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【4】

 『王立カルディアハイスクール』から南に徒歩二十分。入り組んだ狭い道と古い集合住宅の立ち並ぶ地区がある。

 夕日に淡く染まる路地を規則正しい歩調で進む少女がいた。マルギット=オイレンシュピーゲルである。

 マルギットはエド達のクラスで委員長を務めている。細面の顔は神経質そうではあるが整っており、ハイスクールでもトップクラスのクールビューティ。腰まで伸びた銀髪を首の後ろで無造作にまとめたシンプルな髪形も、飾り気の薄い彼女らしいチョイスだ。

 夏服のシャツ。右に通学鞄を提げ、左手には商店街の紙袋を抱えている。

「あ、マルギット姉ちゃんだ」

 走り回って遊んでいた子供達が、マルギットに気付いて集まってきた。

「ハインツ、コスタス。服が汚れてるじゃない。ちょっとこっちに来て、はたいてあげるから。カヤ、ローゼ。今度の休みにケーキの焼き方を教えてあげるわね」

 一人一人に優しい笑顔で声を掛ける。

「遊ぶのもいいけど、ちゃんと勉強もしないとダメよ。あと、お手伝いもね」

「はぁい」

 素直な返事に、よしよしと頭を撫でた。

 この地区は両親共働きが多く、子供達は自然と兄弟姉妹に近い関係になる。

「あんまり遅くなってはダメよ。ママが心配するんだから」

 遊びを再開、駆け出す子供達にそう付け足す。

「まったく手のかかる子達なんだから」

 嘆息するが、その表情は言葉と裏腹に穏やかな物だ。

 子供達の背中が見えなくなると帰路を急ぐ。路地を曲がること三度、奥まった場所に立つ古いアパートメントが彼女の住処だ。錆びた手すりの階段を五階まで上がり、部屋に入る。

「ただいま、お姉ちゃん」

「あ、おかえりぃ」

 玄関直ぐのリビングキッチン。その床でだらしなく寝そべっていた女性が、横着に右手だけを振って返事をする。

 その態度にマルギットのこめかみがひくっと痙攣した。思わず怒鳴りそうになる自分を懸命に抑える。しかし。

「ねえ、マルギット。お姉ちゃんさ、お腹空いちゃった。なんか作ってよ」

 相変わらず、ぐだっと四肢を投げ出したままだ。

 マルギットの頬がひくくっと引きつった。今にも吠えそうになる自分を辛うじて押し留める。だが。

「チキンが食べたいの。じゅわっと焼けたやつ。味付けは胡椒とレモンでね」

 欠伸交じりで付け加えられたリクエストに、マルギットの細い眉がひくくくっと吊り上った。堪忍袋の緒がブツブツと音を立てて切れる。

「お姉ちゃん」

 マルギットの口から発せられたのは怒声ではなく、低く落ち着いた声だった。

 流石は姉妹。その一言に含まれた心情を敏感に察したのか、寝転がってたマルギットの姉、ヘルミーネ=オイレンシュピーゲルは慌てて身体を起こす。

 マルギットに比べて若干丸みのある輪郭と、一回り大きな二重の瞳は、その性格の緩さを表しているようだ。肩口で切り揃えられた銀色の髪はくすんで、所々に寝癖がついている。

「冗談よ、冗談。ほら、お姉ちゃんだって、たまには妹に甘えてみたくなるの。この気持ち、マルギットには解んないかな」

「そうね。私はお姉ちゃんに甘えてばかりだもんね。朝食の支度も昼食のお弁当も夕食だって、いつも作ってもらってるし。掃除や洗濯だって任せっきり。日がな一日、ごろごろしてるだけだもんね」

「そんな言い方しなくても」

「お姉ちゃんさ、もう二十一なんだよ。仕事を見つけて働くとか。いい人を見つけてお嫁にいくとか。いつまでもパパとママの仕送りを当てにしてちゃダメだよ」

「それは解ってるけど。でもさ、私には……」

「私には革命家としての天命があるって言うんでしょ。いい加減、冗談は顔だけにして」

「顔はマルギットもそっくりじゃない。……そ、そんな怖い目で見ないでってば」

「革命って言うけど、何をどうするつもりなの?」

「それは王家を打倒して、新しい政府を……」

「そうじゃなくって、もっと具体的に、どんなプランで、どんなスケジュールで行動していくかってこと」

「そんなの考えてるわけないじゃない。革命ってのは、なんていうか、勢いっぽいものでやるもんなの」

 姉のいい加減な主張に、マルギットは大きな溜息をこぼす。

「夢を見るのはいいことだと思うわよ。でもね、口先で言ってるだけじゃ意味ないの。ちゃんと行動していかないと」

「でも、この前貴族からお金を奪ってやったわ。威張りくさった貴族に天誅を下してやったのよ。しかも、私一人の手で」

「それって、ペテレイト侯爵に猫を届けてあげたって話でしょ」

「そうだけど、貴族が溜め込んだお金を奪ったのは事実なんだし」

「すごく感謝されて、お礼にお金を貰っただけじゃない。自称革命家が貴族に感謝されてどうするのよ」

「う」

「しかも、貰ったお金を帰りに落としちゃうなんて、呆れて物も言えないわ」

 妹の容赦ない口撃に、ヘルミーネは頭を垂れる他ない。

 と、睨みつけていたマルギットが表情を緩める。

「今日、学校の帰りにシスターに会ったの」

 ヘルミーネが反射的に顔を上げた。

「お姉ちゃんにお礼を伝えて欲しいって。寄付してくれたお金で教会の屋根が修理できたって」

「もう、口止めしておいたのに」

「まったく、お姉ちゃんのお人好しには呆れて物も言えないわ」

 先ほどとは違う好意を多分に含んだ言葉。こういう姉だから、嫌いになれないのだ。

「そのお人好しに感心して、今日はチキンを買って来たの。リクエストは胡椒とレモンだっけ?」

 紙袋から骨付きの腿を取り出した。

 それを見たヘルミーネが目をキラキラと輝かせる。

「やった! 今日はご馳走ね!」


                    * * *


 翌朝。教室の席でクラスメイト達と何気なく歓談しながら、マルギットは懐中時計を確認した。始業まで十分、そろそろだ。ちらりとドアの方に目をやる。

「おっはよ!」

 いつも通り元気な声で大きく手を上げながら、赤毛の少女が入ってきた。その天真爛漫な仕草に、数人が挨拶を返す。

 次は小柄な眼鏡の少女。冷め切った目で周囲を一瞥し、無言のまま窓際の自席に座る。

 そしてその後に続くのは……。

 マルギットの心臓が大きく跳ねる。

 細身の少年だった。自分とは対照的な黒い髪と穏やかそうな顔立ち。大きな瞳は澄み切った青。友人達と挨拶を交わしながら、近づいてくる。

 マルギットの前で立ち止まると、「おはよう」と笑みを見せた。

「おはよう、エド。今日も暑くなりそうね。あ、そうだ。この前、美味しいベーコンサンドの店を見つけたの。次の休み暇だったら案内してあげるけど?」

 ここ数日、ずっと考えていた台詞だ。昨日寝る前に何度も練習した。今日こそは絶対言ってみせる。しかし、その決意とは裏腹に。

「おはよう。エド」

 と告げただけで止まってしまう。

 なんとか続きをと焦るマルギットを追い越して、エドは前の席に座った。

 先月の席替えで、運命はこれほどの妥協を見せてくれたというのに。一言の挨拶を交わすのが精一杯。自分の不甲斐なさが情けない。

 マルギットが背中に溜息をこぼしそうになった時だ。

「マルギット、ひょっとして僕に用があるのかな?」

 エドが振り返って尋ねてきた。

「ど、どうして?」

 声が半音跳ねた。顔が熱くなってくるのを感じる。

「なんかそんな気がしたんだけど。ごめん、気のせいだったかな?」

「あ、あのね。じ、実はこの前ね、その、美味しいベ……」

「エド! 大変なの!」

 弱々しいマルギットの声を、駆け寄って来たオッティが弾き飛ばした。

「今日の宿題を忘れてたんだね」

 マルギットがショックから立ち直った時には、既にエドの意識はマルギットからオッティに移ってしまっていた。

「そうなの。ね、エド、お願い」

 手を合わせるオッティに、エドは苦笑しながら宿題のプリントを差し出す。

「そのまま写すとバレるから適当に、半分くらい間違えてね」

「ありがとエド、助かったわ。っていうか、半分は酷いでしょ、半分は」

 オッティの指がプリントに触れる寸前、マルギットが横から奪い取った。

「はぇ?」

 オッティが間抜けた声を出す。エドも目を丸くしていた。

 二人だけではない。マルギットも自身の行動に驚いていた。

 ようやく伝えられると思った矢先の妨害に、つい手が動いてしまっただけ。嫉妬が後押しした事だった。

「ダメよ。自分でやらないと、オッティの為にならないもの」

 そう悟りつつも、マルギットの口から出たのは自己嫌悪に陥るのに十分な綺麗事。

「それはそうだけど、今日に限ってそんな厳しいこと言わなくても」

「何よ! 貴方の為を思ってなのよ! 意地悪で言ってるとでも思ってるの!」

 マルギットは反射的に椅子を蹴っていた。

 オッティの言葉に深い意味があったわけではない。ただマルギットは自分の暗い部分を指摘されたような気がしたのだ。だから、過剰に自己の正当性を訴えてしまう。

 常にクールで物静かな彼女の変貌に、教室からざわめきが吹き飛んだ。誰もが唖然として、成り行きを注視する。

「ごめん。簡単に見せちゃう僕も問題があるよね」

 申し訳なさそうに告げるエド。

「ううん。私が悪かったんだよ。やっぱ、宿題は自分でやらないと意味ないもんね」

 オッティも謝罪を込めて、そう続けた。

 そんな二人の反応にマルギットは益々追い詰められた気分になる。

「口先だけのくせに。心の中では真面目ぶってとか、バカにしてるんでしょ」

 結果、自身でも耳を覆いたくなるような事を口にした。すぐさま後悔が襲ってきたが、一度外に出た言葉を引き戻すなんて誰にもできない。

「そんなこと思ってないって。今日のマルギット、ちょっと変だよ。おかしいよ」

「変? おかしい? ふん、そんなのオッティみたいな子に言われたくないわ」

「どういう意味、それ」

 オッティの声に混じった憤りを感じて、エドが慌てて立ち上がる。

「二人とも、ちょっと落ち着こうよ。こんなことで喧嘩になるなんてさ」

「エドは引っ込んでて。マルギット、今のどういう意味?」

「説明してあげないと解らない? 将来の夢が名探偵だなんておかしい子に……」

 肌を打つ、ぱんと乾いた音が鳴った。

 何が起こったか、マルギットは直ぐに理解できなかった。頬から伝わるじんじんとした痛みに、平手打ちされた事を悟る。いきなりの暴力に対し不当性を訴えようとするが、オッティに睨まれて黙り込んでしまった。

 オッティの瞳には今にも溢れそうなくらい涙が溜まっていた。普段の彼女からは、想像すらできない目だ。

「何が不満なのか解んないけど。想いを踏み躙るような真似は許さない」

 冷たく告げられた一言に、マルギットの感情が弾けた。

「なによ。なによ! いつも私の想いを踏み躙ってるくせに!」

 叫びながら、渾身の力を込めて腕を振り回す。

 オッティは避けようとしなかった。左の頬で受け止める。

「いつ、私が踏み躙ったってのよ!」

 二発目のビンタにマルギットの足元が覚束なく揺れる。近くの机に手を付いて、どうにか身体を支えた。

「いつも、いつもじゃないの!」

 精一杯の感情を乗せて、今度は右の頬を叩いた。痛みに滲む視界の中で、オッティの頭がわずかに動く。と、平手が飛んで来た。痛みを押さえ込んで反撃する。

 無言で交互に頬を打ち合う二人の少女。鬼気迫る光景を、ただ見ているしかなかったエドだったが、その応酬が十発を越えた辺りで我に返った。急いで仲裁に入ろうとしたところで、後ろから襟首を掴まれ引き戻される。

「気が済むまでやらせてあげればいいの。その方が後腐れなくなんだからさ」

 ズザンネだった。

「エドゥアルト。女の子にはね、下手に話し合うより、感情をぶつけ合った方がいい時ってのがあるのよ。ま、呆れるくらいバッカな方法を選択してるとは思うけどね」

「でも」

「ちょっと! 何してるの!」

 悲鳴に近い叫びを上げながら、担任のハンナが真っ青になって駆け寄ってきた。いつの間にか始業時間を過ぎていたのだ。

「オティーリエさん、マルギットさん。お、おお落ち着いて。落ち着きなさい」

 教師の威厳を欠片すらも感じさせない上ずった声で、二人を止めようとするが。

「先生は引っ込んでて!」

「邪魔しないでください!」

 頬を真っ赤に腫らした二人に怒鳴られ、小さく悲鳴を漏らして後ずさる。

「せ、先生を呼んでくるわ」

 平手打ちの応酬を続ける二人に、自己の存在を否定する一言を残してハンナが駆け出した。だが、かなり焦っていたのだろう。近くの机に脚を引っ掛けてしまう。

「ふえぇぇぇぇ」

 気の抜ける悲鳴と共に、周囲のテーブルをなぎ倒して転がる。

 その豪快なアクションに、オッティとマルギットは手を止めた。

「ハンナ先生、大丈夫?」

「大丈夫、ですか?」

 恐る恐る声を掛けるが、机の下敷きになったハンナはピクリとも動かない。

「誰か保健の先生呼んできて!」

 マルギットとオッティが同時に声を上げた。


                    * * *


 放課後、ミステリィ研究会の部室。アリーセが入れた紅茶をすすりながら、ズザンネが心に浮かんだ疑問を口にする。

「物静かでお高くとまってる感じだけど、それなりにいい子って思ってたんだけどさ」

「マルギットのことだね」

 エドの確認にズザンネが頷く。

「オティーリエとマルギットってエレメンタリースクールから一緒よね」

「そうだよ。ジュニアは別だったけどね」

「あの二人、あんなに仲悪かったっけ?」

「そんなことはないはずだけど」

「なにかあったんですか?」

 尋ねるアリーセにズザンネが朝の出来事を端的に説明する。

「そんなことがあったんですか。オッティさんが今日来れないというのは、それが理由なんですね」

「違うわよ。オティーリエは居残りで、昨日の宿題をやらされてるだけ」

「居残りで宿題!」

 アリーセの声が跳ねた。

「いいですね。なんかとても憧れます。広い教室、一人残って黙々とペンを進める。あぁ、なんて素敵」

「そのシチュエーションのどこがいいっての?」

「そこで愛が芽生えるんです」

「はぁ? バッカじゃないの」

 ズザンネは呆れ満開だ。

 王族への敬意は欠片もない。その言を一切翻す事無く現在に至っている。

「だって、そこで偶然の出会いがあって恋が始まるんですよ」

「一人で教室に残ってて、どんな出会いがあるっての?」

「それは、えっと……。ね、エドさん」

「そこで僕に振っちゃうんだ」 

 思わず苦笑してしまう。

「じゃあ、誰もいないと思っていたけど。机の下に誰か隠れていたとか?」

「それは素敵な展開ですね」

「バッカじゃないの。そんなホラーな状況から愛が生まれるなら。明日にでも世界から紛争がなくなるわよ」

 残った紅茶を一息に飲み干し、ズザンネが腰を上げた。

「さて、今日は図書館に寄らないといけないの。悪いけど、先に帰るわ。アリーセ、美味しいお茶ありがとね」

「いえいえ」

「エドゥアルト、二人きりだからって、変な気を起こしちゃダメだかんね」

「はいはい。忠告は感謝しておくよ」

「じゃあ、また明日」

 ズザンネが部屋から出ると、エドとアリーセという珍しい組み合わせになった。途端に。

「私、エドさんに聞きたいことがあったんです」

 柔らかい笑みを添えてアリーセが尋ねてきた。

 ズザンネの下らない忠告を意識して、エドはなんとなく照れてしまう。

「なにかな?」

 紅茶を口に運びながら、なるだけ平静を装った。

「エドさんはオッティさんのことを、どう思っているんですか?」

 直球ストレートな質問にエドは咳き込みそうになった。

「オッティね。行動力と正義感に溢れた人間かな。ややお節介なところもあるけど、基本的には善人だし。ただ、周囲を振り回すところがあるからね。そこを少し自重してくれたら……」

 頬を目一杯膨らましたアリーセに言葉を止めた。

「何か不満だった?」

「不満です。私はそういうことを聞きたいんじゃありません」

「ごめん。そうだった? 言葉って難しいなぁ。そう言えば、この前の授業でも……」

「エドさん」

 転がり始めた話をアリーセが強引に押し留める。

「はぐらかそうとしていますね。いいです。じゃあ、ハッキリと聞きます。エドさんはオッティさんのことが好きなんですか? 愛してるんですか?」

「あはは。参ったな」

 絶対に聞き出そうという決意を漲らせているアリーセから、エドは視線を外すしかなかった。


                    * * *


「オティーリエさん、もう宿題を忘れちゃダメですよ」

 放課後の教室でハンナが告げた。両手を腰に当てたポーズは、威厳たっぷりに振舞っているつもりだろう。

「はい。気をつけます」

 オッティが申し訳なさそうに答える。

 教室にはハンナとオッティだけ。夕方になり、やや勢いを緩めた太陽の差し込む室内は、普段の喧騒もなくガランと寂しい。

「先生、ごめんなさい。その、私につき合わせる形になっちゃって」

「いいの。これも先生の務めだから」

 ハンナが微笑む。普段なら、まだまだ子供っぽい愛らしい表情になるはずだが、今は少し違う。額に貼られた大きな絆創膏と左目の下に出来た青痣が痛々しい。

「それに、その怪我も私のせいで」

 俯くオッティの頭を、ハンナがそっと撫でた。

「そんな顔しちゃダメ。オティーリエさんは、元気に夢に向かって走ってないと」

「夢に向かって……」

「私もね、ずっと先生になるのが夢だったの。ハイスクールの先生がとっても素敵な人だったのよ。私も、そんな風になりたくて苦手な勉強を一生懸命頑張ったんだから」

「じゃあ、先生は夢を掴んだんだね」

「まだまだ新米で、頼りないところもあるかも知れないけど」

「そうだよね」

「そこは否定して欲しいかったのに」

 そう言うと大袈裟に溜息をついてみせた。

「オティーリエさんは探偵になりたいのよね。その夢に向かって頑張らないと」

「探偵」

「オティーリエさん?」

 呟いたオッティに、ハンナが首を傾げる。その声に寂しい色が混じっていたからだ。

「先生、違うよ。私は探偵じゃなくて、名探偵になるの。誰にも負けない世界一の名探偵に、ね」

 にぃっと明るい表情に変わった。

「うん。オティーリエさんは、そうでなくっちゃね。あ、まだ少し時間あるかしら。頼みたいことがあるの」

「なになに? ひょっとして事件の依頼とか?」

「名探偵に頼むような事件には巻き込まれてないから大丈夫よ」

「なんだ。ちょっと期待したのに」

「ふふ。じゃあ、ちょっと待っててね」

 ハンナがいそいそと教室を出る。

 手持無沙汰になったオッティはなんとなく窓に目をやった。

「私の夢は世界一の名探偵、か」

 力のない声に首を振ると、

「そうよ。私は、オティーリエ=ヴァイカートは名探偵になるんだから。誰にも負けない世界一の名探偵に」

 自身に言い聞かせるように呟く。

 不意にドアが開いた。

 視線を向けたオッティが固まる。そこに立っていたのは、ハンナではなかった。

「マルギット」

 じんわりと嫌な空気。マルギットとオッティ、互いが言葉を探す。

「ごめん。マルギット」

 気まずい沈黙を破ったのはオッティ。手を合わせると、深々と頭を下げた。実にストレートな謝罪表現だ。

「いきなりぶつなんて酷いよね。ごめん。すっごく反省してるから」

「ううん。私の方こそ、オッティを傷つけるようなこと言っちゃったし。許してくれる?」

「もちろんだよ。だって、マルギットはエレメンタリースクールからの友達だもん」

「友達? 私が?」

 マルギットにとって意外な一言だった。

「そうなんだ。そういう風に思ってくれてたんだ」

「え? なに? 私、変なこと言った?」

「ううん」

 小さく首を振る。

「そう言われると、オッティとは長い付き合いになってるなって、ね」

「なんか忘れてたみたいな言い方」

「私、どうでもいいことは、直ぐに忘れちゃうの」

「なにそれ。私がどうでもいいみたいじゃない」

 ぷっと頬を膨らませて不機嫌な顔を作った。

「冗談よ。ほら、そんな顔してると、どんどん下膨れになっちゃうわよ」

「それは大変! 折角の愛らしい顔が台無しになっちゃうよ!」

「そういうの自分で言っちゃうんだ」

「誰も言ってくれないからね」

 そう言って微笑む。

「今日は色々あったけど、いい日になったよ」

「え?」

「だって、マルギットの笑顔見るのってさ、久しぶりだからさ」

 オッティにつられて笑っていた。マルギットは、そんな自分に今更ながら気付いて恥ずかしくなる。

「あ、赤くなった」

「な、なに言ってるの。なってないわよ、そんなの」

「照れちゃって可愛いなぁ」

「変なこと言わないで!」

 図星を衝かれて、ついつい声が荒くなってしまう。

 教室の外では、ハンナが二人のやり取りに聞き耳を立てていた。

「喧嘩しても直ぐに仲直りできるのは若さの特権ね」

 満足そうに頷く。

「それにしても、生徒のトラブルを綺麗に収められるなんて。私も一人前になったもんね。自分でも知らない間に成長していたんだわ。教師としても人間としても」

「あ、ハンナ先生。探していたんですよ」

「はい?」

 都合の良い思考を中断して振り返る。数学のダグマルだった。ハンナの二つ先輩にあたる男性教師だ。

「ハンナ先生。資料室の鍵、開けっ放しですよ。僕が閉めておきますから、鍵を貸して頂けますか?」

「あ、すっかり忘れてました。じゃあ、お願いします」

 スカートの右ポケットに手を入れた。

「あれ?」

 出てきたのはキャンディだけ。首を傾げながら次は左の方。

「あれれ?」

 またもキャンディ。今度はお尻。続いてシャツの胸ポケットを探すが、やはりキャンディしか出てこない。

「あれれれ? あれれれれ?」

「ハンナ先生?」

 次第に顔色が悪くなっていくハンナに、ダグマルも薄々状況を悟りつつあった。それでも確認してしまうのが人間の性なのだ。

「うぅ……失くしちゃいました」


                    * * *


「オッティさんが好きなんですか? 愛しているんですか?」

 あくまで直球勝負のアリーセは、もう噛み付きそうな勢いで身を乗り出してきた。恋愛に対する彼女の憧憬は、妄想の域に達しつつある。事ある毎にそういう話題に触れたがるのだ。

「今日のターゲットは僕か」

 エドは嘆息しつつも、ベストな答えを検索する。

「アリーセの方こそ、好きな人いるの?」

 ピタリとアリーセの動きが止まる。直後、いきなり顔が真っ赤になった。

「す、すす、好きな人なんて、いるわけないでございますよ」

 急に変わった言葉遣い。実に解りやすい反応だ。

「アリーセに想いを寄せてもらえるなんて、なんか羨ましくなってくるね」

「そ、そんな」

 上気した頬を両手で隠し、いやんいやんと身体をよじる。

「で、どんな人なの?」

「それは、その、ちょっと待ってくださいね」

 足元に置いてあった鞄を机に引っ張り上げると、中から一冊の本を取り出した。

 エドはタイトルに見覚えがあった。人気の幻想小説だ。美貌の姫君と気高き騎士の恋を織り込んだ作品らしい。

「ひょっとして」

「そうなんです。この物語に登場する騎士様に私は淡い恋心を抱いているんです」

 中空をうっとりと見つめながら告げるアリーセ。一方のエドはリアクションに戸惑ってしまう。どう反応すべきか迷った挙句。

「へえ、そうなんだ」

 と控え目な肯定を返すのが精一杯だった。

「いつの日か私の前にも、素敵な騎士様が現れたらといいなと思っているんです」

「夢があっていいね」

「はい。オッティさんも言ってました。夢は未来を進む為のコンパスだって」

「夢は未来を進む為のコンパス、か」

「どうしました? エドさん」

 寂し気に繰り返すエドに、アリーセは首を傾げる。

「ううん。いい言葉だと思ってね」

「そうですよね。私もそう思います。そうだ。エドさん、実はお願いがあるんです。今から少しお時間あります?」

「別に構わないけど」

「良かった。あの、オッティさんやズザンネさんには内緒にしておいて欲しいんです」

「うん、いいよ」

「じゃあ、行きましょう。さあ、早く早く」

 椅子を蹴って腕を引っ張るアリーセに苦笑しつつ、エドも腰を上げた。


                    * * *


「じゃあね、マルギット」

「明日はちゃんと宿題やってきなさいよ」

「あれ? 今日って宿題出てたっけ? 嫌だな、冗談だよ冗談。そんな怖い目しないでってば。じゃあ、また明日ね」

 校門前で互いに手を振りあって別れた。

 走り去っていくオッティの背中が見えなくなると、マルギットは小さく溜息をこぼす。

「オッティとお姉ちゃんって、どこか似てる。夢ばっかり見てると、あんな風になっちゃうのね。でも、なんか羨ましいな。いつも楽しそうで」

 商店街に向かって歩き出す、夕食の買い物はマルギットの日課なのだ。

「私も、もうちょっと頑張らないと」

 名探偵に革命家。現実主義のマルギットはそんな荒唐無稽な夢は持っていない。目下の夢は、ずっと片想いを続けている少年と遊びに行きたいというささやかな物だ。

「明日こそは、誘えるように勇気を出そ」

 ここ何ヶ月も続いている決心を改めて立てた。明日は不思議とできそうな気がする。

 いつもより軽い足取りで野菜とハムを買った。気持ち的にはチキンを奮発したいくらいだが、家計的に贅沢はできない。

「あとはパンくらいかな。え?」

 荷物を抱えて大通りに出たマルギットが足を止めた。通りの向こう側、曲がり角で立っているエドが見えたのだ。咄嗟に近くの看板、八百屋の看板の陰に身を隠す。

 そこにいた白いモコモコした毛並みの猫が驚いて、ふうっと警戒の声を上げた。

「マルギットちゃん、どうしたんだい?」

 怪しさ満開の行動に、八百屋の店主も首を傾げる。

「静かにして」

 一言で猫と店主を黙らせ、そろりと首だけを出して様子を窺う。

 エドはいつもの制服姿だった。手に紙袋を提げている。そこに描かれているロゴは、女性用アクセサリーを扱うショップの物だ。

「プレゼント? 解った。きっとママへのプレゼントね。エドって家族想いなんだ」

 都合の良い模範解答を組み立て納得する。

 それよりも、と次の課題を考える。こんな場所で出会えたのは神様からの贈り物に他ならない。先ほどの決意を実践する時だ。

「あら、エド偶然ね。折角だしお茶でも飲んでいかない? ちょっと強引かな。あっちに美味しいケーキのお店があるのよ。寄っていかない。ってダメね。男の子ってあんまりケーキとか食べないもの。エド、お茶でもしない? これじゃ軽すぎるわ」

 しゃがみ込んでぶつぶつとシミュレーションを始めるマルギット。

 そんな彼女に店主が再度、「マルギットちゃん、大丈夫かい?」と声を掛けるが。

「うるさいわね。今忙しいの」

 普段のマルギットからは想像もできない厳しい口調に、肩を竦めて引き下がる。

「エド、今朝はごめんね。お詫びにお茶でも奢るわ。これなら自然よ、すっごく自然」

 最適な答えを導き出し、よしっとばかりに立ち上がる。「エド、今朝はごめんね」を繰り返しながら、エドの方に踏み出した。と、そこで。

「ごめんなさい、エドさん。待たせてしまって」

 一人の少女がエドに駆け寄ってきた。

 柔らかそうなハチミツ色の髪に陶磁器のような白い肌。瞳は瑞々しく透き通る碧。身体全体が淡く輝いて見えるほどの美少女だった

 エドから紙袋を受け取ると、エドと親しげに笑顔を交える。その距離感は自分よりもはるかに近い。

 踵を返し、マルギットは駆け出した。少しでも遠くに離れたかった。

 マルギットは自身の容姿にそれなりの自信を持っていた。しかし、エドの前で微笑む少女を見た瞬間、そんな自分が恥ずかしくなった。それほどまでの差を感じたのだ。

 気がつけば自分の部屋だった。ベッドに身体を投げ出して、枕を顔に押し付ける。ただ声を殺して泣くしかできない自分が余りに惨めだった。


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