
「なんだと?」
わたしは機嫌の悪そうな主人を睨み付けた。意識せずとも低く唸るような声が出た。
「アーク語を話しておりますが、伝わりませんでしたか?」
レイ様がピクリと反応し、そして盛大なため息をついて足音高く部屋を出ていった。
わたしはドアを閉め、シーツの塊に優しく声をかけた。
「ここに着替えを置いておきます。手伝いが必要なら侍女長を呼びますが、どうしますか?」
しばらく待ったが返事がない。
「本当に申し訳ない。怖い思いをしましたね。レイ様はわたしが後でしっかりと叱っておきます。わたしは外に出ていますので、落ち着いたら着替えて出てきてくださいね。あの阿呆はあなたの目に入らないところに隔離しておきますので」
言いながら沸々と怒りが沸く。わたしが勤めはじめてからレイ様が侍女に手を出した事は1度もなかったし、そもそも女性を寝室に連れ込むことも無かった。
散々「お持ち帰り」はしたが、そのあとは客間で事情を聞いたり、正体を無くすまで泥酔させて寝かせていたからだ。
本人言わく、そう簡単に子種は蒔かぬ、とかなんとか。わたしは愚かにもそれを信じていた。他の男がどうであれ、この太陽皇太子は人間とは種族が違うのだとさえ思っていたのだ。
だからわたしの怒りは激しかった。ぎゅっと手を握りしめ、部屋を出ようときびすを返したところで、後ろから声をかけられた。
「あの・・・わたくしは穢されておりませぬ!」
振り返ると、涙に濡れた顔がシーツから出て、ひたとわたしを見つめていた。
「そう・・・それは不幸中の幸いでした」
ほっとため息をつく。最悪の事態は避けられたようだった。
「わたくしが・・・悪かったのです・・・」
わたしは彼女を怖がらせないようにゆっくりと振り返り、彼女の話を聞く体勢になった。
「レイナルド様にお茶を持っていくように言われて、少し浮かれていて」
彼女は乱れた髪をそのままに、わたしに訴える。
「あなた様に・・・お会いできるかと」
「わたしに?」
彼女は顔を赤く染め、こっくりと頷いた。
「ずっと・・・お慕いしておりました。なので・・・つい、お茶をお出しした時に、お尋ねしてしまったのです。あの・・リーセント様はご一緒ではないのですかと」
それでどうしてこんな結果になる?わたしが首を傾げるのを見ていた彼女は言葉を継いだ。
「レイナルド様は激怒され、『お前もあいつが良いのか!』と。そして服を破られてベッドに押し倒されたのですが、そこで我に返られたようで・・・」
今に至る、というわけだ。
「お前も・・・?」
疑問は小さな呟きとなってわたしの口から漏れ出た。しかし彼女はその答えを知らぬようで、震えながらもわたしを熱い目で見つめているだけだった。
間が持たず、何か言わなければと出た言葉は
「怪我はありませんか?」
彼女は黙って首を横に振った。
「そう。・・・とりあえず、あなたの事は悪いようにはしません。これからのことはなるべく希望に添うようにいたしますが、それはあなたの気持ちが落ち着いてからの話にいたしましょう。まずは着替えて・・・」
言いかけたわたしの言葉に彼女がピクリと反応した。
「希望・・・叶えてくださるのですか?」
「え?ええ、出来る限りは」
身を乗り出して目を輝かせている様子は、とてもいま乱暴されかけていた人には見えない。ある意味安心したが。
「では、わたくしを抱いていただけませんか?」
「はいっ?!」
あまりの申し出に、声が裏返る。
「あ、いえ、あの、抱いてというのは、その、そちらではなく、ああそう、『抱き締めてください』と申すべきでした」
彼女も真っ赤になっている。
自分が息を止めていたことに気づいて呼吸を再開すると、ふと肩から力が抜けた。
「それならお安いご用ですよ、シータ」
笑みを浮かべ、ベッドに座って彼女をシーツごと抱き締めてやった。
「わたしの名前を?」
彼女は緊張していたようだが、細い小さな体を感じると、暴力に訴えたあの男にまた怒りが湧く。軽くトントン、と背中を叩いてやると、彼女の強ばりも私の怒りも少しは治まる気がした。
「もちろん存じていますよ。今年のものすごい倍率の侍女選考をくぐり抜けたシータ。研修も終わり、これから正式な配属が決まるところだったのでしょう?いきなり恐い思いをさせてしまって本当にすみません」
どこにスパイがいるか分からないため、宮中で働く人間は全て覚えていたことが、まさかこんなところで役に立つとは。
優しく囁くと、彼女が泣き出してしまった。
女性にとって、男性の力は基本恐怖である。それが意に染まぬ相手ならなおさらだし、服を引きちぎられるなんて恐すぎだ。その恐怖が分かるだけに、無下にはできなかった。
それにしても、わたしのこの女たらしっぷりもますます磨きがかかってきた。シータの背を叩いてやりながら、わたしはため息を押し殺しつつ彼女が落ち着くまで待っていた。
寝室から出てくると、相変わらずの超不機嫌なレイ様がソファに座っており、少し離れた場所に困惑状態のクロー隊長、侍女長が立っている。わたしは二人に頷きかけて退室を促し、レイ様の真ん前に立った。
「抱いたのか?」
第一声がそれか?腕を組んだままぶっすりと聞くレイ様に、思わずカッと頭に血が登ったが、ここで声を荒げると寝室のシータにも聞こえてしまう。
「ええ」
敢えて冷静に答えると、レイ様の方が怒りを顔に出す。
「俺の寝室だぞ!」
「お静かに願います。あなたがしたことをわたしの上書きでなだめただけのこと。あなたにどうこう言う資格などない。それより彼女が出てきてしまいます。あなたの顔など見たくないでしょうからとっとと移動してください」
今まで見せたことのないわたしの静かな激怒に、レイ様は何か言いかけて結局黙ったまま衣裳部屋を通り抜け、バスルームへと続く部屋へ向かう。
わたしも一緒に行き、ドアを閉めて腕を組んで寄りかかった。
「お前も一緒に入るのか?」
「あなたが間違っても彼女と鉢合わせしないように見張ってるんです」
レイ様は勢いよくガウンを脱ぎ捨て、完璧なプロポーションの裸体を晒しながらバスルームへと消えていった。
「全く、あなたらしくもない、馬鹿なことを」
わたしは外からの声も、バスルームにはよく聞こえることを知っていた。
ザバッと水音がする。
「・・・わかっている。本当にどうかしていた」
顔が見えないと少しは素直になれるのか、中からレイ様の返事がある。
「なぜわたしの所在を尋ねられて、そこまで狂ったのです?」
これには大分間があった。
「・・・嫉妬、だ」
「嫉妬?」
そう言えば以前も自分のファンをわたしに取られたとか言っていた気がするが、ニヤニヤ笑っていたし冗談だと思っていた。
シータが直接レイ様に関わったのは今回が初めてのはずだが、もしやどこかで見初めていたのだろうか。まあそもそも今年の侍女選考はレイ様の花嫁探しの意味もあったし、何より選考の様子を覗き見していたくらいだから、不自然な話ではない。
「シータがお好きなのですか?」
沈黙に迎えられ、首をかしげているといきなり浴室のドアが開いて素っ裸のレイ様が現れた。
少し長めの豪奢な金髪からもすたすたと水が滴り落ち、浴室からの光が逆光になって抜群のプロポーションが輝いて見え、壮絶なまでに美しい。
我を忘れていたのは一瞬で、すぐにタオルを背中からかぶせ、軽く押さえて水気を取っていく。こうして隠していないと、わたしの自我もあまりの色気に崩壊しそうだったからだ。二枚目のタオルを頭に被せると、わたしの手の上にレイ様の手が重なる。
「シータとは、さきほどの侍女か」
注意深く手を抜き取り、髪の毛は自分で拭いてもらうことにした。
「そうです」
「俺はところ構わず愛想をふりまくお前と違って、侍女の名など知らん」
「どんな言いがかりですか」
ムッとしてわざと乱暴に腰にタオルを巻いてやった。
片膝を立てて座り込み、三枚目のタオルで足の水を押さえて取っていく。
「そのシータとやらに嫉妬したのだ」
わたしの手が止まった。すぐに作業を再開したので、きっと気づかれていない。
「おやおや、わたしはもしかして、あなた様に惚れられたのですか?」
わざと笑いを含んだ声で言ってみる。心臓がすごい早さで打っている。先日の馬車の中での危うい雰囲気と同じ空気が流れている気がした。
「・・・そんなわけないだろう」
今の間はなんだろう。思いながらもふっと息を吐き、空気を断ち切るように立ち上がった。
「ですよね。ところでお気づきでしょうか、一人称が『俺』になってます。皇太子たるもの、そのようなお言葉使いは品格にそぐわないかと。このドアを出るときには大国アーク王国の皇太子にお戻りくださいませ」
「わかっている」
レイ様はついと私の顔から視線を逸らした。
「レイ様。わたしの所属はスペンサー団です」
つまり、任務が終わればまたもとの隠密に戻るのだ。今後隠密騎士としての活動中、こうして主と直接会う可能性は限りなく低い。言葉に出して確認したのは、自分のためでもあった。
「・・・わかっている」
一瞬動きを止めたレイ様は、また髪を拭き始め、タオルでその表情を隠してしまった。
「わかっているって言ったよね?」
思わず呟いてしまうのは、その事件以降、なかなかわたしを傍から離そうとしなくなったレイ様に困惑しているからだ。
政務を執っているときの事務手伝いの他に、会食以外の食事の給仕、休憩の際のお茶、着替えにいたるまで、今まで専属の侍女にやらせていた仕事も全部わたしにまわってきた。
そのせいで王弟ノアがわたしを呼び出す隙さえない。さすがに任務に支障を来すので、クロー隊長に現状を訴えたのだが、そのクロー隊長の苦言も「却下」の一言でなかったことにされた。
「つまりはわたしが殺されないように、終始リンが付き添えばいいのだ。目的を果たしているのだから問題はない」
「そのうちわたしが過労死しますが」
「その時はわたしも死ぬ。守ってくれるやつがいないのだから」
いやいや、そういう事ではないし。
「ですから手っ取り早く元凶を取り除けばよろしいのでは」
「考えてみれば叔父も気の毒な人だ。生まれた時に鐘が鳴らなかったばかりに、王位継承権を与えられず、本人のせいではないと意見しても誰にもまともに聞いてもらえなかったのだからな。理不尽といえば理不尽だろう」
「そのおかげで、王家の金を湯水のように使い、ギャンブルなどにうつつを抜かして好き勝手に生きておられるわけですが」
「まあそれくらいは良しとしようではないか。実際に民に害は与えておらぬのだ」
「そんなことをすればすぐに首が飛ぶことはお分かりだから、ひたすらあなたやあなたのお父上を狙っておられるのでしょう?しょうもない陰謀で」
実際この国の法は、貴族に厳しく作られていた。民に害を与えた権力者はすぐに首が飛ぶ。それはこの国の住民の自慢でもある。
「そう、陰謀がしょうもないので、特に緊迫した危機感もないしな」
なんだろう、この徒労感。わたしはため息をついて、視線で横にいるクロー隊長に助けを求めた。
「わかりました。では執事役を二人に増やしましょう。リンにも休みが必要です。人はいつ襲われるかと何日も緊張状態を保つのは不可能です。たとえ楽団の訓練された精鋭であってもね。緊張感が解けた時に襲撃にあえば、いかなリンといえどもレイ様を守りきれないかもしれません」
「必要ない。リンの休みにはお前がわたしに付けばいいだろう」
「わたしは生粋の護衛騎士です。サバイバル術においてはひけをとりませんが、優雅にお茶を淹れることなどできませんよ」
「わたしもお前が淹れたお茶など飲みたくないぞ。だがわたし1人にこれ以上楽団の精鋭を割く必要はない。リンの休みは2週に1度で構わないだろう?その日だけお前が護衛をしてくれればよい」
「2週に1度・・・」
がっくりと肩が落ちる。まあ、それでもここ1ヶ月の1度も休みがない状態に比べればマシなのか・・・。
「つまりはリンがお気に召したので、片時も離したくないと、そういうことですか?」
クロー隊長のニヤニヤ笑いが、カッと赤くなったレイ様の顔を見てより深くなる。
「おやおや、意外や意外。レイ様は両刀であられたか」
「・・・主をからかうのも大概にしておけよ、ダン・クロー」
低いレイ様の声が本気で怒っていると伝えてきた、
「へえ、隊長の名前ってダンって言うんですね」
居心地の悪い空気を破るつもりで軽口を叩いた。隊長は相変わらずにやにやと精悍な顔に嫌な笑いを浮かべている。
「言ってなかったか?じゃあお前に限り、ダン隊長って呼ぶことを許可してやろう」
「結構です。別にそこまで親しくないし」
「うわっ、冷たいなあ、リン。一緒にベッドを共にした仲なのに」
ガタンと音を立てた方を見ると、レイ様が痛そうに足をさすっている。
「誤解なきように。任務中、宿が取れずに皆で野宿をしただけです。そもそも二人きりでもないし、ベッドでさえなかった。土の上じゃないですか」
「お前、寒い寒いって、俺の毛布に潜り込んできたよな」
「それは否定しません。ただ8歳の子供の頃だったってのもきちんと追加してください」
「一緒に風呂にも入っただろう?」
「泉でのことですか?泳げるようになれと真冬に真ん中に放り投げられましたっけね。まあそれで凍えて寒かったわけですけど」
クロー隊長自ら作戦に加わったのは、記憶にあるかぎりその8歳の時の任務だけだ。移動中はさんざんからかわれ、あしらわれていた。それでもイケメンの義父が大好きで、一緒にいる時間が長いことがとても嬉しかった。
「わたしも」
レイ様が急に口を開いた。続きを待っていたのだが、首をひとつ振って苦笑している。
「いや、なんでもない」
わたしとクロー隊長は顔を見合わせた。
その日の夜も舞踏会だった。わたしは皇太子を皇太子にするべく、着付けに奮闘していた。最後にリボンタイを慎重に形作っていく。
強い視線を感じて顔をあげると、すぐそこに超絶美貌が眉を寄せてわたしを見つめていた。
「苦しいですか?」
慌てて手を止めて尋ねると、レイ様は静かに首を横に振る。
「では何かご要望が?」
リボンタイではなく、別の形が良いとか?
「・・・いや」
なんだろね、この間。最近こういうのが多い気がする。気を取り直してタイを整え終わったが、まだ視線を感じていた。思いきって顔を上げると、ぐいと背中を抱かれ、反射的に手が出てレイ様の胸に置いてしまった。後頭部の髪を掴まれ固定された唇に、柔らかいものが押し当てられた。
はっ?これ・・・キス・・・されてる?!
我に返って突き飛ばそうとしたところで、顔が離れていった。
「はっ」
わたしが自分の唇を押さえ、動揺を隠せないのを見ると、レイ様が苦笑した。
「これはもう、どうしようもないな」
「・・・何がです?」
我ながら自分の声が弱々しく響いた。
「俺はこの国にとどめを刺す運命にあるらしい」
言っている意味がわからない。言葉が出ず、黙って自分の心臓が早鐘のように打つのを聞いていた。
「皇太子たる者、次の世代に継いでいくために妃を娶り、子をもうけなければならぬ」
ええ、そうですね。というか、何を今さら?
「しかし俺が心から好きだと思える相手は、実に不毛な相手だ」
「は・・・?何を・・・」
「ずっと、ずっと悩んできたのだ。俺は無類の女好きだったはず。それなのになぜこいつなんだとな。しかしどうあがいても、傍から手放せない。他の者と話しているのを見るだけでもムカムカするし、ましてや笑顔を向けた相手など、徹底的に排除したくなる。ダン・クローは親のようなものなのだとわかっていても、目の前で笑いあっている姿を見ていると、なぜその相手が俺ではないのだと思ってしまう。だからもう、どうしようもないのだ」
呆然と告白を聞いていて、気がつくと強くレイ様の胸に抱かれていた。
「ま・・待ってください、何をおっしゃっているんですか。わたしは・・・」
必死に抵抗しようと腕をつっぱるが、なぜか力が入らない。
「もうお前が男だろうが構うものか。それでこの国が終わるのであれば終わってしまえばいいし、それこそ叔父に王位を譲ってもかまわん。俺はお前さえいれば」
「よくぞおっしゃいました!」
急にドアの外からクロー隊長に声をかけられ、急いでレイ様の抱擁から逃れようとするが、逆に力を入れられて身動きさえできない。これはゆゆしきことだった。訓練を積んだわたしにとって、拘束状態から抜け出すのは簡単なはずなのに、どうしてもレイ様には抵抗できないのだ。その意味のわからない状態が余計わたしをパニックにさせる。
「レイ様のお気持ち、しっかりと聞かせていただきました。リンが了承するなら親代わりであるわたしも認めましょう。ただ、それは今夜の舞踏会が終わってからにしていただきたい。もう入室の時間が迫っております。お急ぎを」
クロ隊長は優しい微笑みを浮かべて私たちを見ていた。
「わかった」
ようやく少し拘束が弱まり、わたしはレイ様を見上げることができた。
「舞踏会が終わったら、返事を聞かせてくれ」
いったいどんな顔をしているのか、自分でもわからなかった。レイ様は柔らかい微笑みを浮かべ、そしてわたしの前を歩いて部屋をあとにする。
「しかし、たとえ嫌だと言っても、お前が俺を好きだと言うまで傍に置くから結論は変わらないのだがな」
レイ様の捨てぜりふにヒューッとクロー隊長が口笛で冷やかす。そしてわたしにウィンクをして寄越した。
「お前のその格好も、今夜が見納めになりそうだな」
しばらく呆然としていたが、どうやったって気持ちの整理が追いつかない。
とりあえず全てのことを横に置いておき、今夜の警備だけに集中しようと、わたしは自分の両頬をパンと両手で叩いて気合いを入れ直した。
王、王妃とともに入室するための場所に行くと、レイ様が王と話をしていた。
「ふむ、では明日でよいか?」
「いえ、この舞踏会が終わりましたら、自室に伺います」
「わかった」
何を話すつもりか分かって、わたしは動揺が顔に出ないようにするので必死だった。
ファンファーレが鳴り、きらびやかな光をまとった王族が入場する。いつものように感嘆のため息に迎えられ、いつものように王の挨拶があって躍りが始まる。
しかしわたしの感覚には薄い膜が一枚貼られたようで、全てが夢の中のようだ。
ゆっくりとレイ様が階段を下っていくのをぼんやりと見ながら、機械的に後ろについていく。
2人で相変わらず女性陣に囲まれ、お互い笑顔で応対するのも今までと変わらない。あっと言う間にわたしとレイ様の間には5、6人の女性がいた。そこに小柄な男性が紛れているのに気づいたのは本当に偶然だった。華麗なドレスの合間を縫うように黒いタキシードが見えたのだ。その男はじわじわとレイ様に近づいているように見えた。
「ああ、ちょっと失礼、レイ様にお話がありまして」
わたしは女性たちをかきわけた。男の手元が見え、短刀を握りしめているのを確認したあとは、体が勝手に反応した。
距離を考えると、レイ様の体に男の短刀が届く方が、わたしが凶器を蹴り飛ばすよりも近いように思われた。レイ様はまったく男の接近に気づいていない。
「レイ様っ!」
わたしはレイ様に飛びついた。驚いたように受け止めるレイ様の腕を感じる前に、背中にひどく熱いものが押し付けられた感じがした。
ああ、これは刺されたなあ、そうか、よかった、ここはレイ様の心臓にあたるところ。それにしても・・・なんだろう、体が重い。わたしはほとんどレイ様に寄りかかるようにして立っていた。
女性たちの悲鳴と男たちの怒号が遠くに聞こえる。レイ様の顔が歪み、必死でわたしの名を呼んでいるようだった。
「レイ様・・・お怪我は?」
そう、それが1番確認したいことだった。なにかがせり上がってきて、呼吸ができない。
「俺はなにもない!リン、しっかりしろ!」
そうか、怪我、なかったか。よかった、ちゃんと守れた。なぜか咳き込み、一緒に血を吐き出した。背中が痛い。
「・・・レイ様、離れてください。お衣裳が汚れます」
うまく声が出ない。ちゃんと伝わっているだろうか。
「馬鹿!そんなことを気にしている状況か?!」
ああ、体が重くて、眠くて、もう立っていられない。そうだよ、最近ちゃんと寝てないし、そもそも休みも取れてないし・・・だけどここで眠ってしまったら女性に戻ってしまう。なんとか起きていないと。必死で頭を振り、眠気を飛ばすために話を続けた。
「知らないでしょう?血は衣服につくと、落とすのがたいへ・・・」
わたしの意識はそこで途切れた。