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『うろ』とはポッカリとあいた穴の事です。
とある田舎の
森の奥深く
古い大木の
うろの中に
雨宿りをしたならば
違う世界に迷い込み
戻って来るのが難しい
そんな場所があると云う
遠い遠い昔の
忘れさられた昔話
*
ぼくたちは車で何時間もかけて、四方を田んぼや畑や山に囲まれた田舎の家にやって来た。
古びた板かべの平屋作り、ずっしりと重いかわらの乗った、築百年は経つだろうかと思われる古い建物。昼間だというのに、小さな明かり取りの窓から陽の光は届かない。土間にある台所。薪で沸かすごえもん風呂。縁側の先にあるトイレ。二間続きの奥にあるお仏壇。黒光りする大黒柱が存在感をアピールする。年代物の柱時計が、ボーンボーンと正午の時間を知らせた。
「良一。今日からお前は、お婆ちゃんと一緒に暮らすんだからな」
嫌だと言う間もなく、良一は田舎暮らしをする事になった。
幼い少年には、何も思い通りにはならなくて……
突然お母さんが事故で死んで、お父さんは会社が忙しくて、ぼくはいつも夜遅くまで保育園に預けられた。出張もあるのでお父さん一人では育てられなくて、ぼくは田舎のお婆ちゃんの家で過ごす事になった。
お父さんは何の為に働いているの? 家族の為? お家のローンを返す為? ぜいたくをする為?毎日ぎゅうぎゅうの電車に揺られて、倒れてしまいそうなくらい暑い日に長袖のスーツを着て、そんなにまでして、家族が住まない家の借金を返す為に働くの? お父さんは田舎の跡取りだったのになぜ家を継がなかったの? どうしてぼくは田舎に預けられるの? お父さんはそれで幸せなの? ぼくと会えなくてお父さんは幸せなの?
ぼくはまだ小さいから、何も選ぶ事はできないけれど、お父さんと一緒に居たかったな……
朝目覚めると、僕の目から一筋の涙が流れていた。田舎に引越した頃の夢を見たのだろう。父さんは、昔からお金が大好きで
「お金があれば何でも買える」
と言うのが口癖だ。じゃあ、何を買えば寂しくなくなるんだろう。この寂しさは何で埋める事ができるんだろう。
たぶん僕は知っている。
父さんと母さんと一緒にいた時は全然寂しくなかった。だから父さんの側にいたらこの気持は埋まるんだと思う。
お婆ちゃんはとても優しいけれど、親とは違う。母さんが死んで親と呼べるのは父さんだけ。
僕はこの寂しい心を抱いたまま、一人で大きく成って行くの? 寂しい思いを抱えたまま大人に成って行くのかな……。父さんは一人で忙しく働いて、それで本当に幸せなのかな……
田舎に引越して来て何年も経ったけど、父さんがこっちに来たのは三回ぐらい。一年に一回来るか来ないか。
「元気だったか? 良い子にしてたか? 勉強してるか?」
そう言って僕の通知表を見て、もっと勉強しろと言う。
良い学校に入って、良い大学に入って、良い会社に入れと言う。
それはつまり父さんと同じ道に勧めって言ってるんだよね。そうすればお金には困らないって言うんだ。
自分が幸せだから同じ道を歩けと言うのかな? お金があったら幸せなのかな? 僕には父さんが幸せだとは感じない。
本当は「寂しくなかったか?」って聞いて欲しかったのに、僕の欲しい言葉は全然くれない。
久しぶりに父さんがこっちに来た。またいつもと同じ事を言われた。
それはちょっとした反抗心だった。
父さんが言った事に返事をしなかった。ただそれだけなのに、凄く怒られて責められて、そしたら僕の中に溜まっていた嫌な言葉が、次々と矢のように父さんに向かって飛び出して行った。止める事なんてできなかった。
パシッ
部屋の中に乾いた音が響き渡った。僕は赤く染まった頬を押さえて、外に飛び出した。
初めて父さんにぶたれた。叩かれた事なんてなかった。そもそも、けんかするほど一緒にいた事なんてなかったんだ。
どうして僕の言う事が分からないの? どうして伝わらないの?
悔しかった。悔しくて涙があふれた。
森に続く細い道を、奥に奥に、ただがむしゃらに走った。枝や草が体に当たったけど、痛さなんて感じなかった。
どれぐらい走っただろう。身近な木に手をついて、僕は肩で息をついた。葉を伝って垂れる大きな滴がボタボタと音を立てて落ちてくる。どうやら途中で雨が降り出したらしい。枝葉がたっぷりと繁っているおかげで、濡れずにすんだようだ。
木の間に垣間見る空は厚い雲がかかり、うっそうと繁った森は夜のような暗闇だった。雨足が強まり、雷が鳴り響き、風も強くなってきた。
ピカッ、ゴロゴロゴロ
突然近くで鳴った音に、良一は目を閉じて耳をふさぎその場にしゃがみ込んだ。
「寒いよ……怖いよ……。ここ、どこ?」
良一は恐る恐る目を開け、立ち上がり辺りを見回したが、細木や大木がひしめきあっているだけだ。良一の体がガタガタと震える。寒さをしのげる場所が無いかと良一は辺りを見渡したが、そんな場所はどこにもなかった。
良一は仕方なく雨宿りしている大木を見上げた。
「それにしてもでっかい木だなぁ」
樹齢、数百年とも思われる巨木。幹の周りは、子どもが十人手を広げても回りきれない程の太さはありそうだ。
大きくせりあがっている木の根につまずかないように、大きくまたぎながら幹の周りをゆっくりと一周してみる。ゴツゴツとした樹の皮が所々めくれて触り心地が悪い。こけが生えている場所もある。
幹の反対側へ回った時、大きなうろが空いているのが見えた。
中は真っ暗。そこへタイミング良く稲光が光って、うろの中を伺い知る事ができた。うろの中は思ったよりも広く、小動物も寝ぐらにしてはいなさそうだ。
良一は寒さに耐えられず迷わずうろの中に入って行った。
うろの中は真っ暗だったが、ほんのりと暖かく、良一はほっと体の力を抜いた。
頭上からホーホーとフクロウの鳴き声が聞こえた。どうやら先客がいたようだ。
「ごめんね。少しの間、雨宿りさせてね」
良一は小声でフクロウに話しかけた。それに答えるようにフクロウはホーホーと鳴いてみせた。
『自分の事だけだね。お父さんの気持はどうなの? お母さんはどう思うのかな。お婆ちゃんはどう思っているだろうね』
どこからともなく柔らかくて優しい声が降ってきた。
誰もいないはずなのに……
「だっ……誰か、いるの?」
良一はこわごわと声をかけてみた。
『わたしの事は気にしなくていい。それよりもお父さんの気持を考えた事はあるかい?』
「父さんの気持ち?」
『そう。突然大好きな人がいなくなって、一人で子どもを育てなくちゃならなくて、きっと大変だっただろうね』
父さんの気持ちなんて考えた事もなかった……
「母さんの気持?」
『そう。突然、命が無くなって、大切な子どもが愛する人を嫌っている。きっと悲しいだろうね……』
「お婆ちゃんの気持?」
『そう。息子と孫が、いがみ合うのは辛いだろうね』
ホーホーとフクロウの声がする
父さんの気持ち、母さんの気持ち、お婆ちゃんの気持ち。……そんなの考えた事もなかった……
じっと一点を見つめていると、穴の奥がほんのりと明るくなった気がした。何だろうと目をこらして見ると、横穴があるように見えた。
「なんで、ほらあながあるんだろう」
良一は、暖かい灯かりに吸い寄せられるように、どうくつに足を踏み入れてしまった。