こんにちは赤ちゃん
俊雄は焦っていた。妻の美穂の妊娠中、高校の同窓会で会った良子と深い仲になってしまった。息子の忠弘の誕生後も泥沼のようにその関係を続けていたのだが、先日、それがバレそうになったのだ。車中に良子が口紅を忘れていき、それを妻が発見したのである。執拗に追求されたが、俊雄は
「お前のじゃないのか?」
とシラを切り通した。その場はやり過ごしたものの、妻は明らかに疑いの目を向けていた。
その週の日曜日、妻は六ヵ月の息子を俊雄に預けて、美容院へ行った。一時間程あやすと、忠弘は上機嫌で一人遊びを始める。赤ん坊が言葉を理解出来ないのをいいことに、俊雄は良子に電話を掛けた。
「この前、車に口紅を忘れていっただろう?妻に見つかって散々な目に遭ったよ」
「ごめ〜ん。気を付けるわ」
良子は大して悪怯れる様子もなく言う。その証拠に次の言葉は
「で、次はいつ会えるの?」
だった。
「お前なあ、少しは反省しろよ」
と言いながら、俊雄も悪い気はしない。
「明日、仕事終わったら迎えに行くさ」
と反省の色など全くないように言い放つ。そして電話を切った。
俊雄は携帯電話を脇に置き、一人でおもちゃをいじっている息子の方へ向き直った。
「よしよし」
抱っこして頭を撫でると、忠弘は笑みを見せた。浮気をしても、息子がかわいい気持ちだけは偽りがなかった。柔和な笑顔、小さな手足、丸い身体つき、どれを取ってもかわいくて仕方がない。その時、
「ただいま〜」
と玄関の方で声が揚がり、美穂が帰ってきた。
「おかえり」
と言ったものの、先程の良子に掛けた携帯電話の記録を消していない事が、俊雄には気掛かりだった。妻の帰りは予想以上に早かった。
「ありがとう。いい子にしてた?」
さっぱりとした髪型で戻ってきた美穂が、礼を言う。
「ああ。ご機嫌だったよ」
と言い、俊雄は息子を床に置いた。忠弘は寝返りを打ち、うつぶせになる。六ヵ月にしては太っており、まだ仰向けに戻ったり、ハイハイは出来ない。
「お茶飲もうぜ」
と俊雄が言うと、美穂は台所へ行ってお茶道具を持ってきた。妻に入れてもらい、二人で茶を啜る。俊雄は一口飲んで落ち着いた気分になった。
だが次の瞬間、驚くべき事が起こった。忠弘が突然ハイハイして、俊雄の携帯電話を掴んだのだ。
「忠弘、すごい」
美穂は喜ぶ。俊雄も
「すごいな」
と言ったものの、携帯電話を握られているので、内心冷や冷やしていた。
「忠弘、返しておくれ」
と手を伸ばすが、一手遅かった。息子はなんと美穂の眼前で、良子にリダイヤルしてしまったのだ。
「貸して」
すかさず電話を奪ったのは美穂だった。そして電話の向こうの相手と何やら話し出した。俊雄は何も出来ず、呆然としてそれを見つめるだけだった。
「ふーん」
美穂がしたり顔で言う。
「ぜ〜んぶ聞いたわ。この良子って女から」
(良子の奴、何て事を…)俊雄は頭にきたが、それより頭にきている人間が眼前に仁王立ちしており、意気消沈するほかなかった。完全に証拠を握られ、全く弁解の余地はない。
「あんた、やっぱり浮気を…」
と美穂が射抜くような目付きで言った時、テーブルにあった彼女の携帯電話が鳴った。美穂は背を向けて電話を取ろうとしたが、
「オギャッ」
忠弘が突然テーブルに捕まり立ちして、携帯電話を叩き落した。そしてそれは軽快な着信音楽を鳴らしながら、俊雄の眼前に転がった。
「ちょっと!」
美穂が叫ぶが、俊夫はそれを無視して携帯を掴む。そして、
「もしもし」
と電話に出た。美穂が怒っているような泣きそうな、微妙な表情で見つめていたが、俊夫は意に介さない。
「な〜るほどな」
電話を切って、俊夫が呟く。
「そっちもやる事やってるんじゃないか」
「くっ…」
苦虫を噛み潰したような顔をする美穂。
「聞いたよ。電話の男から全部な。そっちも密会してたんじゃないか。いや〜、危ない危ない、俺ばっかり怒られ損をするところだったぜ」
何とも言えない表情をして睨み合う両親を前にして、忠弘は「アーアー」と叫んでいた。しかし、それにはちゃんと意味があったのだ。
「どうしようもねえな、ウチの両親。パパはママがいない間に平気で女に電話してるし、ママにいたっては腹の中にいる時にまる聞こえなんだもんなあ。まあボクもその子供なんだけどさ…」
同じく昔投稿してボツになった作品です。