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今朝は昨日よりも早めに起きた。今日、また僕は成長する、と鼻を鳴らした。母に付き添ってもらいながら、学校まで歩いて行くのだ。
夏休みが始めるまでの目標だった。数年前だったら、僕はそんなこともできなくなったのかと落ち込んでいたところだが、今はそうでもない。慣れなのか、諦めなのか。僕にもよくわからない。
「ここを右に曲がるんだけど、歩行者専用信号だから気を付けるのよ」
母が言う。昨日もここを通ったなと、頭の中で地図を描く。
白杖を頼りに、渡りますのボタンの位置を確認する。少し進まないとボタンには触れられなかった。その間も車の音は途切れることはなく、少し怖い。
大きな音は苦手だった。よく驚いて飛び跳ねてしまう音が、雷。曇っているのか、雨が降りそうなのか、空を見ることができない僕は、いきなりの雷に心臓が何度とまりかけたことか。
意識を信号に戻し、耳を傾ける。
「音、鳴らないんだね」
青になったことを知らせる音。目の前の信号が青だろうと、それがなければわからない。走る車の音に頼るしかない。
母と横断歩道を渡る。歩数はそれほど多くない。小さい交差点のようだ。
それからしばらくまっすぐ歩く。ただただまっすぐに。白杖から感じる、家の敷地を囲む塀が心強い。これがあれば、まっすぐ歩けているのか不安になることも少ない。
「次の交差点が最後よ」
リズミカルな音が聞こえていた。しばらく聞いていると、音がとまる。次に流れたのは、さっきより少し高い音だった。さっきのが親鳥の声っぽく、今回は子供の鳥の声のように聞こえる。
母が歩き始める。子供のほうで渡るのか。
学校の下駄箱は、一番わかりやすい場所にしてもらった。入ってすぐの角だ。手で触っていけばたどり着ける。母に手を振って、靴を履き替えた。
「はよー」
「おはよう、尾上くん」
尾上くんは、短い「えっ」という声を上げた。何か驚いている? よくわからずにいると、尾上くんが訊いてくる。
「なんで俺ってわかるんだ?」
「なんでって、声で……かな」
「もう覚えたのか。すげぇな」
尾上くんの靴が、床にたたきつけられるように置かれる。一度バウンドしてから、転がった。裏向きになってしまったようで、何かのクジに外れたときみたいに感じる。
「鳥山の母ちゃんか? さっきの」
「ん? うん、いま帰ったのはそうだよ」
玄関に入ると、尾上くんが僕の腕をつかむ。付いて歩いてくれるのはありがたいが、ひとこと言ってからがいいな。でも、こうして積極的に助けてくれるのは嬉しかった。僕が慣れればいいだけの話だ。
僕は驚きつつも「ありがとう」とついていく。
「綺麗な人だな。お前は父親似なのか?」
「んー」
顔か……。昔は母に似ていると言われていたような気がするが、最近はどうだろう。どちらに似ているかどうかと言われても、僕は自分の顔を知らないし、誰かにそんなことを言われてもわからない。尾上くんも父も母も、自分の顔を知っている。いわれてみれば、何だか不思議だ。クラスのみんなはいったいどんな顔をしているのだろう。そんなことを考えていると、尾上くんが笑って言った。
「そんなこと言われても、お前は見えないからわかんないか」
「そうだね」
こんなとき、相手がどんな顔で言っているのか、想像しようがない。もちろん自分の顔をもだ。嫌な顔になっていないだろうかと、頬を持ち上げる。
授業が始まる。昨日よりは、落ち着いて受けることができている。内容も、今のところついていけていると思う。
こうして普通科の高校でもついて行けるように頑張ってくれたのは、父だ。母によると、いつの日か大量の教科書やら参考書を段ボール箱に入れて持ち帰ってきたそうだ。それらを僕に押し付けるのではなく、まずは自分で理解するように努めたのだという。それから、僕に勉強を教えてくれるようになった。「受験生になった気分だ」と父が言ったのを覚えている。
だから僕は、今の学校に受かったし、授業も理解できる。両親の献身的なサポートには頭が上がらない。たまに、よくわからないことを押し通すこともあるのだが。それは僕が理解すればなんてことはない。引っ越しだって、悪いことだけじゃないだろうと思っている。
「先生、これ持ってきました」
二十分休憩の時間。職員室に帰りかけた担任を呼び止めて、委員会参加の紙を渡す。
「あぁ、サンキューな。今度の金曜日に委員会あるから、松浦と参加してくれ」
「わかりました」
委員会に参加、とは何をするのか、どこに行けばいいのか。疑問がいくつか浮かんだが、松浦さんについて行けば問題はないだろうと、結論を出す。
先生が教室を出てから踵を返した。伸び伸びとしたクラスの雰囲気が、一気に厚みを増した。前の学校でもそうだったが、こうしたグループはどうやって形成されるのだろうか。似た者同士? 馬が合う? 好きなことが一緒とか? 水がいつの間にか氷に変化しているみたいに、グループが形成されているのかと思うと、なんとも不思議だった。
耳をすませば、どのグループの会話も単語ひとつまで聞き取ることができる。前の女子グループの会話は化粧品の話。窓際に居る男子は何かのキャラクターグッツの話。そして、僕が気になるのは、尾上くんの話だった。なにやらすごく羨ましがっている様子に聞こえる。そのグループには尾上くんを含めて五人居る。僕は、そのグループに机と椅子をうまくよけて近づいた。
「どうしたの?」
「あぁー! 誠一郎、聞いてくれよー」
尾上くんは僕の肩に顔を乗せてくる。
「こいつさ? あ、海な? エイデン買って貰ったんだぜ? いいよなー、俺もやってみてぇ」
「エイデン?」
「知らない?」
おそらく海くんだろう。尾上くんとは違う、丸い声だった。これまではあまり話したこともない。けれども、授業の様子や話し方なんかを聞いていると、とてもゆったりとしている印象がある。
「去年出たフルダイブシステムのゲーム。エイデン」
「フルダイブって?」
聞いたことがなかった。どういうゲームなのだろう。
「ゲームの中に入れるんだ。中で自分が動いて、戦ったり食べたり、仕事したりもできるんだよ」
「へぇ」と相槌をうつ。だが、想像はついていない。テレビゲームも携帯ゲームもしたことがない僕には、イメージがわかない。
質問を重ねようとしたとき、尾上くんが「そうだ!」と僕の肩から跳び上がった。
「今日、終わったらみんなで海の家、行こうぜ!」
海くんの家に向かう前、僕は公衆電話で母に連絡を入れた。
「今日、友達の家に行ってから帰るから。少し遅くなるかも」
母はかなり心配した様子だった。でも、普通科の学校にするというのは、こういう出来事もあると想定していたのかもしれない。何度か説明を繰り返し、誰の家に行くかを言って了承してくれた。
初めてのゲームは心が躍る。どんなゲームなのか、見ることはできないが、学校で海くんがこんなことを言った。
「ゲームをしなくても、実況を楽しむコンテンツもあるくらいだし、誠一郎くんも楽しめるんじゃないかな。それに……」
世の中には、ゲーム実況なる物があるらしい。だから僕も、みんながゲームでわいわいしている声を聞けば楽しめそうだ。
尾上くんに連れられて、海くんの家に向かった。尾上くんと海くんは小学校からの仲らしい。尾上くんが、海くんの言葉を切って叫ぶように言った。
「すっごいから、海の家。三階建てで、庭もでかい」
そんなことを言われても、この目でおがめられない。悔しいが、いざ家に到着すると見えなくてもすごさがわかった。
まず、門を開ける音がした。そして、芝生の上をしばらく歩く。内心「え、まだ家の中に入れないの?」と思ってしまうほど長かった。ここまできたら、ドアが開く音まで上品で高級なものに聞こえてしまう。
ドアが開いて、すぐに海くんのお母さんらしき人の声が聞こえた。ゆったりと、甘い声だった。限られた知識の中、どうしてもお金持ちの奥さんを想像してしまう。今日初めてまともな会話をした海くんへの態度を、今後気を付けた方がいいのかもしれない。
「部屋こっちだから、入って」
出されたスリッパは丁重に断って、二階に上がった。僕の家の階段は狭く手摺もないから、自室は一階になった。海くんの家の階段は幅広く手摺もあるが、折り返し地点があった。そのぶん緩やかな階段で、登りやすいのは正直なところだ。
部屋に入ったとたん、尾上くんが奇声を上げた。ゲームの準備がすでにしてあったようだ。僕を置いて、部屋の中に入っていった。
「誠一郎くんは椅子に座った方が楽かな」
出してきてくれた椅子に、僕の手が触れた。腰をかけると、驚くほどふかふかなのに、心地の良い弾力があった。とてもいい椅子なのだろう。でも僕の尻は落ち着かない。もぞもぞと腰を動かすが、どうしても浮いているような感覚になってしまう。
部屋を出ていった海くんがすぐに帰ってきた。手に持っていたお菓子と飲み物をテーブルに置く。
「ここに飲み物とお菓子置いたから、好きに食べてね」
なんだか急に緊張してきた。こんな所で飲み物をこぼしたり、菓子くずをポロポロと広げてしまったらどうしようか。姿勢を正し、お行儀よくしなくては。
「海くん、ストローってある?」
「うん、持ってきたよ」
海くんからコップを受け取った。ストローはちゃんとそこにあった。
「ありがとう」
海くんは立ち上がって、興奮冷めやらぬ状態の尾上くんに近づく。
「じゃあ、さっそく準備するね。姉と妹のも借りてきたからみんなでできるよ」
海くんと尾上くんは、何やら話しながら作業をしている。楽しみで楽しみで仕方がないみたいだ。尾上くんの声が幾分高く聞こえ、聞いてる僕も楽しい。
――ん? みんなで?
もうひとり、誰か誘っているのだろうかと耳を澄ますが、声は聞こえない。後から来るのかな。
海くんが尾上くんに向けて説明を始めた。
「じゃあ、これを頭につけて、これは右手首につけてね」
尾上くんの「こうか? いや、こっちか」という声が海くんをせかしている。
「じゃあ、椅子に座って、手首のこのボタンを長押し。しばらくすると、ログイン画面が出るから、ゲストを選んでね。あとは指示に従って行けば、中で会えるから」
「わかった、行ってくる」
何を言っているのか、僕にはさっぱりだった。手首のボタン? 中で会う? ゲームはまだ始まらないのだろうか。
少し混乱していると、海くんが近づいてきて「じゃあ、次は誠一郎くんね」と言う。
「え、僕、できないよ」
「試してみないと、わからないこともあるよ」
海くんは、僕の頭に何かを装着していく。目が見えなくなった後、歩く練習をしていた。そのときにつけていたヘルメットよりは軽かった。
はちまきみたいに少し締め付け感があり、ぼんやりと明るかった視界が、闇に包まれる。怖いなと思った。どこかに引きずり込まれそうだ。
尾上くんも言っていた物が、僕の右手首にも巻かれたようだ。
「これは?」
「体調をモニターしてくれてるんだって。緊急事態があったとき、すぐに起こしてくれるから安心して」
と、言われて安心できる人がいるだろうか。言い換えれば、緊急事態になる可能性があるということだ。海くんは続ける。
「もし電源が入って何も見えなかったら、腕のこのボタンを長く押して。そうしたら電源切れて、頭のやつも外していいから」
ひとまず、このことさえ覚えておけば問題なさそうだが、僕の心臓はかわらずうるさい。
「じゃあ、中で会おうね」
「え、ちょ、ちょっと!」
腕のボタンを海くんが押したようだ。耳元で何か音がする。起動音だろうか。僕はぎゅっと目を閉じた。ふわふわとする感覚が体を襲っていた。音が、四方八方からするのだ。方向感覚がわからない。逆立ちしていてもおかしくない感じだ。
突然、人の声がしてビクリとした。実際そうなったかはわからないけれど、跳ね上がる感覚になる。
「ようこそ、エイデンへ。アカウントは既にお持ちですか?」
ピコン、ピコンと数字が減っていく。目の前の目の前に表示されている数字が、音とともに減っていく。僕はそれを、青白い光りだと認識した。残り時間を示しているのだとわかった。この目で、見て、理解した。