ep7 受容
目が覚める。カーテンの隙間から光が射していて、朝だと分かる。時計を見やればいつもと同じ時刻。しかし今日がいつも通りの朝ではないことは明白だった。
ベッドの上で体を起こし、拠点の殺風景な部屋を流し見て、しばらくそのまま動けなかったからだ。普段はすぐにベッドから降りて習慣化した身支度をする。それができない。わずかな抵抗と躊躇。理由は考えるまでもなく自覚していた。
他の街で仕事を終えて、一週間ぶりにイリュークトへ戻ってきたのが昨夜。その疲れが残っているわけではない。この街は活動拠点であって、遠方での仕事は珍しくないし、長期の外出や移動にも慣れている。何なら教育機関時代の訓練の方が過酷だった。つまり問題があるのは体ではない。
今日は、アトリエに行く。
外はよく晴れていた。
南の拠点から北のアトリエまで、歩いて一時間はかからない程度だ。市場の雑踏、石造の建築、風に揺れる洗濯物、炊事の匂い。人々の変哲のない生活を映すその全てが、決定的に俺から遠いと感じた。……だから何だというのか。最近無駄な思考が増えている。
描かれに行くのは久々だ。冬祭り以降、意図的にあそこへ立ち寄るのを止めていたこともある。自分の思考を整理する時間が必要だと思った。しかしそうやって数週間空けていざアトリエへ行った時は、ゼノの画材不足で制作は進まなかった。仕事道具も揃えられない暮らしでありながら絵を描き続けるのは、なぜだ。そこまでの執着や熱意がある人生を俺は知らない。
アトリエのすぐ近くに着くと、見慣れた黒髪の男がいた。足元の石畳に陽の光が散っている。川沿いの無骨な欄干に体を預け、水面を眺めているゼノは俺に気づいていない。今日は休業か、それとも息抜きか。どこかの工房から金属を叩くような音が響く。まるで警鐘のように。
「おい」
逡巡して声をかければ、ゼノがゆっくりとこちらに首を向ける。昼間とはいえこの時期だ、北の川沿いは一段と冷え込む。にも関わらずゼノはコートの前も閉めていなかった。
「こんにちは、ルネ」
「何をしている」
「休憩。見て、あそこに鳥がいる」
ゼノが指差した方には二羽の水鳥がいた。それなりの大きさだ。羽の色からして番だろう。
「鳥を見てどうする」
「どうもしないけど、面白いよ?」
「ただ餌をとっているだけだ」
風が吹く。水面が揺れて、鳥はそのうち連れ立って飛んだ。それを見送りながらゼノが言う。
「君も好きなんでしょ」
「何が」
「景色を見るの。雨宿りしていった時も、冬祭りの時もそうだった」
「……さあな」
違う、と即答してもよかった。それなのに何故か言い淀む。自分でも理由が分からない。
好き嫌いで判断するなら、嫌いではない。一人でいる時は大抵仕事の準備や体の調整、それから、外で過ごすことがある。人のいない高台や丘で目の前の景色を眺めるだけ。
昔からそうだった。全てから離れて一切の思考しないように努める。メンテナンスのようなもので、それをすると調子が安定するから続けているに過ぎない。これをゼノの言うような趣味の話とするのは違和感があった。
そんな思考が、近づいてくる複数の軽い足音に遮られる。三人の子供が俺たちの目の前を走り抜ける。十にも満たない年頃だ。互いに追いかけ合うことの何がそんなに楽しいのか、笑い声をあげていた。
「元気だねえ」
無邪気な子供が微笑ましいのだろう。ゼノの声が緩んだのが分かった。
「……何の意味があって、あんなに走る」
「ええ? 子供が走るのに意味なんて考えないでしょ」
「無駄な行動だ」
「僕らも今、無駄なことしてるよ」
ゼノが笑う。俺は何も答えない。確かにこれは無駄な時間だ。こいつに絵を描かせるために来たのに、つられて川縁で足を止め、意味のないことを話して。
「そろそろ描こうか?」
俺の沈黙をどう受け取ったのか、単純に休憩を満喫し終えたのか、ゼノが伸びをして言う。髪も服も黒いその姿の後ろで、冬晴れの空がひたすらに広い。民家や工房から立ち上る煙が風に揺られ、境界を失い、消える。
「……いや」
悩んだわけではない。俺は無意識に詰めていた息を吐いて、欄干に背中を預けた。
「もう少し後でいい」
「そっか」
簡単な返事だけ寄越して、ゼノはまた川を眺める。相変わらずの態度に少なからず安堵したのは、事実だ。
以前ならゼノといる時にこんなことはしなかった。絵を回収するために、あいつに描かせるために必要だから、合理的だから。全ての行動はそれだけだ。それなのにいつの間にか、何かが致命的に変容しているような、治らない不調を抱え続けているような感覚がつきまとっている。
そもそも、恐らくこれは不調ではない。
去年の時点で、ゼノといる時といない時の、自身の状態を分析した。アトリエを訪ねる期間を空けても、自分の中に生まれた「ずれ」が無くなることはなかった。むしろアトリエに行かないからこそ、記憶の中にある大きな窓辺に意識が向くことが増えた気がした。
そして極めつけが今日だ。ここでゼノと景色を眺めていてもいいと思った時点で、俺はこの問題を処理する術を、失っている。
(これ以上は誤魔化せない)
分かっている。
分からないふりをしていたが、ゼノの元にいる時だけは、俺は全ての評価から逃れられていた。他者のそばにいて、そんな風にただ存在することだけを許容されることは奇妙で、理解できず——ひどく、楽だった。




