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目を開けると、僕はベッドに寝転がっていた。これが僕の部屋だったかと思いかけて、首を振る。そんなはずはない。僕の部屋には最低限の物しかないはずだ。それなのに首を傾けると、チェイサーや可動式本棚、ひとりでは使いこなせないほどの大きなテーブルもあった。
体を起こす。歩いたことのない場所だ。丸太をふんだんに使った家なのだろう。木のかおりが、心を落ち着かせてくれる。
ベッドの上にはぬいぐるみがいくつか乗っていて、一緒に寝ていたのかと苦笑する。海くんの言っていた中で会おうとはこのことだったのか。ゲームの中、不思議な感覚だ。
なによりも、十何年かぶりに、僕の目は見ることができている。目が目として機能している。どういう原理で、どんな仕組みで見えているのか。僕にはさっぱりだが、目に涙が浮かぶ。視界がぼやける。そんなことが嬉しくてしかたがない。せっかく見えた世界がにじんではもったいない。目元を擦って、立ち上がろうとした。
「おっ、おぉ。とっとっと」
すぐにベッドに戻ってきてしまう。もう一度立つ。けれど、バランスを取るのが難しく、長く立っていられない。それに声がなんだか自分のじゃないみたいで、心の底から笑いが込み上げてくる。
「ぷっ、ははははは」
なんだかとっても面白い。目で見て立ち上がり、歩くのがこんなにも難しいとは思ってもみなかった。いつの間にか、見ないで歩くことが普通のことになっていたのだろう。見えることが、楽しくて面白くて、笑いが止まらない。
自分の足を撫でてみる。細い細い足だった。この足で、歩けるのかと不安になるくらいだ。でもここは、ゲームの世界。練習したらなんとかなるのかもしれない。
サイドテーブルにつかまりながら、僕はゆっくりと立ち上がった。少しの時間、手を離しては寄りかかりを繰り返す。そして、立つことに成功した。
「よし、よしよし」
壁を伝い、玄関を目指す。暖炉、キッチンの横を通る。どの家具にも可愛い飾り付けが目立つ。そんなことより、外だ。外に出てみたい。
十分くらいはかかった気がするが、玄関の取っ手を掴んだ。細く白い手で、ひねってみる。ゆっくり、ゆっくりとドアを開けた。
外気が隙間から入ってくる。少し冷たくて太陽の光が集まったにおいだ。ドアを開いていく。光の線が太く強くなっていく。風で舞った埃が、キラキラした。
「きれい……」
ドアを全開にして見えた世界は、風が躍る森だった。葉が重なり音楽を奏でている。雲も太陽も青空も、それらを静かに聞いていた。
「すごい……」
腰が抜けてしまったのか、その場に座り込んでしまった。それでも目だけは離せなかった。なんども深呼吸を繰り返し、新鮮な空気を体に取り込む。生きている、そう感じた。
途方に暮れるとは違と思うが、この世界のすばらしさに呆然としていると、聞きなじみのある音が聞こえた。電話だ、と辺りをさがす。けれど、スマホやタブレットのような端末は見つからない。あたふたとしていると、視界に赤く点滅する光が見えた。触ってみる。
「おーい、聞こえるかー」
知らない人の声だった。
「え、えっと、だれ?」
「誠一郎くん、だよね。海だよ。隣が翔」
「あぁ、海くんと尾上くん」
「思った通りだった。ちゃんと目、見えてる?」
「うん! 見えてる! 見えてるよ!」
「そっか、それは良かった。今からそっちに向かうから、少しそこで待てて。その辺、けっこう強いモンスター出るから、動かないでね。俺が、妹に殺される」
そういうと、僕の返事も待たずに電話が切れた。ゲームのことはよくわからないけれど、動かない方がいいことは伝わった。まぁ、ここなら僕は何時間でも景色を眺めていられる。耳の雑音がなかったらもっといいのにと、頭を振るが改善はしなかった。
とはいえ、それらを差し引いても、ここで生活してもいいくらい気持ちがいい。玄関に向かう階段で腰を下ろす。見上げると、どでかい鳥も飛んでいる。僕の記憶にないだけで、現実にもこんな鳥がいるのだろうか。
雨は降るのか、季節はあるのか、時間の流れは、現実と違うのか。考えれば考えるだけ疑問が出てくる。空に雲のような疑問を浮かべているだけで、時間はすぎていく。
「おーい」
先のほうで、声が聞こえた。さっき電話で聞いた声だ。顔を向けると、二人が走ってくる。
二人が僕の前に立つやいなや、腹を抱えて笑い出す。
「おま、お前、本当に誠一郎か? あははは」
「わかってはいたけれど、面白い」
尾上くんなんて地面を転がりまわっている。何をそんなにも笑っているのだろうか。僕は小首を傾げていた。
涙を拭き、呼吸を整えた海くんが、僕を見て笑いを堪えながら説明してくれた。
「誠一郎くん、間違えて俺の妹のアカウントを使っちゃったんだね」
そこで、海くんの手の中に現れたのは、ガラスみたいな板だった。僕はそれを久しぶりに見て「あぁ!」と声を上げてしまう。
「鏡、見てみなよ」
覗き込んで見てみると、小さな顔で小学生くらいの女の子が映っていた。ふりふりしている服が、高級なカーテンみたいだった。どうりで足も腕も細いわけだと納得する。
「鏡を見るなんて久しぶりだったから」
自分の容姿など、気にする癖はなくなっていたようだ。
しかし、それをいうなら、目の前の二人だって面白い格好をしている。尾上くんは、ぼろぼろの雑巾みたいな服を着ていて、腰には何かをぶら下げている。海くんなんて、どこかに出てくるロボットみたいに、鉄で覆われた服を着ていた。素手で殴ったりでもすれば、こっちが怪我をしそうだった。
「ゲームの中では、俺はカイト、翔はショートって呼んで」
「わかった」
「よろしくな、マインちゃん」
尾上くんがまたケラケラと笑いながら言ったのだった。なんで僕がマインお呼ばれたのか、わかるのにそれほど時間はかからなかった。
三人でパーティーというチームを組んで、町に向かった。
普通は最初の町と言われる場所からスタートするのだという。僕が居たのが別の場所だったらしく、慣れない足で必死に歩いた。
町はどこかの市場みたいだった。昔ながらの雰囲気が漂っていて、賑やかだ。
建物は古臭くも見えるが、置いてある商品は金属でできていたり、宝石みたいな石もあった。時代とか世界観はそれほど重視していないのかもしれない。
「この先をぬけると、砂丘地帯に出るんだけど、そこからモンスターが出るからね」
海くんが言ってから、僕に差し出してきたのは、使い古したような剣だった。
「最初は、これね」
「マインちゃんなら、もっと強いの持ってるんじゃない?」
尾上くんは飽きずに茶化してくる。もう放っておこう。
「簡単に倒せちゃったら面白くないでしょ、苦戦しなきゃ」
海くんがそう言って、砂丘地帯へと足を踏み入れた。
そこは、とてつもなく歩きにくい。もっとさらさらした砂なら良かったのだが、少し湿っているのが原因だろうか。一歩が重く、歩くだけで精一杯だ。
と、どこからか音がした。地中のモグラがひょっこりと顔を出した時のような音だった。海くんが言う。
「さぁ、来たよ!」
疲れで足元にまで下がっていた視線を上げてみると、見たことがない小動物がぴょんぴょんと跳ねている。手足は長く、しっぽもある。鋭い爪が、チラリと光った。
「頑張ってね!」
海くんが後ろにジャンプしたようで、姿が小さくなってしまう。僕と尾上くんが見つめ合って固まる。なんとなくこれがアイコンタクトなのかとわかるが、まったくコンタクトが取れていない。なぜなら僕はアイコンタクト初体験だ! 尾上くんの言いたいことがまったく伝わってこない。
「にゃぎゃ!」
鳴き声! こいつら、鳴くのか! 猫が間違えて鳴いてしまったときみたいな声がして、我に返る。これはもうやるしかない状況だ。剣を振り上げ、準備する。戦いなんてしたことがないが、なんとか当ててみよう。
小動物が飛び跳ねながら、突進してくる。よく見る、よく見る。目を見開き、この世界でだけ使える僕の目を駆使する。
「おーらぁー!」
「スパーン」と耳の奥に響く音。手がしびれ、肩からジンジンと熱くなる。
「当たった、当たった!」
「ショート、マインー。まだ倒せてないぞー。最後まで気を抜くなー」
「はい!」
心の片隅で憧れていた、運動部の部員みたいな返事を海くんにする。目の前で僕の剣が当たった小動物は、傷口を赤くしながら目を細くしている。次は僕から!
必死で足を動かす。跳ね動く奴らよりも早く! 足を動かせ! 足の意識を高めるだけで、走りは安定した。うんと早く走れた。奴らがもうすぐ目の前にくる。じっと目を離さず、動きを予測する。
今! 飛べ!