うっかり朝チュンしちゃった相手が次期侯爵だった件について
彼を見たのは、初めてでは無かったわよ。
いつも黒いフードの付いたローブを着た黒髪の男性。ローブの下から覗く服は結構上等なものに見えたわね。
貴族だろう、とはみんな察していたわね。貴族が身分を隠して下町の場末の酒場に紛れ混むなんてよくある話だった。貴族にしてみれば、平民に混ざって酒を呑むってのはちょっとした冒険、刺激的な事であるらしいのだ。
もちろんこちらもお貴族様だと分かっているからあんまり失礼な事はしないように心がけるわよ。後で罰せられたら大変だからね。店主は少し値段をふっかけるくらいの事はしてたらしいけど。
そんな感じだから彼が貴族でお忍びでも、私たちはそれほど気にしてはいなかった。私も彼を横目に見ながら顔馴染みの連中と遠慮なく騒いでいたわよ。
私、レスカーは洗濯女だ。下町の洗濯場で持ち込まれる衣服だのシーツだのを毎日毎日じゃぶじゃぶ洗っている。
塊の石鹸をこすりつけ、水で泡立てて、石に擦り付けたり踏みつけたりして汚れを落とし、最後に水ですすいで干す。
そういう洗濯物は貴族や富豪のお屋敷から出たものだ。だから洗濯屋は貴族相手の商売なのだ。なので洗濯女もそこそこ良いお給金をもらっている。
石鹸で手は荒れるし、冬は切り裂くような冷たい水と格闘するんだから、楽な仕事ではないけどね。でも、女ができる仕事としてはこれでも上等な部類なのだ。
私は二十五にもなって結婚の予定が全然なかった。理由は、私が親なしだったからだ。
私の両親は私が十三歳の時に流行病で死んだ。その時には私は既に洗濯屋で働き出していたので助かった。就職前に両親を失っていたら無職から身売り確定だっただろうね。
働き口は失わなかったけど、結婚は出来なくなった。結婚は家同士の契約だからね。家同士が助け合うために、利害の一致した家同士で子供を結婚させるのだ。
つまり親がおらず実家がない私を、嫁に迎えるメリットが相手の家にはないのである。私には財産と呼べるようなものは何もなかったしね。
なので私は早々に結婚は諦めていた。家の事情で結婚出来ない女は少なくない。でも、ちゃんとした働き口さえあれば一人でも食べていける。だから私はそれほど将来を悲観してはいなかったわよ。
ちなみに、結婚出来ない女でもお金持ちの旦那の愛人にはなれる可能性がある。神様に誓う奥さんは一人しか持てないけど、愛人を囲うのは別枠なんだそうな。
そうやってお金持ちの愛人になり子供を産んでいる女性は少なくない。だけど私にはそんな良い話も全然なかった。まぁ、愛人市場なんて容姿の良い女から売れるもんだからね。こんな痩せっぽちなチビ女にはなかなかそんな話は回ってこないわよ。
まぁ、別に結婚したくも愛人になりたくもないからいいんだけどね。私は毎日洗濯女として一生懸命働き、夜は酒場に繰り出して集まったみんなと夜中まで大騒ぎで呑む、という生活を送っていた。それなりに楽しい毎日だったわよ。
そんなある日、あの事が起こったのだった。
◇◇◇
彼は酒場の片隅でいつも一人で呑んでいた。黒いフードを被ってね。強い蒸留酒をチビチビ呑んで、閉店時間になるとフラフラ帰る。多分、下町の外れに馬車が待たせてあるんだろう。
道端で酔い潰れたりすると、さすがに孤児やならず者に見ぐるみ剥がされる危険性があって、そういう時に罰せられるのは呑んでいた店だから、店主はいつも彼を心配していたわね。
その日も彼は一人で呑んでいて、私の方は集まった仲間とワイワイ騒ぎながら呑んでいた。男女ともに入り乱れてね。呑んで歌って踊ってね。いつも通りだ。
そんな時にふと、気まぐれに彼の事が気になったのだ。もうその時点で彼が通うようになって数週間は経っていた。毎日ではなかったけどね。話はしないけど一応顔馴染みになっていたのだ。
そろそろ声を掛けても大丈夫かな? と思ったのだ。一人で呑んでもつまらないだろうしね?
お貴族様に声を掛けるなんて、どんな面倒事が起こるか分からないから、普通の状態なら躊躇したんだろうけど、まぁ私もその時は酔ってたからね。私は自分のグラスを持ってテーブルの彼の向かいに座ったのだ。
「ここいい?」
私が言うと、彼が驚いたように目を見開いた。綺麗なグリーンの瞳だったわね。ローブから覗く髪は艶やかな黒。肌は貴族らしく白いみたいだった。
「私、レスカーよ。貴方は?」
彼は逡巡したみたいだったけど、一応ボソボソと返事をしてくれた。
「ネイベール……」
「おっけー、ベール。仲良くしましょう!」
私はそう言って彼の肩を叩いたのだった。
ネイベールは目を白黒させていたけども、私は酔っ払っているからお構いなしだ。のべつまくなし喋りまくって、勝手にケラケラ笑っていた。
その内ネイベールも酔いが回ってきたか私に巻き込まれたか、だんだん喋ってくれるようになったわね。何を話したかはよく覚えていないんだけど。
で、そうやって話し込んでいる内に、だんだんネイベールが何やら愚痴をこぼし始めたのだった。
曰く「自信がない」「もうだめだ」「期待に応えられない」「何をやっても上手くいかない」「私には無理なのだ」などなど。
非常にネガティブな考えの持ち主のようだった。何に対してネガティブなのかはよく分からないのだけど。
ブチブチと弱音と愚痴を吐くネイベールを私は無責任に励ました。事情を何にも知らないし、酔っていたからね。彼のグラスに酒を注ぎながら私は言った。
「何言ってるの! 大丈夫大丈夫! なんとかなるって! 人間やる気になればなんだって出来るものよ!」
「……そうだろうか?」
「そうよ! 自信を持ちなさい! アンタなら出来る!」
私はまた彼の肩をバンバンと叩いたのだった。
そんな感じで私は彼と酒を酌み交わした。呑んだ。呑みまくった。呑みすぎた。
一人で泥酔したらさすがに女一人、路上で襲われたりしたら危ないから滅多にそこまで呑まないんだけど、この時はネイベールと二人だという考えもあった。貴族の彼と一緒なら安全だろうと。
後は彼の呑んでいた酒がさすがにこの店にしては上等で、美味しくてついつい呑み過ぎた、というのもある。翌日休みで深酒をして二日酔いでも大丈夫、とも思ってしまったのもある。
その結果どうなったのかというと……。
……私と彼は見事に朝チュンしてしまったのである。
◇◇◇
……裸で抱き合って目が覚めれば、まぁそういう事ですよね。さすがに私も愕然とした。いや、ちょっと待って?
えー、確かに、昨日はネイベールと痛飲して、彼と共に酒場を出た、ような気がする。多分。
もうベロベロのネイベールを引っ張り、道端で嘔吐する彼を笑いながら介抱して、挙句には潰れてしまった大きな彼を私が背負って私の部屋まで帰ってきたのだ。
が……。そこから先は一切記憶にない。全然ない。起きたらこの状況だったのだ。
……やっちゃったZE☆!
で済むのかしらこの状況。そもそもヤったのかどうかも定かではないのだ。なにしろ私はその、まだ未経験だし。
ただ、若い男女が裸で抱き合っていたら、それはやっぱりそういうこと、ヤっちゃったという事だろう。状況証拠的に。
私が呆然としている内にネイベールも目を覚ました。彼も当初ぼんやりしていたが、自分の現在の状況に気が付くと、思わず「うわー!」っと叫んだ。
そして私を、薄茶の髪と黄色い瞳の痩せっぽち女を凝視する事しばし……。
私とネイベールはどちらからともなくベッドから降り、床に散らばった自分の服を集めてモソモソと服を着た。無言だったわね。
彼の服は案の定豪華な貴族服で、着るのには随分時間が掛かっていた。私はチラチラと彼の事を、背が高くてがっしりとして、整った顔立ちをしている彼を観察した。
ようやく服を着終えると、彼はその緑の目を厳しくして私を睨んだ。頭二つくらいネイベールの方が大きいから私は見上げる形になる。
彼は不機嫌そうな表情を隠しもせずにこう言った。
「……後で連絡をさせる」
そして大股で部屋のドアを開けると急ぎ足で階段を降りて行った。
……連絡? 私は首を傾げた。
◇◇◇
こうして私はイラグーレ侯爵家の下級侍女になった。
……どうしてこうなった? いや、ホントに意味が分からないわよね。
例のあの日の数日後、私の職場に身なりの良い男性が数人押し掛けてきて、戸惑う私を石鹸だらけの服のまま、馬車で拉致したのだ。
そして私はイラグーレ侯爵邸に連れて来られたのだ。そしてそこで待ち構えていたネイベールから一方的に「今日からお前は我が家の下級侍女だ!」と宣告されたのだった。
その時のネイベールの態度たるや、高飛車で高慢で、いかにも上位貴族という感じで極めていけ好かなかったわね。とても酒場でべそかいて弱音を吐いていた男とは思えなかった。
「で、でも! 私にだって都合が! 仕事だってあるし!」
「問題ない。お前の職場には連絡をして迷惑料を払った」
そして私の部屋の荷物は(大したものはないけど)お屋敷に既に運び込まれていた。
唖然呆然とする私に、詳しい話を説明してくれたのは、侍女長のエスタフィン様だった。髪が半ば白くなり、温和な顔立ちである彼女は、私に気の毒そうな顔で言った。
「貴女はその、おぼっちゃまと男女の関係になったでしょう? そうすると、貴女をそのまま放置して、もしもご落胤騒動でも起きたらイラグーレ侯爵家としては困るのです」
つまり、場末の庶民女が次期侯爵のご落胤を得たとなると、誰にどんな利用をされるか分からない。
だから侯爵家としては私を放置しておけないのだ、という話なのだった。もしも私が妊娠していたら、出産後に子供は侯爵家に庶子として引き取られる。そして私はそのまま侯爵家で面倒を見てもらえる、という事らしい。
「じゃ、じゃあ、もしも子供が出来てなかったらどうなるのでしょうか? 下町に帰れるのですか?」
「さぁ、それは指示を受けていないから分からないけど、帰りたければ帰ってもいいし、このまま下級侍女として働きたければこのままでも良いと思うわよ?」
……それなら帰りたい、とも思うんだけど、話によるとここの下級侍女のお給金は洗濯女の十倍で、個室も用意されて生活必需品は支給。食事も無料おかわりあり、とのこと。……それは、迷うわね。酒場に繰り出して顔馴染みに会えないのは寂しいけど……。
とりあえず、妊娠してるかどうかが分かるまでの数ヶ月はここで働くしかなさそうなので、私は諦めてイラグーレ侯爵家の下級侍女としての生活を始めたのだった。
◇◇◇
イラグーレ侯爵家はなんでも王国の中でも有力な大貴族だそうだ。私にとってはお貴族様はみんな雲の上の人々でよく分からないんだけど、貴族の中でもかなり上位に位置するお家なのだそうだ。
イラグーレ侯爵(お屋形様と呼ばれている)とご夫人(奥様と呼ぶ)は大変気さくな方々で、使用人にも親しく声を掛けてくれる。
私にも「息子が迷惑を掛けたな」と謝って下さったくらいだ。逆に私が恐縮してしまったわよね。
ネイベールの妹のご令嬢キリリーユ様も優しく良い人で、年嵩の使用人には娘のように可愛がられていた。
ご主人様たちが性格の良い方々なのだから、お屋敷の雰囲気は和やかで使用人同士の関係も穏やかだった。新人いじめも特になくて私はホッと一息だったわよ。
……そんなお屋敷で一人、悪い雰囲気を出していたのがネイベールだった。
黒髪緑眼、端正な風貌で長身のこの貴公子は、とにかく高飛車で高慢で居丈高だったのだ。
何かというと侍女を怒鳴りつけ従僕を叱り、下働きや出入りの職人なんかにも文句を言っていたわね。しかもその理由が「部屋の隅に埃が落ちていた!」「準備がほんの少し遅れた!」「私の前を横切った!」みたいな些細な事なのだからたまらないわよね。
そんなだからネイベールは使用人には非常に嫌われていたわね。わがままお坊ちゃん。このお屋敷で唯一の欠点、みたいな扱いだった。
ただねぇ、私はお屋敷に入ったきっかけがアレでしょう?
それに私は場末の酒場でフードを被って大人しく、孤独に酒を呑んでいたネイベールを知ってたのよね。
あの酒場で彼は酔客に絡まれる事があっても貴族らしい居丈高な態度なんて取らなかったのよ。
それにあの日一緒に呑んで打ち解けてきた辺りでボロボロ転げ出した弱音よね。あのネガティブ全開の彼と高慢ちきなネイベールがイマイチ結び付かないのだ。
そもそも裸で抱き合って寝た仲で、どうやら私は彼の愛妾候補らしい。私は彼に遠慮する気にならなかったし、周りの人々から嫌われているのを放っておく気にも、なんだかなれなかった。
私は彼が傲慢な態度をすると、叱りつけるようになった。
「そんな態度をするもんじゃないわ! ネイベール! 謝りなさい!」
私が侍女服のまま腰に手を当てて叫ぶと、ネイベールは目を丸くした。そしてすぐに顔を真っ赤にして怒鳴った。
「ぶ、無礼だぞ! 下級侍女のくせに!」
私はもちろん引かない。
「何言ってるの! あんたが無理やりここに連れて来たくせに! なんなら私を追い出してみる?」
ネイベールは歯軋りをして沈黙した。私が連れて来られたのはおそらくのお屋形様ご命令だ。ネイベールの自由意志で私をクビにする事は出来ないのだろう。
「ほら! 謝んなさい! 子供じゃないんだからそれくらいは出来るでしょ!」
それからというもの、私が付き纏ってこの調子でやいのやいの言うもんだから、ネイベールは次第に使用人に対して意味なく怒鳴り付けるような事はしなくなっていった。謝りまではしなかったけどね。
本来、ネイベールの身の回りの世話は上級侍女の仕事だ。下級侍女の私の出る幕ではない。
しかし、上級侍女にも嫌われていたネイベールの世話は誰もやりたがらず、彼も「近付くな!」と怒鳴るもんだから、彼はほとんどお部屋では放置状態だった。だからあの時貴族なのに自分で服が着られたのね。
なので私は買って出て、彼のお世話をしてあげた。着替え、髪や肌のお手入れ、髭剃りなどね。お風呂の世話もしてあげると言ったら断固拒否されてしまったけども。
ネイベールは嫌がったけど、私は聞いてあげなかった。逃げるのを捕まえて無理やり世話をしたのだ。近所の子供の世話をする要領よね。子供の頃はよく子守りをさせられたのよ。
私があんまりしつこいので、ネイベールは根負けして大人しく私の世話を受け入れるようになった。そうすれば彼のお部屋で彼と二人きりの時間が長く取れるし、話も出来る。
私は彼にしきりと話し掛けた。最初は一方的によ? ネイベールは返事をしなかったからね。でも私は構わなかった。日常の事や下町の噂話や、昔話や子供の頃に聞いた御伽噺や怪談まで。ズーッと話し掛け続けたのだ。
そうやっていれば、ネイベールだって興味のある話題には思わず食い付いてくる。そしてそうやって少しずつでも話をするようになればネイベールだって頑なな態度は守れなくなるのだ。
お酒が入ってる時ほど簡単には行かなかったけどね。だんだん彼は私の前で本音の部分を見せるようになっていった。
すると彼はあの日と同じように、ポツポツと弱音を漏らすようになったのだ。
「私には侯爵なんて無理だ」
ネイベールは呟いたものだ。
ネイベールは次期侯爵だ。そのため、現在は王国の大臣を務める侯爵様の元で修行中らしい。
同時に、侯爵領の統治も学ばねばならず、それもお父様に付いて必死に学んでいる最中なのだそうだ。
しかしどちらの仕事も非常に多い上に、政治も統治も綺麗事では済まず、彼には非常に心の負担が大きいらしいのである。
そう。ネイベールはそもそも非常に気が弱く、心が優しい男なのだ。私は一緒に酒を呑んだ時からその事は見抜いていた。あの日も散々自分には出来ない、無理だ、逃げたいと散々嘆いていたものだ。
そしてあの日に私は「この子可愛いな」と思ってしまったのである。彼は二十一歳。四つも歳下なのよ。それでちょっとキュンとなって、あの日あんな事になっちゃったんじゃないかと思うんだけどね。
だからお屋敷に来て、彼が高慢な傲慢な態度でいるのを見ても「無理しちゃってまぁ」としか思えなかったのだ。自分の弱いところを隠そうと刺々しく振る舞っているようにしか見えなかった。
そして本音では弱音や愚痴を吐き出したいに決まっている事も見抜いていたのだった。
なので私は彼を甘やかしたわよ。彼の愚痴や弱音に付き合って彼を一度も否定しなかった。頑張れとも負けるなとも言わなかったわよ。
「大丈夫。ベールになら出来るからね」
と言ってヨシヨシしてあげた。
その結果、ネイベールは私の前では虚勢を張らなくなり、リラックス出来るようになった。年中気を張っていた彼だから、素が出せるようになるとそれは可愛かったわよ!
部屋の中で私に縋って甘えて泣き言を言う彼を慰めてあげるのだ。私はどうもこういう情けないくらいの男の方が好きなようだ。母性本能というやつかしらね。
ネイベールはどんどん私に依存して、私もネイベールが可愛くて仕方なくなって、私たちはお屋敷にいる間はいつも一緒に過ごすようになってしまったのだった。
その結果どうなるのかというと……。
その日も私はお風呂から上がったネイベールの髪を梳かしてあげながら彼の話を聞いていた。
ネイベールは最近表情も明るくなって、話す内容もあんまりネガティブではなくなっていた。いい傾向だ。
髪も梳かして化粧水も叩いてあげた。ガウン姿のネイベールは目のやり場に困るくらい色っぽかったわね。お仕事が終わった私は「じゃぁね」と言って彼の頭を軽く撫でて退出しようとした。
すると引こうとする手が掴まれた。ネイベールの大きな手が私の手を掴んでいたのだ。私は首を傾げる。
「なに?」
しかしネイベールはそのまま立ち上がり、私の手を引いて抱き寄せると、まず私の頭に乗っていたメイド帽を外した。
「……ベール?」
ネイベールは応えず私の髪を結んでいたリボンをほどき、エプロンドレスの腰紐を解く。……これは、アレよね。
彼の大きな手が私の背中と腰を撫で、熱い息が私の耳に掛かる。
「……いやか?」
この期に及んで不安そうな彼の声に私は思わずクスリと笑ってしまったわよ。
「嫌ではありませんよ」
私は臆病な彼を安心させるべく、自分から彼の頬に口付けたのだった。
◇◇◇
私は元々ネイベールの愛妾候補としてお屋敷に入っているので、ネイベールとベタベタしていても文句は言われなかった。
というか、彼と二度目の朝を迎えた段階で、私はもう下級侍女ではなく彼の愛妾になる事が確定になり、下級侍女のお仕事はしなくても良くなった。
彼のお世話をして仲良くしているのがお仕事になったのだ。なのでネイベールとお酒を(びっくりするほどの高級酒を)楽しむ事も出来るようになり、彼との仲は一層深まったのだった。
庶民女が貴族の愛妾になるなんてとんでもない大出世で、稀に聞く話ではあるけど自分がそんな事になるなんて思いもしなかったわね。人生何が起こるか分からないわよね。
一度愛妾になれば、もしもネイベールからの寵愛が衰えても、放り出される事は滅多にないらしい。最悪、捨て扶持をもらって田舎で悠々自適の生活が送れるはずだ。つまり私はもう一生生活が安泰なのだ。
私としてはあの可愛いネイベールと出来るだけ長く仲良く暮らして、出来れば子供も産んで……、なんていう薔薇色の愛妾生活を夢見ていたわね。
ところがある時期から雲行きがおかしくなって来たのだった。
ネイベールは私を完全に愛妾にしてから精神状態が完全に落ち着き、見違えるように次期侯爵の業務に集中するようになったらしい。
高慢な態度や投げやりな態度は消え、貴族にとっては恥になりかねない下町への微行もスッパリ止めた。部下や使用人からの評価も回復。これを侯爵様は物凄く喜んだ。
「レスカーのおかげだな」
とわざわざ呼ばれてお褒めの言葉を賜った事もある。彼が更生したのは私にとっても嬉しく誇らしい事だったわよ。
ただ、ネイベールの変化はあからさま過ぎた。私に依存するようになって彼の精神状態が改善した事は誰の目にも明らかで、侯爵様はそこに懸念を持たれていたそうだ。
案の定、彼は私以外の女性に興味を失ってしまった。ネイベールは持ち込まれた縁談を全て断り、夜会でも令嬢と踊るそぶりも見せなくなってしまったのである。
元々態度が悪かったせいでネイベールはその容姿の割にご令嬢にモテなかったのだけど、それが改善したら今度は女性に完全に興味がない態度を示すようになってしまったのだ。
困った侯爵様がネイベールに結婚をどうするのかという話をすると、彼は案の定「レスカーがいるから必要ない」と言ったそうだ。
愛妾がいるから結婚しなくても大丈夫、という話は通らない。貴族嫡男にとって後継者を得る事は何より大事なのだ。愛妾の子は後継者には出来ない。
だが、ネイベールは兎に角縁談を嫌がった。元々自分の気弱を悟らせないためにツンケンした態度をしていた彼である。まだまだ他人の前では何重にも心の壁を作ったままなのだ。縁談で相手の女性と近しくなって自分の素を悟られるのを恐れていたのだろう。
ネイベールは「私がそばにいて欲しいのはレスカーだけで、他には仮初にも妻などもらいたくもない」とまで言ったそうで、侯爵様は弱り果ててしまった。
その結果、侯爵様が出した結論は。
「仕方ない。ネイベールとレスカーを結婚させよう」
というとんでもないものだった。
……は?
最初に聞かされた時には何を言われたのか分からなかったわよね。あまりにも荒唐無稽な話だったから。
だって、庶民の、元洗濯女の、しかも二十五歳の彼よりも四歳も歳上の、こんな痩せっぽちのちんちくりんを、次期侯爵の奥様にするなんて。
あまりにも非現実的な話なんだもの。それは信じられないわよね。
呆れ果てる私に侯爵様は完全に匙を投げた態度でこう仰ったわよ。
「ネイベールをこうしたのは其方なのだから、最後まで面倒を見てもらおうか」
……面倒を見るのはやぶさかではないんですけども。果たして庶民を次期侯爵が娶るなんて許されるのかしら?
もちろん許される訳がない。なので侯爵様は私の身分ロンダリングを試みた。
まず遠縁の子爵家に、二十年前生まれたばかりで夭逝なさった女の子がいたのを見つけ、その子に私を成りすまさせたのである。……私、四歳も若くなったんですけど。
それだけでは侯爵夫人には身分が足りないという事で、そこから親戚のケルベック伯爵家に養子に入れる。結婚直前の養子入りは、身分低い貴族令嬢と高位貴族が結婚する時にはよく使われる方法らしい。
こうして私はケルベック伯爵令嬢レスカーレ(名前は変えさせられた)としてネイベールと正式に結婚する事になったのである。……無茶苦茶である。
もちろんだけどこんな無茶苦茶が簡単に通る訳はなくて、侯爵様が国王陛下とか有力貴族とかに入念に根回しをしてどうにかこうにか実現させたお話みたいなんだけどね。
こんなとんでもない誤魔化しを糊塗するのは並大抵の事ではなくて、もちろん私だって大変な目に遭わされた。
具体的には「実は庶民でした」なんてバレたらとんでもない事になる。せめて生まれた時から子爵令嬢だったんです! と言えなければ困るということで、私には容赦ない貴族令嬢教育が施される事となったのだ。
ちょ、ちょっと待ってよ! 私に貴族なんて無理よ! なんて意見はもちろん通らず、私は勉強漬けお作法漬けの毎日を送る羽目になったのだった。
それは厳しく辛い教育で、私は何度もへこたれそうになったわよね。教育の辛さの泣き言を、今度は私がネイベールに聞いてもらうようになり、二人の絆は更に深まったんだけどね。
それにしたって貴族令嬢教育を庶民女に短期間で施すなんて無茶の極みで、当初一年の予定がどうしても無理で二年以上も掛かってしまった。
おかげでようやく結婚式を挙げた時には私は二十八歳(名目上二十四歳)で一児の母になってしまっていたんだけどね。教育期間が長引いてしまった理由には妊娠してしまったというのもある。
もちろん出産は極秘で、生まれた娘アリーティアは公表されていない。来年以降に生まれた事にされる予定だ。私と同じく実年齢より若い年齢になってしまう訳ね。
でも、今こっそりお腹にいる子はちゃんと侯爵家の子供として祝福されて生まれる予定である。あれ? そうするとアリーティアと同時に生まれた事になっちゃわない? どうするのかしらね?
ま、いいか。なんとかなるでしょう。私は純白のウエディングドレスを纏い、幸せそうに笑うネイベールと手を取り合いながら、拍手をして下さる来賓の皆様に、手を振って応えたのだった。
八月八日、マックガーデン様より「暗殺女帝ベルリュージュ」が発売になります(*゜▽゜)ノイラストは匈歌ハトリ先生が担当して下さいました。素晴らしい本になってますから是非買って下さいね!