独りと一人
いつからか、「生きる」ということが映画と同じように思えた。
住宅街の中にポツンと聳える、無駄に広い駐車場を携えた映画館。その中の一番狭い上映室。そこは暗くて、静かで、少し埃っぽい。一番後ろの真ん中の席からは映写室からスクリーンに向けられた光の中に細かな輝きがよく見えた。
薄っぺらな紙一枚に映された映像の題名はもう覚えていない。カメラのアングルを切り替えることもなく、ただ一人称視点で綴られた物語は、ストーリーというにはあまりにも単調で、誰かの一日を編集することもなくただ流しただけと言っても過言ではない。時折誰かが紡ぐ台詞もぼんやりとこんな感じのニュアンスだったなと、その程度にしか思い出すことはできず、なんの感想を抱くこともできなかったその作品で覚えていたのは、スクリーンの向こうから覗く人々の瞳の中に薄っすらと浮かんでは消えていく憐みだとか蔑みだとか、少なくとも好意ではない感情なものだから、「ああ、見る意味などなかった」とそう思った。
人生も、そうだった。
そこに意味などはなく、ただ流れ行く景色を眺めるだけの無駄。覚えているのは思い出す価値のないもので、時間ばかりを浪費している。コマーシャルでよく流れる、スクリーンの光に反射した涙なんてものはそこになく、ただ一人、「私」というものが所在なさげに座り込んでいるだけだった。
けど、あの時は違った。
平日の昼下がり、クソ田舎にしてはほんの少しだけ賑わいを見せるショッピングセンターに隣接した駅のホームに停車した電車の中、反対列車の通過待ちだとか言って五分間の停車中。改札階から階段を上って来たセーラー服が風に吹かれふわりと揺れた。その人は電車のいないホームに足を進め、こっちに背を向けている。その背に、既視感を覚えた。確信こそないものの、きっと知人だという直感に、顔を伏せようと思うも、何処かに飛ばされて行ってしまいそうなほど不安定な足取りが、ぐんぐんと黄泉路の際に近付いているようで、目が、離せなかった。
その時だ。その時の私にはもう意味とか価値とか考える間もなく、ただ弾かれるように電車を駆け降りていた。
四両編成の電車が止まれるホームには両手に満たない人しかいなくて静寂。その中を切り裂くように固く結ばれたスニーカーが地面を蹴る音が響き渡った。スマホに目を落としていた彼等は驚いたように顔を上げ、気怠げなパーカー姿が「なに……っ」と訝しむような声で呟いた。
注目が集まる。いつもだったら一人の視線ですら嫌なのに、この時ばかりは何故か、身体が自分のものではないみたいに、否、確かに自分のものであるかのように動いてしまった。
息の吐けない、そんな感覚を覚えたのはいつぶりだろうか。喉がきゅっと詰まったようで、言葉も何もなくただ手を伸ばす事しか出来なかった。
点字ブロックの上、そいつの腕を掴んだ手は勢い余って、中指の爪が親指の腹に突き刺さりちょっと痛い。線路側に傾いていた体は思っていたよりも簡単に引っ張れて、ぐんっと近付いた顔が振り向き、艶のない髪の間から墨汁みたいに真っ黒な瞳が私を見た。
その女の口が小さく動く。吐き出された息で髪の毛が揺れた。辛うじて何か音が紡がれたことは分かるものの、ガタンゴトンと絵に描いたような電車の騒音に負け聞こえない。
でも、きっと「なんであんたがここに居るんだ」とか、そういうことを言っているはず。
その面があまりにも間抜けに思えて、止まっていた息がふっと吐き出る。
「何してんの」
やっと出た言葉はそんな、三年ぶりの再会にはあまりにも素っ気ないものだった。
そいつとの出会いは、中学入学の日だった。
きっと背が伸びるから、なんて誰にも分からない不確定な未来予想図を勝手に描かれて仕立てられた制服の、丈の余った袖口を指で撫でていた。
春、誰も電気を付けない教室の一番窓際、後ろから二番目。小さな背をもっと縮めて、机の上に置かれていたプリントのまだ見ぬ担任の文字と思わしき「入学おめでとう」とその下に続く祝福の言葉を上から下まで何度も何度も往復した。
窓から差し込む陽射しが神に反射し、ちょっと眩しい。時折校庭の上を周遊するトンビが近付いてきて、バッと大きな影を作るものだから、どうにも目がチカチカした。
「ねー」
様子を伺い探り合うような微かなざわめきの中、背後に聞こえた声に肩が跳ねる。その声は私に向かっているような気もするが、後頭部に目などついていないからその真偽はわからなくて、「はーい」とさも自分が呼ばれたかのように振り向くのは自意識過剰な気がしてしまった。ちらりと視線だけ動かして様子を伺おうとしても隣の男士が眠たそうに欠伸を噛み殺したのが見えるだけ。呼びかけの行く先は分からないが、後ろの人は小学校の時からの同級生でもないのに声をかけて来る理由があるだろうか。
きっと隣の子に呼び掛けたのだろうと結論付けて再度プリントに目を落とした私の肩にトンッと小さく振動があった。
「ねぇってば」
繰り返し、トントンと一本指がリズムを刻む。一息吸って振り返ると、下手糞なポニーテールが布に当た
ってぱさっと音を立てた。
「は、はい……!」
上擦った声が恥ずかしかった。たったそれだけのことで顔に熱が集中する。そんな私を見たのか見てないのか、そいつは何も思っていないような顔でからあげを食べたばかり見たいな唇を開いた。
「ね、あたしのリボンなんか変じゃない?」
唇と同じような艶の爪でセーラーのリボンを持ち上げる。
「え、そ、そうかな」
彼女の言う「変」が分からず、ただ曖昧に笑う。
「そ? なら、良いんだけど」
その返事は正解だったみたいで、彼女は満足げに笑う。前髪の陰の下で猫の目みたいに瞳が歪んで、目尻にしわが浮かんでいた。
「あたし、中島春子。名前は?」
「飯田優愛です。優しいに愛って書いてユア」
「ふーん、よろしくね」
それが初めての出会い。その時そいつはキラキラしてて輝いていてなんかカッコよくて、芸能人みたいなんて馬鹿みたいに思った。小学校の時にはいなかったそのキラキラに、この人と友達になれたらなんて素敵なんだろうと。
それが、なんでこんなんになってるんだろう。
あの頃の煌めきを失い、亡霊みたいになった女をさっきまで乗っていた電車の押し込め息を吐いた。四両編成の先頭車両、その一番前、三人掛けのベンチシートに座る。運転席側に座った春子は居心地が悪そうに壁にぎゅっと詰め寄っていた。
車両の中に他人は二人、どちらもスマホとにらめっこしている。ガラガラなのをいいことに新学期だからと母が買ってきたばかりのローファーを履いた足を投げ出した。ちょっと離れた場所に置かれた足は縮こまっていて、不安げに振動している。サテンのリボンが結ばれたツイード生地のスニーカーは、去年くらいに高校の同級生が下駄箱で友人たちに自慢していたものと同じ。でも、かつて見た物とは別物なのではと疑いたくなるくらい、汚れがひどく鈍色にくすんで見えた。
「なんでいんの」
定刻になり発車した車内、黙りこくっていたそいつがおもむろに口を開く。
「なんでって、するでしょ。里帰りくらい」
「一人で制服着て?」
俯いていた顔が値踏みするように上から下までじろりと見る。その視線に思わず身を捩った。中学二年の終わり東京に移り住み、それから全くと言って帰っていなかったこの町に今更来たのは確かに訝しいだろう。田舎なせいで帰ってきていたら一瞬で誰もが知るところになるだろうし。
「別にあんたに関係ない」
「ふーん、まあ別に興味ないけど」
「は……」
聞いてきたくせになんなんだと文句のひとつでも言いたかったが言葉にできなくて口を噤む。下唇の裏にできた口内炎が染みた。
ガッと電車が音を立てて大きく揺れる。そう言えばこっちの電車はよく揺れるんだったと思い出す。二人の間の静寂を誤魔化す騒音に、メトロ見習えよと心の中で呟いた。
気まずい空気が流れる。昔懐かしい話なんてしたくないし、かといって他人事みたいにこの時間を眺める方法が分からない。一度スクリーンの中に飛び込んでしまったのだから。
自分の思考によって時を進めることなんて久々でどうにも落ち着かない。暇になった手を弄ぶように、鞄についたキューピーちゃんのご当地キーホルダーを弾いて揺らした。
「間もなく××、××」
中川家みたいなアナウンスが車内に響く。電車が徐々に減速をはじめ、停車の準備を始めた。住宅街の中、少し先には学校が見える。確か、春子の着ている制服と同じ。チラ、と横を見ると鞄を抱えた春子が立ち上がった。そしてこちらに何を言うでもなく、歩き出し、扉に向かう。
「どこ行くの」
再び掴んだ腕はやっぱり細い。白かった肌が、握られている場所の周りだけ赤らんだ。
「なんで掴むん」
「なんでって、離したら降りるでしょ」
「降りちゃいかんの」
「降りたら、また線路に飛び込もうとするんじゃないの」
「飛び込んじゃ、いかんの」
真っ黒の瞳が真っ直ぐ見つめる。黒々としたその中に、問いに答えられない私が映っていた。
「さっきから、なんで止めるん」
無意識、ということにしておいた感情を聞く。それは意地悪とかでは決してなく、ただ純粋に疑問の色をしていた。
「止めちゃ、駄目なの」
「ダメッてか、うざい」
その言葉に顔中熱が集まる。腹の奥から煮えるような何かが込み上げてきて、掴んでいた腕を力任せに引っ張った。春子の体が大きく揺れて、椅子に打ち付けられるように尻を付く。バンッと背が付いた壁が音を立てて、上半分ガラス張りの向こう側から運転手がびっくりした表情でこちらを向いた。
「あ」
その人と目があって、急に体の熱が引く。心の臓から冷たくなったようだ。
ごめんなさい、と運転席に小さく呟く。目が合った運転手は不審げな目をしながらも、小さく会釈をし前を向いた。
「いったいな」
肩を摩る女がこちらを睨みつける。
「なんなん、まだ私の事そんな好きなん」
春子の言葉が頭の中を駆け抜けた。言葉の意味を理解するよりも先に浮かんだ、なんって言い過ぎじゃねとかいう馬鹿の感想を必死こいて振り払い、一文字一文字噛み締めていく。
なんですか、まだ私の事そんなに好きなんですか。
標準語に直すとそんな感じ。方言のままでも変わらない。意味を違えるような言葉はないけれど、ひとつも意味が分からない。
「……どういうこと」
辛うじて口に出た疑問に春子は苛立たし気に口を開く。
「だから、中学ん時みたいにまだ私の事が好きやから、だから死のうとするの止めるんじゃないのってこと」
その言葉の意味は聞き直しても変わらなくて。
「なんで、いじめて来た奴の事まだ好きでいると思ってんの」
腕を掴んでいた手の力が抜ける。床に置いていた鞄が電車の揺れでとさっと倒れた。
「は?」
間抜けな声がした。
「あんたなんか嫌いに決まってる。でも、ただ目の前で人が死ぬのはやだってだけで、それがたまたまあんただったってだけで」
「まって」
瞳の奥が痛む。噛んだ下唇の裏にあった口内炎が大きくなった気がした。
「いじめって何」
「……は?」
きっと傍から見たら間抜け同士見つめ合ってるんだろう。いつの間にか動き始めていた電車の流れる景色の前に立ちはだかる反射した私たちが視界の隅に映った。
「……中学の時、いじめてきたじゃん」
蔑みの瞳を逸らし背を向け友と消えていく春子の姿がフラッシュバックする。親友と思っていた人からの突然の裏切りの苦しみは今でも消えていない。
「あんたが先導して、みんなで無視してさ」
喉の奥がきゅうと閉まったように感じる。
息が、し辛い。
息は肺でするなんていう奴は馬鹿だ。息は感情でするものだ。そうでなければ、こうやって壊れたラジオみたいに不規則な呼吸しか出来なくなることなんてないのだ。そうであるから、私はスクリーンの中で息が上手くできないのだ。
「あんた、あれいじめだと思ってたの。信じらんない」
春子が嘲った笑みを浮かべる。
「あの頃からなんも変わってないんやね」
「いじめじゃなかったら、なんなの」
「あんたがあんまりにも依存してくるから距離取っただけじゃん。何するにも春ちゃん春ちゃん―って、どこ行くにもついてきて、誰と話してても割り込んできて自分の話ばっか。中途半端に距離置こうとしても近付いてくるから、避けてただけだし」
春子は呆れたように肩を竦ませる。
「……私の勘違いってこと」
「そういうこと。勝手に人の事加害者にしんといてよね」
瞳の奥にあの頃と同じ色が燻る。
私にとって春子にいじめられるまでの日々は人生の春だった。最高の親友と最高の学生生活を送っていたつもりだった。彼女の友達でいられるのならなんだってしたし、ずっと一緒にいたかったし、死ぬまで一緒だってそんな風に思っていたんだ。
それなのに、それは彼女からしたら、「依存」だったのか。
「でも、私は苦しかったし悲しかった」
「だから、それはあんたが勝手にそう思っただけやん」
「そう思わせたのは春ちゃんじゃん!」
勢いよく飛び出た言葉に春子の顔が歪む。
「あんたが、苦しいって思うのも悲しいって思うのも勝手やけど、あたしがあんたのこと嫌いやって思うのも勝手やろ! なんであんたはいっつも自分を中心に世界が回ってると思ってるん!?」
カタンっ、遠くで寝落ちたリーマンのスマホが床に落ちる。
「私の事、嫌いだったの? 依存されるのが嫌なんじゃなくて、嫌いやった?」
二人の間、ベンチシートの布が斑に染まる。
「嫌いや」
春子の声は無情。呑み込んだつばが苦い。
「あんたみたいに、人の気持ちなんも考えんで好き勝手ばっかして、思い通りにならんかったら人のせいにする癖に、なにもしんでも愛されてるやつなんか嫌いや」
「何もしなくても愛されてるわけない。今だって高校に友達なんていないし、LINEする人すらいない! 何処が愛されてるってわけ」
「じゃあ、それ誰から貰ったん」
鞄についたキューピーちゃんを差した。
「は?」
「どうせ父親やろ。そんな趣味悪いお土産。弁当やってどうせ作ってもらっとるくせに」
「それがなに」
「やっぱ図星やん」
「……別にそういうものでしょ、親って」
ちょっと浮いてた腰を下ろす。苛立たし気に春子が眉を顰める。
「あんたは親ガチャ成功してて良かったやん。私は、……愛してほしかった」
小さく呟かれた声は泣きそうで。
「私じゃ、駄目だったの」
蓋をしていた感情が溢れ出す。
「私は、春ちゃんのこと好きだった。春ちゃんのためならなんだってできた。春ちゃんが愛してほしいって言うんなら、ううん、言わなくても愛してたのに。私だって、親じゃなくて友達に……っ」
「必要のない愛なんて、ただ気持ち悪いだけだよ」
電車が止まる。他の路線も集まるプラットフォーム、少しだけ人が乗り込んでくる。
「……必要な愛が、違うんじゃ、分かりあえっ子ないね」
立ち上がり、キューピーちゃんのついた鞄を持ち上げ、とんとんと新品のローファーのつま先で床を叩いた。
「うん、でも、やっぱりあれはいじめだったと思う」
墨色が、うんざりとしたように息を吐く。
「じゃ、元気でね。友達だったら、また会えたかもね」
この町に来た理由なんて説明できないと思ってた。でも、今は思う。きっと「もしかしたら」って希望を持っていたのだと思う。その希望が何なのかって具体的には悔しいから言わないけれど。
でも、ここにはもうないものだった。
特急に乗り換えて、新幹線の止まる駅まで行こう。今から練馬に帰るのでは何時になるだろうか。
帰ったら、明日は学校に行って誰かに挨拶してみようか。そしたらきっと新しい希望がまた見つかるから。
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