扇子言語で〝地獄に堕ちろや〟がうまくできなかったお嬢様のために、それ専用の扇子を作ることにした
時系列的に、扇子言語シリーズの中で一番古い時代のお話になります。
いかにして、あの扇子ができたか!?
この世界には扇子言語という、扇子の開き方、角度、添える指などで本音を伝える文化がある。扇子言語で伝える本音はすべてが許される、人に優しい言語である。
◆
「カルロ兄様、私うまくできませんでした……」
乳兄妹であるお嬢様が、僕の工房に来るや否や、長いまつ毛を伏せポロポロと涙をこぼして言った。
「お嬢様、一体どうしたのですか!?」
僕は慌てて作りかけの扇子を作業台置くと、お嬢様の涙をハンカチで拭った。
マドレーヌ・タルタン伯爵令嬢は、僕の五つ下の乳兄妹だった。
柔らかな栗色の髪に垂れ目がちの紫の瞳、透き通るような白い肌。小さな唇は愛らしいローズピンクで、笑うと小さな花が揺れるように可憐な彼女は、妹のように大切な女の子だった。
セスター男爵夫人である僕の母親が、お嬢様とその兄ケイシスの乳母で、僕と妹のマルカはお嬢様達とは本当の兄妹のように育った。
とはいえ、さすがにいつまでもそばにいることはできず、僕は学園に入学したのを機にタルタン伯爵家から出た。今は扇子職人として工房で働いている。
マルカは、そのままお嬢様の侍女となった。
お嬢様は、僕が伯爵家から出たあとも兄のように慕ってくれた。
今日は、婚約者のリチャード・メルザナ侯爵令息との月に一度のお茶会の日だったはずだった。
おとなしいお嬢様は、高圧的なリチャードとはうまくいっておらず、いつもデートのあとは疲れ切っていた。
しかし、それでも今までは泣くなんてことはなかった。
もしや女好きと噂のあるリチャードに迫られたのではないかと慌てた。
「お嬢様、落ち着いてください。さあ、深呼吸しましょう」
お嬢様は僕の言葉にこくこくと頷くと、深呼吸を何度か繰り返した。
「カルロ兄様、ごめんなさい。もう、大丈夫です」
お嬢様の目はまだ潤んでいたが、涙は止まったようだ。
僕は安堵の息を吐いた。
お嬢様を工房に備えてあるソファに座るよう勧め、僕は彼女の好きな蜂蜜入りの紅茶をテーブルに置いた。
お嬢様は紅茶を一口飲むと、ホッとしたように表情を緩めた。
「一体どうしたのですか?」
もし、リチャードの奴がお嬢様に何かしたのだったら許さない。
表立っては爵位の上のリチャードに報復することは難しいが、やりようはいくらでもある。
「私、リチャード様に婚約を破棄すると言われたのです……」
しかし、お嬢様の答えは想像もしなかったものだった。
「は? 婚約破棄?」
こんなに可愛いお嬢様に?
僕は驚いて目を丸くした。
「私はこの通り地味ですし、気の利いた会話もできない女です。だから、それは仕方がないと思っています。リチャード様がその腕に抱いておられた女性は、とてもお綺麗で艶めいた方でしたから……」
お嬢様が諦めたような微笑みを浮かべた。
この婚約が決まってから、会うたびにリチャードに言われてきたのだろう。お嬢様はすっかり自信を無くしていた。
「お嬢様はとても可愛いです。思慮深く博識で、僕はお嬢様と話すのが楽しいですよ?」
途端にお嬢様は、顔を真っ赤にした。
「そ、そんなことございません。カルロ兄様はお優しいから」
お嬢様は頬を赤く染めたまま、恥ずかしそうにまつ毛を伏せた。
確かに、お嬢様は大輪の薔薇のような美しさではないかもしれない。しかし、楚々と咲く可憐な花のような女の子だった。
「本当にお嬢様は、すみれの花のように可愛いです。僕にとって、妹のように大切な女の子ですよ」
僕の言葉に、お嬢様は寂しげに微笑んだ。
「私は、婚約破棄は構わないのです。ただ、婚約破棄されたというのに、私は毅然とあの扇子言語をすることできませんでした。貴族令嬢として情けないです……」
理不尽に婚約破棄をされた貴族令嬢が、クズ婚約者にする扇子言語と言えば、あれだ。
〝地獄に堕ちろや〟
扇子を折って下に捨てる扇子言語だ。
「私の力では、扇子を折ることができませんでした。きっと私には、令嬢の矜持や覇気が足りないのでしょう……」
お嬢様は、悲しげに扇子を撫でた。
「お話中、失礼いたします。お嬢様、そろそろお屋敷に帰られませんと……」
部屋の外に待機していたマルカが、遠慮がちに声をかけた。
「わかったわ。……カルロ兄様、聞いてくださってありがとうございました。話したらすっきりいたしました」
お嬢様は、小さく微笑むと丁寧にお辞儀をして帰っていった。
マルカがあとは任せろというように頷いたので、僕も小さく頷いた。
その夜、僕は扇子を手に持つと、あらゆる角度から観察した。
扇子の骨組である扇骨は、昔はカジスの木で扇骨を作ることが主流であったが、昨今はビナーの木で作ることがほとんどだった。
お嬢様の持っていた扇子も、僕がビナーの木を削って作った物だ。
僕は、手に持っていた扇子を閉じグッと力を込めた。
しばらく大きく反ったあと、やっと小さくペキペキと音がして折れた。
二つに折った扇子の間を、扇骨に付いた繊細なレースが蜘蛛の糸のように無惨に糸引いた。
その折れた扇子は美しくなかった。
その後、僕は時間を見つけては図書館に行き扇子言語にまつわることについて調べた。
その結果、扇骨がビナーの木に変わってから、婚約破棄の時に〝地獄に堕ちろや〟の扇子言語をする令嬢が激減していることがわかった。
その中でも、果敢に〝地獄に堕ちろや〟を決めた令嬢は武の一門の御令嬢であったり、長い期間じわじわと鬱憤を溜めて溜めて溜めまくり、婚約破棄で一気に爆発させた御令嬢だった。
扇子を折れないのは、どう考えても扇子の問題だろう。
昔、扇骨としてよく使われていたカジスの木は、扱いやすい反面乾燥しやすかった。
そのため、〝地獄に堕ちろや〟の扇子言語もしやすかったに違いない。
一方のビナーの木は、しなやかな材質で細く削っても丈夫だ。そのため、ビナーの木の栽培に成功してからはこちらが主流となっていた。
一応扇子は折る前提のものではないので、丈夫で優美な扇子を作れるビナーの木を扇骨とした物が今はほとんどだった。
僕は、ふむ……と顎に手を当てた。
結局、一方的に切り出されたリチャードの婚約破棄は一旦保留となり、ひと月後に再度話し合いの場を持つことになったそうだ。
ということは、ひと月後が最後のチャンスだ。
◆
――私の初恋は、いつ恋をしたのかもわからないくらい小さな頃だった。
五つ上の、穏やかで優しいカルロ兄様……。
私と兄の乳母であるセスター男爵夫人の次男で、落ち着いた藍色の髪に、柔らかな若葉色の瞳の、いつも優しく微笑んでいる男の子だった。
私と同じ年のマルカは活発だったし、実のお兄様は、やんちゃでいつも木剣を振り回して遊ぶような人だったから、おとなしい私は自然とカルロ兄様と一緒にいることが多かった。
カルロ兄様と過ごす、緩やかに流れる時間が好きだった。
いつどんなタイミングでなんかわからない。
私は春の日差しの中で花が開くように、当たり前のようにカルロ兄様に恋をした。
だからといって、私は伯爵令嬢でカルロ兄様は男爵家の次男だ。そこには越えることのできない身分の壁があって、弱虫の私にはそれを乗り越えるような勇気もなかった。
カルロ兄様は学園に入学すると寮に入り、卒業後は扇子職人となった。
手先の器用なカルロ兄様は、三年経つ頃には独り立ちして自分の工房で扇子を作るようになった。
私の扇子は、すべてカルロ兄様が作った扇子だ。
柔らかな色合いで、繊細で優しいレースの扇子は、お茶会や舞踏会で緊張してしまう私をいつも助けてくれた。
カルロ兄様の扇子を見ると、自然に肩の力を抜くことができた。
諦めなくてはいけないことは分かっている。
それでも私は、カルロ兄様に会いたくて、何かと理由をつけては工房を訪れた。
カルロ兄様の顔を見るだけでふわりと心が浮き足立ち、カルロ兄様と目が合うたびに胸が震え、カルロ兄様と話す時間は泣きたくなるほどの幸せを感じた。
そして、それと同じ罪悪感を……。
だから、私に罰が当たったのだろう。
学園も最終学年に上がった年、私は婚約した。
婚約者は、リチャード・メルザナ侯爵令息。
同じ年の彼は、金髪に青い瞳の華やかな容姿をしていた。
きっと、こんなハンサムな婚約者に喜ぶべきことのはずだ。たとえ彼の隣には、いつも誰かしら綺麗な女性がいたとしても……。
実際、彼にもよく言われた言葉だ。
地味な私にはもったいない婚約者だと。光栄に思えと。
でも私は、初めて会った時から傲岸不遜なリチャード様が怖かった。
私の一挙手一動にため息を吐く彼の前では、いつも手が震えてしまった。
イライラとした空気に言葉が喉に詰まり、うまくしゃべることができなかった。舌打ちをされて、慌てて会話を振っても素知らぬ方を向かれ、また尖った沈黙だけが広がった。
月に一度のリチャード様とのお茶会は、いつも胸に鉛を詰め込まれるような苦痛な時間だった……。
「マドレーヌ、お前との婚約は破棄するから」
月に一度のリチャード様とのお茶会の日、私は侯爵邸の茶会室に入るや否やリチャード様に言われた。
リチャード様の腕には、鮮やかな赤い髪に、甘やかな翡翠の瞳、口元のほくろも色っぽい艶めいた美女が抱かれていた。
確か、学園でよくリチャード様と一緒にいるソフィアンナ・ベナ男爵令嬢だ。
「……あの? それはどういう……?」
私は突然の言葉に、頭がうまく回らなかった。
その様子に、リチャード様がいつもの馬鹿にしたような視線を向けた。
「はぁ……。愚鈍な婚約者殿は、理解も遅くて嫌んなるね」
「リチャード様、お可哀想に」
リチャード様の言葉に、ソフィアンナ様がクスクスと笑った。
「いいか!? 地味で陰気なお前と結婚するなんて冗談じゃない。俺は、愛しいソフィアンナと結婚する。だから、お前は婚約破棄する」
私は、やっと婚約破棄をされていることを理解した。
咄嗟にカルロ兄様の扇子を握った。
こんな一方的な婚約破棄はひどい侮辱だ。
婚約破棄、扇子言語、〝地獄に堕ちろや〟。
ぐるぐると頭の中に言葉が回る。
そうだ、扇子を折って床に落とすんだ。
私は、カルロ兄様の扇子に力を込めた。
しかし、しなるだけで折れることはない。
「まあ、そういうわけだから」
私が何もできないでいるうちに、リチャード様はさっさとソフィアンナ様と出掛けてしまった。
侯爵家のメイド達が居丈高に何か言っていたが、マルカがきっぱりと追い払い、私は逃げるように馬車に戻った。
そして、いつのまにかマルカは、私をカルロ兄様のところに連れてきてくれていた……。
優しいカルロ兄様は、私の話を聞いて慰めてくれた。
私を可愛いと、思慮深く博識だと言ってくれた。
そして、妹のように大切だと……。
私は何もかもが中途半端だ。
伯爵令嬢として家と家を繋ぐこともできず、侮辱されても扇子言語で怒ることもできず、恋を諦めることもできず、何もかもが中途半端だ。
私は私が大嫌い……。
結局メルザナ侯爵は、婚約破棄はリチャード様が冗談を言っただけと婚約の続行を願ってきた。
しかし、お父様はリチャード様のこれまでの私への接し方に加えて、今回の婚約破棄の一件に、いくら侯爵家だとはいえ許すことはできないと、婚約を白紙にすることを譲らなかった。
そのため、改めてリチャード様と婚約破棄について二人で話し合うことになってしまったのだった。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
マルカが私の身支度を整えながら心配そうに尋ねた。
とうとう今日はリチャード様との話し合いの日だ。
鏡に映る私は、緊張に顔色も冴えない。
お父様は、リチャード様と結婚しないでいいと言ってくれている。
しかし、私のことでメルザナ侯爵家と揉めるのも申し訳なかった。
カルロ兄様と結婚できないのなら、誰と結婚しても同じなのかもしれない……。
「大丈夫よ。マルカ、私はリチャード様と――」
「マドレーヌ! カルロが来たぞ」
私が『婚約を続ける』と言いかけたところで、お兄様がバタバタと私の部屋に駆け込んできた。
「ケイシス様、ちゃんとノックをしてくださいませ」
「いや、だってマルカ。急がないとリチャードと約束の時間になっちゃうだろ?」
マルカが口を尖らせて嗜めるが、お兄様は気にせずにガハハと笑った。
お兄様の隣にいるカルロ兄様は、目の下には隈ができて、いつもは整えられている藍色の髪もボサボサだった。
「カルロ兄様? あの、どういたしましたか?」
私は、その珍しいその姿に驚いた。
こんなに慌てて来るなんて、何か急ぎの要件だろうか?
「お嬢様、扇子を納めにまいりました」
「扇子……? 注文していたでしょうか?」
確か今は、扇子を注文していなかったはずだ。
もちろん注文していなかったとしても買うつもりだが、勘違いするなんて珍しい。
「お嬢様、こちらの扇子です」
カルロ兄様が、私にそっと箱を差し出した。
私はそれを受け取ると、蓋を開け扇子を取り出した。
それは見事な扇子だった。
新雪を思わせる純白のレースに、蔦の刺繍はカルロ兄様の瞳のような綺麗な緑。そして、下には私の瞳の色の紫のすみれが凛と美しく刺繍されていた。
「前回お嬢様は、扇子言語がうまくできなかったとおっしゃいました。申し訳ございません。それは扇子の問題でした。ですので、こちらの扇子を作りました」
私は手に持つ扇子を間近で見つめた。
いつもと同じ美しい扇子に見える。
しかし、気をつけて触ってみると確かにいつもと感触が違うように思った。
私は不思議に思って扇子の角度を変えてまじまじと見てみると、扇子の真ん中あたりの横一線の扇骨と、その部分の白いレース地の材質が違っていた。
「これは……?」
「はい、お嬢様。この扇子は、『婚約破棄専用扇子』です。間に合って良かった」
『婚約破棄専用扇子』……。
そのためにこんな隈を……?
私はそっと手を伸ばしてカルロ兄様の隈を撫でた。
「お嬢様……!?」
慌てたようなカルロ兄様の声に、私はハッとして手を離した。
お互いもう何年も触れることはなかった。
「も、申し訳ございません」
「い、いえ」
カルロ兄様が顔を赤くして口元を手で覆うと、観念したように大きく息を吐いた。
そして、気のせいかどこか熱を帯びた瞳で私を見つめた。
「お嬢様、この扇子で思いっきりやっちゃってください」
私は、カルロ兄様の言葉に思わず吹き出した。
声を出して笑ううちに、ふっと心が決まった。
「はい!」
私は大きな声で返事をした。
私はカルロ兄様を諦めない。
私はゆっくり扇子を開くと胸に抱いた。
〝愛しています〟
今はまだ声に出せないから、この扇子に想いを込めて、私はカルロ兄様に微笑んだ。
マルカとお兄様が嬉しそうにハイタッチしてはしゃぐ中、カルロ兄様は声に出さずに口を動かした。
『僕も愛しています』と……。
◆
――俺はレストランの席に着くとイライラと腕を組んだ。
思い出すのも腹立たしかった。
確かに、婚約破棄するとマドレーヌに言った。
しかし、それは本気ではなかった。
婚約破棄をすると言えば、俺と別れないためにマドレーヌが「ソフィアンナ様を愛人にしていいので、私と結婚してください」と頭を下げて乞うと思ったからだ。
メイド達にだって、俺が戻るまでマドレーヌを茶会室で待たせておくようにちゃんと命じた。
俺が戻ったら、マドレーヌとは元通りのはすだったんだ。
それなのに無能なメイド達が、マドレーヌを帰してしまったから、タルタン伯爵の耳に入ってこんなことになったんだ。
おかげで父上には毎日怒鳴られて、母上にはぐちぐち言われて、弟にも鼻で笑われて気分は最悪だった。
どうやら父上は、扇子産業の盛んな領地であるタルタン伯爵家と、なんとしても繋がりを持ちたいらしい。
まあ、いつものようにちょっと強く言えば、マドレーヌはすぐに婚約を続けると従うはずだ。
マドレーヌは婚約を続けたいのに、父親に言われて何も言えなくなっているだけに違いないからな。
いや、それだけじゃ駄目だな。
ソフィアンナを愛人にすることも認めさせないと。
そうだ! もう一度、婚約破棄を言ってやろう。
そのために、わざわざ個室ではなく目立つ真ん中の席を取ったんだ。
きっと周りの目を気にして、すぐに俺の言うことを聞くだろう。
マドレーヌには、父親にうまいこと言ってもらわないと。
あんな地味で陰気な女と我慢して結婚してやるんだから、それくらいの気遣い当然だ。
「リチャード様、お待たせいたしました」
いつの間に来たのか、マドレーヌが給仕の者に椅子を引かれてスッと座った。
「あ、ああ」
いつも気弱にオドオドとこちらを見るマドレーヌの目が、今日はなぜか凪いだ湖のように静かだ。
俺はその瞳に圧倒されるように、返事をした。
しかし、すぐに気を取り直す。
とにかく、もう一度婚約破棄で脅してこちらの言うことを聞かせるんだ。
マドレーヌは俺が好きだし、これだけの周りの目があったら穏便にことを納めるために要求をすぐに呑むはずだ。
「ゴホン。父上は婚約を続けると言っているが、俺はお前との婚約を破棄するつもりだ」
俺は一息に言うとニヤリと笑った。
ザワザワとしていた店内が静まり返り、こちらの様子を見つめた。
よし、いい感じだ。
「それが嫌だったら、ソフィアンナのことを愛人と認めて、タルタン伯爵には俺を愛しているから婚約を続けたいと宥めろ。そうしたら、俺はマドレーヌと結婚してやってもいい」
もちろん、ソフィアンナのことはマドレーヌにだけ聞こえるように声を落として言った。
さあ、あとはこの空気に耐えられないマドレーヌが要求を飲むだけだ。
そう期待を込めてマドレーヌを見ると、それはそれは嬉しそうに微笑んだ。
白磁の肌がほわりと赤く染まり、紫の瞳が極上のアメジストのように煌めき、紅い唇はゆるりと微笑みを浮かべた。
それは艶かしくも美しくて、地味なはずのマドレーヌに目を奪われた。
「リチャード様。再度の婚約破棄のお言葉、心から感謝いたします。お陰でやり直すことができます」
そう言うと愛しげに純白の扇子を撫でた。
まるで、俺自身がその白く細い指先に撫でられたようにドキリとした。
マドレーヌが静かに椅子から立ち上がった。
すっと伸びた背に、心底嬉しそうにとろりと微笑む紫の瞳。
俺は魅入られたように、ポカンとそばに立つマドレーヌを見上げた。
マドレーヌは、閉じた扇子の両端をゆっくりと握った。
ボキッ!!
「ひっ!」
まるで自分の骨が真っ二つに折られたような音がして、俺は小さな悲鳴をあげて椅子から転げ落ちた。
マドレーヌはうっとりと折れた扇子を見つめると、床に尻もちをついた俺に向かって扇子を投げつけた。
バシッ!!
「ギャア!」
頬を分厚い平手で殴られたような音に、思わず頭を抱えて目を瞑った。
だがどこも痛みはなく、俺は恐る恐る目を開けた。
目の前には、真っ二つに折れた扇子が美しい花のように落ちていた。
「あ……」
〝地獄に堕ちろや〟
俺はやっとそれが扇子言語だと気づいた。
気づいたが腰が抜けて動けず、何か言おうにも口が震えて何も言えない。
「リチャード様、謹んで婚約破棄をお受けいたします。どうぞソフィアンナ様とお幸せに」
マドレーヌは美しいカーテシーを執ると、レストランから去っていった。
俺は、凛とした後ろ姿をただただ呆然と見送るしかできなかった……。
やがて――パチ、パチ、と小さな拍手が鳴る。
それはすぐに素晴らしい観劇を観たあとのような万感の拍手となり、店内を熱気の渦で満たしていくのだった。
◆
――今では当たり前のように使われる『婚約破棄専用扇子』であるが、それは稀代の扇子職人カルロ・セスターによって作られた物だった。
カルロ・セスターと並んで、『婚約破棄専用扇子』にまつわる裏話として、初めて『婚約破棄専用扇子』を使って〝地獄に堕ちろや〟を見事に決めたマドレーヌ・タルタン伯爵令嬢も有名である。
カルロ・セスターは、生涯に渡って女性に寄り添った数々の扇子を世に送り出していった。
そして、その傍らにはいつも妻マドレーヌの支えがあり、おしどり夫婦としても有名な二人であった。
お読みくださりありがとうございます!
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