Case008:白影
ジワリと夏の日差しが差し込みだした探偵社の昼下がりは、珍しく静かだった。
入り口の扉が開き、疲れ切った様子の雷堂 光斗、薄影 澪、十六夜 枢の三人が戻ってくる。
「はぁぁぁ……つかれたっス~」
真っ先に大きなため息を漏らしたのは光斗だった。
外の暑さに溶けそうになりながら、汗で張り付いたシャツの胸元を摘まみ、ぱたぱたと風を送る。
一方、その奥では澪が無言のままソファへと倒れ込んだ。手足や顔に包帯を巻いている彼にとって、この高温多湿の陽気は、二人以上に堪えるものだったのだろう。
「こういう日に、探し物の依頼って、大変ね」
シャワーでも浴びたい――そんなことを思いながら、枢も疲れた様子で椅子に腰を下ろす。
「でも、妖し返り同士の助け合いは大事だもの。こういう時くらい、支え合わないと」
「そうっスね」
そんな三人の帰りを見計らっていたかのように、風見 彩羽が、真神 悠真と一緒に冷たい飲み物を運んできた。
「はいは~い、疲れたでしょう~。そういう時は、冷たい飲み物よね」
にっこりと笑いながら、彩羽はトレーの上のグラスを一つずつテーブルへ並べていく。
ちなみに、重そうなトレーを運んでいるのが悠真であることには、誰もツッコミを入れなかった。
「光斗は、スパークリングだったかしら?」
「そうそう! バチバチのやつで! 澪は?」
「……水」
「はいはい」
彩羽は楽しそうにグラスを並べていく。
その光景を眺めながら、枢だけは少し離れた場所にいる黒羽 東真のもとへと歩み寄った。
「あの……玲さんは?」
「ずっと部屋にいるみたいだねぇ」
東真は軽く上を指差した。
その一言で、枢の表情が曇る。
あの日、枢は天ヶ瀬 玲を一方的に責め立てた。
怒りと悲しみに任せて彼を叩き、心ない言葉までぶつけてしまった。
それでも玲は、枢の言葉を最後まで静かに受け止めてくれた。
あの時の彼の瞳が、今でも脳裏に焼き付いて離れない。
そして、あの瞬間に蘇った記憶。
槍に貫かれた青年の姿――あれは一体、何だったのだろうか。
「枢?」
彩羽に名前を呼ばれ、枢ははっと現実へ意識を引き戻された。
「ソーダでいいわよね?」
「え、あ、はい」
「そうだわ」
彩羽は困ったように首を傾げる。
「レイは何を飲むのかしら?」
「え……」
答えられなかった。
その様子を見た東真が、くすりと面白そうに笑う。
「おやぁ、相棒の好きな飲み物を知らないのかい?」
「相棒って言っても、そんな余裕なかったし……」
「それは良くない」
コーヒーをひと口飲み、東真は眼鏡の奥の目を細める。
「少し、相手を知った方がいいと思うけどねぇ」
その言葉は、不思議なくらい枢の胸に深く刺さった。
枢はゆっくりと視線を上げ、二階にある玲の部屋を見つめるのだった。
◇ ■ ■
探偵社が入っているこのビルは、東真の所有物だ。
1階はテナントスペースとなっており、現在は悠真が営む喫茶店が入っている。人も妖し返りも分け隔てなく集う、憩いの場だ。
そして探偵社のある2階の上、3階と4階は探偵社員の寮として開放されている。
とはいえ、家賃はなく、細かな規則もほとんどない。
この世界は、自分とは異なる思想や姿、力を持つ者たちに、どこまでも冷たく厳しい。
だからこそ東真は、この探偵社を開いた。
行き場を失った妖し返りに居場所を与え、困った者がいれば手を差し伸べる。
それが、東真の変わらない願いだった。
実家に帰れない枢も、記憶のない玲も例外なく、この社員寮で暮らしていた。
とはい、え普段は互いの部屋を行き来することもない。
こうして誰かの部屋を訪れること事態、枢も初めての試みだ。
コンコン。
「玲さん……十六夜です。玲さん、いますか?」
返事はない。居ると聞いていたが出かけたのだろうか。
枢はそっとドアノブに手をかけた。鍵はかかっておらず、ドアは静かに奥へと開く。
部屋へ足を踏み入れた瞬間、出迎えたのは圧倒的な「白」だった。
天井も壁も、すべてが真っ白。
予想だにしなかった光景に、枢は思わず言葉を失った。
「……」
本当に、何もない。
いや、正確には皆無というわけではなかった。部屋の片隅には、高く積まれて異彩を放つカップラーメンと段ボール箱が二つ。
そして、窓枠に腰掛け、物思いにふけるように外を眺めている玲の姿。
さっきまで何かを書いていたのか、手元には日記とペンがあり、その顔には眼鏡がかけられていた。
今にも光の中に溶けて消えてしまいそうな、儚い雰囲気。
まるで感情のない人形のようなその姿に、枢の記憶が揺さぶられる。
前にも、これと同じ光景を見たことがある――そんな強烈な既視感だった。
彼と相棒になったのは、ほんの少し前のことだというのに。
ゆっくりと玲が顔を上げ、枢へと視線を向ける。
ふたりの目が合った瞬間、それまで凍りついていたかのような彼の顔に、ふっと表情が戻った。
「どうしたんですか、枢さま」
「え、あ……眼鏡かけるのね」
「休みの時は、こっちの方が気楽なんです」
「そう……それにしても、何もないのね」
枢は部屋を見回し、いやあるかとカップラーメンの山に視線を向ける。
「ああ、すみません。あまり、食事という行為に興味がなく、できるだけ手軽に済ませたいと思いまして……」
興味がないからといって、カップラーメンだけというのはどうなのだろう。
「お湯を注いで3分、あの独特のつやのある麺と、旨味が凝縮されたスープ、そして謎の肉やエビといった具材が織りなす調和。これほど効率的で、しかも普遍的な美味しさを持つ素晴らしい食べ物を私は他に知りません」
何だか興味がないというわりに、かなり拘ってるように聞こえる。
とはいえ、改めて部屋を見渡せば納得もいった。冷蔵庫も電子レンジもなく、自炊をしている気配など微塵もない。
きっと、お湯は下の階の探偵事務所から貰っているのだろう。
「そ、そうなのね……てっきり、あなたもここで暮らしてるのかと思ってたけど、普段は別の場所に帰っているのね」
これだけ何もない部屋を見れば、ここはただの休息所で、別に帰る家があると思うのは自然なことだった。
「はい、ここで暮らしています」
「へっ?」
思わず枢から変な声が出た。
「えっと……じゃあ、いつもどこで寝てるの?」
「この辺りです」
さらっと玲は何もない床を指さした。
「え?」
「ですから、この床の片隅で……」
「それ寝てるって言わないわよ!」
思わず枢の声が大きくなる。
いま、彼は何て言っただろうか。当然というような涼しい顔で床と言ったような気がする。
「……本当に?」
「はい。本当です」
「ベッドや毛布くらい買いなさいよ」
「ベッド、ですか……?」
玲は少し考えるような仕草をすると、「分かりました」とおもむろにスマートホンを取り出し操作した。
「買いました」
「早っ!?」
決済完了まで、ものの数秒。
スマートフォンの画面を覗き込めば、『お買い上げありがとうございます』の文字がしっかりと表示されている。
「もっと悩みなさいよ!」
「枢さまが、必要だと言われましたので」
「そういう問題じゃなくて……」
思わず枢は額へ手を当て、溜息を吐いた。なんというか。手のかかる弟ができた気分だった。
「ここへ来るまで、どんな生活をしてたの?」
「枢さまを、ずっとお探ししてました」
「そうじゃなくって……」
「本当です」
覗き込むような玲の真剣な瞳が、まっすぐに枢を射抜いていた。
あまりの熱量に、枢は思わず半歩身を引く。
「……ずっと探してたって、まさか。あなた、私と出会ったのはつい最近じゃない。私を捜すために、床に直接寝るような生活をしてたって言うの?」
「はい」
玲は、至極当然のように頷いた。
「家など、私には不要でした。あなたという道標を失った私にとって、寝食などただ体力を維持するための無機質な作業に過ぎませんでしたから。この数百年、そんなことに時間を使うくらいなら、一刻も早くあなたにお会いしたかった」
玲の端正な唇から紡がれる言葉は、穏やかでありながら、ひどく冷徹で、そして狂気的なまでに一途だった。
「すうひゃくねん……? 待って、あなた、いま幾つなの?」
「いくつでしょうか。あまりにも長い月日が流れ過ぎて、忘れてしまいました」
「な、なな……っ!?」
枢の喉が、引き攣った音を立てる。
彼の見かけは二十代半ばの、美しい青年だ。たぶん。
そんな彼が、自分の人生の何十倍もの時間を、ただ自分一人を捜すためだけに費やしてきたと言うのだから。
「確かに妖し返りの年齢は、見た目通りじゃないけれど。彩羽とか……」
自称二十歳のモデル兼探偵の彩羽は、精霊が混ざっているせいか、初めて会った時からずっと姿が変わっていない。黙っていれば、女子高校生に見えてもおかしくないほどだ。
だが、それにしたって――。
「前もそんなこと言ってたけど、私とあなたはこの間会ったばかりで……」
「あなたを失ってから、私はずっとあなたのことを探していました。あなたのいない世界は、私にとってただの暗闇、絶望でした。ですがようやく、こうしてまたあなたにお会いすることができました」
玲は一歩、枢との距離を詰める。
彼のまとう静けさと、それとは裏腹な熱い眼差しが、枢の肌をじりじりと焦がすようだった。
「待って、ちょっと待ちなさい! 私には、そんな記憶は……」
「本当に?」
隠しているすべてを暴くような玲の眼差しに、枢はドクリと心臓を跳ね上げた。
――あの時と同じだ。
初めて会ったあの日、彼の血を味わった時の、あの悍ましくも甘美な感覚。
無意識のうちに、喉が小さく鳴った。
玲の血の味を思い出すのと同時に、先日脳裏に流れ込んできた不鮮明なイメージが一気に広がる。
「うっ……!」
強烈な頭痛が枢を襲い、視界がぐにゃりと歪んで足元がよろめいた。
倒れそうになったその身体を、玲はあらかじめ分かっていたかのように、ふわりと優しく受け止める。
「大丈夫ですか、枢さま」
「だ、大丈夫よ。ちょっと色んな事がいっぺんに起こり過ぎてて……」
「代われるものなら、私があなたの代わりにその苦しみをすべて引き受けたい。……いいえ、いっそこのまま私の手であなたの意識を刈り取り、誰の目にも触れない場所へお隠しすべきでしょうか。そうすれば、あなたは二度と傷つかない」
玲は至って真面目に、心底枢を労わるような優しい声で、とんでもない監禁計画を囁いた。その純粋すぎる狂気に、枢の頭痛は一瞬で吹き飛ぶ。
枢は慌てて玲の胸を押し返し、引き攣った声をあげた。
「重い……っ、重すぎるわよ、そんなの……! それに……私には、あなたにそこまで命を懸けて探してもらえるような人ではないわ」
「そんなことありません。あなたは何もなかった私を救ってくれたのですから」
「救った?」
知らないことばかりだ。
真っ直ぐに自分を見つめる玲の言葉に、嘘の気配は微塵もない。本当に、自分の知らない過去が彼との間にあるのだろうか。
「あの、救ったって……」
意を決し、核心に触れようと、枢がぐっと身を乗り出した、その時だった。
「そういえば、枢さまはどうしてこちらに?」
玲が何てことのない様子で首を傾げ、こちらの言葉を綺麗に遮った。あまりに自然な切り替えに、枢は出しかかった言葉を思いきり喉に詰まらせる。
「あ……彩羽が飲み物を用意してくれるみたいで、天ヶ瀬さんも何か飲む?」
「それでしたら、アイスコーヒーをいただきたいですね」
「アイスコーヒーね。分かったわ、伝えておく。あなたも早く下りてきなさいよ」
そう告げると、枢は玲の側から逃げるように離れ、慌ただしく部屋を飛び出していった。
バタン、と激しくドアを閉め、廊下で一人大きく息を吐き出す。
赤くなった顔を両手で押さえながら、枢はハッと眉をひそめた。何だか話を逸らされたような気もするが、もう一度ドアを開け玲に問いただす気にはならなかった。
一方、静まり返った部屋に残された玲は、枢が出ていったドアを見つめていた。その瞳には、少しの寂しさと、それを遥かに凌駕する深い愛おしさが宿っている。
「まだ、急ぐ必要はない」
そう小さく零した独白は、数百年の孤独を耐え抜いた彼だけの、静かな誓いのようだった。
◇ ■ ■
二階の事務所にはもう彩羽と悠真の姿はなく、一階の喫茶店に下りると、案の定二人はそこに戻っていた。
枢がのぞいたタイミングで、ちょうど玲もおりて来たので、採羽に言われるまま奥の席に座ることになったのだが……。
「ふふっ、ごゆっくりどうぞ」
ほどなくして、彩羽がトレイを手に、まるで本物の店主のような上品な所作で二人の前に飲み物を運んできた。ここは悠真が任されている喫茶店なのだが、すっかり彼女も店に馴染んでいる。
玲の前にはアイスコーヒーが、そして枢の前には鮮やかなクリームソーダが置かれた。 シュワシュワと心地よく弾ける炭酸の音が、玲と二人きりで向かい合っているという気まずい緊張感を、優しく紛らわせてくれた。
玲は、運ばれてきたアイスコーヒーのグラスに美しく端正な指先を添え、静かに口を付ける。ただそれだけの何気ない仕草だというのに、まるで一幅の絵画のようだった。
ふと枢が外に目を向ければ、喫茶店の前を通りかかる女性たちが、窓際に座る玲の姿に気づいて色めき立っているのが見えた。微かに足を止め、あからさまにこちらを振り返っている。
(……本当に自分のことに興味がないのね)
外からの視線何て気にせず、玲は枢の視線に微笑み返すのだから本当に質が悪い。複雑な感情を抱きながら、クリームソーダのアイスをすくった。
そんな窓際の二人の様子を、カウンターから眺めていた彩羽は、頬に手を当て嬉しそうに目を細めどこか楽しんでいるようだ。
そんな彩羽の様子に、悠真は苦笑を浮かべながら、おとなしくグラスを拭いている。
穏やかだが、どこか落ち着かない空気が流れる喫茶店。そこへ、トントンと小気味よい足音を響かせて、二階から東真が下りてきた。
「おやぁ、事務所に戻ってこないと思ったら、みんなこっちに居たんだねぇ」
ゆっくりとカウンターの前を通り過ぎ、東真は枢たちの席の横に立つ。そうして人当たりの良さそうな笑みを浮かべながら、指先で軽く眼鏡のブリッジを押し上げた。
「のんびりしているところ申し訳ないんだが、新しい依頼だよ」
そう言って、東真の眼鏡の奥の瞳が鋭く細められた。
◇ ■ ■
夏のまばゆい日差しを浴びて、山道の入り口を彩るヒマワリが美しく咲き誇っていた。
奥へと続く緑深い一本道からは、このひと夏を謳歌するかのように、セミたちの賑やかな鳴き声が響いてくる。
「わぁ、キレイ……少し観光して帰れたら良かったのに」
「早く事件を解決して、時間を作りましょう」
楽しそうに声を弾ませる枢に、玲が柔らかく微笑み返しながら登山道を歩き始める。
たまには、こんな風に大自然の中を歩くのも悪くない――そう思ったのも束の間。
ほんの数分後、その穏やかな空気は一変した。
「……え?」
目的地のリゾート地を目指し、山道へと一歩足を踏み入れた、まさにその瞬間。
まるで世界が反転したかのように、景色が一変した。
燦々と降り注いでいた眩しい日差しは立ち込める厚い雲に遮られ、辺り一面が猛吹雪の白銀の世界へと姿を変える。
凍てつく極寒の風が容赦なく頬を切り裂き、枢は驚愕に赤い目を大きく見開いた。
「う、嘘でしょ……!?」
さっきまで真夏だったはずだ。
薄着でも汗ばむほどの陽気だったはずなのに。
いま自分の目の前に広がっているのは、命を脅かすほどの激しい雪山だった。
世界があまりに異様な豹変を遂げたことへの困惑と、襲いかかる暴力的な寒さに、枢は身をすくめて思わず己の腕を強く抱きしめる。
するとその肩へ、あらかじめ予期していたかのように、ふわりと温かい上着が掛けられた。
「まるで別世界ですね」
「真夏日に、雪だなんていくらなんでも異常事態ね……っ、くしゅん!」
小さなくしゃみをひとつ漏らし、もっと厚着をしてくればよかったと枢は後悔したが、もちろん手遅れだ。
「どこが、リゾート地よ。完全に騙されたじゃない!」
吹き荒れる雪煙の向こうには、まるで立ち入る者をことごとく拒絶するかのように、白銀の世界が牙を剥いている。
ひと夏の爽快感を期待して訪れたはずの山であったが、どうやら待ち受けていたのはそんな呑気なものではなかった。
白く広がる凍てついた入口は、逃げ場を奪うように、静かに二人を恐ろしい異変の渦中へと誘っていたのだった。




