第23話 カウントダウン
『脳内電気信号の共存を確認。脳幹機能をGからAへ委譲します』
――なんだ。なにが起こっている。
目の前というものが認識できない。
空間が歪んでるのか。
視界が多量の情報で入り混じる。
地に膝をつき、吐くように悲鳴をあげる巽の姿が見る見るに湾曲していく。
玄関ゲートの壁一面がゆっくりとゆっくりと滑らかに形を変えていく。
その壁と巽の体が交差するのさえ見えた。
赤城は自分の手の指が何本なのか、どの指なのか分からない。
それ程にこの空間に異常が起きている。
『全神経へ接続。神経伝達の連続量を解除します』
それに体が重い。
と思えば軽くなる。
不連続な質量の変化。
それは全員に等しく作用しているわけではない。
体が動かなくなるほど重くなった時、スカジャン男は立ち上がっていた。
比重さえ崩壊した。
それにこの現象。
本当に体が重くなっているだけなのか。
『接続完了。機能の安全性、整合性を確認。ポストヒューマン計画第二項に基づきベクトルの再調整を行います』
さっきからこの空間を通して響いてくるこの女性の声はなんだ。
聞いたことのない声、でも初めての感覚が合い。
緊急時の避難アナウンスのようなそんな機械音が混じった声。
恐らくはそういうゲームのやりすぎからくるものなのだろう。
とても美しく透き通った声。
ただその言葉の意味を加味すればとたんに悍ましく聞こえてくる。
本当に意味を分かってアナウンスしているのか、と。
何でそこまで余裕があるのか、と。
『調整失敗。直ちに補助プログラムの抽出へと移行します』
そしてこの発信源。
この捻じ曲がった空間の中でもどこからきているのか見当がついた。
巽だろう。
今もなお、鼓膜を破るような高音で叫喚する巽なんだと。
そう理解できた。
ただし、巽の口から発声されているものではない。
発信源は特定した。
でもどう発信されているのかは分からない。
巽の体はどういう構造になっているのか。
『風海プログラムを抽出し同化……。愛加プログラムを抽出し同化……。風子プログラムを抽出し同化……。機密保護回線の復旧のため、栞プログラムを全神経に投与します』
立てない。
空間の大きな歪みが上下左右の平衡感覚を奪う。
今立っているのか、片足が崩れているのか何もかもが認識の外。
今更思う。
どうしてこんなに空間が捻じ曲げられているのか。
ただ、声だけははっきり聞こえた。
あのスカジャン男の声だ。
「うふおおおおおお!! すげぇ!! これでこそ人類最強天下無双の第一世代兵器だ!! 道徳的思考を優先した第二世代とはまるで違う!! 光さえも歪むなんて!」
何を大声をあげて歓喜しているのだ。
赤城葵は視界酔いで胃からくる吐き気を我慢しながら問いかけた。
「貴様、何をやった」
「あの兵器が人間と兵器の狭間に人格がある不安定な状態だとは知っていた。だから刺激したのさ。俺に復讐したいとおもわせるためにな!!」
「そのためにお前……川里を」
「誰だか知らんが計画の糧になってくれたんだ。感謝してるよあの娘にはな!! 今日でローラ学園は地図から消える」
「許さねぇぞ」
『プログラム安定化。標的をヒト型と認識し、主要プログラムの起動を開始します。起動まで五秒。カウントダウン』
5
「おい赤城葵。こっちにこい。お前は助けてやる」
「あ?」
4
「お前はこの世界の隠蔽されてる真実にたどり着くためのキーマンだ」
「意味がわからねぇ」
3
「さっさと来い。ここにいたら死ぬぞ」
「ふざけるな巽と川里を置いて逃げられるか」
2
「なら無理やり連れて行く」
「一人で勝手にワープでもするんだな」
1
「ワープ? そんなもんがこの世にあるわけないだろ」
「なに?」
発動。
≪すももプログラ…………≫
赤城はすぐさま異変に気付いた。
いや、異変が消えたという方が正しいか。
空間の歪みがなくなった。
巽の姿も向こうの壁も壁に書かれているHフロアという文字も。
全てが鮮明に明瞭にこの目でしっかりと捉えることができる。
地に両足がついていることさえも当たり前で、今までの異状が嘘のようにそこにある視覚情報全てから違和感というものが消滅した。
平衡感覚が戻ったということに感動している暇はない。
倒れこむ巽と川里の安否を確認しなくてはいけない。
左右を横目で見たがスカジャン男の姿はない。
恐らく起動前にこの場から去ったのだろう。
赤城は滲む汗を拭きながら巽へと駆け寄る。
地面にうつ伏せになっている小さな体を引き上げ、頭をしっかりと支えてあげる。
先まで阿鼻叫喚で崩れていた少女はまだ意識があった。
薄く目を開け、必死に呼吸をし、震えながらもその力のない口を開いた。
「ごめんお兄さん。私……我慢できなかった……」
巽だ。
赤城の知っている巽真凛だ。
兵器化?
そんなものがあってたまるか。
スカジャン男の戯言に付き合わされてしまった。
赤城は巽の瞳から流れる涙を優しく拭う。
巽は泣き、己の弱さを悔やむように赤城の体にしがみ付く。
もう少しで。
そう、もう少しで。
いやそんなものはない。
この少女は人間なのだから。
「スミちゃんを……スミちゃんを」
やっとのことで吐き出す小さな声。
そんな震えた声にも巽の意思が伝わってきた。
川里を、友達を早く、と。
「少し待っててくれ」
巽は今にも閉じそうな目でこちらを見つめ、小さく頷いた。
赤城は衝撃を与えないよう細心の注意を払って巽を横にする。
無事に安静したのを確認し、Hフロアへと続く通路。
そこへ向かって走っていく。
その周辺には三体にもなる人間型の人工知能が転がっていた。
その三体にもう動く力はなく完全に機能停止している。
赤城が撃ち込んだ銃弾によるものだろう。
そんなガラクタを尻目に赤城は川里の傍による。
しゃがみこみ事態を整理する。
先に視認したように赤い液体は川里へと続いていた。
既に両足の設置面積を軽く超すほどの量が流れていた。
これはまずい。
赤城は医療知識に欠けながらもこの出血量は死につながるものだと理解できた。
だが、ここからどうすればいいのか分からない。
どう対処するのが最善なんだ。
川里を、巽の友達をこんなとおろで死なせるわけにはいかない。
どうすれば川里が生きてまた学園に通えるルートが出来上がるのだ。
分からない。
だからこそ、現状をとことん把握する。
把握したら不思議な血痕を発見した。
確かにこの赤い液体は川里に続いているが、もう一つ出血先が存在した。
それは川里を刺した人間型だ。
この丸い血痕、この人間型にも続いている。
それどころかこの人間型のリストが切られ、そこから出血していることが分かる。
一体どういうことだ。
赤城は遠慮なく川里の刺されただろう腹部を確認する。
服をめくりあげる。
するとどうだろうか。
川里の肌には一切の傷跡が見られなかった。
この血は人間型の人工知能によるものだったということになる。
一体何のため?
刺されたかは確認できないように人間型の体を被せて刺していた。
ということは刺されたと見せるための演出だったのか。
目的はあくまで巽の兵器化であり、川里を傷つける必要はないと。
スカジャン男、そんなメリハリをつける性格には見えなかった。
それとも組織内での習わしなのか。
真相は分からない。
ここで一番に考えることは川里は無事であったということ。
赤城は地面に尻をつき胸をなでおろす。
固まっていた緊張が一気に緩み、体に一切の力が加わらない。
ふと天井を見上げる。
この行為自体に意味はない。
ただ見上げたかった。
それだけなのだ。
―-もう一踏ん張りだ
そう言い聞かせると立ち上った。
川里に刺激を与えないよう優しく体を起こし、背負う。
長い黒髪が首筋をなぞるが、感じている状況でもない。
今も川里を心配している巽の元へと急がなくては。
人間型を置きっぱなしにして歩き始める。
赤城は最後にこんなものを見た。
自身でリストを切ったこの人間型。
こうして見るとよくできている。
まるで本当の人間みたいだ。血だって出るし。
死体を見ているようで気分はよくない。
そんな人間型の体の一部の中でどうしても目が引くところがあった。
胸についている名札だ。
この川里に刃物を向けた人間型の名前。
それは。
『ゴロウ』
だった。