伏魔殿で、女神は笑う
「わ、私、怖くて、本当に怖くて」
意識して震える声を絞り出し、私は王子の腕に縋りついた。
目の前で罵声を浴びせられている公爵令嬢は、何も言わずにドレスの裾を握りしめている。完全な冤罪であるのに味方は一人もいないこの状況。深窓の御嬢様にはさぞかし辛いことだろう。
別に私は彼女に恨みがあるわけじゃない。ただ、私が『欲しい』と思ったものを手に入れるのに彼女は邪魔だった。
『王子の婚約者の座』
私はそれが欲しかった。
理由?欲しいから。王子に恋焦がれているわけでも、王妃となって権力を握りたいわけでもない。単に欲しいと、そう思った。
動機なんて、それだけで十分。人のものだろうと何だろうと欲しいものは欲しい。我慢することは昔から大っ嫌い。
そんな私を浅ましいだの恥知らずだの罵倒する奴もいたけれど、私からすれば負け犬の遠吠え。悔しかったら手段を問わず奪い返せばいいのに、それをせず過程はどうあれ手を離して諦めたなら、つまり、諦められるだけのものだったということ。なら、手に入れるために労を惜しまなかった私こそ手にしているに相応しいじゃない。
公爵令嬢は相変わらず俯いたまま。けれど数十分、いえ、もしかしたら数十秒後には私の望むものを差し出すであろう未来が予測できた。散々裏工作を弄したのだから、失敗なんてするはずがない。
そして、結果だけ言えば、私は望むものを手にいれた。
『ありがとう』『女神様』と、公爵令嬢に涙ながらに感謝されながら。
………別に、私は彼女に恨みがあるわけじゃなかった。
けれど予想に反した朗らかな笑顔は私の心をささくれだたせた。
(『女神様』?馬鹿にしているの?それとも負け惜しみ?)
城の内情がどうのこうのと宣っていたが、それ以上に公爵令嬢の態度が気に障った。
だから私も言ってやったのだ。意趣返しの意味を込めて。
「……………いいえ、感謝するのは私の方です。王子の婚約者として、私もきっと幸せになってみせます」
(貴女なんかよりも、ずっとずっと。私が貴女の幸せに手を差し伸べたんじゃない、貴女の方が私の幸せの踏み台になったのよ。ねぇ、そうでしょう?)
そこからはあっという間だった。
公爵令嬢は数日のうちに正式に婚約者としての地位を剥奪され、実家の公爵家からも勘当、この国から姿を消した。
無様ね、と私は内心彼女を嗤った。
それからさらに数日後、私は婚約者候補として城へと召し上げられ……………彼女の真意を今更ながらに理解している。
◇◇◇
「あらあら、随分と憔悴していますのね。慣れぬ王城生活は大変でしょう?困ったことがあったら、何でもわたくしに言って頂戴ね?」
優雅に、美しく。
私の目の前で、化け物が笑っている。王妃という名の化け物の首魁が。
「……………いいえ。大丈夫です」
言葉少なに、私は返した。
自室だからといって、二人きりだからといって、気を抜いて余計な言葉を言ってはいけない。揚げ足を取られては駄目。曲解されては駄目。言質を取られては駄目。それはここでは命取りだ。
嫋やかでか弱そうな少女に嵌められたことは忘れていない。共犯だと思っていた男に利用されて煮え湯を飲まされたことも、取るに足らないと思っていたメイドの裏に貴族の影が見えて血の気が引いたことも。
大丈夫だと思ったのに。
たしかに公爵令嬢は王家はドロドロとした場所だと言っていた。けれど、あの大人しそうな令嬢がやってこられたのだ。私にどうにかできないはずがない、寧ろ、私の方が上手くやれると、そう思っていたのに。
「そう?けれどわたくし、心の底から心配なのよ?ここでの日々は、不慣れな貴女には厳しいものでしょうから。全く、公爵の娘も酷な事をするわねぇ」
そのくせ、自分はきっちり手筈を整えた上でとっとと生国から離れ自由の身。今頃平民生活を謳歌していることでしょうと王妃は瞳を細めた。
「本当に困った娘。ここで立ち回れる程度の技量は有しているのに、どうにも上に立とうという気概が足りなくて。なのに、策を弄さないわけではないから性質が悪いわ。知っていて?あの娘、貴女が自分を嵌めようとしているとわかっていて、あえて放置をしていたのよ?そして婚約破棄の切っ掛けが出来た途端、破棄と勘当が迅速になるよう働きかけて出奔」
勝手よねぇという言葉を、私は黙って受け止めた。
そんな私を見やり、王妃はクスリと笑みを零す。
「だからわたくし、これでも貴女には期待をしているの」
期待?私に?何を?
ピクリと肩を揺らした私の視界で、紅い唇がゆぅるりと持ち上がった。
「確かに貴女は何の力もない小娘で、このままでは搾取され尽くして終わるのでしょうけど。気性の面のみは、あの公爵の娘よりもずっと王家に相応しいもの」
スラリとした王妃の指が、私の胸元を示す。
「ここではね、素養が無ければどんなに手塩にかけていたって潰れるものは潰れるし、生き残るものは生き残る。貴女は殻を付けた雛ばかりとはいえ、貴族の子を欺いてこの地位を得たのでしょう?ならその野心、ここでも示して生き残ってごらんなさいな」
「……………そのお言葉、どこまで本心ですか?」
「どこまで?」
私の言葉に、王妃の目がパチクリと瞬く。
同時に艶っぽい笑みがグニャリと崩れ、唇の両端がギッと吊り上がって歪んだ。
「さて、どこまでかしらねぇ」
そう小首を傾げる様は、正に伏魔殿の主に相応しい。
王妃はクスクスと笑いながら指先を私の胸から外し、自身の唇をつぅとなぞった。
くすみ一つない白い指先はよく白魚や雪に例えられるが、私に言わせればそんな可愛らしいものじゃない。あの白い輝きは、人の命すら奪える抜身の刃だ。
「お好きに考えてごらんなさいな」
愉し気にそう言い残し、王妃は優雅に踵を返した。
扉が閉まり、足音が聞こえなくなるほど遠ざかってから、私はガクリと膝をつく。
「………はは」
笑うしかない。もう、笑うしかない。
「野心を示せ?」
何を思って王妃がそう言ったのかなんてわからない。
私が動くことで何かが王妃の有利になるのか、それとも気まぐれか、はたまた暇潰しの余興なのか。
わからないが、一つだけは嫌でも理解できた。無茶でも何でもここで死に物狂いにならなければ、私は近い将来食い潰される。
(なら、笑うしかできないじゃない。今更ただの男爵令嬢になんて戻れないんだから)
自らの身をかき抱き、腕に血が滲むほど爪を立てながら、私はただ泣き笑った。
『……………いいえ、感謝するのは私の方です。王子の婚約者として、私もきっと幸せになってみせます』
令嬢に吐いた言葉が、頭の中で反響していた。
END