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【8】

 広い応接室は豪華の一言に尽きた。床に敷かれた分厚い絨毯は豪奢な模様の織り込まれた物で、中央に置かれたソファーセットも最高級。隅にあるチェストも一流工房の特注品だ。暖炉の上に飾られた飾り皿や壁に並んだ絵画達は、庶民が数年掛かっても買える値段ではない。

 その部屋の中、夕日だけの薄暗い状態で二人の男が立ったまま向かい合っていた。

「ここまでの首尾は良しと言っておく」

 顔の上半分を白い仮面で隠した男が告げた。部屋には不釣合いな、飾り気のないフード付きの服を着ている。

「むう」

 答えたのは初老の男性。アンゼルム=ザイデル=ペテレイトだ。

 骨ばった神経質そうな顔立ちに、大きく尖った鼻。六十近い年齢にも拘わらず、瞳はまだ若々しい。伸びた白髪を後ろにまとめ、服装は金刺繍がされた見事な物。

「しかし生かしておく必要はない。さっさと処分すべきだな」

「交渉は始まってもおらん。カードを無駄に切る必要はあるまい」

 仮面の男の言葉を、ペテレイトは苦々しげに返す。

「なにを悠長な」

 仮面の下にある口が、嘲りを含んだ笑みに歪んだ。

「ご老人よ。今、警察が踏み込んでくればどうなるか。少しは考えたらどうかな?」

「要らぬ心配じゃ。警官共は既に犯人を捕まえた気でおるわ。目出度い奴らよ」

「さて、目出度いのはどちらか?」

「若造が調子に乗るでない。この街には、この街のやり方がある」

「老人よ、時代は変わっていく。貴族の威光は既に万能ではない」

「解っておらんな。貴族の権威は時よりも重い」

 ペテレイトの言葉に男が小さく息をついた。

「続けるだけ不毛だな。お前の働きについては報告しておこう」

 踵を返し、

「老人よ。最後にもう一度忠告しておく。姫は直ちに処分すべきだ」

 背中を向けたまま告げる。

「犬は用が済めば、帰るものじゃ。キャンキャン吠えずにな」

「言っても無駄か。ふん、まあいい」

 そう残すと早足で部屋を後にする。

「やれやれ、最近は飼い犬の躾もできぬ輩が多いようじゃな」

 こぼしながらソファーに身体を沈めると、ポケットからベルを出して鳴らす。

 数秒で一人の青年が室内に姿を見せた。黒色の瞳に短く切り揃えた濃紺の髪。アリーセを連れてきた青年である。

「エッケハルト、姫はどうしておる?」

「少し前までドアを叩いて騒いでおりましたが、今は疲れたのか静かにしております」

「そうか」

「侯爵様、姫をいかがするおつもりですか?」

「連合の使いは殺すべきだと言っておった」

 エッケハルトの顔に微かな動揺が走る。が、それも一瞬。

「解りました。では自分が……」

「早まるでない。若いもんはせっかちでいかん」

 くくくと喉の奥で笑う。

「姫は生かしておく。王家に返すことも有り得るのでな」

「連合を裏切ると?」

 さっき以上の驚きがあった。

「王家と連合。天秤に掛けて有利な方に動く。それが貴族の知恵という物だ。お前も覚えておくがいい」


                    * * *


 ペテレイトの屋敷は小高い丘の上に建ち、高さ二メートルはある分厚い煉瓦の壁で囲まれている。三つの棟が中庭を囲むようコの字に配置され、更に外壁から建物までは十メートル近い。 

 エド達はまず裏側に回りこんだ。屋敷の周囲に見張りはなく、近付く事は簡単だった。

「問題はどこにアリーセがいるかだけど」

 各棟は六階建て。窓は各階に十二個ずつ。二百以上の部屋がある計算になる。

「それにしても随分と数があるのね。私の住んでいるアパートメントより多いわ」

「使用人やお抱え騎士達の部屋だろうね。使われてないのもあるだろうけど」

 呆れるマルギットにエドが端的に答える。

「さて、どうしたものかな」

 エドが自問する。頭痛は治まっているが、やはり特にアイデアは浮かばない。考える事を拒否しているのだろう。

「私に名案があるよ」

 と薄い胸を張ったのはオッティだ。

「ここでアリーセの名前を大声で叫ぶの。そうすればアリーセも気付いて合図を送ってくれると思うんだ」

 あまりに画期的な意見にエドは苦笑、マルギットは溜息で応える。

「警備も厳重になるだろうし、私達も捕まっちゃうかもね。ホントに名案だわ」

「冗談に決まってるでしょ。なんで本気だと思っちゃうのよ」

 ぶうっと頬を膨らますオッティ。

「でも、確かにアリーセが合図でも送ってくれない限り見つけるのは難しいね」

「そうね。まさか一部屋ずつ見て回るって訳にもいかないし」

「アシスタントだと、この辺りが限界みたいね」

 偉そうに言いながらポケットから取り出したのは、折りたたみ式のオペラグラスだ。

「こういうアイテムは探偵の必需品。万が一に備えて持ち歩くのは基本だよ」

「ホンの少しだけど、オッティが探偵に思えたわ。人間切羽詰るとダメね」

「ん? それどういう意味なんだろう?」

「そのままの意味よ。じゃあ、借りるわね」

 さっと掠め取って覗き込む。

「ちょっとマルギット」

「オッティより私の方が注意深いでしょ。テストだって私の方が点数高いんだし」

「オッティ、ここは任せよう。マルギットは注意深い人間だよ。それに名探偵の出番はもう少し後じゃないとね」

「そっか。やっぱ真打は最後に登場しないと盛り上がらないよね。じゃあ、マルギット、お願い」

「はいはい」

 一つ一つの窓を見ていく。どれも同じように分厚いカーテンが掛かっている。

「ダメね。カーテンで室内の様子が解らないわ。アリーセがカーテンを開けてくれてたらいいんだけど」

「もしカーテンを開けたら、見張りが気付くだろうからね。できないと思うよ」

「そう言われるとそうね。ダメだわ。カーテンが分厚くて人影すら見えない」

「そっか。じゃあ、何か別の方法を……」

「ん、待って」

 マルギットが遮った。

「三階の左から三番目の部屋なんだけど。カーテンの裾の方に何かついてる」

 一つの窓を指差しながら、エドにオペラグラスを渡す。

 覗いてみると、カーテンの裾に小さな銀色の物が付いていた。

「あれは、ブローチみたいだね」

「私にも見せて見せて」

 今度はオッティが確認する。

「ホントだ。シルバー製のやつだよ」

「ね、これってひょっとして」

 マルギットの言葉にエドが頷き、オッティも「やっぱり」と口にする。

「やっぱり貴族って変なセンスしてるのよね。カーテンにブローチ付けるなんてさ」

「違うわよ。もう、なんでそんなに間抜けなの」

「そ、そんな悲しそうな顔しないでよ」

「あれはアリーセからの合図だよ。これで閉じ込められている場所は解った」

 言いながら時計を確認。バルタザールと打ち合わせた時間には、まだ五分あった。

「よし。侵入準備をしよう。ここからは慎重にいかないとね」

「任せてよ。名探偵オティーリエ=ヴァイカートの力を見せてあげるから」

「オッティがそう言う度に、すごく不安になってくるわ」

 マルギットの正直過ぎる感想に、空気が少し軽くなった。


                    * * *


 侯爵家の正門は幅五メートルを越える金属性の巨大な物だった。これは馬車の通行用で、人はその横にある一メートル半程の副門を利用する。門の傍らには全身甲冑に身を包んだ大男が二人、巨大な斧槍を手に立っていた。

 男達の前に進み出るバルタザール。その後ろ、隠れるようにズザンネが続く。

「何用だ」

 バルタザールが口を開くより早く、右側の男が威圧的に告げた。

「バルタザール=リーフェンシュタールと申します。見ての通り警官です。火急の用で参りました。侯爵様はご在宅で?」

「警官などに用はない」

「そちらに用はなくても、こちらにあるんです」

 微塵も臆する事無く、愛想の良い顔で続ける。

「実は、この屋敷に友人がさらわれたという届け出がありましてね」

「ふん。そんなことあるはずがなかろう」

 答える男の声には微かな動揺が混じっていた。

「そう言われてもですね。警察という物は疑わしきは調べるという組織でして」

「いい加減にしろ!」

 左側の男が割り込んできた。

「ここはペテレイト侯爵の屋敷である。これ以上、下らぬ戯言を続けるようであれば、貴族に対する不敬とみなすぞ」

 ついっと斧槍を突きつける。

「おっとっと、冗談は止してください」

 鋭い穂先を軽く押し退けると、逆に半歩寄って顔を近づけた。

「こちらも貴族様とトラブルを起こしたくはありません。だから、私一人で来たんです」

 真意が掴めず、門番の二人は互いに視線を交わす。

「目撃者がいるんです」

 ちらりと後ろを指差す。

「真偽はともかく目撃者からの届け出があれば、警察は調査しなければなりません。ですから侯爵に、そんなことはない。何かの間違いだ。と、一言頂ければいいんです。それで後は丸く収めますから」

 バルタザールがひそひそと説明すると、ようやくにして合点がいった。

「警官隊がどっと押しかけて、ごたごたするのはお互い嬉しくないでしょう?」

「そうだな。侯爵様にお伝えしてこよう。少し待ってろ」

 左の男が門をくぐって屋敷の方に駆けていく。

「ありがとうございます」

 残った男に、満面の笑顔で一礼すると少し下がって距離を開ける。と、ちらりと時計に目を落とした。今のところは計画通りだ。


                    * * *


 壁の隅に梯子を掛け、エドは慎重に登り始めた。頭の隠れるギリギリの位置までくると、息を殺して中を覗き込む。視界には見張りはいない。

 梯子の下で心配そうな顔をしているオッティ達に、手の平を広げて「ちょっと待って」と合図する。

 微かにではあるが金属の擦れる音が聞こえたのだ。視線を向けると、甲冑姿の大男が棟の角を曲がって姿を現すところだった。

 エドが咄嗟に首を引っ込める。

「おい! お前!」

 怒声に身を硬くする。オッティとマルギットも息を飲んだ。

「正門に集合だ! 警官が来たらしいぞ!」

「警官? おい、まさか」

「いや、違う。だが、万が一には備えておかねばならんだろう」

「あぁ、そうだな」

 続く会話にエドが安堵を浮かべた。どうやら見張り同士で話しているようだ。

 鎧の軋む音が聞こえなくなってから、一気に梯子を上りきった。そのまま、壁を越えて中庭に飛び降りる。

「エド」

 オッティが直ぐ後ろに、ふわりと降りた。実に身軽な物だ。

「ちょっと待ってよ。もう」

 あたふたとマルギットが続く。が、着地と同時に尻餅。「いたた」と涙目になってしまう。

「マルギット、大丈夫?」

「も、もちろんよ。ちょっとバランスを崩しただけだから」

 差し出されたエドの手を取って立ち上がる。

「マルギットはお尻が大きいから良かったよね」

「ちょっと、オッティ。それってどういう意味」

「え、見たままだけど」

「まあまあ二人とも」

 じゃれあい始めた二人を軽く嗜めると、真面目な顔を作った。

「ここからは慎重かつ大胆にいかないと」

「そうね。見つかったら終わり。言い逃れなんてできないわ」

「大丈夫だよ。名探偵は絶対に失敗しないんだから」

 根拠のない自信に胸を張るオッティに、意外にもマルギットは表情を緩めた。

「そうね。そのくらい気楽にしてないとダメかもね」

「まず建物の中に入る方法を考えよう。この中庭は遮蔽物が少なくて見つかり易い」

 身を低くして建物に駆け寄った。そのまま建物に沿って移動する。

 この棟は敷地の南に位置しており、門は北。他に東西に同じような棟が建っている。三つの棟は互いに独立していた。

 南棟は正門からまっすぐ続くアプローチを超え、大きな両手開きのドアから入る。東西は門側に簡素な出入口が作られていた。

 裏口らしき物はない。となると、アリーセが捕らえられている南棟に入るには、どうしても正面に回らないといけない。しかし門に見張りが集まっている。発見されるのは確実だ。

 カーテンの掛かった窓のどれかを破って入るしかないかと、エドは考える。

「どこか適当な窓を破って入れないかな」

 丁度、オッティが提案した。

「ダメ。音が鳴っちゃうでしょ。それに部屋の中に誰かいたらどうするのよ」

 マルギットの否定にエドが苦笑する。今の思考力は名探偵少女と大差ないようだ。

「ん、ちょっと待って」

 何かに思い至ったらしい。マルギットが言葉を止めて、思考を巡らせる。

「こういうお屋敷って、廊下の端に明かり窓が付けられている場合が多いわよね。そこからなら上手く入れるんじゃない?」

「でも、どれがその窓なんだろう?」

 並んでいるのはどれも同じ窓だ。

「オッティ、もうちょっと考えてよ」

「そんなこと言われても」

「こっちに並んでいるのは部屋の窓でしょ。反対側、向かい合わせに部屋が並んでいると考えたら、廊下はその真ん中になるわよね」

「なるほど。つまり」

 オッティが顎に手をあてて、真剣な顔で首を捻る。

「つまり、どういうこと?」

「あぁん、もう。しっかりしてよ、名探偵なんでしょ」

「名探偵と言っても、まだタマゴなんだもん。仕方ないじゃん」

「いい? 廊下に明かり窓があるとしたら西側と東側の壁。ここを端まで移動して曲がったところにあるはずよ」

 マルギットの説明にオッティが納得して頷く。もちろんその後で、「解ってたんだよ。あえて聞いてみただけだから」と良く解らない言い訳を付け足した。

「とりあえず、端まで移動してみよう」

 エドを先頭にして壁に沿って東の端まで移動。そこから覗き込む。

 肩ぐらいの高さに五十センチ四方の窓がついていた。

「よし、ここから突入するよ」

「ダメ」

 意気込むオッティをマルギットがシンプルに制した。

「窓を見て。これははめ殺しよ。開けられないわ」

 言いながら悔しげに唇を噛んだ。

 こうしているうちに見張り達が戻ってくるかも知れない。そう考えると気ばかり焦る。

「いや、ここからしかないよ」

 エドの唐突な発言に、マルギットはおろかオッティでさえ驚きを浮かべた。

「窓を割れば入れるはずだ」

「それはそうかも知れないけど。でも、騒ぎを起すのは良くないかなって」

 マルギットが遠慮がちに反対を主張する。

「もちろん、ここでいきなり窓を割ったら見つかっちゃうからね。一手打てばいいんだ」

 オッティの方に視線を移した。

「ん? 私?」

「うん。オッティの出番だよ。これを使おう」

 そう言いながら金属筒を一本手渡す。バルタザールから預かった発煙弾だった。


                    * * *


 エド達が侵入した頃、正門にペテレイトが姿を現した。

 小柄な老人。だが豪奢な衣服と威風堂々とした歩き方が、その身を二回りは大きく見せている。更に周囲を十名の甲冑達が取り巻き、威圧的な雰囲気を醸し出していた。

「これはペテレイト侯爵様。お目に掛かれて光栄であります」

 バルタザールが深く礼をする。

「バルタザールと申したな。貴族は忙しい。さっさと済ませてもらいたいな」

「仰る通りでございます。一言頂ければ納得して帰りますので、ご容赦下さい。実は、この屋敷に友人がさらわれたという届け出がありまして」

「つまり、貴様はワシが人さらいの真似事をしたと言う訳だな? 貴族であるワシが」

「いえいえ、とんでもありません。そういう訴えがあっただけでして……」

 明らかな狼狽を見せるバルタザール

「ふふ、解っておる。冗談じゃ。貴族を恐れず、警官としての職責を果たさんとしておるのであろう。その行動は褒められぞすれ、非難される物ではない」

「ありがたいお言葉。身に余る光栄でございます」

 先ほど以上に深々と頭を下げる。その余りに遜った態度に、ペテレイトの顔に優越感が滲む。

「ワシがそんなことをするはずがないであろう。何かの間違いだ」

「その一言が頂ければ……」

「嘘よ!」

 ズザンネが声を上げた。

「見たんだからね。友達を無理矢理馬車に乗せて連れ去ったの」

 指を突きつけるズザンネに、空気が瞬時にして凍りついた。

「こら、君、変なことを言うんじゃない。侯爵様は……」

「ホントよ。アタシを信じて。家の中を調べれば直ぐに見つかるわ」

 ズザンネの主張にペテレイトの周りに立つ護衛達が視線を交し合う。と、その中の一人が腰に提げた剣の柄を握った。

「よさぬか。貴族に仕える騎士が、子供を手に掛けるなどあってはならん」

 ペテレイトが溜息交じりで嗜めた。

「そこのお嬢さんが発端らしいの」

 バルタザールを睨みつける。

「はい。彼女から申し出がありまして。侯爵様のお言葉があれば、納得すると思ったのですが、まさかこんなことになるとは」

「まあいい。このくらいの子供は、なにかと難しいものだ」

「なにしてんのよ。中に入って調べたら済む話でしょ」

 きゃんきゃんと吠え立てるズザンネに、バルタザールが恐縮しながらも「屋敷内を調べさせて頂くわけには……」と申し出る。

「やれやれ」

 ペテレイトが深く重い息を吐いた。好ましくない展開に苛立ちつつも、それを表面に出さず、上手く収める方法を探して思考を巡らせる。

「ふん。やっぱり警察に入られると困ることがあるのね」

「ちょっと、ズザンネくん、侯爵様に向かって暴言を……」

「今、ズザンネと申したな」

 ペテレイトが割り込んだ。その目には驚きが浮かんでいた。

「間違いない。その娘、ズザンネ=クニーゼル。いや、ズザンネ=シュパングであるな」

「えぇ、彼女は確かにズザンネ=シュパングですが」

「ふふ。なるほど、そういうことか。バルタザール、お前はこの街に来て長くあるまい」

「はい。先週、赴任したところです」

「なら知らぬのも無理はない。この娘、今は叔父の家に引き取られているが、かの犯罪人ヴィリバルト=クニーゼルの一人娘なのだ」

 ヴィリバルト=クニーゼル。侯爵が口にした名前にバルタザールが顔を強張らせた。それだけではない。侯爵を取り巻く男達も、嫌悪に満ちた目に変わる。

「ヴィリバルト=クニーゼル。銅を金に替えるなどという甘言で、先代王をたぶらかし、莫大な金を騙し取った重罪人。その娘がそやつだ」

「親がなんだってのよ。そんなのアタシに関係ないでしょ!」

 ズザンネの反論。しかしペテレイトは大仰に首を振る。

「やはり親の子というべきか。こんな嘘を吹聴しおるとは。大方、そこの警官が不敬罪で罰せられるのを期待したのであろう。警察や貴族に恨みを持っておるお前らしい」

「アタシがそんなことをするはずないでしょ! アタシは!」

「ふん。この街でお前の言葉を信じる人間などおらん」

 冷たい一言に、ズザンネが言葉を飲み込んだ。勝気な彼女の瞳には珍しく、溢れそうなくらい涙が溜まっていた。

「このペテレイトはお前が考えるほど愚かではない。バルタザールよ、今回の件は不問としよう。早々にここから去るが良い」

「も、申し訳ありませんでした。寛大な処置、心より感謝致します」

 片膝をついて頭を垂れるバルタザール。

 そんな芝居じみた古風な動作に、ペテレイトは満足そうに頷く。

 と、そこに、窓ガラスの割れる甲高い音が届いた。

 何事かと全員が視線を向ける。東棟の三階から白い煙が立ち昇っていた。

「こ、侯爵様! 火が出ているようです!」

 動揺する部下の言葉で、唖然としていたペテレイトが我に返る。

「見れば解る! お前ら何をぼんやりしておる! 消化だ!」

「侯爵様!」

 踵を返して東棟に向かおうとするペテレイトを、バルタザールが呼び止めた。

「直ぐに消防隊を呼んで参ります」

「貴族には貴族のやり方がある! 警官のお前が口を出すところではない!」

 それだけ残して、さっさと歩き去ってしまう。

「さあ、もう用件は済んだであろう。さっさと帰るがいい!」

 残った二人の門番が、斧槍を突きつけて居丈高に怒鳴った。


                    * * *


 プランは実にシンプル。

 東棟に向かい発煙弾を投げる。どこかの窓を割って放り込めればベストだが、最悪地面に転がるだけでもいい。その煙を陽動にして、自分達は西側に移動。明かり窓を打ち破って中に入るという寸法だ。

 抜群の運動神経を誇るオッティは見事に三階の窓に発煙弾を投げ入れた。

 ガラスの割れる音がスタートの合図。広い南棟の脇を西側まで一気に駆け抜ける。

 エドはシャツを脱いで肌着姿になると、そのシャツを右腕に巻きつけた。そのまま腕を明かり窓に叩きつける。

 儚い音と共に薄いガラスが砕け散った。

 窓枠とガラス片を手際良く払い落とすと、器用に上半身から滑り込む。

 見事な手際に唖然としているマルギットを置いて、オッティも持ち前の身軽さを発揮。左右の手で壁を掴むと、小さくジャンプして易々と中に入る。

「嘘でしょ。ちょっと待ってよ。二人とも」

 焦るマルギット。

「マルギット、ガラス片に気をつけて」

「手を貸して。私達がひっぱるから。せーのでいくよ。せーの」

 内側から二人掛りで引き込んだ。

 中はゆったりとした造り。廊下は三人が横に並んでも余裕があるほど。マルギットの予想通り、左右にはドア。更に数メートル間隔で大きな花瓶が置かれ、見事な花が活けてあった。廊下の中央、階段脇には西洋甲冑がオブジェとして斧槍と盾を手に佇んでいる。

「呆れるわね。まったく」

 優麗な紋様が描かれた花瓶を見ながら、マルギットが漏らす。これ一つで数十万クローネはするだろう。姉の仇とばかりに割ってやりたくなる。

「マルギット、急ごう。アリーセは三階のはずだ」

 エドの言葉で我に返る。先行する二人は既に階段に差し掛かりつつあった。小走りで追いかけようとした時だ。

「なんだ! お前ら!」

 階段の上から降ってきた怒声に、マルギットは首を縮めた。

 一階から二階に向かう踊り場で、エドは降りてきた甲冑姿の大男と鉢合わせした。

 予想外の展開に、互いが戸惑う。しかし、それも一瞬。大男の手が腰に提げた剣の柄に伸びる。

 対するエドの動きの方が早かった。持っていたシャツを顔に投げつける。

「ぬぉっ!」

 いきなり塞がった視界。慌てて払いのけるが。

 眼前からエドの姿が消えていた。

「こっちだ!」

 後ろからの声に咄嗟に振り返る。

 そこにエドが身体を低くしてぶつかってきた。全身の力を込めた体当たりに、屈強な男もバランスを崩し、ずずっと後ろに下がる。だが、階段まで押し落とすには威力不足だった。

「このガキが!」

 騎士らしからぬ乱暴な言葉を撒きながら、エドの肩口を掴む。

「オッティ!」

「任せて!」

 オッティはこの僅かな攻防の間にエドの背後に回り込んでいた。

 オッティの細くしなやかな足が床を蹴る。そのまま身を低くしていたエドの背中を駆け上がり。

「いけぇぇぇぇ!」

 名門ハイスクールに通う女子とは思えない荒々しい叫びと共に、大男の鼻面に膝蹴りを叩き込んだ。

 全身のバネと体重の乗った一撃に、大男は堪らず後ずさった。と、その足が階段を踏み外す。落雷を思わせる音を立てながら、一気に一階まで転がり落ちていった。

 驚いたのは階下のマルギットだ。小さな悲鳴を上げて距離を取る。

 大男は背中から派手に壁にぶつかった。痛みと衝撃に低く呻きながらも、恐るべきタフさで、身体を起そうと床に手を付く。

「あのガキめ! 殺してやる!」

 怒りにコメカミをひくつかせながら、ぐっと全身に力を漲らせた。

「さ、させないわよ!」

 エドを助けたいという感情から出た反射的な行動だった。マルギットは近くの花瓶を抱えると、男の頭に容赦なく叩きつけたのだ。

 鈍い感触に続いて、数十万クローネはすると思われる花瓶が無惨に砕け散った。

 見事な一撃に、大男は白目を向いて床に伸びてしまう。

「やるじゃん、マルギット」

 踊り場からの声に視線を向けるとオッティが親指を立てていた。

「べ、別になんてことないわ」 

 震える声で強がりを口にしながら、覚束ない足取りで階段を上る。

「見事な一撃だったね。よし、必殺マルギット落しと名付けよう」

「なに下らないこと言ってるのよ。そもそも必殺ってなによ」

 下らない問答で、ようやく人心地ついた。

「マルギット、これ。とりあえずだけど」

 傍らのエドが不自然に顔を背けて、シャツを差し出していた。

「なに?」

 疑問符を浮かべつつ受け取る。そこで自分の腕が濡れているのに気付いた。花瓶が割れた時に中の水を随分と被ってしまった。

 ワンピースもぐっしょり。夏用として薄手の布で仕立て上げられている服、びったりと肌に張り付いていた。しかも淡い色。胸元、ピンクの下着がくっきりと透けている。

「ちょっと! どいういうことよ!」

 首の付け根まで真っ赤になって、受け取ったシャツで身体を隠す。

「まさか、見た?」

 恐る恐る尋ねる。エドが横を向いたまま小さく頷いた。

「嘘、嘘でしょ」

 顔を覆って、しゃがみ込む。もう、泣きそうだ。

「だ、大丈夫だよ、マルギット。可愛い下着だったし。ほら、その、そうだ。上下もお揃いで、全然変じゃなかったから」

「全然、フォローになってないわよ!」


                    * * *


「ズザンネさん」

 優しく肩に置かれた手にズザンネは、はっと顔を上げた。

「さ、行きましょう」

 バルタザールと並んで門から離れる。見張り達から十分と距離をとったところで、バルタザールが小さく頭を下げた。

「辛い思いをさせてしまいました。申し訳ありません」

「よく言うわ。通報者がアタシだったら丸く収まる。最初からそう思ってたのよね」

「もちろんです」

 意外と言うべきか、バルタザールは素直に頷いた。

「ふん、食えない人間ね。ま、アタシが言い出したことなんだし。アンタに文句を言うのは筋違いだけどさ」

「時間と手段が限られている状況でした。その中で最善の方法を選択したと断言できます。ですが……」

 ポケットから綺麗に四つ折りされたハンカチを差し出す。

「貴方の心を傷付けてしまった点については、本当に済まないと思っています」

「ふん。いいわ、謝罪だけは受け取ってあげる」

 ハンカチをぐっと押し返す。

「すっかり忘れてたのよ。ここ数年、おバカ二人に振り回され続けて、普通の人間になった気がしてた。自分でも呆れるわね」

 眼鏡を上げて手の甲で目元を拭った。

「こんなの慣れっこ。エレメンタリーの頃はもっと酷い目に遭ったりしたのよ。乱暴な男子に髪掴まれて引きずりまわされたり、性格の腐った女子にバケツで頭から泥かけられたり」

「子供は残酷ですからね」

「やられたことは全部日記に書いてたの。いつか仕返ししてやろうと思ってさ」

「物騒ですね。立場的に聞きたくない話ですよ」

「お陰でジュニアに入った頃には、綺麗さっぱり人間不信。自分はずっと一人で終わるんだと確信できるくらいにね」

 ふうっと息をついた。

「それが変な奴に付きまとわれてさ、気付けば友達になっててさ、挙句にこんな下らない事件に巻き込まれてさ。ま、退屈するよりはいいけど」

 友達のいない人生なんてつまらない。今はその主張を認めざるを得ない。

「今更、少しくらい嫌なこと言われてもね。アタシがここ数年で得た物を考えると、鼻で笑う程度のもんよ」

 できる限り明るい表情を作った。

「さって、アタシの役目は終わり。後は名探偵にお任せね」

「いえ。ズザンネさんには、もう一つお願いしたいことがあるんですよ」

「ん?」

「ここに行って、応援を呼んできてください」

 そう言いながら一枚の紙を手渡す。街の北側、この付近の地図だった。大通りから少し南に行った裏道に丸印が書き込んである。

「姫の場所を掴み次第動けるよう、部下を伏せておきました」

 その用意周到さにズザンネは呆れた。

「でも、警官の中にも貴族派の犬がいるんじゃないの? そもそもさ、アタシなんかの言うことを聞いてくれると思う?」

「ご心配には及びません。王都から連れてきた私直属の部下です。この地図を見せれば無条件に従ってくれます」

「アンタ、一体何者なの?」

 訝しげな色を浮かべるズザンネに、バルタザールは大袈裟に肩を竦めた。

「見ての通り警官です」

「ま、いいわ。時間もないし。で、アンタはどうすんの?」

「正面から押し入ってみようと思います。子供だけに危険な橋を渡らせるのは、大人として心苦しいですから」

「アンタ、ひょっとしてさ」

 やや間を置いた。そして核心に迫る問いを口にする。

「とんでもない大バカなの?」

「正直なところ、否定はできません」

 苦笑を残すと踵を返した。そのまま門の方に戻っていく。

 あまりにシンプルな行動にズザンネは唖然とするしかない。

「なんだ! まだ何かあるのか!」

 当然の如く右側の門番が吠え、手にした斧槍を突きつける。

「まったく、あのバカ」

 悪態をつきながら駆け寄ろうとしたズザンネだったが、その足が止まった。

 門番が呻きを漏らしたからだ。喉、甲冑の隙間になる箇所にバルタザールの剣の柄がめり込んでいた。刀身を鞘に収めたまま、腰から引き抜くように打ち込んだのだ。

 容赦のない一撃に、大男はあっけなく崩れ落ちた。

「き、貴様!」

 左の男が無駄な声を上げる間に、バルタザールが踏み込んだ。男が臨戦態勢を取るよりも早く、手にした剣を逆手に持ち替え突き入れる。やはり喉元。苦しそうに顔を歪ませながら、地面に転がった。

 不意打ちとは言え、屈強な男二人を瞬く間に倒した。しかも剣を抜かずに。その圧倒的な技量が窺える。

「ズザンネさん、応援の方をよろしくお願いします」

 その一言に見入っていたズザンネは役目を思い出した。急いで背を向けると、一目散に駆け出す。

「では、私もひと頑張りしましょうか」

 緊張感の欠片もない口調で呟くと、身軽に門を乗り越えて中に入った。

 身体を低くして西棟まで走り抜けると、建物の陰に身を隠す。

 数秒待つと、東棟からガチャガチャと鎧の音が聞こえてきた。

 ちらりと覗き込むと、ペテレイトが出てくるところだった。

 相変わらず十名ほどの護衛の騎士達に囲まれているが、その顔は怒りでドス黒く染まっていた。その手には小さな筒、発煙弾の筒が握られている。

「やれやれ、相当にご立腹のようですね」

 発煙弾を陽動にするのは安直過ぎる手だった。あの少年、この事件の核心に行き着いた彼ならもう少し賢いやり方を見つけられるかと思ったのだが。

「いえ、違いますね。ここまでできれば十分ですよ」

 それは過剰な期待だ。彼らは学生。特殊訓練を受けた兵ではない。

 不意に何かが派手にぶつかる音が響いた。ペテレイト達の目が一斉に南棟に向く。

「エッケハルト」

「はっ!」

 ペテレイトの声に応えて、エッケハルトが一礼。鎧を着ていないという利点を生かし、一直線に南棟へ走る。

「お前ら四人は、ここで見張っておれ! 他の者はワシと来い!」

 ペテレイト達も移動を始めた。残るように命じられた四人は、油断なく周囲に視線を走らせている。

「まずい展開になりましたね」

 バルタザールが渋い顔になる。心情的には飛び出して、子供達の退路を確保したいところだが。自分の技量は解っている。三人を斬り倒せれば上出来だ。

「チャンスを待ちましょう。しかし、困りましたね。これじゃすっかり卑怯な大人です」


                    * * *


 エド達は三階まで一気に駆け上がる。

「誰もいないなんてついてる。やっぱり名探偵は運があるね」

「そうじゃないよ」

 楽天的なオッティにエドが説明する。

「アリーセを捕らえるために最低限の人数しか残してないんだよ。王族をさらって監禁なんて、誰かが警察に駆け込んだら終わりだからね。使用人や騎士達の大半に休暇を与えて、祭りを見に行かせたんじゃないかな」

 そう考えれば、もっと上手く侵入する方法があったはず。発煙弾という安直で派手な方法に頼ったのは失敗だった。ようやくにして頭の中がクリアになってきたエドは悔やまざるを得ない。

「エド、考えるのは後回し。まずはアリーセを助ける。それだけでいいんだから」

「そうだね」

 オッティの言葉に首肯した。彼女の言葉は不思議と背中を押してくれる。

 そんなやり取りを数歩遅れて聞いていたマルギットは、寂しい気分になってしまう。自分が決して近づけない空気があったからだ。

「こんな時に、なに考えてるんだろ」

 呟いて、気持ちを振り切る。オッティの言う通り、今はアリーセを助ける事だけを考えなければならない。

 三階に着いたところで、マルギットが足を止めた。

 階段脇に置かれている甲冑。その手に握られている大振りの斧に手を伸ばす。ずしりとした重さに足元がふらついたが、持てなくはない。両腕で抱えてエド達を追う。肝心な事を忘れていた。これが必要になる。

 エドとオッティが奥から三番目、カーテンにブローチが付いていた部屋の前で足を止めた。互いに頷きあうと、エドがドアをノックする。途端に聞き慣れた声が返ってきた。

「お願いです! 開けて下さい!」

「アリーセ! アリーセなの!」

「オッティさん! オッティさんなんですね!」

「助けに来たよ! 今、開けるから!」

 ノブを掴んで回す。しかし、開かない。鍵が掛かっている。

「鍵を差し込んで開けるタイプだ」

 エドが告げる。つまり鍵がなければ、外からも内から開かない。

「さっきの見張りが持ってるかもしれない。戻って探してくる」

「待って、エド。これを使って」

 二人に追いついたマルギットが斧を差し出す。

「ありがとう。これならいけるよ」

 笑顔と共にエドが斧を掴む。流石は男子と言うべきか、マルギットでは持つのがやっとの重さを、両手で頭の上に持ち上げた。

「アリーセ、ドアから離れてて!」

 そう叫ぶと、全身の力を込めてドア中央に斧を叩きつける。刃が深々と突き刺さり、ドアを縦断して深い亀裂が走った。すぐさま引き抜き、頭上に構える。そのまま続けて打ち込んだ。

 立派なドアとは言え、こんな事態を想定して作られている訳ではない。五回を越えた辺りで蝶番が歪んだ。更に数回の打撃でドア自体が砕け、鍵も耐え切れずに千切れ飛ぶ。

 残骸になったドアを押し退け、オッティが室内に滑り込んだ。

「オッティさん!」

 抱きついてくるアリーセをしっかりと受け止める。

「私、信じてました。きっと助けに来てくれるって」

「あったりまえでしょ。名探偵はヒロインのピンチには必ず駆けつけるの。それが絶対なんだから」

「そう、ですよね」

 抱擁を解いて、溢れた涙を拭う。

「エドさんとマルギットさんも、私なんかのために」

「友達を見捨てるわけにはいかないからね」

「わ、私は違うわよ。その、お姉ちゃんを助ける為に仕方なくよ」

 素直に笑顔で答えるエド。一方のマルギットはストーレートなお礼に照れてしまう。

「さ、後は脱出して大団円を迎えるだけだよ」

 オッティの宣言に、三人が頷こうとした時だった。

「そんなことはさせない」

 冷たい一言が割り込んできた。

「あ、貴方は」

 反射的に視線を向けたアリーセが思わず漏らす。

 廊下に立っていたのは青年騎士、ペテレイトの忠実な僕エッケハルトだった。


                    * * *


 エッケハルトが静かに剣を抜いた。刀身が放つ冷たい輝きを放つ。

「お止めなさい」

 遮ったのはアリーセ。

「これ以上の狼藉は、このロベルティーネ=カルゼン=フレンツェンが許しません」

 凛とした声で言い放つとエド達を庇うように一歩踏み出した。

 微かに震える肩が彼女の感じている恐怖を物語っていた。それでも、それを押さえ込んで気丈に振舞う様は、カルディア王家の姫としての威厳と覚悟を十分に備えていた。

 気圧されたエッケハルトが無意識に半歩下がる。

「国に仕える騎士が武器を持たぬ市民、それも学生相手に剣を抜くことなど、あってはならぬことです」

「姫の仰る通り、私は騎士として恥ずべき人間でしょう。ですが」

 アリーセに剣を向けた。

「私の主は国王ではなく、ペテレイト侯爵ただ一人。侯爵の命とあれば、迷いなく剣を振るいます。例え相手が王族であっても」

 研ぎ澄まされた切っ先に、今度はアリーセが身を引いた。

 二人の間にエドが割り込む。無骨な斧を腰の位置で水平に構えつつ、である。

「無謀だな」

 エッケハルトが半歩踏み込む。と、剣を突き入れてきた。

 その攻撃に対し、エドは怯まずに斧を振るう。

 思わぬ反撃にエッケハルトに微かな動揺が走った。まさか全力で斧を振り回してくるとは予想してなかったのだ。しかし。

 エッケハルトの身体が後ろに数センチ流れた。その僅かな隙間を斧の刃が過ぎていく。ギリギリ紙一重の見切りと言えるだろう。

 エドが空振りと悟った直後、右肩に痛みが走る。エッケハルトの剣が刺さっていた。斧をよけると同時に繰り出した一撃だった。

「くっ」

 肩口を押さえて、よろよろと下がる。ちらりと視線を移すと、腕と肌着が真っ赤に染まっていた。

「今のは警告だ。だが、抵抗するなら容赦はしない。次は心臓を一突きだ」

 油断なく半身に構えながら、淡々と告げる。

 血生臭い展開に、マルギットもオッティも顔色を失くして立ち尽くすしかできなかった。

「やれやれ、どうやら終わったようじゃな」

 緊迫した空気を破って、掠れた声が飛び込んできた。

 エッケハルトを除く全員の目が声の主、豪奢な衣装に身を包んだ老人に移動する。ペテレイトは六人の屈強な騎士を侍らせていた。

「どれほどのネズミが入り込んだかと思えば、まさかと言ったところじゃな」

 ペテレイトがくつくつと喉の奥で笑いながら、温和な表情を作る。だが、その瞳にあるのは怒りと苛立ちだ。

「この者達の始末、いかがしましょう」

「若いもんはせっかちでいかん。相手は年端もいかぬ子供ら。厳罰を課すのは、いささか心苦しい物がある」

 持って回った言い回しをしながら、アリーセに顔を向けた。

「ここは姫様次第というところですな」

「私?」

「姫様が大人しく従って下さるならば、彼らの安全は約束しましょう。どうですかな?」

 アリーセが不快感を露にした。あまりに卑劣な提案。しかし、現状では飲むしかない。

「だ、ダメよ! アリーセが居なくなったら、私達を殺すに決まってるわ!」

 アリーセが頷きかけたところで、マルギットが声を上げた。

 もっともな指摘だったが、当のペテレイトは微塵も表情を変えず、

「信じる信じないは姫様の自由というところ」

 と言ってのける。

「解りました。従いましょう。ですが条件があります。彼らも一緒であれば……」

「それはできません。また良からぬ行動をされても困りますので」

「しかし」

「姫様、貴族であるこのペテレイトが子供を手に掛けるなどと、まさか本気で思っておられるわけではありますまい」

 アリーセが言葉に窮する。いや、了承するしかないという状況だった。

 不意に、がたんと重い音が響いた。誰もが反射的に目を向ける。

 エドが握っていた斧を床に落としたのだ。

「アリーセ、ここは侯爵に従おう」

 エドの発言にアリーセの表情が凍りついた。

「この状況ではどうすることもできない。侯爵の言葉を信じるより他はないんだ」

「でも、エドさん」

「入り口はすっかり固められているから逃げ場もない。残念だけど、僕らができるのはここまでだったんだ」

 力ない言葉にアリーセが視線を落とす

「ごめんなさい。私のせいで、こんなことになってしまって」

「アリーセ、泣かないで」

「でもでも」

「こんな時に言うのもなんだけど、ブローチありがとう」

「え?」

 アリーセが顔を上げて、涙の溢れる瞳を見開いた。

「ほら、今日のプレゼントでくれたブローチだよ。あのブローチは素敵なデザインだった。僕らの進むべき路を示してくれているみたいでさ」

 エドの目がアリーセからオッティに移動する。

「オッティ、どんなところからでも、遠くに踏み出せる君の勇気にはいつも助けられていたよ」

 微笑むエドに、オッティは無言で頷く。

「その少年は良く目が見えておるようじゃ。ここまで乗り込んでくる行動力と勇気にも溢れておる。しかも潔い。なかなか見所があるではないか」

 ペテレイトが意外にも称賛を述べた。更に、「それだけに惜しいの」と聞こえない声で小さく加える。

「姫様、別れはもう済みましたな。早く、こちらに」

 急かすように手を伸ばした。

「待ってください。せめて、せめてエドさんの手当てを。止血をさせて下さい」

 ポケットからハンカチを出して訴える。

「まあ、そのくらいならいいでしょう」

 ペテレイトが寛大に了承するのを受けて、エドの傍に駆け寄った。その動きにつられてオッティも近付く。

「エドさん、このくらいしかできなくて。本当にごめんなさい」

 アリーセとオッティの身体がペテレイト達の視線を遮る。その隙にエドがズボンの後ろポケットから金属製の筒を取り出す。

 一歩後ろに立っていたマルギットには、その動きが見えた。同時に先ほど二人に掛けた言葉の真意も理解できた。しかし、発煙弾はピンを抜かないと使えない。全員の目が集まっている今、怪しい動きはできないはず。

 アリーセが肩口にハンカチを巻きつけている内に、エドの頬が緊張していくのに気付いた。その変化は出血による物ではない。

「冗談じゃないわ」

 ぼそりとマルギットが呟く。

 エドはピンを抜く気だ。文字通り命を賭けて、ワンチャンスのためだけに。

 そんな事は絶対にさせない。決意と共にぐっと拳を握る。大きく息を吸うと、覚悟を決めて床を力一杯踏みつけた。

 いきなりの音、ペテレイトを始め全員の視線が移った。エド達も驚いて顔を向ける。

「冗談じゃないわ! こんなの!」

 声を限りにマルギットが叫んだ。

「なんなのよ、アンタ達だけで勝手に盛り上がって! 私はただ巻き込まれただけよ! 迷惑だわ! こんなの!」

「やれやれ」

 心底呆れた風に、ペテレイトが弱々しく首を振る。

「私はアンタ達と違うの! ずっと優等生できたの! それがこんなところで終わりなんてありえないわ!」

 騎士達から失笑が漏れた。

 それでもマルギットは止まらない。長い髪を振り乱して、不満を喚き散らす。

 普段のマルギットから想像できない様子に唖然としていたオッティを、エドが小さく肘でこついた。はっと我に返る。

 ペテレイト達の注意はマルギットだけに集まっていた。

 ようやくにして全てを悟ったオッティとアリーセが頷く。それを確認して、エドは後ろ手のまま慎重にピンを抜いた。

 火薬の発火する小さな音。しかしマルギットの声に紛れて掻き消えてしまう。

 ピンを抜いてから煙が出るまでには数秒の間がある。その間を利用してエドは金属製の筒を静かに転がした。部屋の入り口、ペテレイト達の方に向かってだ。

 発煙弾に最初に気付いたのは、エッケハルトだった。足元に近付いてくるそれに。

「侯爵様!」

 と警告を上げた。直後。

 筒から煙が噴き出す。量も勢いも、エドの予想を遥かに超えていた。狭い室内はあっという間に濃厚な煙で満たされ、瞬時に視界が奪われた。

「ごほごほっ! 落ち着け! まずは部屋から出るのだ! 入り口を固めてしまえば、逃げることはできん!」

 ペテレイトの指示が、混乱しかけていた騎士達を踏み止まらせた。バタバタと気配が外に出る。

「オッティ、後は頼んだよ」

「任せて! 行くよ、アリーセ!」

「はい!」

 エドの声を受けて二人分の足音が動く。ドアとは反対側。窓に向かって。


                    * * *


「アリーセ、跳ぶよ!」

 分厚い煙の中。涙で歪む視界。アリーセには傍らにいるオッティの陰が、ぼんやりと見えるに過ぎない。

 オッティの手が伸びて、アリーセの腰を抱き寄せた。

「でも」

「私を信じて!」

 アリーセの心に生まれた不安を、オッティが一言で吹き飛ばす。

「目を閉じて! 絶対に私の身体を離さないで!」

「はい!」

 精一杯の力を込めて、オッティにしがみついた。直後、ガラスの砕け散る甲高い音が鳴った。同時に風が頬を叩き、まだ残る夕日が目蓋の内側を赤く染め上げる。

 奇妙な浮遊感に続いて、身体が重力に、下に、地面に引き寄せられる。落ちていく感覚にアリーセの口から悲鳴が漏れた。

 アリーセを左腕に抱きかかえたオッティは、体当たりで窓をぶち破って飛び出した。三階という高さが、恐怖になって背中を瞬時に駆け上がる。

「大丈夫!」

 自身に言い聞かせるように叫ぶと、右手にぎゅっと力を込めた。握られていたのは窓に掛かっていた分厚いカーテン。

 少女二人の重さにカーテンが伸びる。立派な布で作られたそれは、引き裂かれる事はなかった。

 しかし、カーテンは耐えられてもランナーは無理。オッティが握っている方、窓の中央側からバツバツと弾けていく。 

 オッティが握力を緩めた。カーテンが完全にレールから外れる前に、少しでも地面に近付くためだ。

「くっ」

 カーテンとの摩擦で手の皮が捲れ、焼けるような痛みが走った。咄嗟に手を離しそうになるのをなんとか堪える。

 端っこギリギリで握り直し、できる限り勢いを殺す。再び掛かった重みにカーテンが伸びきった。一拍置いて最後のランナーが千切れる。

 最早、オッティとアリーセに落ちる以外他はない。

 アリーセを抱えたまま、オッティは器用に空中で身体を捻った。できる限りバランスを保って、足からの着地を試みる。

 足が地面に触れる。全身を使って、できる限り衝撃を和らげようとするが無理だった。二人で抱き合ったまま、芝生の上を派手に転がる。

 三階からの落下。普通なら大怪我は間違いない。

 しかし、カーテンが伸縮性のある素材だった事。ランナーが丈夫であった事。腕をギリギリ伸ばす位置まで、カーテンを掴んでいた事。この三点が高さを軽減してくれた。

 更に。オッティが類稀なる運動神経とバネを持っていた事。着地と同時に転がって衝撃を分散した事。地面が分厚い芝生で覆われていた事。これらの幸運が二人を救った。

 とは言え。

 全身を打ちつけた痛みに、呻きながらアリーセが目を開いた。

「オッティさん!」

 倒れているオッティの姿に悲鳴を上げる。

 最後の最後までアリーセを庇ったオッティは、無惨な状態だった。頬には大きな擦り傷ができ、額からも血が流れている。手足にはどす黒い痣と、ガラス片でできた切り傷がいくつもあった。しかも左の足首が有り得ない方向に捩れている。

「オッティさん! オッティさん!」

 アリーセはただ名前を叫び続けるしかなかった。


                    * * *


 ガラスの割れる音に、廊下で一息ついていたペテレイトの表情が強張る。

「エッケハルトよ」

 煙の充満する室内を指し示す。

 その残酷な命令に、エッケハルトは一片の迷いすら見せずに首肯した。

「逃げられては全てが終わりになる。殺しても構わん。行け!」

 その言葉を背に受けて、エッケハルトが室内に飛び込む。視界の悪さを恐れる事もなく窓まで駆け寄ると、残っているカーテンの端を掴んだ。

 廊下に残ったペテレイトが次の指示を出す。

「お前ら三名は煙が晴れたら残っている連中を捕らえるのだ! 他の者は中庭だ。ついて来こい!」


                    * * *


「オッティさん! しっかりしてください!」

 泣き叫ぶアリーセの声に、オッティがゆっくりと目蓋を上げる。意識が遠のくほどの痛みを押さえ込んで、口元を緩めた。

「もうちょっと上手くできると思ったんだけど、タマゴじゃこんなものだよね」

「オッティさん、すぐに手当てを」

「ううん。それよりも」

 残った力を掻き集めて視線の向こうにある壁を指差す。

「アリーセ、あの端っこ。壁の向こうに梯子があるんだ。なんとか壁を乗り越えたら、外に出られるから」

 アリーセが、いやいやと首を振る。こんな状態のオッティを見捨てていけるはずない。

「大丈夫、名探偵は不死身なんだよ」

 そう告げるとごほごほと咳き込む。

「でもでも」

「行って、アリーセ。ここで捕まったら全部無駄になっちゃうんだよ。だから行って。お願いだから」

「うぅっ、解りました」

 オッティの真剣な瞳に、アリーセは、涙を拭きながら頷くしかなかった。

「早くアリーセ。追っ手が来るから」

「はい。直ぐに助けを呼んできます」

 ガラスの音を聞きつけたのだろう。中庭に残されていた四人が、南棟の裏側に回りこんできた。アリーセを見つけ、荒々しく声を上げる。

 アリーセが壁まで走る。運動神経にそれほど恵まれない彼女でも、甲冑を着込んだ騎士達よりは早い。見る間に距離を開けて壁際に着いた。だが、二メートルもある壁は絶望的に高い。両腕を伸ばして、ジャンプしても上まで届かない。

「ここまで来たのに。ここまで来たのに」

 段々と近付いてくる金属鎧の音。絶望で押しつぶされそうになりながらも、なんとか指を引っ掛けてよじ登ろうとする。しかし、身体を支えきれず、落ちて尻餅をついてしまう。

 足音が止まった。アリーセが振り返る。

 二メートルほどの距離に屈強な騎士が四人。追い詰められた。完全に袋のネズミだ。

 焦るアリーセに騎士の一人が無言のまま手を伸ばしてきた。

「うごぉっ」

 くぐもった声があがった。アリーセを捕らえようとしていた騎士が慌てて振り返る。

 二人が倒れ、残った一人も崩れ落ちるところだった。

 倒れた三人の近くに居たのは一人の警官。その手にした剣は鞘に収められたままだ。

「お前はさっきの」

 その言葉が最後だった。

 腰の剣を抜く暇も与えず、警官が顎を打ち抜いたのだ。もし、抜き身であれば、その首が無惨に転がっていただろう。それほどまでに鋭利な一撃だった。

 息を飲んで固まっているアリーセに警官は深々と頭を下げた。

「私はバルタザール=リーフェンシュタール。見ての通り警官です。姫様を救出に参りました」

 柔らかく微笑むバルタザールに、アリーセが緊張を解いた。

「あの、ありがとうございます」

「仔細なお話は後ほど。まずここから脱出しましょう。私が押し上げますので……」

「そんなことはさせない」

 遮ったのはエッケハルトだった。ようやくにして追いついたのだ。

 肩で大きく息をし、右足を僅かに引きずっている。痛みのせいか顔色も悪い。

 オッティと同じ方法で窓から出たエッケハルト。やはり無傷とはいかなかったようだ。

「邪魔するなら容赦はしない」

 エッケハルトが腰の剣を引き抜く。

「エッケハルト=ラインターラーですね。ペテレイト侯爵が絶対の信頼を置く騎士。その剣技は王家親衛隊に匹敵すると聞いています。ですが」

 バルタザールも抜刀した。

「ですが、手負いの今であれば私にも十分に勝算があります」

 二人の間を緊張感が満たしていく。数秒が数分に感じられるほどの濃厚な時間だ。

 初撃は意外にもエッケハルトの方だった。足の痛みを堪えつつ、踏み込んで突きを繰り出す。

 常人なら捉えられないレベルの速度。だが、バルタザールは身体を流して切っ先を避けると、首元を狙って斬り付ける。

 研ぎ澄まされた一撃をエッケハルトは難なく剣の柄で弾いた。すぐさま反撃を繰り出す。足元から胴への二連突き。

 一撃目を流したバルタザールだったが、二撃目は避けきれず脇腹を掠めた。服が裂け鮮血が飛ぶ。

 今度はバルタザールの剣が弧を描く。下から薙ぐ軌道。しかし、エッケハルトの剣に弾き返されてしまう。その反動を利用。剣を翻すと上段から斬り下ろす。

 圧倒的な勢いが付いた一撃を、エッケハルトは微かに身を引いてかわす。数ミリ単位の見切り。断ち切られた前髪が宙を散る。それでも幾分の動揺もなかった。半歩距離を詰めると、ここぞとばかりに突き込んだ。

 バルタザールが辛うじて受け止め、斬り返す。

 アリーセには、金属のぶつかり合う音しか感じられない高レベルな戦いだった。両者の技量は互角に見えた。

 その応酬が十数回を越えた頃に変化が生まれた。エッケハルトの剣が速度を増したのだ。次第にバルタザールは防戦過多になっていき、じりじりと下がり始める。

「こ、これは分が悪いですね」

 容赦のない攻撃に、バルタザールが漏らす。

「そもそも私は頭脳労働専門なんですよ」

 身をよじって剣先を凌ぐと、左手を大きく振った。袖口に隠していた投げナイフが、一直線にエッケハルトに向かう。

 この不意打ちは、エッケハルトも予想外。なんとか叩き落したが、体勢が崩れる。

 この隙にバルタザールは間合いを取った。

 エッケハルトも更なる飛び道具を警戒し、深追いはしない。

 あちこちに傷を負い、完全に息が上がっているバルタザール。一方のエッケハルト、呼吸は乱れているが余力は十分にある。

「少しはやるようだが、このエッケハルトの敵ではない。諦めろ」

「諦めたいところですが、これも仕事なんです。辛いところですよ」

 軽口を返しつつ、なんとか突破口を見つけようと思考を巡らせる。

「剣の勝負では勝ち目がないのは理解しました。どうでしょう。ここはカードかダイスで勝負するというのは」

 エッケハルトが無言で剣を構え直す。

「交渉失敗ですか。まあ、成功するとは思ってませんでしたけど」

 大袈裟に肩を竦め、懐から数本の投げナイフを取り出した。剣とナイフのコンビネーション。武装としては有利だが、勝てる見込みは少ない。

「もういいぞ、エッケハルト」

 ペテレイトがやってきた。三人の騎士を引き連れて、である。

「侯爵様」

「よくやってくれた。流石はエッケハルト」

 ねぎらいの言葉を掛けると、視線をバルタザールに移し、

「さっきの警官だな。お前までが一枚噛んでいようとはな」

 苛々し気に言い放つ。

「それにしても、この歳で走りまわされるのは応えるわい。じゃが、余興としては面白かったぞ」

 三人の騎士がバルタザールとアリーセを取り囲む。もちろん正面にはエッケハルト。

 油断なく包囲を狭めていく彼らに対し、バルタザールはあっさりと剣とナイフを捨てた。

「もう、ダメですね。諦めましょう」

「潔さだけは評価できるな」

 大仰に頷くペテレイト。

「いえいえ。今から見苦しく命乞いをするつもりなんですけど」

「ふふ、面白い奴じゃ。だが、ワシは時間の無駄が嫌いでな」

「待ってください。私が従います。ですから」

 アリーセが声を上げた。バルタザールを庇うようにペテレイトの前に立ちはだかる。

 その気丈な態度に、それでもペテレイトは小さく首を振り否定を表す。

「姫様には気の毒じゃが」

「そんな」

「姫様、お気持ちだけで十分です。一介の警官に過ぎない私が、王家の姫様にそこまでして頂けた。それだけで私の人生は報われたと言えます」

「殊勝な言葉じゃな。では、その気が変わらぬ内に済ませるとしよう。そやつの首を刎ねろ」

 冷酷な指示に騎士の一人が頷き、アリーセを無情に押し退ける。

 その時。

 馬の嘶きが耳をつんざいた。続いてゴトゴトと駆ける音が被さる。

「なんじゃ?」

 ペテレイトが半ば無意識にこぼす。

「やれやれ。応援が到着したようです。危機一髪助かりましたよ」

 律儀に答えるバルタザールにペテレイトの眉が吊り上る。

「き、貴様!」

 蹄の音が次第に近付いてくる。微かに振動する地面が、馬達が侯爵家の敷地に突入した事を物語っていた。

「警官如きが! 貴族であるワシの屋敷に無断で入り込むだと!」

「残念ですが、私には貴族に対する捜査権も認められています」

「なんだと! どういうことだ!」

「王家も愚かではありません。時代の見えない老人よりは、ね」

「おのれ、おのれ、おのれぇ!」

 怒りを露にするペテレイト。そんな彼を横目に、騎士達が踵を返して駆け出した。

「おい! お前ら! どこにいくつもりだ!」

 声に足を止める事もない。三人で壁を乗り越えると、そのまま逃げていく。

「主を捨てて逃げるなど! 騎士の誇りを忘れたか!」

「侯爵様、このエッケハルトがおります! お任せ下さい! 必ずや活路を開いてみせます!」

 蒼白になりつつもそう告げる。と、アリーセの方に視線を向けた。

 アリーセが身を引くよりも早く、その手を掴み引き寄せる。あっと思った時には後ろ手に捕らえられ、喉元に切っ先を突きつけられていた。

 そこに馬が駆け込んできた。数は六頭、馬上の全員が漆黒の軽甲冑を着込み、フルフェイス型のヘルメットで顔を隠している。

「動くな! 姫がどうなってもいいのか!」

 エッケハルトが声高に叫ぶ。しかし、軽甲冑達は一向に気にする様子もなく馬から下り、静かに抜刀する。

「抵抗分子を殲滅する」

 一番小柄な甲冑が静かに告げる。意外にも女性の声だった。

 その一言にエッケハルトの表情が強張る。彼らに人質が無意味だと悟ったからだ。

「くそっ!」

 吐き捨てると、アリーセの身体を突き飛ばした。

 足の痛みを精神力で抑え込み、一気に距離を詰める。指示を出した女に、である。リーダーと思しき相手を倒せば、まだチャンスがあるとの考えだった。

 間合いに入ると同時に突きを放つ。渾身の力を込めた一撃。しかし、甲冑の女に易々と受け流されてしまう。

 エッケハルトが次の攻撃を繰り出そうとする刹那の間に、女の剣が薙いだ。エッケハルトの二の腕が深く切り裂かれ、剣が地面に転がる。

「手負いという点を差し引いても、その程度の腕で挑むとは愚かが過ぎたな」

 冷たく言い放つと、エッケハルトの眼前に剣を突きつけた。

「終わりだ」

「待て!」

 ペテレイトだった。

 その場にいる全員が動きを止めた。この事件の首謀者であるペテレイトが何を口にするのか、誰もが興味のあるところだった。

 大きく息を吸うと、ペテレイトは口元を緩めた。いかにも人の良い老人と言った雰囲気になる。

「どうやら、双方に大きな誤解があるのではないかな」

 さも困った風にそう切り出した。


                    * * *


 女がチラリとバルタザールに目を向けた。それを受けてバルタザールが口を開く。

「侯爵様、誤解とは?」

「お前らはワシがロベルティーネ姫を拉致した、と思っておるのではないか?」

 今更の問いにバルタザールは咄嗟に言葉が出なかった。

「やれやれ、そこが誤解の発端のようじゃな」

「それはどういう意味でしょう?」

 尋ねるバルタザールにペテレイトは大きく頷いた。

「今、王家と貴族には軋轢が生まれておる。しかも忠義心の薄い一部の貴族は貴族連合という組織を作り、王の権力に対抗しようと目論んでおるのだ」

「その点については、私も聞いていますが」

「そこでワシは貴族連合に近付いた。奴らが何を企んでいるのか調べるためにな」

「調べてどうしようと言うのです」

「貴族として、王家に仇なす連中を放っておくわけにもいくまい」

「王家の為に、あえて貴族連合に加わったということですか?」

「傍目に見れば王への忠義を捨てた裏切り者に見えたかもしれん。しかしな、いかなる誹りを受けようとも、王家のことを第一に考える。それが貴族というもの」

 胸を張って、堂々と言い放つ。その威厳ある態度は後ろ暗さを微塵も感じさせない。

「内偵を進める内に、貴族連合がロベルティーネ姫の拉致を企んでいることを突き止めてな。そこで奴らに先んじ姫様の保護を、と考えたのだ」

「な、何を言うのです! 私を部屋に閉じ込めておいて!」

 アリーセが声を上げた。

「閉じ込める? それは人聞きの悪い。ワシは馬車で眠ってしまった姫様を、部屋で休ませて差し上げただけですぞ」

「しかし」

「閉じ込めるのであれば、もっと厳重な部屋を選び、見張りもつけておくもの。違いますかな?」

「でも鍵が掛かっていました」

「内鍵の部屋が空いておりませんでな。とは言え、無防備に眠っておられる姫様をおいて、鍵を掛けぬわけにもいきますまい」

「何度呼んでも誰も来なかったではありませんか!」

「今日は祭り。使用人共に休暇を与えておったのです。人手不足から行き届かぬ点があったのは、申し訳ないと詫びざるを得ませぬ」

「そ、それなら助けに来て下ったエドさん達を……」

「その点についてはワシの早とちり、彼らにも申し訳ないことをしてしまった。てっきり姫様の拉致を企んでいる者と思い、このエッケハルトに排除を命じてしもうた」

 ペテレイトの言に、エッケハルトが頷く。

「しかし、エドさん達を殺そうと」

「なんと恐ろしいことを仰るのやら。彼らの安全を保障すると約束こそしましたが、そのようなことは申した覚えはありませんぞ」

 全ての訴えを切り返され、アリーセが悔しげに唇を噛む。

「解りました」

 黙り込んでしまったアリーセに代わって、バルタザールが答える。

「それが事実であれば、警察に協力を頼むという路もあったのではないでしょうか?」

「それはできん。警察内部にも貴族連合の密偵が潜んでおる。お前も薄々気付いているのではないのか?」

「お恥ずかしい話ですが、仰る通りです」

「確かにお前の言う通り、もっと良い方法があったかもしれん。貴族としてあるまじき卑劣な行いを、なんとしても阻止せねばという思いが強すぎたな。その点は反省するところ。済まぬことをした」

「いえ、全ては侯爵様の深慮に思い至ることができなかった私の責任です。申し訳ありませんでした。このバルタザール、いかなる罰をも甘んじて受ける覚悟であります」

 深々と頭を下げ、ペテレイトの言を待つ。

「ようやくにして誤解が解けたのじゃ。これ以上、問題にする必要はあるまい」

 ペテレイトが告げる。黒を白と言いくるめる老獪さだった。

「姫様もよろしいですかな?」

 アリーセが頷く。不服でも了承を返さざるを得ない。

「ところで、侯爵様」

 バルタザールが遠慮がちに尋ねる。

「侯爵様は貴族連合ついて、多くの情報をお持ちだと思います。それらの提供をお願いしたいのです。例えば構成メンバーなど」

「ほう」

 ペテレイトが目を細めた。「抜け目のないやつじゃな」と呟く。

「もちろん。持ちうる情報の全てを提供しよう」

「おお、ありがとうございます」

「いやいや、貴族として当然の勤め」

 自身の保身と利益を考え、王家側に舵を切る事を決めたのだ。

 すべてが解決した。そんな弛緩し始めた空気を切り裂いて、鋭い音が飛来した。直後、ペテレイトが肩を抑えて蹲る。

 左の肩口に十五センチほどの短い矢が刺さっていた。

「侯爵様!」

 エッケハルトが咄嗟にペテレイトの背後を護る位置に入る。

 視線の向こう、壁の上に折りたたみ式の石弓を手にした男が立っていた。目深に被っったフードで顔を窺い知る事はできない。

 矢が命中したのを確認すると、石弓を捨て壁の向こう側に飛び降りる。

「追え! 逃がすな!」

 甲冑の女がすぐさま指示を飛ばす。二人の甲冑姿が馬を操り門に向かう。

「残念ですが追いつけないでしょう」

「おそらくな」

 バルタザールの言葉に女が無念そうに漏らした。

「侯爵様、直ぐに手当てを」

「急所は外れておる。このペテレイトまだまだ悪運がある」

「相手に心当たりは?」

「ふむ、貴族連合の連中であろう。どうやら、ワシの動きは怪しまれていたようじゃな」

 先ほどの証言を肯定する材料として利用する。

「この礼は、ワシの情報を開示することでしてやろうではないか」

 くつくつと笑うペテレイトの表情が不意に強張った。呻き声と共に倒れ込む。

「侯爵様!」

 エッケハルトが抱き起こして、矢を引き抜く。

 矢尻にはペテレイトの血に混じって、粘着性のある濃紺の液体が付着していた。

「こ、これは」

「毒。それもかなり強力な物のようですね」

 バルタザールが冷静に告げる。

「侯爵様! しっかりして下さい!」

「おのれ! このワシが、この、ペテレイトが、ここで、こんな、ところで終わるのか」

 真っ赤に充血した目で中空を見つめながら漏らす。

「直ぐに手当てを、解毒を致します!」

「エッケハルトよ」

 その顔が移動する。

「どうやら、ワシの悪運も、尽きたよう、じゃ」

「侯爵様ともあろうものが、その様な弱気を!」

「よいか、エッケハルト。ザイデルの名を護るのだ。富じゃ。富を蓄えよ。いかなる時でも、知恵を巡らせ、己が、利を追求せよ。富は、貴族の、絶対の、力となる。それを、肝に銘じ……我がザイデルの名を……」

 言葉が途切れた。数回身体を痙攣させると、ぐったりと力が抜け落ちる。

「侯爵様! 侯爵様!」

 エッケハルトがどれだけ身体を揺すっても、見開いた瞳に生気が戻る事はなかった。

「裏切り者は許さないということですか。残酷な連中ですね。正直、怖くなります」

 バルタザールが大きく溜息をついた。

 そんな彼を一瞥し、甲冑の女は転がっている矢を手に取る。

「この毒から何か解るかもしれん。分析班に回しておけ」

 甲冑の一人に命じる。それから真っ青になって固まっているアリーセに、膝を付いて深々と礼をする。

「姫様、救出に参りました」

 その言葉に、アリーセが我に返る。

「ご、ご苦労でした。あの、私の友人が……」

「倒れていた少女については回収、手当てを始めています。また他の者についても、今頃は救出が完了していると思います」

「そうですか。ありがとうございます」

 緊張の解けたアリーセは、その場に座り込んでしまう。

「ところで兄上」

 女がバルタザールに首を向けた。

「職務中は隊長と呼ぶようにしてください。公私混同は望ましくありません」

「失礼しました。では隊長、子供達を巻き込んだ上に、姫様を危機的状況にまで陥らせた。この体たらく、どのように責任を取るおつもりで?」

「嫌な言い方しますね。いいですか。尊敬すべき兄に向かって……」

「職務中は兄でも妹でもありません。そうですよね」

 直前の指摘を引用されて、バルタザールは続きを飲み込んだ。

「で、どのように責任を取るおつもりで?」

「まあ、いつのもように始末書でも書きますよ。それにしても良かったです」

 侯爵の傍らで放心状態になっているエッケハルトに気付き、声のボリュームを落とす。

「最良の結果です。これ以上ないくらいのハッピーエンドですよ」


                    * * *


 薄暗いミステリィ研究会の部室ではただ嗚咽だけが響いていた。この一時間、ひたすら泣き続けている。

 不意に花火の音が届いた。祭りの終了を告げる合図だ。

 それを耳にして、泣き声のボリュームがワンランク上がる。

「うぅぅっ。マルギットさんもオティーリエさんも、どうして来てくれなかったの。ちゃんと約束してたのに」

 何度目かになる言葉を口にして、じゅるじゅると鼻をすする。

「先生、一生懸命作ったのに。頑張ったのに。あんまりよ。あんまりだわ」

 部室の外では男達が聞き耳を立てていた。数学のダグマルを含む五人の男性教師。顔を見合わせて、困った表情を交換する。

 このまま放っておくわけにもいかないし、だからと言って上手く収拾する手段も思いつかない。

「うぅぅっ。マルギットさんもオティーリエさんも酷い、酷すぎるわ。恨み日記に書いて、毎晩音読してあげるんだから」

 常人には理解し辛い、しかもなんとなく嫌な雰囲気が漂う報復手段に行き着いた。

 その結論に男達が一層の困惑を強める。

「しょうがないか」

 ダグマルが意を決した。コンコンとノックして中に入る。

「うぅぅ、ダグマル先生、何か御用ですか? 私、忙しいんです」

「えっと、そろそろお祭りも終わったようですし」

「うぅぅっ、うぅぅっ。うぅぅうぅぅぅ」

「いや、だから、あ、そうだ。みんなで食事にでもいきません?」

「……奢ってくれるんですか?」

「え? ええ、もちろん」

「……お酒も飲んでいいですか?」

「もちろんですよ。好きなだけ食べて飲んでください」

「じゃあ、行きます」

 机に広げてあった衣装を手際よく畳んでトランクに押し込むと、ふらふらと立ち上がった。

「ほら、元気出してください。ハンナ先生は笑顔でないと」

「元気なんて出せません」

 涙と鼻水でよれよれになった顔を、ハンドタオルで乱暴に拭きながら不機嫌に答える。

「今日は思い切り飲みます」

「はい。とことん付き合いますよ。嫌なことなんて忘れちゃいましょう」

 勢いで同意したダグマル。それについて、彼は数時間後に後悔する事になる。意外な取り得というべきか、ハンナは桁外れのうわばみなのだ。


                    * * *


 翌日。アンゼルム=ザイデル=ペテレイトの死が報ぜられた。

 死因は弓による暗殺。お忍びで祭りを見に来ていた王族を庇って、命を落としたという事になった。犯人は王家と対立する貴族の刺客。

 公共事業に惜しみなく金を撒くペテレイトは、庶民に人気のある貴族の一人。しかも貴族改革推進派として己の不利益を省みず、密かに尽力していたという美談までが加えられた。

 それを裏付けるように、葬儀には姫君、ロベルティーネ=カルゼン=フレンツェンが王都から駆けつけ、涙ながらに彼の忠節と功績を讃えたという。

 真相を知る者からすれば、王家がペテレイトの死を最大限に利用したと言える物だ。

 この事件を期に、世論は大きく王家に傾く。一方の貴族連合は強硬姿勢を強め、武力による巻き返しを図るようになる。


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