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【7】

 真夏の太陽が高い位置からジリジリと照りつけてくる。今は日曜日の午後。

 街の中心を縦横に走る大通りには多くの出店が並び、行き交う人でごった返していた。しかも、その人達の殆どが珍妙な格好だ。

 一昔前の派手な貴族衣装に身を包んでいる者もいれば、伝承に登場する魔物の格好をしている者もいる。東方から仕入れたという艶やかな甲冑を着ている男性や、動物をデフォルメした着ぐるみで動き回っている女性の姿もあった。

 混沌としつつも活気に満ちている。これがカルディア王国第三の都市オルデンベルクの夏祭りだ。

「やっぱお祭りはいいね」

「このくそ暑い中、無駄に騒ぐなんてバッカみたい」

 嬉しそうなオッティに比べ、ズザンネは相変わらずの憎まれ口だ。

 二人は普段通りの制服姿で、待ち合わせ場所に指定した中央公園に向かっていた。

 中央公園は、その名の通り街の中心近く。広大な敷地を誇り、ジョギングやハイキングコースもある。

 人混みをじわじわと進んでいると、ようやく公園が見え始める。

「ホントにバッカじゃないの」

 そこにびっしりと並ぶ屋台と、群がる人々にズザンネが溜息をこぼした。

「オッティさぁん、ズザンネさぁん」

 派手な呼び込みに混じって、一際のんびりした叫びが届いた。

 公園の前でアリーセが手を振っているのが見える。その隣にはエドの姿もあった。二人ともやはり制服姿だ。

 更に数分を掛けて、ようやく合流できた。

「お待たせ、二人とも」

「しっかしさ、バッカみたいなカッコして何が楽しいんだろ」

「こうやって騒ぐのが楽しいんだよ」

「そうですよ、ズザンネさん。私達もバカになって騒ぎましょう」

「もう、やれやれね」

 目をキラキラと輝かせるアリーセに、ズザンネはウンザリ感をアピール。

「オティーリエの面倒だけでも毎年大変なのに。もっと手の掛かる子が増えるなんて、質の悪い悪夢みたい」

「失礼ね。面倒見てあげてるのは私の方でしょ」

「そうです。悪夢ばかり見ていると肌が荒れちゃうんですよ」

「アリーセ、その反論はちょっとずれてるんじゃないかな?」

「え? そうですか?」

「くっだらない寝言はこれくらいにして。これからどうすんの?」

「オッティ、コンテストは夕方からだったね」

「うん。もちろん、プランは万全だよ。でも、おかしいな」

 そう言いながら、周囲に視線を走らせる。

「マルギットも来るはずなんだけど」

「まあ、のんびり待とうよ。急がないんだし」

「そうですね。賛成です」

「あの子、どっかで隠れてたりしてね」

 意地悪な笑みを浮かべながらズザンネが口にする。

「なんで隠れるのよ。意味解んないんだけど」

 突拍子もない意見に、オッティはただ呆れるだけだった。

 何気ない会話を楽しむ四人から少し離れた場所。大きな木の影に一人の少女が潜んでいた。

「なんでみんな制服なのよ。意味解んないわ」

 マルギットが呟いた。彼女の格好は淡い色のワンピース。胸元のリボンとパフスリーブが可愛いデザイン。昨日遅くまで悩んだ末にチョイスした物だ。

「これじゃあ、明らかに浮いてるじゃない」

 直ぐに戻って着替えてくるべきか。しかし、これ以上、皆を待たせるのも悪い。どうしたものかと思案を続けてしまう。

「ん? あれ? マルギットじゃない?」

 キョロキョロしていたオッティが、木の影でふらふら揺れている淡い色に気付いた。

「マルギット! こっちこっち!」

 大声で叫ばれては出ないわけにもいかない。仕方なく木の影から姿を現した。

「マルギット、びっくりするじゃん。入り口で待ち合わせって言っておいたのに」

「そ、そうだっけ。ちょっと勘違いしてたわ」

 近づいてきたオッティに、マルギットは視線を外しつつ答える。

「マルギットさん、お久しぶりです。そのワンピース、とても似合ってますね」

「へぇ、アンタも可愛い服持ってたのね」

 アリーセはアリーセらしく素直に、ズザンネはズザンネらしく斜めから褒める。

「べ、別に近くにあった服を着て来ただけよ」

「とっても素敵だね。普段の凛とした雰囲気もいいけど、女の子らしい格好も合っていると思うよ」

 笑顔を添えたエドの言葉に、お世辞と解りつつも嬉しくなる。しかし、その感情をストレートに表に出す事ができず。

「別に近くにあった服を着て来ただけよ」

 数秒前と同じ台詞を口にして、ぷいっと顔を逸らした。

「よし、全員揃ったし。そろそろ分担を決めるよ」

 腰に手を当て、偉そうにオッティが宣言する。

 反射的に頷きかけた四人だったが、ある単語が引っ掛かった。ちらりと目配せして発言者をエドに決める。

「分担って?」

「実はさ、ハンナ先生に手伝いを頼まれてるんだ」

「ちょっと、オッティ。私、なにも聞いてないわよ」

「うん。今始めて言うから」

 しれっと答えるオッティに、マルギットはただ唖然だ。

「ほら、ハンナ先生はウチの顧問でしょ。頼まれたら断れなくてさ」

「あの先生には迷惑掛け過ぎてるしね。先月の貼り紙騒ぎだってそうだし、先週のバカ二人のケンカもそうだし」

「まあ、そんなわけでさ。誰か一人手伝って欲しいて言われてるんだけど」

「じゃあ、仕方ないね。僕が……」

 言いかけたエドの足を、オッティが踏みつけて遮る。

「痛っ! なにするんだよ」

「エド、まだ説明の途中なんだから黙ってて。でも、そうなると一人はお祭りを楽しめないでしょ。だから、考えたんだ。昼の間に出店の物を買っておいて、コンテストが終わってから部室で食べようって。それなら全員で楽しめるでしょ」

「それは素敵な考えですね」

「でしょ」

 アリーセの言葉に、オッティが嬉しそうに目を細める。

「でね。分担を決めようと思うの。一人がハンナ先生のお手伝い。後の四人は二人ずつペアになって食料調達するの。ちなみにハンナ先生からお駄賃が貰えたので、これを購入費用にあてます」

 懐から封筒を取り出して、誇らしげに掲げた。

「あのさ、オティーリエ。その封筒、部費って書いてある気がするんだけど」

 ズザンネの指摘通り、封筒の真ん中にそう記されている。

「あ、それ気のせい」

「気のせいじゃないでしょ。バッカじゃないの」

「いやいや、ホントにさ。お手伝いでお駄賃を貰えることになってるから、一時的に部費で立て替えるだけだよ」

「どうにも信用できないのよね」

 懐疑的な目になるズザンネ。

 無理もない。店の商品を無断で持ち出したりするのがオッティなのだ。

「まあ、いいんじゃないかな。部費を特に使う予定はないんだし」

「エドゥアルトは甘いわね。そんなんじゃ、将来苦労するわよ」

「今も十二分に苦労してるよ。色んな意味で」

「とりあえず、これは決定事項だから。もし、ハンナ先生からお金が貰えなかったら、みんなで補填するから大丈夫」

「全然大丈夫じゃないわよ!」

 ズザンネの怒声に緩い笑いが起こる。

「じゃあ、チーム分けなんだけど」

「待って、オッティ。私、部員じゃないし、それに……」

 遠慮がちにマルギットが切り出す。

「いいのいいの。ウチのクラブはそういうの緩いから。っていうか、楽しければなんでも大歓迎なわけ」

「そうですよ。私のような生徒でもな……むぐむぐ」

 力強く同意しようとしたアリーセの口をズザンネの手が強引に塞いだ。

「まあ、ちょっと話がずれたけど。ペア決めはこのクジで」

 布袋に棒が六本入っている実に単純な物を取り出す。

「先端を三色に塗り分けてあるから、同じ色の人がチーム。余った人がお手伝いね。じゃあ、エドから引いてみて」

 エドの結果は青。彼の瞳と同じ色だった。

「エド、袋持ってて。後は全員で一斉にいくよ」

 それぞれが棒に手を伸ばす。

(エドと同じ青はこれ。間違いない。だって、私が作ったんだもん)

(絶対に青を引くわよ。このくらいのご褒美は許されるはずよ)

(アタシが青を引けば、とりあえずは丸く収まるかな)

(余りを引けば先生のお手伝い。きっと楽しいに違いないです)

 思い思いの気持ちをこめて引いた。


                    * * *


 つい溜息が漏れた。

 それが耳に入ったのであろう。前を歩いていたズザンネが振り返って、不機嫌な表情を見せる。

「アンタね、不満なのは解るけどさ。その態度はあまりに失礼だと思わない?」

「別に不満だなんて言ってないでしょ」

 図星を衝かれたマルギットの反論はついつい弱くなる。

 赤のクジでペアになったのは、マルギットとズザンネだった。

「ほら、次はフライドポテトだってさ」

 オッティに渡された買い物メモを見ながらズザンネが告げた。

 集合時間まで十分に時間があるスケジュールだった。その間はお祭りを楽しめるようにという配慮だろう。

「ったく、こんな手の込んだこと考えずに素直に誘えばいいのに」

 いつもは普通に接しているエドとオッティだが、こういうイベントでは変に意識してしまうのか、互いに余所余所しくなってしまう。ズザンネから見れば歯がゆくて仕方がない。

「はい、フライドポテト」

「お疲れ様。まだ一杯あるのね。ったく、どれだけ食べる気よ」

 つらつらと列挙されたリストを見ていると呆れる他ない。

「少しでも長い時間居られるようにって考えたんだろうな。ない知恵絞ってさ、バッカみたい」

「なにブツブツ言ってるの?」

「なんでもないの。まだ先は長いし、ちょっと休もっか」

「そうね。飲み物でも買ってくるわ」

 そう言い残すと、近くの出店に小走りで向かっていく。

 戻ってきたマルギットの手にはフルーツジュースの紙コップが二つ握られていた。

「はい。奢ってあげる」

 思わぬ言葉に驚くズザンネに、マルギットは視線を外して続ける。

「この前は迷惑掛けたし、別にお詫びってわけじゃないけど」

「ホントに大迷惑だったわ。ま、でもこれでチャラにしてあげる」

 差し出されたジュースを受け取りながら、ズザンネらしい一言を添える。

「それにしても暑いわね」

 まぶしそうに空を見上げながら、マルギットがストローに口を付けた。

 氷で冷やされたパイナップルのジュースは、爽やな酸味と適度な甘さで美味しい。

「うん、美味しいわ。ところでさ、マルギット」

 一口喉を湿らせたズザンネが切り出す。

「アンタ、エドゥアルトのどこが好きなの?」

 そのストレート過ぎる質問にマルギットがむせ込んだ。

「な、何言ってるのよ! そんな、私がエドの、なんて、有り得ないでしょ!」

「そうなのよ。アンタ、いつもエドゥアルトを避けてるみたいだったし、嫌ってるのかなって思ってたんだけどさ。まさか、好意の裏返しとはね」

「ちょっと! 勝手に決めないでよ!」

「でもね、冷たく接しすぎよ。エドゥアルトはマルギットが苦手だって言ってるし」

 ズザンネの冷たい言葉に、マルギットは凍りついてしまう。

「そんな、そんなの嘘よ。嘘よね?」

「もちろんよ。嘘に決まってるでしょ。バッカじゃないの」

「ズザンネ! いい加減にしなさいよ!」

 マルギットの怒声を聞き流して、ズザンネはジュースをすする。

「アタシはね、気になることがあると放っておけない性格なの。なんでアンタがエドゥアルトに惚れてるのか。理由が気になって仕方ないの」

「私の気持ちを好奇心の対象にしないで。人を好きになるのに理由なんて……」

「あるわよ。人間は理由もなく他人に好意を持ったりしない」

 そう言い切られると、マルギットは言葉を失ってしまう。

「マルギット、ハッキリ言っといてあげるわ。エドゥアルトは観察力に優れた人間だけど、恋愛関係にはとことん鈍いわよ。だってさ」

 ここで止めた。「だってさ、オティーリエしか見てないんだもん」と言うのは余りに残酷だからだ。

「大体さ、エドゥアルトの近くには、いっつもオティーリエがいるでしょ」

「オッティ、ね」

 マルギットが深く息を吐いた。僅かに浮かんだ寂しそうな表情を振り切って、クールないつもの顔を作る。

「私、オッティが大嫌いだった。昔から。エレメンタリーで一緒だった頃から」

「まあ、ハイテンションで騒がしい子だからね」

「そうじゃないの。あの子さ、エレメンタリーの頃は大人しくて、ずっとエドの後ろに隠れている子だったのよ」

「あら、意外。それは初耳ね」

 ズザンネとオッティが出会ったのは、その後、ジュニアスクールでの事だ。当時のオッティはいつも走り回って、常に騒がしい少女。「将来の夢は名探偵」が口癖の、シンプルに言えば変な子だった。

「いっつもいっつもエドにへばりついてさ。ハイスクールでもそうでしょ。大嫌いだった。でもさ、こんなに私が嫌ってたのに」

 表情を緩めた。

「オッティは私のこと、友達だって言ったのよ。エレメンタリーからの友達だって」

「はは、オティーリエらしいわ。あの子って、自分だけの価値観で生きてるもんね」

 ズザンネが大袈裟に肩を竦めた。

 ふと数年前を思い出す。「親なんて関係ないでしょ。大体さ、友達のいない人生なんてつまんないじゃん」と一方的な理屈で付きまとい続けた、実に鬱陶しくお節介な人間だった。

「ま、そこがオティーリエのいいトコなんだけどさ」

「まあね。でも、そんな風に言われたら、一人で意地になって対抗意識燃やしてるのが、バカバカしくなっちゃって」

「そう言えば、最近教室でもよく話してるわよね」

「なんか放っとけないの。ほら、オッティってさ、何しでかすか解んないでしょ」

「実際、色んなトラブル起こしてるしね」

 ふふふと笑みを交換する。

 ひとしきり笑った後、マルギットが小さく息をついた。

「エレメンタリーの頃ね。教室でお金がなくなったの。教材費だったか、なんだったか覚えてないんだけど。でね、私が疑われたの」

「どうして?」

「私、南地区に住んでるし、両親は旅芸人だから普段家にいないし。取ったに違いないってことになってね」

「どこに住んでようが、親が何してようが関係ないわ。本人の資質の問題でしょ」

 ズザンネが憤りを露にする。

「でもね、エドが助けてくれたの。状況を分析して理論を組み立てて、犯人を見事に言い当てたんだ。すっごくカッコ良かった。まるで、物語の探偵みたいだった」

「で、惚れちゃったんだ」

 頬を微かに赤らめながら、マルギットは素直に頷いた。

「結局、片想いを続けてるだけだけど。だって、エドはオッティしか見てないもの」

「それは……」

「私はオッティと違うのよ。ちょっとは相手の考えていることが解るつもり」

 少し偉そうに言うと、ストローを吸った。冷たいジュースが心を落ち着けてくれる。

「ま、それも今だけよ。最後に勝つのは私だから」

「そりゃまた、随分な自信ね」

「だって、私の方が美人だし、勉強だってできるし、家事全般も得意。全然、女の子っぽいし」

「あと、腰も太いしね」

 にぃっと意地の悪い表情で付け加えた。

「失礼ね! 全然普通よ! その変な噂ってどこから……」

「ん、どしたの?」

「ちょっと待ってて」

 そう残して走り出すマルギットを、仕方なくズザンネが追う。

「ハインツ」

 マルギットの声に出店の前でキョロキョロしていた子供が振り返った。年齢的には七、八歳。近くに保護者らしき大人の姿はない。

「マルギット姉ちゃん!」

 マルギットを見ると、泣きそうな顔で駆け寄ってきた。

「ハインツ、どうしたの?」

 しゃがんで目線を合わせ優しく尋ねる。

「お姉ちゃんとはぐれちゃったの?」

 近所の子供をお祭りにつれて行くよう、姉のヘルミーネに頼んでおいたのだ。

「違うよ! 大人の人が一杯来て、ヘルミーネ姉ちゃんを連れて行っちゃったんだ!」

「ちょっと、それどういうことなの?」

 思いもよらない報告に、マルギットはただ驚くしかなかった。


                    * * *


 思わず溜息がこぼれた。

 それが耳に入ったのであろう。前を歩いていたオッティが振り返って首を傾げる。

「どうしたの? 疲れちゃった?」

「いえ、そんなことはないんですけど」

 どう答えるべきか迷って、アリーセの声は小さくなってしまう。

 緑のクジでペアになったのは、オッティとアリーセだった。

「オッティさん、私なんかと一緒になってガッカリしたんじゃないですか?」

「どうして? 私、アリーセ好きだし楽しいよ」

 その陰りのない表情から、それが社交辞令の類ではないのは解る。しかし。

「ホントはエドさんと一緒になりたかったのかなって」

「ちょっと、冗談でしょ。逆よ逆。エドじゃなくて、良かったって思ってるんだから」

 真っ赤になった顔を振って、全力で否定する。

「エドはただの幼馴染っていうか。弟みたいなもんなわけ」

「じゃあ、恋愛感情はないってことですか?」

「ないない。あいつが、こんな小さい頃から知ってるんだよ」

 両手で十センチくらいの大きさを作って続ける。

「ずっと姉弟って感じできたんだよ。今更、好きとか嫌いとか、そういうのはないから」

「そう、なんですか?」

「もっちろん。神様に誓ってもいいくらいだよ。さてっと、次はフライドポテトかな。じゃあ、私買ってくるから……」

「オッティさん」

 少し重い声で遮った。

「どうしたの? アリーセ、真面目な顔しちゃって」

「オッティさん、ホントにいいんですね?」

「いいって何が?」

「エドさんのことです。恋愛感情はないんですね?」

「そんなことより、アリーセはどうなの? 憧れの騎士様は振り向いてくれそう?」

「ホントのホントに恋愛感情はないんですね?」

 オッティを無視して質問を重ねる。

「ないって言ってるじゃん」

「そうですか。それを聞いて安心しました」

 そう言って表情を崩した。

「いつか言わないと、と思っていたんですが切り出す機会がなくて」

「なんの話?」

「実は私とエドさんは、お付き合いをしているんです」

「ちょっとアリーセ、何言ってんのよ」

 明るく笑い飛ばそうとするができなかった。

「この前、マルギットさんに見られた時はホントにデート中だったんです」

「そんなのあるはずないじゃん。だって、エドからは何も聞いてないし……」

「エドさんには口止めしてあるんです。時が来るまで、黙ってて欲しいって」

「嘘、だよね?」

 頬を強張らせながら、力なく確認した。

 そんなオッティにアリーセは柔らかく微笑んで答える。

「はい。もちろん、嘘です」

「もう、びっくりするじゃない」

 ふうっと安堵の息を吐いた。

「やっぱりオッティさんはエドさんが好きなんですよね」

「だから、そういうんじゃないんだって、さっきのは単に驚いただけだし」

「オッティさん、もう少し素直になった方がいいと思います。エドさんは優しいし、穏やかで素敵な人ですよ」

「アリーセは過大評価し過ぎ。あんなのただ頼りないだけ……」

「そんなだと、いつか誰かに取られちゃいますよ」

 真面目な口調に、オッティは普段のように茶化す事ができなかった。ただ視線を下に逃がすのが精一杯。

「あ、ごめんなさい。生意気なこと言って。ただ、その、なんて言うか……」

「ううん。アリーセの言いたいことは解ってる」

 それだけ言って、黙り込んでしまう。

 漂い始めた重い空気に耐え切れず、アリーセが口を開く。

「あの、飲み物買ってきます」

「それなら、私が」

「私、こういう出店で物を買うのに憧れていたんです。だから、私に行かせてください」

「うん。じゃあ、お願いしよっかな」

「任せてください! 美味しいのを調達してきます!」

 気合十分な様子が逆に不安になる。

「もし、迷って戻れなくなったら部室で合流だからね」

「そんな子供じゃないですよ。最近はしっかりしてきたと自覚してるんですから」

 ズザンネが聞けば「それは自覚じゃなくて、錯覚っていうのよ」と呆れそうな台詞を残して踵を返した。

 不器用に右往左往しながら人の合間を抜けていくアリーセを見送っていたオッティだが、その背中が見えなくなると出店の近くに置かれたベンチに腰を下ろした。

 ふうっと深い息を吐く。

「アリーセの言いたいことは解ってるんだ。解ってる。解ってるんだよ。でも今の私じゃダメなんだ」

 空を見上げた。夏の太陽がギラギラと輝いている。

 なんとなく手を伸ばす、もちろん何に触れるという訳でもない。

「何やってんだろ。届かないって解ってるのに」

 近くにあるように思えても、信じられない距離があるのだ。

 力なく腕を下ろすと、ぼんやりと手の平を見つめた。

 子供の頃をどうしても思い出してしまう。「二人で世界一の名探偵になろう!」そう言って青い目を輝かせる幼馴染の顔が、今でもハッキリと脳裏に浮かぶ。

 手を強く握った。

「私は、オティーリエ=ヴァイカートは絶対に名探偵になるの。ならなきゃダメなんだから」

 両手で頬を叩いて、弱々しい表情を吹き飛ばす。

「あれこれ考えるのは、私らしくないよ。常に全力疾走がモットーだもんね」

 そう呟くと、勢いをつけてベンチから立ち上がった。

「アリーセに謝らないと。変に気を遣わせちゃったし」

 そう言いながら時計を確認する。

 アリーセが行ってから、結構な時間が経っていた。

「迷ってるのかな。この人混みじゃ無理ないけど」

 行き違いになる可能性を考慮し、もう少し待つべきと判断した。しかし、待っても待っても、アリーセが戻ってくる気配はない。

 仕方なく周囲の出店を歩いてみるがアリーセは見当たらない。

 トラブルに巻き込まれたのかも。不安が頭をもたげ始める。

「部室に戻っちゃったのかな」

 まずは確認すべき。とりあえず学校に向かい駆け出した。


                    * * *


 思わず溜息がこぼれた。

 それが耳に入ったのであろう。傍らのハンナが実に申し訳なさそうな表情になる。

「エドゥアルトくん、その、ごめんなさいね」

「あ、いえいえ。その、ただ想像してたより、凄いなって」

 二人が入ったのは、カルディアハイスクールの校舎脇にある機材倉庫だった。教室より一回りほど広い部屋。壁際にはダンボールを抱えたメタルフレームの棚が並び、溢れた箱が床に重ねられていた。普段使わないという事もあり、全体に薄っすらと埃が積もっている。

「ここを二人だけで掃除するんですよね」

 エドの確認に、ハンナがこくんと頷く。

 二人の格好はエプロンにマスク。右手に雑巾と水の入ったバケツ。左にはモップ。傍目には気合十分に見える。

「お小遣いも出すから、先生を助けると思って、ね。お願い」

 手を合わせて深々と頭を下げる。いつもの事だが、教師の威厳は欠片もない。

「もちろん、手伝いますけど。でも、なんで先生一人で片付けることになったんですか?」

「そ、それは……」

 ペナルティなの、とは言えず言葉を揺らした。

 ハンナはうっかりが多い。今年だけでも備品のグラスを五つも割り、特別教室の鍵を三回も失くしている。流石の校長も反省の意味を込めて、機材倉庫の掃除を命じた。

 期限は夏休みまで。日は十分にあったはずだが、お祭りの準備に気をとられてすっかり忘れていた。先日、進捗状況を聞かれて思い出し、オッティに泣きついたのだ。

「ほら、この部屋って汚れてるじゃない。他の先生は忙しいみたいだし。だから、私が掃除しようと思ったの。やっぱり、人の嫌がることを進んでできるのが大人だし」

 嘘をつく時は雄弁になるという法則に従い、つらつらと理由を並べる。

「ホントよ。ホントなの。嘘じゃないんだからね」

 必要以上に念を押すハンナに、エドは深く追求するのを止めた。と言うより、普段のハンナの言動を鑑みれば大体の想像はつく。

「床を適当にモップ掛けして、棚のダンボールを適当に雑巾で拭けばいいわよね」

「掃除なんですから、棚の箱を整理して床に積み上げてる分を片付けないと」

「えぇぇっ! そんなの面倒じゃない。こんなのは適当に……」

「先生」

「解ったわよ。解りました。やればいいんでしょ、やれば」

 ぶうっと頬を膨らませ、不満たらたらに了承するハンナ。

 そんな担任教師にエドは苦笑せざるを得ない。

「エドゥアルトくんは真面目なんだから」

 教師にはあるまじき独り言をこぼしながら、奥の窓を開けに向かう。

 頼りないハンナの背中を見ながら、エドはくじ引きの結果に感謝した。気性の似ているオッティなら適当に済ませてしまっただろうし、真面目なマルギットなら説教の一つもするだろう。ズザンネであれば凄まじい皮肉と嫌味で泣かせてしまうかもしれない。アリーセは論外。生徒でない人間が制服を着て学校に入り浸っているのが見つかったら大問題だ。

「随分と埃っぽいわね。こんな部屋を、うら若き乙女が掃除するなんて有り得ないわ。シンデレラになった気分よ。もう、これも開け難いわね」

 錆び付いた窓をガタガタと揺すって、力づくでこじ開けようと試みる。

「あ、その窓は内開きじゃなくて、外……」

 蝶番の形に気付いて、エドが注意の声を上げるよりも早く。

 バキンと窓が外れた。

「きゃん」

 ハンナが可愛い悲鳴を上げた。急に抵抗がなくなりバランスを崩したのだ。よろよろと後ろに下がりながら、体勢を立て直そうと腕をくるくると回す。と、その手が近くの棚に触れた。咄嗟にぐっと掴んで踏ん張る。

「あ! ダメですよ!」

 エドの警告は残念ながら遅かった。

 ハンナの動きは全体重を使って、棚を引き倒す形になってしまった。棚に積まれていた箱が次々と床に落ち、中身をぶちまける。埃がもうもうと舞い上がり、あっという間に視界を塞ぐ。バサバサと紙の散る音に混じって、何かが割れる嫌な音が続いた。

「ごほごほ、なに? なに? なにが起こってるの?」

「先生、落ち着いて埃が収まるまで」

「エドゥアルトくん! 安心して! 今、そっちに行くから!」

「待って! この状態で下手に動かないで!」

「きゃぁ!」

 煙の如く立ち込める埃の中で、二つ目の棚が倒れていく。

 数分後、ようやくにして視界が晴れ始める。次第に明らかになっていく惨劇に、エドはただ立ち尽くすしかなかった。

 撒かれた本とプリント。おそらく花瓶なども有ったのだろう。色取り取りの陶器の破片も散っている。外れた窓も、棚に踏み潰され歪んだ枠だけになっていた。そして床で大の字に伸びているこの事態を巻き起こした張本人。

 ただ唖然とする中で、エドはこれらを今から片付けねばならないという残酷な現実を理解した。結果、ただ天井を仰ぐ。

「今ほど名探偵の力を借りたいと思ったことはないよ」

 そう呟くとオッティ達が早く戻ってくる事を強く願った。


                    * * *


 マルギットとズザンネは、南地区独特の入り組んだ路地を走っていた。

「あそこのアパートメントなの」

 角を曲がると、マルギットが視線の遥か先にある古い集合住宅を指差す。

 ズザンネが力なく頷いた。大通りからの全力疾走で体力は既に限界。だが弱音を吐いてる場合ではない。汗で張り付く前髪を払うと、懸命にマルギットの後を追う。

 マルギットの方はかなり息が乱れてはいるが、まだ余力が残っていた。ここ数日のジョギングが功を奏したと言える。

 アパートメントの付近には近所の住人達が集まっていた。

「ごめんなさい。通してください」

 マルギットが叫びながら進む。人混みを抜けたマルギットの足が止まった。

 入り口付近に数人の男が立っていたからだ。黒い詰襟の上着に細身のズボン。靴は分厚いレザーのハイブーツで、腰からはサーベルを提げている。肩口に金糸で刺繍されているのは王家の紋章である双頭の狼。

 それは間違いなくカルディア王国警察隊の出で立ちだった。

「警官がどうして……」

 呟くマルギットに気付いて、警官の一人が近づいてきた。

 細面の輪郭に短く切り揃えた栗色の髪。まだまだ歳若い青年警官といった風情だが、襟章は部隊長を表す星三つ。つまりこの現場の指揮者にあたる。

 身体を強張らせるマルギットの前で軽く敬礼。

「マルギット=オイレンシュピーゲルさんですね。お待ちしていました。私はバルタザール=リーフェンシュタール。見ての通り警官です」

 と、穏やかな笑みを作った。

 その優しい表情に、マルギットは逆に警戒の色を強める。

「本当にお姉さんと似ていますね。ひと目で妹さんだと解りましたよ。実は私にも弟がいるんです。そいつがまた生意気な奴でして……」

「私に用があるんですか?」

 マルギットが遮った。苛立ちを隠そうともしない。

「あ、これは失礼しました。無駄話はお嫌いなようですね」

 バルタザールが大袈裟に肩を竦める。

「では、単刀直入に進めさせて頂きましょう。ヘルミーネさんの身柄を捕縛させてもらっています」

「な! お姉ちゃんが何かしたって言うんですか!」

「まあまあ、落ち着いて」

 思わず声を荒げるマルギットを焦らすように、バルタザールは間を取った。

「ちょっと、答えなさいよ!」

「警察隊は罪のない人間を捕縛したりはしません」

 笑顔を崩さず答える。

「ヘルミーネさんには誘拐と国家反逆の容疑が掛けられています」

「何言ってるのよ、アンタ! お姉ちゃんがそんなことするはずないでしょ!」

「王家を打倒し革命を成し遂げる。普段からそう主張をしていると聞いていますが?」

「そ、それは……」

 思わず言葉が揺れる。

 自称革命家の姉は近所の人達にも、良くそんな事を話していた。もちろん、王家の批判自体は罪にならない。誰もが他愛ない冗談、もしくは妄想と受け止めていたはずだ。

「警察宛に犯行予告が届きました。この祭りの間に、ロベルティーネ姫を誘拐すると」

 ロベルティーネという名前にズザンネが小さく息を飲んだ。それがアリーセの本名だったからだ。

「なにそれ。私達に関係ないわよ!」

「ん、そちらのお嬢さんは、何か心当たりがおありですか?」

 バルタザールの目がマルギットからズザンネに移動していた。

 微妙な変化で内心を見抜かれた。ズザンネは舌打ちしたいのをぐっと堪える。

「アタシね、王家のファンなの。年齢の近い姫様には親愛の情を持ってるわ。その姫様が誘拐なんて聞いたから、ちょっとびっくりしたの」

「なるほど。それは失礼しました。とりあえずはそれを信じておきましょう。目下の問題は……」

 と、そこで警官の一人が駆け寄って来た。

「どうしました?」

 尋ねるバルタザールに短く耳打ちする。

 バルタザールに驚きの色が浮かぶ。が、それも一瞬、愛想の良い微笑みに戻すと、短く了解を告げた。

「さて、厄介なことになりました」

 マルギットとズザンネに向き直り、そう切り出す。

「犯人から書状が届いたそうです。ロベルティーネ姫の身柄を預かっていると」

「今、犯行声明があったんならお姉ちゃんは関係ないでしょ」

「残念ながら、そうではないのですよ。マルギットさんが到着される前から家宅捜索をさせて頂いているのですが」

「ちょっと! 住人に無断でそんなことしていいと思ってるの!」

「えぇ、もちろん。警察隊の捜査権に基づいた捜査ですから」

「でも!」

「その際にこんな物が出てきました」

 近くに控えていた大柄の警官から、丸められた紙を受け取る。

「ヘルミーネさんの部屋で見つかったのですが……」

 広げてマルギットとズザンネに見せる。上質の紙に手書きの文字が並んでいた。

 その内容を追っていく内に、二人の表情が強張っていく。

「これは契約書です。姫君の誘拐について計画の立案と実行犯の手配をヘルミーネさんに依頼する。それに対し高額の謝礼を支払うと書かれています」

「こ、こんなの何かの間違いよ! 有り得ないわ!」

「しかし、ここにヘルミーネさんのサインが添えられています」

「そ、そんな、でも……」

 バルタザールの指摘に思わず言葉を失う。

 書類の下部にお世辞でも上手と言えない文字でヘルミーネと署名されている。その筆跡は間違いなく姉の物だ。

「ここは南地区。もし家から大金が見つかりでもすれば、言い逃れはできなくなります」

「そ、そんな」

「普段から革命家を自称している上に、両親が旅芸人とくれば疑うなという方が無理と言うものです」

 辛辣な言葉にマルギットが唇を噛んで下を向く。その瞳には溢れそうなくらい涙が溜まっていた。

 どんよりとした沈黙が生まれる。

「バッカバカしいわ」

 そんな重苦しい空気を破ったのはズザンネだった。

「親が旅芸人だから、南地区に住んでいるから犯人だって? 実にお見事な推理ね。感心しちゃうわよ」

「ズザンネ」

「生まれで人間が決まるわけないでしょ。バッカバカしい。役に立たない脳なら掻き出して、藁クズでも詰めときなさいよ!」

 指を突きつけて更に吠える。ズザンネにしては珍しいくらい過剰な反応だった。

「お前! 警官を侮辱するか!」

 やや離れた所に立っていた中年の警官が怒鳴る。

「おっさん、バッカじゃないの! そのダッサい黒服着て、自分が正義だって勘違いしてんじゃないわよ! アンタらの正義ってのは無実の人間を下らない価値観で陥れることなの? 違うでしょ! 市民の生活を護ることでしょっが!」

 頬を高潮させて言い放つズザンネに、周囲から感嘆が漏れた。

「貴様、言わせておけば!」

 中年警官の手が腰に提げられた剣の柄を掴んだ。ざわっと野次馬が揺れる。

「感情に任せて抜いたりしないでくださいね」

 バルタザールが中年警官をやんわりと嗜める。

「お嬢さんの仰る通りですよ。我々の使命は市民を護り、正義を尽くすことです。反論の余地はありません。ですが、現実は厳しい。特にこれだけの物が揃った状況では」

「だから、だからってね」

「なにかの間違いよ!」

 言葉を詰まらせるズザンネに替わって、マルギットが声を上げる。

「私のお姉ちゃんが、そんなことするはずないもの!」

「申し訳ありませんが、妹であるマルギットさんの主張を、はいそうですか。と受け取るわけにはいかないのです」

 芝居がかった仕草で大きく首を振った。

「マルギットさんには、ヘルミーネさんについてお聞きしたいことがあります。協力をお願いできますか。えっと、ズザンネさんでしたっけ、貴方もご一緒に」

「くっだらない。拒否させてもらっていいわよね?」

「残念ですが、捜査権に基づいてご協力願うことになります」

 バルタザールの言葉は強制的に捕縛するという事を示唆していた。

 ただの学生であるズザンネとマルギットには、了承以外の選択肢がない。

「ご協力感謝します。では、そこで待っていてください」

 二人にそう告げると、近くの部下に声を掛ける。

「お金は見つかりましたか?」

「いえ、それがまだ」

「やれやれ。こうなったら人海戦術しかありませんね。全員で部屋を探しましょう」

「全員で、ですか? でも、そうなると……」

 マルギット達の方に目をやる。

「全員で部屋を探します。不満がありますか?」

「あ、いえ。了解しました」

 敬礼すると、踵を返してアパートメントに入っていく。

「聞いたとおりです。全員で探しますよ。ほら、急いでください」

 手を叩いて路上の警官達を急き立てる。

 警官が一人も残っていないのを確認すると、バルタザール自身も二人に背を向けた。そのまま振り向こうともせず、アパートメントの中に消えて行く。

 想定外の展開に、野次馬共々呆然としていたズザンネだったが、はっと我に返った。

 ぼんやりと呆けているマルギットを肘でこくつ。

「こんなところで油を売ってられないわ。行くわよ」

「え?」

「あの警官がわざわざ機会を作ってくれたんだから」

 ズザンネの端的な説明に、マルギットもようやく合点がいった。しかし。

「でも、どこに?」

「まずは学校。部室に急ぐわよ」

 言うなり駆け出すズザンネを慌てて追いかける。

「ズザンネ、何か考えがあるの?」

「ロベルティーネ姫が誘拐されたって言ってたわよね」

「うん、そう言ってたわ」

「なら手っ取り早い方法があるの。姫様本人に無実を証明してもらうのよ」

「ちょっと、何言ってるの?」

「大丈夫、アタシに任せて。詳細は部室に着いたら話すから」


                    * * *


 部室。椅子に腰を下ろしたエドは大きく息をついた。

 機材倉庫の掃除は思った以上の重労働だった。ハンナが派手に散らかした後となれば、なお一層。こんな事態を予測していた先生達、数学のダグマルを筆頭とした五人が手伝いに来てくれなければ、徹夜になっていたかもしれない。いや、意識と取り戻したハンナが参加したと想定すれば、三日三晩掛かっても終わらない可能性もある。

「ま、なんにせよ、終わって良かった」

 ハンナが保健室で寝ている間に、六人で二時間掛かって終わらせたのだ。

 開放されたエドは、他の四人が買い出しから戻るのを部室で待つ事にした。

 ようやく一息ついた頃、バタバタと飛び込んできたのはオッティだった。

 額から流れる汗と跳ね上がった息。その切迫した様子にエドは目を丸くした。

「オッティ、どうしたの?」

「あ、エド」

 エドの言葉に答えつつも、室内をぐるりと見回し。

「アリーセはまだ戻ってない?」

「まだ戻ってないよ。はぐれたのかい?」

 マグカップに飲料水を注いで手渡す。

「あ、ありがと」

 礼と共に受け取ると、一気に飲み干した。

「ジュースを買いに行ったっきり帰ってこなくてさ。部室に戻ってるかなって」

 ふうっと息を吐いた。呼吸は落ち着きつつある。

「迷っているんじゃないかな。人の多いところとか、あんまり慣れてないだろうし」

「一人で行かせたのは失敗だったよ。アリーセ、すっごく不安がってるだろうな」

「僕も手伝いは終わったし、探してくるよ。戻ってくるかもしれないから、オッティはここで待ってて」

 そう言って椅子から立ち上がったところで、ドアが開けられた。

 マルギットだった。ぐっしょりと汗をかいている。呼気も荒い。

「マルギット、どうしたの? 何かあった?」

 ただならない様子に、エドも不穏な空気を感じとった。

「あの、それが……」

 そこでふらふらと覚束ない足でズザンネが入ってきた。

「ズザンネ、大丈夫?」

 完全にバテきった様子に、オッティが声を上げた。

「大丈夫な、ハズない、でしょ。もう、死に、そう。アタシは、アンタみたいな、体力バカ、じゃないん、だから」

「そんな口が叩けるってことは全然大丈夫みたいだね」

 途切れ途切れでも憎まれ口を忘れないズザンネに、オッティが頬を膨らませる。

「とりあえず二人とも水を」

 エドがカップを差し出す。

「何かあったんだね?」

「アタシから話すわ」

 水を飲んで、人心地ついたズザンネが切り出した。

「端的に起こっていることだけを並べるわね。一つ、ロベルティーネ姫が誘拐された。二つ、その犯人の一味としてマルギットの姉さんが警察に捕縛された」

 想像を遥かに超えた報告にエドは呻く事すらできなかった。

「ちょっと待って。ズザンネ」

 しかし名探偵のタマゴである少女は違った。思慮深げに首を捻りながら、心に浮かんだ疑問を口にする。

「私、ロベルティーネって名前、どっかで聞いたことがあるよ」

「アリーセのことだよ!」

「アリーセのことよ!」

 余りに間抜けた一言に、エドとズザンネの叫びが重なった。

「二人して、そんなに怒鳴らなくても」

「アンタ、バッカじゃないの。バカでしょ。バカよね。もう! バカバカ!」

「そんなにバカバカ言わなくてもいいでしょ!」

「あの、ごめん。ちょっといい?」

 三人に遠慮しつつも、マルギットが小さく挙手した。

「なんか意味が解らなかったんだけど。アリーセがどうとかって?」

 その質問にどう答えるべきか、エドとズザンネが視線を交わす。しかし。

「あ、そっか。マルギットには言ってなかったっけ。アリーセって偽名なんだ」

「偽名?」

「ついでに、ここの学生っていうのも嘘でさ」

「嘘?」

「うん。実はね、カルディア王家の姫様なんだよ。びっくりでしょ」

「姫様?」

 あまりにさらっとした言い方に、マルギットの理解が追いつかない。その顔には呆然と当惑が入り混じっていた。

「え? なにそれ? どこで笑えばいいの?」

「あのさ、マルギット、実は……」

 エドが同じ内容を、噛み砕いて説明する。

「あの子がカルディア王家の姫様? まさか、冗談でしょ?」

 真っ青になるマルギット。

 これまでタメ口で接してきたし、初対面の折には「頭の中が乏しい子」だの「色々と残念な子」だの、随分と無礼な事を言った覚えもある。不敬罪で捕まっても文句は言えない。

「私、全然知らなくて。どうしよう。どうすればいいの」

「大丈夫よ。ここで過ごしている時はアリーセっていう普通の、まあちょっとずれてるけど、女の子なんだから」

「そうそう。ズザンネなんて毎日バカって言ってるしね」

 軽いパニックに陥ったマルギットを、ズザンネとオッティがフォローする。

「ま、とにかくアリーセに出てきてもらえば、マルギットの姉さんも疑いが晴れるってわけなんだけど」

 ズザンネがペアであるはずのオッティに目を向けた。

「それがアリーセとはぐれちゃったんだよ。で、戻ってきてるかなって思って……」

 オッティの発言に全員が顔を見合わせる。

 恐ろしい可能性がよぎったからだ。誰もが口にするのを躊躇う程の発想だった。しかし、現実に目を背ける事はできない。

「アリーセを捜しに行かないと! エドは校内と学校付近を捜して。マルギットとズザンネは、大通りを手分けして。私は裏道を捜してみるから。一時間後に中央公園入り口で集合よ。いいわね」

 オッティの指示に全員が頷いた。


                    * * *


 午後四時を過ぎた。合流した四人の表情は浮かない物だった。

「手がかりらしい手がかりはなし、ね」

 オッティの言葉に全員が嘆息する。

 マルギットがベンチに力なく腰を落とした。淡い色の可愛いワンピースも汗と泥で汚れ、その心情と同様くたびれ果てている。

「部室に戻ってるってことはない?」

「最後に寄って来たんだけど、戻った形跡はなかったよ」

 ズザンネの確認にエドが首を振った。

「僕達じゃどうにもならないよ。警察に任せるしかないんじゃないかな」

「ダメよ。警察はお姉ちゃんを犯人だと決め付けてるんだから!」

「アタシもマルギットと同意見よ。こういう言い方は悪いけど、疑われるポイントが多すぎるし、物証まであるんだから。疑いは当分晴れそうにないわ」

「物証って?」

「マルギットの家で警官に見せてもらったんだけど……」

「もう! どうすればいいのよ!」

 マルギットがヒステリックに地面を踏んだ。

「いっつもこうよ! 南地区に住んでるから、親が家にいないからって! なんでこんな辛い目ばかり遭わないといけないの!」

「マルギット、私達が絶対になんとかするから」

「できないわよ! そもそもこんなことになったのはオッティ、アンタのせいなのよ!」

 跳ねるように立ち上がると、オッティの肩口を強く掴んだ。

「アンタが五人でお祭りに行こうなんて言ったから! アンタがアリーセを一人で行かせたから! 全部、アンタのせいじゃないの!」

 感情的な非難にオッティは返す言葉が見つからない。

 固まるオッティの前で、マルギットががっくりとうな垂れる。

「ごめん、オッティ。今のは八つ当たりよね。私、最低だわ」

「マルギット」

「こんなのオッティのせいじゃないし、皆が一生懸命になってくれてるのも解ってる。でも、どうしようもなくて。ホントにごめん」

 手を離すと、再びベンチに座り込んだ。

「ね、エド。なんとかできない?」

「ごめん。僕じゃ、どうすることもできないよ」

「そうよね。エドにだって無理なことはあるわよね」

 両手で顔を覆って小さく首を振る。

 そんなマルギットの様子に、オッティはぐっと拳を作った。

「私、もう一回行って来る。何か見落としがあるかもしれないし」

「待って、オッティ。私も一緒に行く」

 気丈にもマルギットが申し出た。

「うん、行こう。エドとズザンネもお願い」

 そう言い残すと揃って駆け出す。

 人混みの中に消えいく二人を見つめていたエドが、ズザンネに声を掛けた。

「よし、僕達も行こう。何か解るかもしれないし」

 しかし、ズザンネは。

「待って、エドゥアルト。ちょっと下らない質問いい?」

「ん? なに?」

「ね、アンタさ」

 眼鏡を左手で軽く上げると、エドを睨みつけた。

「手を抜いてるでしょ。どうしてなの?」

「手を抜いてるなんて。それは酷い誤解だよ」

「マルギットの姉さんは捕まってるし、アリーセも行方不明。かなりマズイ状況だってのは解ってるわよね」

「もちろんだよ。だからみんなで……」

「あちこち回ってみた。でも、有益な情報は得られない。オティーリエには悪いけど、今のやり方では埒が明かないってことよ」

 エドは答えず、ただ視線を逃がした。

「アタシはね、エドゥアルト=フィッツァウという人間を買ってるの。優れた観察眼を持ち、冷静に状況を分析できる人間としてね。アンタの嫌いな表現をあえて使うなら、探偵としての素養ならオティーリエより遥かに優れている。でしょ?」

 ズザンネの問いにエドは小さく首を振った。

「それは買い被りだよ。僕はどこにでもいる普通の人間だから」

「エドゥアルト、マルギットに聞いたんだけどさ。エレメンタリーでは、アンタが探偵を目指してたんだってね」

 推量を含む部分はあったが、あえて言い切った。

 その一言にエドが凍りつく。

「オティーリエは、そんなアンタに付いて回る子だった。それがいつの間にか入れ替わっている。何があったのか、気になるところね」

「別に何もないよ。子供の夢なんて、大きくなると変わるものだし」

「なるほど。アンタが探偵を目指さなくなったから、オティーリエが代わりに追っかけてる。つまり、アンタへの当て付けってことか。あの子がそんな嫌な人間だとは思わなかったわ。これ以上、付き合うのは止めた方が良さそうね」

「待って。それは誤解だよ」

 思わず反論したエドに、

「解ってるわ。オティーリエがそんなくっだらない人間だったら、アタシがここにいるわけないでしょ」

 ズザンネはにんまりと意地悪い笑みを見せる。

「昔ね。まだ知り合って間もない頃さ、あの子に聞いたのよ。なんで探偵なんかを目指してるのかって。そしたらあの子、子供の頃からの夢だって答えたわ。でも、その意味をちょっと誤解してた。あの子の夢じゃなくて、アンタの夢だったのよね」

 やや間を置いてエドが頷いた。

「小さい頃に約束したんだ。世界一の名探偵になろうって」

「二人で?」

「うん。僕が名探偵になって、オッティは助手になるって。そう決めてね。おかしい話だよね」

「そう? 面白いと思うわよ、そういうの」

 面白いという単語はズザンネにとっての褒め言葉だ。

「はは、ありがとう。で、二人で色んな事件、と言っても取るに足らない物ばかりだったけど。そういうのに積極的に首を突っ込んだんだよ」

「エレメンタリーで、マルギットを助けたこともあったんでしょ」

「教材費がなくなったんだ。マルギットが犯人扱いされてさ」

「で、真犯人を見つけたってわけね。大したもんじゃない」

 ズザンネの感想に、エドが苦しげに顔を歪めた。

「なに? どうしたの?」

「エレメンタリーでは色んなことがあったんだ。飼育小屋から逃げ出したウサギも見つけたし、試験問題が盗まれた時も犯人を突き止めた。もちろん、解決できないこともあったけど、ね」

「立派な少年探偵じゃん」

「で、ジュニアに入って直ぐに聞いたんだ」

 ここで間を置く。言うべきか止めるべきか、葛藤があった。

 そんなエドを急かすでもなく、ズザンネは静かに待つ。

「マルギットの件だけどさ、ホントにつまらない事件だったんだ。犯人は男の子。マルギットを陥れたかったわけでも、金が欲しいわけでもなかった。ただ、なんて言うかな、マルギットの気を引きたいっていうか」

「なに? 好きな女の子にちょっかいを出すみたいなの?」

「まあ、有体に言えばね」

「くっだらない。男子ってホントにバカよね」

「でね、後で先生に返すつもりだったらしいんだけど。凄い騒ぎになってさ」

「そりゃ、なるでしょ」

「で、学校にいられなくなって引越したんだ」

「ふん、いい気味ね」

「でも、行った先でも噂がついて回ってね。上手くいかなかったらしくてさ、家族はバラバラ。本人は耐え切れなくなって……」

 思わぬ展開に、流石のズザンネも言葉を失った。

 じんわりとした沈黙。重さを増した空気が圧し掛かってくる。

「僕が追い詰めて殺したんだ。探偵気取りでいい気になってね」

 沈みきった声でそう告げると、大きく息を吐いた。と、いつもの穏やかな表情に戻る。

「そんなことがあってさ。探偵とか、そういうのは卒業したんだよ」

「その話、オティーリエは知ってるの?」

「うん。話さないわけにもいかなかったし」

「あの子にはかなりショックだったんでしょうね」

「二日ほど寝込んじゃったからね。その後、家に押しかけて来たんだ。絶対、探偵になるべきだって。それが償いになるって言ってさ。正直さ、凄く驚いたよ。その頃のオッティは今と違って、自分の意見を主張することなんてなかったから」

「アンタはなんて答えたの?」

「無理だ。できないって」

「オティーリエはどうしたの? がっかりしたんじゃないの?」

「凄く寂しそうな顔はだったけど、了承してくれたよ。でも……」

「でも?」

「いきなりポケットからハサミを出して、髪をばっさり切っちゃったんだ」

「髪を?」

「昔のオッティは髪を腰まで伸ばしててさ。お人形さんみたいに可愛かったんだよ」

「今からは想像もできないわ」

「うん。で、こう言ったんだ。私が、このオティーリエ=ヴァイカートがエドの代わりに名探偵になるって」

「それから、あの子はずっと走ってるってわけね。でアンタは?」

「僕はオッティの近くにいようって決めたんだ。全部押し付けちゃうのはできないし、傍にいて少しでも力になりたいと思ってね」

「オティーリエの夢が叶うまで? それとも夢を諦めるまで?」

「厳しい聞き方だね」

「どっちなの?」

「オッティは探偵に向かないよ。大雑把な性格だし。それに人の言うことを疑わずに信じちゃうから」

「そう思ってるなら、アンタから言ってあげるべきよ。無理なんだって。そうすればオティーリエだって……」

「彼女の夢を邪魔する権利はないよ。僕にはね」

「ふん。面白くない正論ね。エドゥアルト、アンタらしいわ」

 諦めと呆れを混ぜ合わせた吐息をこぼす。

「アンタも知ってるでしょ。オティーリエって子はね、それはもうしつっこいのよ。何があっても諦めないんだから」

 それがエドとの約束であれば絶対に。と心の中で付け足す。

 ズザンネの言葉にエドが視線を落とす。普段、見せる事のない辛そうな表情だった。

「ま、いいわ。アンタもアンタなりに苦しんでるんだと思うし。それよりも、今日の件」

 強引に話題を切り替えた。

「エドゥアルト、アンタの力が必要なの。アンタならアタシやマルギットの見えないことが……」

「ごめん。無理なんだ」

「どうしてよ。このままじゃ取り返しのつかないことになるかもしれないのよ」

「解ってるよ! そんなことくらい!」

 珍しく声を荒げたエドに、ズザンネは面食らった。

「無理なんだよ! そんなこと言われても!」

 右手で頭を抱えながら、エドが続ける。

「考えられないんだ! どうしようもないんだ! 色んなことが頭の中に溢れてるのに、全然形にならないんだよ。普段はこんなことないのに」

「ど、どういうこと?」

「解らない。何も考えられないんだ。考えようとすると、頭が痛くなって」

 ズザンネが思い至る。彼の卓越した分析能力が発揮されるのは日常の延長線。今まで、こんな差し迫った事態に巻き込まれる事はなかった。恐らく緊迫感が増すと、考える事を無意識に拒否してしまうのだ。それは後悔が生み出した枷に他ならない。

「エドゥアルト」

「ホントに自分でも情けない限りだよ。肝心な時になんの役にも立てないなんて」

「ごめん。アタシが悪かったわ」

「ズザンネ、君が謝ることじゃないよ。これは僕の問題だから」

 力なく微笑む。

 その表情にズザンネは、彼の傍にいる少女の事を考えてしまう。

 エドの異変にオッティは直ぐに気付いたのだろう。だから、エドの代わりに進もうと決めた。二人の約束を果たす。そこに救いがあると信じたのだ。オッティも自分に特性がないのは承知しているはず。それでも走るしかない。手が届かないのが解っていても、辛い結末しかないのが解っていても。

「私の夢は名探偵。私はね、誰にも負けない世界一の名探偵になるんだ」

 荒唐無稽で屈託のない口癖としか思ってなかった。その裏にある気持ちを考えた事がなかった。常に天真爛漫な彼女がどれだけの無理を重ねているか、想像すらしなかった。ズザンネはそんな自分に腹が立つ。

「バカはアタシ、か」

 ぼそりと呟くと、その両手で自分の頬を叩く。

「エドゥアルト、行くわよ。こうなったら足で勝負するしかないわ」

「そうだね。ベストを尽くさないわけにはいかないね」

「エド! ズザンネ!」

 そこにオッティの声が飛び込んできた。

 大きく手を振りながら駆け寄ってくる。やや遅れてマルギットも戻ってきた。

「アリーセを見かけたって人がいたんだ」

 荒くなった息を整えながら、オッティが告げた。

「出店の人がね。アリーセらしい子が、男の人と一緒に歩いてるのを見たって」

「それホント? 見間違いじゃないの?」

 ここに来ての誤情報は命取り、懐疑的な態度でズザンネが尋ねる。

「間違いないよ。私の店の常連さんだし、私がアリーセと一緒に歩いてたのも見てたらしいんだ。私に比べて凄く可愛い子だったから覚えてるって言ってたし」

「なるほど。しっかりした人みたいね。それなら信憑性が高いわ」

「ん、なんか引っ掛かる言い方になってない?」

「オッティ、そんなとこで脱線してる場合じゃないでしょ」

 マルギットが割り込んできた。

「アリーセなんだけど、身なりのいい青年と一緒に裏道の方に向かって行ったらしいわ。早足で急いでいるみたいだったって」

「それだけ聞くと誘拐っていうイメージじゃないわね」

「そうなんだよ、ズザンネ。もうね、訳が解らなくなってきてさ」

 オッティがむぅぅと大きく息をついた。

 マルギットが頼りない名探偵少女から、エドに視線を移す。

「エド、何か思い当たることない?」

「ごめん、マルギット」

「ね、どんなことでもいいの。気付いたこととかない?」

「そう言われても」

「私達じゃどうにもならないの」

「無理なんだ。僕にはどうすることもできないよ」

「昔、私を助けてくれたわよね。今でもハッキリ覚えてる。物語の探偵みたいに……」

「ちょっと、マルギット」

 嫌な方向に転がり出した話を押し止めようとしたズザンネだったが、遅かった。

「ごめん。ホントにごめん」

 そう残すとエドは踵を返して駆け出した。

 意外な反応にしばし呆然とした三人だったが、

「私、行ってくる。二人はここで待ってて」

 我に返ったオッティがすぐさま後を追う。だが、走り詰めの一日、流石のオッティも、いつものスピードは出ない。少しずつ距離を詰めるのが精一杯だ。

「私、何か悪いこと言っちゃったの?」

 後悔で色を失ったマルギットが、ズザンネに確認する。

「ううん。アンタは悪くないわ。ただ、なんて言うかタイミングが悪かったのよ」

 大きく溜息をこぼしてベンチに腰を落とした。

「エドゥアルトはオティーリエに任せておけばいいわ。アタシ達は少し休んで体力を回復させておかないと」

「そ、そうね」

 マルギットとしては追いかけたいところだったが、鉛のように重くなった足は言う事を聞かない。仕方なくズザンネの隣に座った。


                    * * *


 アリーセが悔しげに唇を噛んだ。彼女にしては珍しい表情。

 視線を落として手を見つめる。力一杯ドアを叩いていた手はほんのり赤くなり、じわじわとした痛みがあった。

 大きく息を吐くと、室内をぐるりと見回した。

 広さは五メートル四方。部屋の隅には簡素なベッドとチェストが各一つ。明かりはチェストの上に置かれたランプだけで全体的に薄暗い。

 ドアの対面、分厚いカーテンの掛かった大きな窓に駆け寄る。カーテンを少し開けると、夕日が室内に差し込んできた。

 外を確認。芝生のある地面が遥か下にある。この部屋はおそらく三階。飛び降りるのは不可能だ。

 萎えそうになる足を叱咤しドアの前に戻る。分厚い木製のそれは絶望的に頑丈だ。

 アリーセはぐっと拳を作って、ドアを叩いた。

「開けて! 開けて下さい!」

 どんどんと激しく、何度も繰り返すが、やはり反応はない。

「誰か! 開けて!」

 声を限りに叫ぶが、その声は虚しく室内に響くだけだ。

 どうにもならない。圧し掛かってくる絶望に耐え切れず。ドアにもたれかかる形で膝をついた。己の迂闊さが悔やまれた。


                    * * *


 時間を少し遡る。オッティと別れたアリーセは、出店でフルーツジュースを購入。見事に任務を果たして、意気揚々とオッティの元に戻るべく歩き出した。しかし、行けども行けども、辿り着けない。心の隅に生まれた不安が、むくむくと育ち始めた頃。

 後ろから小声で、「ロベルティーネ姫」と呼ばれたのだ。

 反射的に振り返った彼女に、青年が頭を下げた。

 短く切り揃えた濃紺の髪に黒色の瞳。健康的な小麦色の肌。地味なデザインだが上質の布であつらえた服を着ている。

「このような場です、略式な礼となることをご容赦ください」

 堅苦しい言い方に、アリーセの背筋が自然と伸びた。天真爛漫な顔つきから、上品な微笑に変わる。それは少女アリーセから、カルディア王家のロベルティーネになった事を意味する。

「いえ、構いません。それより、どのような御用ですか?」

「自分は王家親衛隊のエッケハルトと申します」

「エッケハルト様、ですか」

 反芻しつつ首を傾げる。聞いた事のない名前だったからだ。アリーセも王家の一員、百名を超える親衛隊の顔と名前は全て記憶している。

「先月親衛隊に叙されました。姫様はご存知ないと思います」

 当惑したアリーセの様子に、エッケハルトは端的に説明した。

「それは失礼しました。しばらく家を離れているもので。で、エッケハルト様、御用というのは?」

「実は、一部の貴族が王家に対する造反を企てているとの情報が入りました」

 その報告にアリーセの表情が強張った。

「祭りに乗じて、この街にも貴族達子飼いの傭兵共が入り込んでいるとの話。また彼らが実力行使も辞さないという噂もあります。万が一に備えて、王都に戻られるようにとの国王様の達しです」

「お父様が?」

 アリーセが訝しげな顔になる。貴族達を警戒して親族を避難させたはずなのに。

「正式な通達は屋敷の方に到着しています。それを確認して頂けば、納得できると思います。通りの裏に馬車を用意してありますので急ぎましょう」

「でも」

 手にしたジュースのカップに視線を移した。オッティに何も伝えず行ってしまうのは抵抗がある。

「姫には王族としての責任と義務があるのです。さあ、早く」

 王族の義務と責任。子供の頃から教え込まれてきた事だ。公私を天秤に掛ければ、公を優先しなければならない。

「解りました。屋敷に戻りましょう」

 オッティには直ぐに使いを出そう。意を決して頷くと、急ぎ足で裏通りに向かう。

 通りの奥に小ぶりなランドー型の馬車が停まっていた。全体が黒く塗られており、窓にはカーテンまで掛かっている。

 ドアを開けてアリーセを中に乗せると、エッケハルトが御者台につく。

「少々揺れますが、ご容赦下さい」

「解りました。お願いします」

 エッケハルトが鞭を鳴らすと、ゆっくりと馬車が動き出す。

 裏通りを進む内に、アリーセは急速な眠気を感じた。頭を振り、目を擦って睡魔に抗おうとするが、その圧倒的な力に長くは持たなかった。


                    * * *


 目が覚めると、この部屋の簡素なベッドの上だった。

 ずんずんと痛む頭と全身に残る気だるさは、今までの睡眠が自然な物ではなかったという証拠だろう。

 何度もドアを叩き、人を呼んでみたが反応はない。アリーセは自身が囚われの身になっている事を悟った。

 恐らく相手は反国王派の貴族。自分を交渉材料に使おうというのは、容易に想像できる。しかし、父であるイーヴァイン二世は、その様な脅しに決して屈しない人間だ。となると、彼女の取るべき道は決まっている。

 首の後ろに手を伸ばす。シャツの襟、目立たないように縫い留められた小さな布片を剥がした。指先に小さな錠剤が落ちる。自決用の毒薬だ。

 それを口に入れる、寸前で手を止めた。

 自暴自棄に死を選ぶのは早い。何か脱出する方法があるかも知れない。

 立ち上がり、再び窓まで移動。カーテンを少し開けて、外の様子を観察する。

 芝生に覆われた地面の先にレンガの壁ある。アリーセのいる建物から、そこまで優に十メートル以上。どうやらここは広い敷地に立つ一軒家のようだ。更に目を遠くに。遥か先に見慣れた街並みが見えた。

 窓ガラスを割って悲鳴を上げたところで助けは期待できない。

「オッティさん達が私を捜してくれているはずです」

 自分が戻らない事に気づいたオッティ達が、心配して捜してくれているだろう。

 挫けそうな心に希望が生まれる。随分と都合の良い妄想。一介の学生に過ぎない彼らには過剰すぎる期待だ。それでも。

「絶対大丈夫。名探偵は絶体絶命のヒロインを助ける為に駆けつけてくれるんです。それが決まりなんです」

 胸元でぎゅっと拳を握った。

「なんとか、この場所を知らせないと」

 恐らく庭にも建物にも見張りはいるはず。彼らに解る様な合図ではダメだ。何か方法を考えなければならない。

 何か役立つ物はと、スカートのポケットを探る。小さな箱が手に当たった。今日のプレゼント交換で、オッティ達に渡そうと思っていた物だ。急いで包装紙を破いて中を取り出す。親指ほどのシルバーブローチだ。

「これなら。できるかも」

 僅かな、僅か過ぎる希望。

「囚われの姫君って、もっとロマンチックな物だと思っていたんでけすど。現実は甘くないですね。がっかりです」

 つまらない冗談を口にすると、滅入った気分が少しだけ軽くなった。


                    * * *


「待って! エド、待ってってば!」

 オッティは疲労しきった足に残った力を掻き集めて地面を蹴った。懸命に伸ばした手が、辛うじてエドの肩に届く。その瞬間を逃さず、ぐっと掴んだ。

 それを合図に、ようやくエドが止まった。

 完全に上がった息を各々で整える。

 オッティがエドに追いつけたのは公園の端。ジョギングコースを越えた高い木の立ち並ぶエリアだった。夕日も半分近く遮られて薄暗く、温度もやや低い。別の世界に迷い込んだ気分になる。

「エド、足早くなったね。でも、まだまだ私の方が早いけどね」

 背中を向けたままのエドに、明るい声で告げた。

「さ、みんなのところに戻ろ」

 エドが力なく首を振る。

「ワガママ言わないでよ。アリーセを捜さないとダメなんだから」

「オッティ、アリーセを見つけられると本気で思ってる?」

「当ったり前でしょ」

 意外なほど、あっさりと即答した。

「オッティらしいね。そう言い切れるのは凄いよ」

「ん? それ、私をバカにしてるのかな?」

 ぶっと頬を膨らませ不機嫌な顔を作るオッティに、エドは振り返って微笑んだ。

「違うよ。どんな状況でも希望を持てるのは、ホントに凄いことだと思う」

「それはエドも一緒でしょ。だから、こうやってみんなで」

「僕はアリーセを見つけられないと思ってる」

「ちょっと、エド……」

「マルギットの姉さんも助けられない。僕がこうしてるのは、いずれ追いついてくる現実に言い訳が欲しいからなんだ。精一杯できることをしたんだって。僕はただ逃げてるだけなんだよ」

 余りに情けない告白。視線が自然に俯いてしまう。

「いいんじゃないかな。逃げることは全然悪くないと思う」

 意外な言葉にエドは顔を上げた。

 オッティはいつも通りの笑顔で立っていた。軽蔑も嫌悪もない、澄んだ表情のままだ。

「エドが逃げたら、私が追いかけるから」

 そう言って右手を広げてエドの方に向けた。

「手が届いたら、止まってくれるもん。今、みたいにね」

「もし、手の届かないところまで逃げたら?」

「絶対に届くよ。エドがどこにいても」

 一歩近付いて、その手で頬に触れる。

「だから、辛くなったら思いっきり逃げていいよ」

「オッティは強くなったね。僕よりずっと」

 オッティの胸がズキンと痛む。しかしそれを押し込み、強気な表情を作った。

「もちろんだよ。だって、私は、オティーリエ=ヴァイカートは名探偵になるんだよ。名探偵は強いんだ。誰にも負けないんだよ」

 全部、嘘。『名探偵オティーリエ=ヴァイカート』は、ただの偶像だ。辛い現実から目を逸らす為に、自分の中に生み出した存在に過ぎない。それにすがってないと進めない。自分は弱いままだ。

「名探偵、か」

 噛み締めるエドに辛さが滲む。

「約束したよね。私が名探偵になるって、エドはアシスタントになるって」

「そう、だったね」

 互いに黙り込んだ。セミの鳴き声と、微かな風に揺れる木々の葉音だけが二人の間をじっとりと流れる。

「あの約束が、オッティを苦しめているのなら……」

「大丈夫だよ、私がなんとかするから」

 髪をばっさり切ったあの時と同じ、強い意思のこもった目で遮る。

「さ。戻ろ。みんな待ってるし。早くアリーセを探さないと」 

 くるりと踵を返す。

「ごめん。そうだったね」

 エドが隣に並ぶのを確認して、オッティは足を踏み出した。


                    * * *


「やっと戻ってきたわね」

 近付いてくるエドとオッティにズザンネが顔を向けた。

「エド、大丈夫だった? 私、変なこと言ったみたいで。その、ごめんなさい」

 マルギットが慌てて立ち上がり、深々と頭を下げる。

「ううん。僕が悪かったんだよ。ごめん。急に取り乱したりして」

 いつも通りの穏やかな反応に、マルギットはひとまず胸を撫で下ろした。しかし、この状況では気分は晴れない。

「でも、これからどうすればいいんだろう」

 力なくベンチに腰を戻した。と、その瞬間を見計らったように、直ぐ傍から何かが跳び出してきた。驚く四人を気にする風もなく、そのままマルギットの膝の上で丸くなる。

 猫だった。もふもふとした体毛の白猫。優美な銀細工の首輪がキラキラと輝いている。

「もう、びっくりするじゃない」

 微かに表情を緩めて、マルギットがその背中を撫でる。

「なに、その猫?」

「ちょっと前にね、悪い女の子から助けてあげたの。赤毛で品がなくて騒がしい子だったんだけど」

「マルギット、それ私のことかな?」

 不機嫌そうに尋ねるオッティ。

「それ以外にどう聞こえるの?」

「品がなくて騒がしくて、赤毛で可愛いってのは認めるけどさ。悪い子ってのは撤回を求めるわ」

「現に無理矢理捕まえようとしたんでしょ」

「そ、そりゃそうだけど」

「あ、ひょっとして、その猫がペテレイト侯爵んトコの猫なの? どうりで不細工にぶっくぶく肥えてると思ったわ」

 ズザンネの悪態は猫相手でも容赦ない。

「エドゥアルト、アンタもそう思わない?」

 視線を向けたズザンネが目を丸くした。驚愕の形相でエドが固まっていたからだ。

「その猫がここにいるなんて有り得ない。おかしいよ。その猫がここにいるなんて」

 掠れる声で漏らしながら、右手で頭を押さえた。

「でも、何がおかしいんだ。くそっ。全然、形にならない」

「エド、大丈夫? 顔色悪いよ」

「真っ青になってる。座った方がいいわ」

「ごめん。そうさせてもらうよ」

 オッティとマルギットの心配に弱々しく応えると、ベンチの端っこに腰を下ろした。ぶるぶると身体を震わせながら、両手で頭を抱える。

「エドゥアルト、無理に考えない方がいいんじゃない」

「そうはいかないよ。何かが解りそうなんだ。何かが。もう少しで」

「でもさ……」

「ズザンネ」

 やや強くなった口調に、ズザンネが続きを飲み込んだ。オッティとマルギットも出かけていた言葉を止める。

「もうちょっとだけ頑張らせてよ。少しでいいから」

 そう言われると三人は、不承ながらも頷く他ない。

「ありがとう。男子として少しくらい意地を張りたいからね」

 頭痛を堪えながら、微かに歯を見せた。

 実際、気が遠くなる痛みだった。まるで頭蓋骨を内側から削るようだ。徐々に意識が混濁していくのを感じる。

 大きく深呼吸して、目を閉じた。

「どうして、その猫がここにいるんだろう?」

「それってそんなに気になること? この猫なら夕方によく商店街で見かけるわよ」

 エドの疑問にマルギットが答える。

「そう言えばズザンネ、警察が物証を持っているって言ってたよね。マルギットの姉さんを犯人と断定できる」

「うん。アタシ達も見せてもらったんだけど、契約書だったわ。アリーセの誘拐計画と実行犯の手配をするって。サインも添えられていたわ」

「そのサインは本物だった?」

「偽物よ。そりゃそっくりだったけど。偽物に決まってるわ。お姉ちゃんが、そんなことするはずないもの」

「後はお金ね。その報酬として大金を払うって書いてあったから。そのお金が出たら決まりだろうって」

「私が南地区に住んでるから、そんなお金あるはずないって」

「そんなの偏見だよ。どこに住んでいたって関係ないもん」

「そんな風に言ってくれるのは、あんた達くらいよ。南地区の人間って、どうしてもそういう目で見られるの」

 反射的に声を上げたオッティに、マルギットが表情を緩める。

「マルギット、本当にお金があったのかな?」

「あるわけないわ。生活は楽じゃないもの。ちゃんと学校行って、御飯食べれるだけでも両親に感謝してるくらいよ」

 南地区では学校に通えるだけでも裕福な部類に入る。マルギットが通えるのは、彼女が特待生として学費の四割を免除されているからだ。

「どうにも解らないな」

 頭痛を堪えながら、エドが呟く。

 かなり辛いのだろう。息は浅く荒くなり、頬からは完全に色が消えている。

「マルギット。最近、お姉さんが誰かから大金を貰ったとかない?」

「エドもお姉ちゃんを疑ってるの?」

「違うよ。お姉さんが、どこかでお金を貰ってないと、契約書も物証としては弱いんだ」

「でも、大金なんて……あ」

 はっとマルギットが思い至った。

「ある! あるわ! この猫よ!」

 膝の上で丸くなって寝ている猫を指差した。

「実はペテレイト侯爵の猫を捕まえたのはお姉ちゃんなの。それで謝礼にお金を沢山貰ったって」

「へえ、なかなかやるもんね」

「すっごいね。ウチのクラブに入って欲しいくらいだよ」

「でも、お姉ちゃん、そのお金は全部教会に寄付しちゃったの。南地区の教会ね、屋根の雨漏りが酷くて。修理する寄付金を集めてたから」

「なにそれ。もったいない。神様にお金あげるなんて、ドブに捨てるのと一緒じゃない」

「正直言うとね。私も少しくらい残しといてくれたら助かったのにって思ってる」

 呆れるズザンネにマルギットは苦笑しつつも、優等生らしくない意見を述べる。

「マルギットの姉さんは大物だね。マネできないよ。エド? どうしたの?」

「解った」

 そう言うと、静かに立ち上がった。

 ふらふらと覚束ない足と小刻みに震える肩。限界近い状態だったが、その瞳は誇らしげに輝いていた。

「ペテレイト侯爵の件、奇妙に感じてたんだ。あの猫は健康そうだったし、毛並みも綺麗だった。つまり、誰かが世話をしているか。ちゃんと家に戻っているか。どちらかだろうって」

「世話をするくらいなら、侯爵に届けるわよね。懸賞金だって掛かってるんだもん」

 ズザンネの答えに、全員が頷く。

「マルギット、夕方に商店街で見かけるって言ってたよね」

「ええ、毎日ってわけじゃないけど。週の半分くらいは見かけるわ」

「ということは、普段から放し飼いにされているんだよ」

「ん? エド、待って。じゃあ、侯爵はどうして捜したりしたのかな。放っておいても屋敷に戻ってくるんでしょ」

「そこだよ。オッティ。侯爵は猫を探してたんじゃない。猫を捕まえてくれる人間を探してたんだ」

「なんのために?」

「スケープゴートにするために、だよ」

 マルギットとズザンネがはっと息を飲む。端的な説明だったが、二人には十分だった。

「え? どういう意味?」

 しかし稀代の名探偵にはハードルが高過ぎるようだ。

「侯爵はアリーセが、いやロベルティーネ姫がこの街に滞在しているのを知って、あるプランを立てた。それが姫の誘拐計画」

「侯爵は貴族だよ。アリーセをさらってどんなメリットがあるの?」

「交渉道具に使うんだ。おそらく国王が進めている貴族改革を中止させる為の」

「貴族改革って?」

「この前、アリーセに聞いたんだけどさ」

 オッティの疑問に、ズザンネが部室でアリーセから聞いた話を要約して伝える。

「誘拐自体はそれほど難しいわけじゃない。アリーセは護衛を連れずに出歩いてることもあるみたいだし。でも、問題は誘拐した後。交渉までどこに隠しておくか。街の中は警察が探し回るはずだし、屋敷だって捜査されるかも知れない」

「となると、一番良いのは街から連れ出して別の場所に監禁しておくことね」

 マルギットが続ける。

「今日みたいなお祭りの日は観光客が集まっている。それに紛れて街を出ればいいはずなんだ」

「でも、そう上手くいくかな。姫が誘拐されてるんだよ。街の出入りだって入念に調べられるはずじゃない?」

「そうだよ、オッティ。だからスケープゴートが必要になってくるんだ。犯人が見つからなければ街中の警備が厳しくなる。でも犯人の誰かを捕まれれば、状況は変わってくる。その人間の周囲を徹底的に洗うか、尋問で口を割らせる方に注力する。そうやって時間を稼いでいる間に、姫をさっさと運んでしまうんだよ」

「そこまでは解ったけど。それが猫探しとどう繋がるの?」

 オッティが首を捻る。

「猫を見つけて来た人には謝礼を支払う。ここがポイントなんだ」

「ん?」

「つまり、スケープゴートとして使えそうな人間だったら、大金を渡しておくのよ。後でそれを証拠の一つにできるように」

 ズザンネが答えた。

「あぁ、なるほど」

 稀代の名探偵が、ようやく納得して手を打った。

「南地区で革命家を自称してるようなお姉ちゃんは、理想的な存在だったってことね」

「お金を渡す時に、受領書にサインをさせたんだと思う。それを真似て偽の書類を作って証拠にしたんだ。そしてここまでの状況が解れば、アリーセの居場所も見当がつく」

「え? ホント? どこ?」

「ペテレイト侯爵の屋敷に決まってるでしょ!」

「ペテレイト侯爵の屋敷に決まってるわ!」

 ズザンネとマルギットが声を揃える。

「もう! オッティってどこまで鈍いのよ!」

「もう! アンタってどこまで間抜けなのよ!」

「も、もちろん。解ってたわよ。わざと解らないフリをしたの。アシスタント達の成長を確認するために。ホントだよ」

 オッティの苦しげな言い訳に空気が弛緩する。

 途端にエドの頭痛が増した。よろけながらベンチに戻る。

「エド、大丈夫? 凄い汗よ」

 マルギットがポケットからハンカチを出して、エドの額に浮かんだ汗を押さえる。

「ありがとう。正直、ちょっと無理をし過ぎたかな」

 ぶるぶると震える手を見ながら、また思考がぼやけていくのを感じる。ギリギリ間に合ったと言うべきだろう。

「でも、時間がないわね」

 ズザンネの言葉に割り込むように花火が上がった。

 祭りのメインイベント。仮装カップルコンテスト開催の合図だ。

「コンテストが終わるとお祭りも終わり。アリーセが街から連れ出されちゃう」

 ズザンネの言葉が全員に緊張を戻す。

「よし、ここからは時間との勝負だね。とりあえず警察に行って事情を説明しよう。で、侯爵の屋敷に乗り込んでもらって……」

「盛り上がっているところ申し訳ありませんが、そんな話で警察は動きませんよ。相手が貴族となればなおさらです」

 四人が集まっていたベンチの近くにある木の影から、黒い制服が進み出た。マルギットの家宅捜査を指揮していた青年、バルタザールだ。

「アンタ、尾行してたのね!」

「はい」

 柔らかな表情で事も無げに言う。

「おじさんは警官なんだよね? さっきの話聞いてたよね?」

「お、おじさん?」

 デリカシーの欠けた単語に顔を引きつらせる。

「見ての通り警官です。みなさんが話していたことは、偶然ですが耳にしました。まあ、それはいいんですが、私はまだ二十七歳です。おじさんと呼ばれる年齢では……」

「おじさん、私達の友達が貴族に捕まってるの!」

「残念ですが、それはできません」

 繰り返された「おじさん」に表情を暗くしつつも、きっぱりと答える。

「どうして?」

「証拠がありません。今の話は一介の学生が組み立てた理屈。そんな物で警察が動くわけにはいかないのですよ。しかも相手は貴族。私だって命は惜しいですからね」

 貴族には特権がある。踏み込んで「間違」は許されない。罰則程度で済めばいいが、下手をすれば極刑に処される可能性もある。

「それに見つからなかったお金の行く先も解りました。教会に問い合わせれば、裏も取れるでしょう」

「お姉ちゃんは犯人なんかじゃないわ」

「そうよ。そんなことも解らないなんて無能もいいとこよ」

「お嬢さん、今の発言は警官への侮辱にあたりますね。悪いですが身柄を拘束させて頂きます」

「そんなの横暴じゃない!」

 オッティの抗議を無視して、バルタザールは指笛を吹いた。それを合図に一台の馬車が近付いてくる。

「他の方々も一緒に来て頂きます。これはお願いではありませんよ」

 そう言いながら、腰に提げた剣の柄を握る。抵抗すれば抜くという意思表示だった。


                    * * *


「どうしてなんですか?」

 馬車に揺られながら、エドがバルタザールに尋ねる。

「一番の理由は時間です。あれこれ説明している暇はありませんでした。もう一つは、どこに貴族派の人間がいるか解らないという点です。あの公園にもいた可能性があります。もし、私の真意が漏れれば、姫の奪還はより難しくなるでしょう」

 馬車は警察署ではなく、大きく迂回して街の北側に向かっていた。

「なんでアタシ達の言うことを信じる気になったの?」

 次に質問したのはズザンネだった。

「マルギットさん宅で見つかった契約書。捜査が進み始めて直ぐに届いた犯行声明。いくらなんでも出来過ぎです。警官隊の中に貴族派の連中が居て、下らないシナリオを描いていたのが解ります」

「バルタザールさん、どうして私達を尾行したんですか?」

 マルギットの言葉からは険しさが薄れていた。彼、バルタザールが味方である事を認識しているからだ。

「賭けでした。ズザンネさんが何かをご存知のようでしたから。ひょっとしたらと思ったのです。まさか、名探偵のところまで案内して下さるとは想定外でしたよ」

「なんか警察の人に名探偵なんて言われると照れちゃうね」

 えへへと頭を掻くオッティに、

「アンタじゃないわよ!」

「オッティじゃないから!」

 ズザンネとマルギットの声が重なる。

「そんな言い方しなくたって」

「まあ、余談はこれくらいにして」

 逸れかけた話題をバルタザールが戻す。

「しかし、ここからが問題です。侯爵が警察の捜査を了承するはずないでしょう。誰かが姫が囚われていることを明らかにしないといけません」

「つまり侵入してアリーセを捜すわけだね。これこそ名探偵の出番だよ」

 オッティが瞳を輝かせる。

「学生さんにリスクを背負わせるのは、いささか心苦しいのですがお願いします」

「任せて。名探偵オティーリエ=ヴァイカートの力見せてあげる」

「はぁ。そこはかとなく不安になるわね」

 不敵な笑みを見せるオッティに、マルギットの顔は暗くなる。

「私は正面から侯爵を尋ねて、見張りの注意を引くとしましょう。少しでも騒ぎになればいいのですが……」

「アタシも行くわ」

 ズザンネが申し出た。

「アタシは運動神経に自信がないし。アタシが喚くだけで騒ぎになるはずよ。ま、適材適所ってやつね」

 その言葉にエドとオッティの表情が曇る。

「二人ともそんな顔すんじゃないの。侵入するアンタ達の方がリスクは高いのよ」

「それはそうかもだけどさ。でも、ズザンネの……」

「オティーリエ、アタシはアリーセを助けたいのよ。だから、自分のできることをする。別に普通でしょ」

 言い切るズザンネにオッティが頬を緩めた。

「そうだね。でも、ズザンネからそんな台詞を聞くなんて。明日は雨かな」

「それどういう意味?」

 じっとりと睨むズザンネに場の緊張が少し緩んだ。

「では、行動に移りましょうか。エドくん達三人は裏側から屋敷に。折りたたみ式の梯子がありますので使ってください。私とズザンネさんは正面から屋敷に向かい、二十分後に騒ぎを起こします」

 バルタザールの説明に各々が頷いて同意を表す。

「それと、エドくんにはこれを」

 懐から二十センチ弱の金属筒を二本手渡す。

「発煙弾という物です。後ろにあるピンを引き抜いて投げれば、煙が噴き出す仕組みになっています。かなりの量の煙なので目くらましに使えるはずです」

「こんな物をどこで」

「某機関で開発中のプロトタイプです。疑問は色々とあると思いますが、そこは機密事項ということで」

 バルタザールが人差し指を立てて口に当てる。くれぐれも他言無用という事だ。

「じゃあ、みんな、アリーセ奪還作戦開始だよ! 絶対に助け出すからね!」

 オッティが力強く宣言した。


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