1:父のこと
1 父のこと
私は男が嫌いではない。むしろ好きなほうだ。
いい年をして、いまだに男の強さにあこがれている。
これは一種の幼少時代のトラウマに違いない。
私の男遍歴は……世間一般でいうところ、ハードらしい。それは相手の男が、常識を逸脱している場合が多いからだ。
だけど、先に断っておく。
世の中には、私が付き合ってきた男よりも、もっとハードな男もいるだろう。
それを考えると、私の男遍歴など、笑って過ごせるものばかりなのかもしれない。
だが、大抵他人に話すと、目を剥いて驚かれてしまう。不思議だ。
私の男遍歴――。
まずは幼少時代にさかのぼる。
私が男を「バカ」だと思ったのは、自分の父親にだ。
私の父親はどうしようもなくギャンブルが好きな男だった。
母と結婚するまでは、親戚の話によるとギャンブル癖もなく借金癖もなく、マジメ一辺倒の男だったらしい。
仕事はトラック野郎だ。だから幼少時代、父が家にいることは少なかった。長距離のトラック運転手をしており、あのやたらと長いトレーラーにも乗っていた時期もある。
大人になって知ったのだが、トレーラーに乗りながらの長距離運転手だと、給料もなかなか凄いものがあるらしい。
しかし、私の記憶にある幼少時代は、いつも貧乏だったことを覚えている。
いつだったか。
やはり父のいない夜。夕飯にインスタントのラーメンがでてきた。
ラーメン椀に盛られ、野菜やハムが入っていた。母なりの工夫だろう。
そもそも、ラーメンやうどんといった類のものは、ズズズとか、すする音を立てて食べてもいいものではなかうろか。
大人になった今、目の前で友人などがそうやって食べているのを見て、最初は面食らったが、でもそれが普通なのだと……テレビなどを見ていてもわかった。
ただその時、母はこういったのだ。
「ふわわるいから、音たてんと食べて」(世間体が悪いから、音を立てずに食べろ)
子供心に、ラーメンとはそういうものなのかと思い、一本一本、ちゅるって音をたてずに食べていた。
私の実家は建売住宅で、横に四件同じタイプの家が並んでいる。
その後もなかなか自然も多く静かだということで周りには住宅がたくさん建っていった。
だから。母は近所に「夜、ラーメンを食べている」という事実を知られたくなかったのだ。
母の実家は、当時、祖父が小さな商事会社をしていて、そこそこの金持ちだった。
母が幼い頃からそれは続いている。つまり、母は箱入りのお嬢様だったのだ。
だから夜、ラーメンを食べるというのが理解できなかったのだろう。だが、お金がないから、仕方がない。
私と年子の妹と。親子三人で静かに食べたラーメンは、今でも記憶に残っている。
後で母から聞いたのだが、父のギャンブル癖は、結婚してからすぐに始まったらしい。
時には出張先で、会社から持たせてもらった出張費を使い込んでしまい、母の実姉が姫路にいたのだが、そこにお金を借りにいったこともあるらしい。
父は……確かに仕事はマジメにしていた。さぼったことなどない。私の記憶の中でも、父が仕事をサボったのは、あとにも先にも、近所に住む父の実弟と自宅で楽しく飲んでいて、二人で煙草を買いに出かけた際、乗っていた単車が田んぼの溝に突っ込んで、大怪我をした時ぐらいだ。
包帯でぐるぐる巻きにされた父が座敷に寝ていたのを私は覚えている。
他に女癖もなく、ただただギャンブルだけだった。
それもパチンコ。これにはまって、次々に借金を作っていたらしい。
私が母からその話を聞いたのは、いつだっただろう。
中学だったか、高校だったか。
私も今は一児の母親だ。旦那は…後に話すが、いない。
娘はしばらく旦那を恋しがった。暫くは私も旦那をいいように口にしていたが、今はなるべく明るめに、私がもう二度とお前の父親と再び一緒になることはないということを、告げている。
娘も小学二年。その理由を話したのは小学一年の頃。
「お父さん、お母さんに意地悪やったんやね」
そう言って泣いた娘を、私は忘れない。ちゃんと父親のことを話そうか話さまいか迷ったが、話してよかったのかもしれない。
それから娘は、父が戻ってこないかとか、そういう話しはしなくなった。
今は「早く新しいお父さん、探してきて」などと言う始末だ。
もっとも、娘の心の奥には、根強く父への思慕もあるだろう。それを隠して明るく振舞う娘が愛しくてたまらない。
――話を戻そう。
母から父の話を聞いたのは、多分その頃。幼い頃から、少し父は他の父と違うことぐらいはうすうすわかっていた。
夏休みにプールに連れて行ってと言う母に、父は確かに私と妹を市営プールに連れて行ってくれたが。
朝の10時前には自宅につれて帰られた。物凄く寒い時間にプールに入り、妹も私も唇が紫になっていたのを覚えている。
何故朝の10時か。
当時、世の中のパチンコ屋は朝の10時オープンだったのだ。だから、適当に私たちを泳がせたあとさっさと自宅に戻り、自分はパチンコに行っていたわけである。
そんな父だから、おかしいと思わないほうがおかしい。
母から洗いざらい、父の話しを聞いた私は、なるほどな、と思った。
友達から聞く、父親からの愛情というものを知らない私は、何故をそれを知ることができなかったのか、その時に理解した。
母はとにかく父を悪く言った。やっと話せるという安心感か、それとも、肩の荷が下りたとでも思ったのか(長女である私に話しをしたから)、それはもう、ぺらぺらと。
確かに父は悪いと思うが。私は同時に、母も悪かったのではないかと思った。
母の父。私を一番可愛がってくれた祖父は、とても厳しい人だったが、とても子煩悩な人だった。
母はよく、幼い頃に祖父によってあちこちに連れて行ってもらったと話している。
よく遊んでもらったとも言っている。
その記憶があるから、私の父にも同じようなことを求めたのだろう。
もっと家族を大切にしろ。もっと娘たちと遊んでやれ。
自分の父親を自分の夫に重ねたのだ。
確かにそれは無理もないだろう。私もそんな幸せな家庭に育ったのなら、そうしただろうから。
だが、父は祖父とは違う。祖父は男気のある人で、言いたいことはすぐに口に出して、喧嘩っぱやい人だった。
しかし、父は昔から無口だったらしい。無口で淡々と仕事をこなす。だからマジメ一辺倒と呼ばれていたらしい。
そんな無口な父は、母からの小言に「言い返せなかった」のだ。
その鬱憤がたまり、発散しようとギャンブルへ。そして病みつきになり……。
だから、母の気持ちもわかるが、父の気持ちもわからないでもない。
ただ……この二人の関係を見て育った私は、自分の中でどこか「男は頼りにならない生き物」という思いが根付いたことは確かだ。
それはまた後から話すが……。
そんな父は私が結婚する前に、二、三回、大きな借金で家族に迷惑をかけている。
母はそのたびに、親戚を回ってお金を借りたりしていた。親戚から借りたお金は、母の意地にかけて全て払い終えたようだが。
もうその手も使えなくなると、ずっと父が働いていた運輸会社の社長さんが助けてくれた。
私も幼い頃からよくしてもらっている社長さんで、とてもいい人だ。
その人が銀行を紹介してくれ、保証人にもなってくれて父の借金を返してくれた。
私は今でも感謝している。今の私がいるのは、その社長さんのおかげかもしれないからだ。
だが、父のギャンブル癖はまだ終わらなかった。
私が結婚して二年か三年経った頃、父はまた大きな借金を抱え込んだらしい。
それに気づいた母や私、そしてすぐ下の妹やそのまた下の妹(私が中学一年、下の妹が小学六年の時に生まれました)、そして私の旦那や妹の旦那を含めて家族会議を開き、なかなか口を割らなかったが、結局300万ほどまた借金しているのを知った。
母もう、どうしようもないと泣き崩れた。
家まで抵当に入っていた。
母は兎も角、この家を守るために今まで頑張ってきたのだ。それを奪われるかもしれないという恐怖と、またかという絶望感。それらが伴って、見ていられなかった。
いい加減もう別れてしまえと私たちは言ったのだが、ここまで頑張ったから。もう少しで年金ももらえるのに。なんのために頑張ってきたかわらかないと、母はよく言っていた。
確かにそうなのだが。今思えば結局母も父に頼るしか道がなかったのだ。
その頃にはもう、祖父も知人の保証人になり財を失っていて、どこにも頼るところがなかったからだ。
娘はもう二人自立している。少しぐらいなら母を助けることだってできる。
だから別れてしまえと再三言っても無駄だった。
だから……その時は私がお金を出してあげた。
私は…自営だがなかなかの高収入だ。一般的な仕事ではない。だからといって、危ない仕事とかそういうものでもない。
いわゆる「印税」というもので生活ができており、その頃は全盛期だったので貯金もあった。
丁度300万、私は母に貸した。家のローンが済んだら、その分で返していくからということで。そして父には内緒にしてくれといわれた。
父は変なところで頑固なので、娘が金を出して助けたとあったらまた自暴自棄になり何をするかわからないからということだ。
私は全てを飲んで、お金を貸した。
ちなみにそのお金はもう戻ってこない。戻ってくるとすれば、父が死にその保険金で戻ってくるかどうかぐらいだろう。だからあまり期待してはいない。
そんなことがあり、私は結婚する際、金銭感覚のしっかりした人と結婚したかったのだが……これもまた後から話すことにしよう。
そして…月日が巡り。
その時に父はカード会社に対してのブラックという申請を妹がして、落ち着いている。借りられないのだから、仕方がない。
闇金というものもあるので少し怖いが……今の父ならもうそんなものにも手を出さないだろう。
父にとって、何よりも衝撃的なことが昨年起こったからだ。
それは……長年連れ添ってきた、母の死――。
そもそもは私の出産前。かれこれ八年ほど前になるだろうか。
ある日妹から電話が入った。母が下肢よりおびただしい出血をして倒れ、救急車で運ばれたのだという。
慌てて駆けつけると、母は子宮筋腫が破裂(?)したかどうかで、朝、起きて階段から降りようとして途中で倒れたらしい。
その時に手術をし、筋腫を撤去。それから何年か、癌を引き起こさないか様子を見ていた時期があった。
しかしその3年の間に、いろんなことがあった。
まずは私の離婚問題。
そして一番下の妹の、不登校。いわゆる、グレた、その状態だ。
万引きで呼ばれたこともある。校内喫煙でも呼ばれたことがある。
兎も角母は疲れていた。
私はそれを知っていたから、離婚のことも自分で決めて自分で判断して、全て片付けた。
母に相談したのは、離婚してからのこと。するかも…という話しはしたが、結果を告げただけだった。
そんなことがあり、母は自分のことを全て後回しにしてきたのだ。
そして……おととしの正月。妹が真剣な顔で私にこう言った。
「お母さん……胸になんか異様なでものができてる」
と。私は咄嗟に乳がんと思った。そういう話しを聞いたことがあるからだ。
一番下の妹も言った。
「お母さんがお風呂に入る時に見たけど、凄いことになってた」
と。
私たち姉妹三人が話し合ってるところに母が「何を話してんの」と明るい顔でやってきた。
その時に私たちは母へ、病院へ検査に行くことを勧めたのだ。
その頃には私も落ち着いていて、それに一番下の妹も最初の結婚をし、子供もできていた。
しかし母は病院へ行くことをしぶった。頑なにしぶった。
後でわかったが、母はこのまま「自殺」をするつもりだったらしい。
つまり治療しないままで死ぬつもりだったのだ。死期を待つつもりだったのだ。
「もうどうなってもええの」
母がよくそう言っていた。
兎も角、私は娘のこともあり翌日には70キロほど離れた自宅まで戻ったが、妹が病院へ連れて行ってくれた。
そして……妹からの電話。
「お母さん、子宮がんもやってるし、乳がんから脊椎、そして肺にまで転移してるって。皮膚も…」
妹は号泣していた。あきらかに助かる見込みはないのだと私は悟った。
そこまで転移するまで、母は自分で何もせずに放っておいたのだ。本気で死ぬつもりだったのだと思った。
もしかしたら、長年、何もしてくれない父へのあてつけだったのかもしれない。
そして母は入院した。手術もした。抗がん剤の治療もした。
私は離れたところに住んでいるので面倒はすぐ下の妹が全てみてくれた。
私はせめてもと、入院費、治療費などを出してきた。借金をしてでも出してきた。
一度、母は退院することができたが……退院した母の面倒を、父も一番下の妹も見なかった。ひどい話しだ。さすがに腹がたった。
この頃には一番下の妹は、旦那の浮気と暴力で疲れ切っていたのもわかるが…(結局離婚したが)、父はなんなんだろうと。
情けなくて涙が出てきた。
そして案の定、母は再発してまた入院した。
今度は松山にあるがんセンターに入院したいと母が自分で申し出た。
電話で聞けば、入院は可能だということ。
しかし、実家から松山までも、50キロはある。私の家からすると、120キロ以上はある。
いざという時に大丈夫だろうか。しかし、がん専門の病院だから、きっと大丈夫。
そんな期待をこめて入院させたのだが……結局はそこの医師も渋い顔をするだけだった。
母の意識がある時に、最後にあったのは。家族全員で母の容態説明を医師から聞いた日だった。
母は父や妹はまだしも、私がいることに驚いていた。
遠くからありがとうと言ってくれた。大丈夫と笑ってくれた。
まさかそれが、母と交わした言葉の最後になるとは、その時の私は思っていなかった。
それから数日後、最後の手段ということで、モルヒネを投与した。
その時に妹たちはもう覚悟していたらしい。この治療で治る見込みは酷く少ないということを調べていたからだ。
悪ければこのまま眠るように亡くなってしまうということも。
モルヒネを投与して私はお泊りを覚悟で病院を訪れた。娘は別れた旦那の両親に預けて。
その日の夜は、親戚が次から次へときてくれた。
母はベッドの上で懇々と眠ったままだ。右腕は浮腫でパンパンに腫れていた。
すぐ下の妹は風邪をひいており、その日の夜は帰ることになった。
一緒にいたいといっていたが、今日は私がいるからと、帰らせた。
そして……その夜。明け方近く、母は逝った。
結局、看取ったのは私一人だった。
一番母の危篤に間に合わないだろうと思われた私が、看取ることになった。
これもきっと、母がそうしてくれたのだろうと思う。
長男長女というのは、自分が腹を痛めた最初の子だ。もちろん、その下の子たちも愛しい。だが、やっぱり少しは違ったのだろう。
ましてや、結婚してからは私は遠方にいて、まともに母の世話をしてやれなかった。
だから最後を看取らせてくれたのかもしれない。
私は母の名を呼びながら泣いた。
あれほどパンパンだった母の右手は、しぼんでいった……。
それから父、妹たちへの連絡、親戚への連絡、葬式の段取り。そして、通夜に葬式。
あわただしく過ぎた。
その間、父は何もできなかった。
そもそも普段から何も一人でできない人だ。
昔から母に迷惑ばかりをかけて、優しい一言もかけてやらず、最後の最後まで苦しめた超本人。
しかし……私は見た。
通夜の夜。互助会に入っていた母の通夜はとある会館で行うことになり、その日は親戚一同でそこで雑魚ねすることになった。
深夜に寝返りを打つと、父が寝ている母の枕元に座り、じっとその顔を見つめていたのだ。
何も言わなかったが、背中が酷く小さく見えた。
本当に無口でどうしようもない父は葬式の喪主の挨拶すらできなかった。代わりに私がやった。
母を骨にして、自宅に戻り、49日が過ぎるまで、酷くあわただしい日が過ぎた。
そして年が明けて…今年の正月。
父は新しく娘婿となった(一番下の妹がまた結婚したので)義理の息子と、長年の付き合いになる、直ぐ下の妹との旦那と飲みながら、酔った勢いで初めてこう言ったのだ。
「あいつは……一番の嫁やった」
と。
「そうじゃねぇ、お義父さん。そうじゃねぇ」
義理の弟が柔らい顔で何度もそう言っていた。
バカな男。本当に大切なものを失うまで、自分のしてきたことを省みることができないのだ。
父はずっと、母が父の給料を溜め込んでいて、自宅には本当はたくさんお金があると思っていたらしい。
だから母はよく言っていた。
そう思われているから仕事に出たいけど、仕事に出たら出たでその稼ぎをアテにされる。
お母さんは何もできない、と。
しかし、母が死んでから父はやっとわかったのだ。
母は金融会社から借金をしていた。へんな宗教にはまっていたのもあるが、生活費の足しにもしていたのだろう。
あれほど父に怒っていた母が、父と同じように金融会社から借金をしていたのだ。
父も相当にショックだったようだ。本当にお金がなくて、苦労させたと思ったのだろう。
今、父は自分の少ない給料と年金で生活をしている。
すぐ下の妹が細かく表にして、月々にかかる費用、引き落とされる金額、年に一度こういう税金もくる、などを示した紙を元に、暮らしている。
自分で料理も作るようだ。先日、たまたま食べさせてもらったが、以外と美味しかった。
一番下の妹が結婚して母が死んでから半年ぐらいして家を出て行った。
父はいよいよ一人になったのだ。
家族五人いたのに、今は一人ぼっちである。
妹が嫁いでから一週間が経った頃、私の家の電話に留守電が入っていた。
「お父さんじゃ。…………元気なんか。…………電話してくれ」
それだけ。
父からこんな留守電が入るなんてびっくりした私は、何かあったのだろうかと慌てて電話をしたら、単に寂しかったらしい。
電話の向こうで父は泣いていた。声が涙声だった。
娘にかわると、娘は屈託なく「じぃじ、じぃじ」と話しかけていた。そんな娘に父は何度も「遊びにこい、遊びにこい」と言っていた。
全てを失ってしまった父。今もまだ寂しい思いで一杯のようだ。
広い家に一人っきりでする生活は、生活が苦しいとかではなく、心が苦しくなるらしい。
バカな男。全てを失うまで、本当に何も気づかなかった男。
でもね、お父さん。お父さんにはまだ娘が三人いる。どの娘もお父さんのこと、大嫌いだけど、でも多分、結局は父親だから。なんだかんだと情はある。
妹も言っていた。バカな父だけど、やっぱり情があるから見捨てられへん、と。
それは私も同じだ。
今日もとある事情で(これも後で話すが)、父にここまできてもらった。
その時にしきりに胃が痛いといっていた。薬を飲んでいないと痛いのだそうだ。
病院に行ってきなよというと、行ったら絶対に悪いって言われるとのこと。当たり前だ。
悪いから病院にいくのだから。
そんな父は、私の事情が終わった頃、心配になったのか携帯に留守電が入っていた。
どうなったかまた連絡くれや。
なんだかすっかり心配性になってる父親を、天国の母はどういう気持ちで見ているだろうか。
お嬢様育ちで、自分が可愛い人だったが、いつも明るかった。
きっと笑いながら、
「本当にお父さんはバカやねぇ。やから言うたやろ」
って、言ってるに違いない。
本当にバカな男。
そのバカな男に、結局は死ぬまで付き合わないといけないのだ。
もう借金はしないと思うが、肉親という…血のつながりの不思議で、面倒をみていくのだろう、私もきっとバカな女に違いない。