Case001:月夜
夜の街は、昼とは違う顔を持っている。
笑顔も灯りも、すべてが安全を装った仮面だ。
だが一歩、路地裏へ踏み込めば、その化粧は剥がれ落ちる。
月明かりだけが照らす石畳が、奥へ奥へと続いていた。
鼻腔を刺す、鉄と甘さが混じった匂いが流れてくる。
長い黒髪を夜風に流しながら、十六夜 柩は、静かに赤味を帯びた茶色い目を細めた。
夜を編んだような黒衣の裾が、先を急ぐ足取りに合わせて揺れ広がった。
細い路地を抜けた瞬間、濃い血の匂いが柩を打つ。
思わず口元を覆い、眉をひそめる――が、次の瞬間、その表情は驚きに染まった。
月光が美しく降り注ぐ、その中心に――彼はいた。
赤い血だまりの中に佇み、まるで見えない雨に打たれているかのように、静かに身じろぎひとつせず。
綺麗だと見惚れてしまう程に、青年は美しく浮世離れした雰囲気を漂わせてる。
その両手は、夜の闇に浮かび上がるほど鮮やかな赤に染め上げられ、その足元に誰かが横たわっていた。
ジャリ、と。
枢が思わず踏み込んだ小さな足音が、張りつめた空気を震わせる。
次の瞬間、彼はゆっくりと振り返った。
月光に輝く銀糸が揺れ、静かな深く澄んだ吸い込まれるような蒼い双眸が、まっすぐに枢を射抜く。
血の匂いと夜の静寂の中で――ふたりの視線が、初めて交わった。
彼は、息をすることすら忘れたように、ただ枢を見つめていた。
その瞳に宿るのは、驚愕でも警戒でもない。
――深い、深い安堵。
長い夜を越え続けた者だけが辿り着いたかのように。
赤く染まった両手が、わずかに震える。
確かめるように、指先が空を掴み、そして止まる。
長い時を越えて、ようやく辿り着いた――。
そんな安堵と、触れれば壊れてしまいそうな恐れが、彼の胸を満たしていく。
一歩、そっと踏み出しかけた、その瞬間だった。
はっとしたように、枢の身体が動く。
凛と張りつめた声が、夜の静寂を切り裂いた。
「動かないで!」
チリ、と。
爪先で自身の指先を傷つけた感触が走り、赤い雫が零れ落ちる。
その血は地に落ちる前に淡く光を帯び、魔力の奔流となって宙に舞った。
次の瞬間、枢の手の中に緋色の長刀が握られていた。
彼女の体躯を優に超えるその刃は、月光を映して冷ややかに輝き、まるで死と生の境界を司る象徴のような威圧を放っている。
夜気が震え、血の匂いすら刃に吸い寄せられていくかのようだった。
張りつめた静寂を裂く、澄んだ声。
枢は大鎌を構えたまま、彼を真っ直ぐに見据える。
「あなたが、殺したんですか?」
「……え?」
思わず零れた声は、ひどく間の抜けたものだった。
彼は一瞬、何を問われたのか理解できずに瞬きをする。
だが、枢の瞳に宿るのが恐怖ではなく、必死に職務を全うしようとする覚悟だと気づいた瞬間、彼は足を止めた。
「私は探偵です」
淡々と、感情を挟まない声で彼女は告げる。
「この辺りで最近起こっている、連続殺人事件の調査をしています」
業務的な口調とは裏腹に、長刀を握る手には一切の緩みがない。
疑念と警戒を隠そうともしない、その真っ直ぐさが夜に浮かび上がる。
彼は視線を落とし、自分の真っ赤に染まった両手と、足元に横たわる死体を見た。
胸の奥が、ひくりと音を立てて締めつけられる。
――疑われている。
焦りが、遅れて押し寄せた。
「ち、違います……!」
慌てて首を振り、言葉を探すように視線を彷徨わせる。
「ボクも……ここに来たばかりで。この血は、調べているうちについたもので……」
言い訳は、あまりにも拙く、頼りない。
誰が聞いても分かるほどに説得力に欠けていた。
枢はその様子を、鋭く、しかしどこか違和感を抱いたまま見つめる。
嘘をついているようには、どうしても見えない。
だが、だからといって信用できるかと問われれば、答えは否だ。
状況が、あまりにも悪すぎた。
月光の下。血だまりの中心に立つ、正体不明の男。怪しくないはずがない。
緋色の長刀が、わずかに鳴り。枢の警戒心は、さらに一段、引き上げられていた。
「つまり、あなたは……たまたま、こんな人気の無い道を通りがかり、たまたま殺人現場に居合わせたというのですか?」
「そうそう!」
「そんな、都合のいい話、信じると思いますか?」
枢の冷ややかな問いに、青年は返す言葉を失い、「ですよねー……」と、力の抜けた笑いを漏らすことしかできなかった。
どうにかして疑いを晴らしたい。
そう思ったのだろう、青年が困ったように眉をひそめた、その瞬間だった。
ぞわり、と背筋を撫でるような感覚。
鋭い殺気が、頭上から降り注ぐ。
「――っ!」
声にならない息が、枢の喉を震わせる。
反応が、わずかに遅れた。
月光を背負い、闇の中から何者かが躍り出る。
その狙いは迷いなく――枢、一点。
枢は迫る影に、緋色の大鎌を振り上げ身構える。
だが、次の瞬間。青年は、躊躇いなく、枢の前へと出た。
枢と襲撃者の間に、身を投げ出すように割って入る。
鈍い衝撃とともに、硬いものが布越しに擦れる感触が走った。
次の瞬間、空気を裂くような音とともに、鋭い爪が青年の背中を掻き裂く。
苦悶の息が漏れ、青年の身体が大きく揺らいだ。
それでも彼は崩れ落ちることなく、枢を庇い続ける。
「っ……!?」
血の匂いが、夜に滲む。
襲撃者は一瞬、動きを止めた。
まるで、人を盾にしたその行為を予想していなかったかのように。
「な……っ」
枢の喉から、かすれた声が零れ落ちる。
月光に照らされた青年の背中。そこに刻まれた傷と、滲み出る血が、目にするまでもなくはっきりと分かる。
なぜ。
なぜ、この男が。
つい先ほどまで、疑っていた相手だ。信用もしていなかった、正体不明の青年。
それでも彼は、迷いなく――枢を護った。
「どうして……」
震える問いに、青年は痛みなど感じさせない様子で、枢を見下ろす。
「……良かった、あなたに傷が付かないで……」
まるで当然のことのように告げられたその言葉に、枢は一瞬、思考が追いつかなかった。
「良いわけ、ないでしょ!」
感情のままに声を張り上げる。
自分のために傷ついた相手を前にして、冷静でいられるはずがなかった。
「心配……してくれるんだね」
青年は少し驚いたように目を瞬かせ、それから、どこか照れたように微笑んだ。
その柔らかな笑顔に、枢の胸がぎゅっと痛む。
だが、直ぐにそれらは掻き消される。
闇の中で、再び蠢く気配と共に、むき出しの敵意が、冷たい波のように広がる。
青年の表情が引き締まり、枢を庇うように一歩前へ出て身構えた。
まるで、そうある事が当然だというように。
「……来る」
次の刹那。
「オ、オオォォオオオッ!!」
耳を打つ咆哮が、夜道を震わせる。
闇の中から現れたそれは、少なくとも、人の形はしていた。
だが、その顔つきは人のものではない。
歪んだ口元から鋭い牙を剥き出し、理性を失った獣のような眼が、真紅に染まって枢たちを捉え地を蹴った。
「ダメ! 下がって!!」
今度は怪我では済まない。
咄嗟に、そう思った枢は、彼に手を伸ばした。
その指先が、彼に触れた瞬間、枢の脳裏に、覚えのない光景が流れ込んでくる。
世界は、赤く燃え上がっていた。
かつては石造りの美しい建物が立ち並んでいたであろう街は、無残に崩れ、炎に包まれている。
空気は熱と悲鳴に満ち、地にはおびただしい数の亡骸が横たわっていた。
そして、その中に――。
全身を血に染め、ぼろぼろになりながら立ちあがろうとしている、青年の姿があった。
それは、過去なのか。
それとも、まだ訪れていない未来なのか。
枢が息を呑むと、その光景は直ぐに消えたが、頭の奥に微かな痛みが残り、やけに喉が渇く。
気づけば枢は、青年の背にそっと身を寄せていた。
唇が触れた瞬間、傷口から零れた血の温もりが、舌先に伝わる。
それは、意志ではなかった。本能とも、呼びかけともつかない衝動。
――ドクン。
枢の内側で、何かが大きく脈打った。
心臓とは別の場所で、眠っていた力が目を覚ます。
次の瞬間、世界から音が消え、白に包まれた。
街も何もかもが消え、枢と青年、そして暴れる異形だけが、まるで取り残されたかのように。
天に輝くは紅い月。
月光に照らされた、終わりなき雪原。風も、熱も、すべてが凍りついた世界――紅月白界。
その中で枢は、自然に舞っていた。
身体は軽く、思考は冴え渡る。
緋色の長刀が、これまでになく鋭く、赤く輝く。それは武器というより、彼女の一部のようだった。
羽衣を翻すかのように優雅に、そして容赦なく。枢は迫り来る異形の攻撃を次々と断ち斬り。暴れ狂っていた影は崩れ落ち、命の灯が消える。
枢は小さく息を吐いた。胸の奥に広がるのは、奇妙な安堵。
やがて、白い雪原がゆっくりとほどけていく。
紅い月の光は淡く溶け、世界は徐々に現実の夜へと戻っていった。
元の夜の街が、静かに姿を現す。何事もなかったかのように。
「共鳴結界……?」
枢は小さな声でつぶやく。驚きと戸惑いが入り混じった目で、青年を振り返った。 契約の記憶も、約束もない。なのに――なぜ、こんな力が?
「いったい、あなたは……何者なの?」
問いかけに、青年は真っ直ぐ枢を見つめ、口を開く。
「やっと……見つけた……」
その声には、揺るがぬ確信があった。
枢との距離をそっと詰めると、彼は迷わず彼女の手を取り、片膝をつく。
そして、胸の奥までまっすぐ届くような熱い視線で、枢を見上げた。
「ボクは、天ヶ瀬 玲。どうか、ボクを貴女の僕にしてください――ボクには……貴女しかいないんだ」
その言葉に、枢の心が小さく震える。
理屈では説明できない。ただ、胸の奥が熱くなるのを感じていた。




