第九話 暗転、そして明転
「————ねえ、大丈夫ぅ? ねえったら。もしもーし?」
「……え?」
やけに背中が痛いのと、寒さで体が動かない違和感と、上から降って来る甘ったるい声で漸く目が覚めた。
重い腕を上げて目を擦り瞼を開けると、女性が一人、屈みながらこちらを見下ろしていた。
短めの赤のタイトスカートと、ごつごつとした不似合いな分厚いジャンパーを羽織り、エナメル素材で桃色の長財布を持っている。
「ええっ?」
私が喫驚して飛び上がるのを見ると、女性は安心したように笑って「良かった、生きてた」と言って私の額を赤いネイルの指先で優しく小突いた。
「こんな所で寝てたら危ないじゃん。今の時期ガチで凍死するよ? 夜遊びも程々にしないと、大人になる前に死んじゃうからね? そこんとこ分かってる?」
「え、寝て……? え? 寝てた? えっ!」
困惑して周りを見ると、私の体は映画館横にある植木の中に、すっぽりと埋まっていた。
状況を把握しギョッとして立ち上がると、体に引っ付いていた葉や小枝が落ちる。落ちきらない土を両手で払いながら、起こしてくれた見知らぬ女性にお礼を言うと、女性も背中の土を払うのを手伝ってくれた。
「もし、警察が必要なら呼ぶけど?」
「い、いえ、大丈夫です。今度から気を付けます」
何を気を付けるのかは、私にも分からない。
悴む唇と両手で私が必死に否定すれば、女性はふうんと鼻を鳴らし応えた。
学生服を来た人間が新宿の生垣の中で倒れていたら、そりゃ警察沙汰だと思うだろう。しかし女性は、事情があるとでも思ってくれたのか、深く掘り下げようとする事はせずに、ただ胸の前で腕を組んでこちらに鋭い双眸を向けた。腕を組んだ事で豊かな胸の脂肪が、腕の上からはみ出るのが見える。
女性は視線の鋭さを引っ込めると、一つ小さな吐息を漏らした。
「凍死もだけどさ、世の中にはヤバい奴いっぱいいるんだから、まじで気を付けなよ。死ぬってのは冗談じゃないからね。死ぬから、人」
「は、はい、肝に刻みました......本当に、ありがとうございます」
私は青い顔でそう言って、深くお辞儀をする。
すると女性は軽く返事をして、深紅の口紅が光る口角を上げた。その仕草が色っぽくて、同性の私でもどきりとさせられた。
「本当に、気を付けてね」
笑顔の中で、本当に、の部分を強調され釘を刺される。
「はい、気を付けます......あ、お礼を......」
「要らなーい。店の前で寝こけてる無防備な学生が居たから声掛けただけだもの」
「え、お店?」
女性は自身のエナメルの財布を斜め後ろに向けて示唆した。財布の向けられた先を見ると『スナック麗』と言う文字が見えた。読み方は『れい』か、もしくは『うらら』か分からない。
「ま、お酒が飲めるようになったらおいで」
スナックと言うのは女が行っても良い場所なのだろうか。その辺の事情は良く分からないが、とりあえず彼女の言葉に頷いた。
頷く私に、女性は艶やかに笑って「嘘よ嘘。本気にしないで。とにかくお礼とかいらないから」と私の髪を優しく撫でた。しかし、すぐに下げられた指先には枯葉が握られていて、撫でたのではなく枯葉を取ってくれたのだと、その時に理解する。
女性から発せられる、お酒の匂いと、香水らしき甘い匂いが鼻腔を擽った。
アルコール独特の、頭の後ろの方が揺さ振られるような匂いが私は得意ではなかったが、この時は香水の匂いの方が強かったのかせいか不快感は抱かなかった。
こちらが見惚れていると、女性は静かに呟いた。
「余計なお世話かもしれないけど、帰れる家があるなら、早く帰りな」
「……はい。帰ります」
もう一度きちんとお礼を言ってから、自分の背中に敷いていたらしい潰れた鞄を肩に掛けて、私はその場を後にした。少し歩いてから後ろを振り返ると、もう女性はいなくなっていた。財布を持っていたから、きっと何処か買い物に行く途中だったのだろう。
「はあ、良い人に起こしてもらえて助かった……」
私は大きく息を吐きながら空を見上げた。もう朝なのか、徐々に空が白み始めていた。周囲には夜勤明けなのか、朝まで飲んでいたのか分からない人影がぱらぱらと見える。その光景に肩の力が抜けた気がした。
「……帰って来たんだ」
大きく深呼吸をすると、冷え切った早朝の空気で、喉がじんと痛みを感じる。
ふと時間を確認しようと、ポケットに入れていた携帯を取り出した。
「うわ、最悪だ」
一目で分かるくらい、画面が割れてしまっていた。きっと向こうの世界で割れたのだろう。右上から左下に掛けて、画面を縦断するようにはっきりとヒビが入ってしまっている。
何も映らなくなっていても不思議ではない酷い状態に、半ば怯えながら側面のボタンを押した。
特に問題なく電源はついた。割れているので見難い箇所はあるが、全く使えない程ではないようだ。
ほっとしつつ表示されている時間を見ると、朝の六時だった。
「昨日の夜から、もう朝六時?」
記憶から抜け落ちている時間が多いせいで、映画館を出てから三時間くらいしか経っていないような気がする。しかし、現に空は白んでいて太陽は今にもその姿を見せようとしている。
体が芯まで冷え切っていた。
何となく駅の方に向かって歩いていたが、この時間に駅を利用している人は少ないだろうと考えると、つい躊躇う。人の少ない時間帯の駅に行くのが怖かった。
正確には、人の居ないホームに行くのが、だが。
歩調を緩めながら暫し考えた私は、一先ず、何処か暖かい場所を探す事にした。
「ああ、今日が学校休みで助か……ぅくしゅっ」
体が震えて、くしゃみが出た。私はどのくらいの時間、外で寝ていたのだろうか。
そもそも私は、いつ、こっちに戻って来たのだろうか。寒さで頭にフィルターが掛かったように、深く思考する事ができない。
歩きながら意識を失う前の事を思い出そうとするが、その殆どは夢物語としか思えない事ばかり。
人の居ない新宿。這い寄る砂利の音。イヤホンから聞こえる見知らぬ男性の声。口の悪い怪力の美少年。記憶と食い違う建物。人ではない黒い怪物。巨大な眼球。ビルからの落下。
何もかも夢だったのだろうか、そう思わずにはいられない。
だが寒さに震える自分の身体は、あれは現実に起こった事だと、しきりに訴えていた。
二十四時間営業のファストフード店が見えると、誘われるように店内に入った。
学生服のままだと店員に声を掛けられるかと懸念し恐る恐る入ったが、特に何も言われなかった。早朝と言えど太陽が昇り始めていたからだろうか。
何も考えずにレジで安いハンバーガーを二つと水を頼み、それを持って二階に上がった。二階の方が若干暖かい。
「うっくしゅんっ。はあ……」
外と店内の温度差で、またくしゃみが出る。今度は鼻水もおまけで付いてきた。
隅の方のテーブルに座り、ハンバーガーと水を置いて鞄からポケットティッシュを探した。内ポケットまで開いて見てみたが、影も形も見当たらず首を傾げる。そう言えば、数日前に使い切ってそのまま補充し忘れていた気がする。
「あー」
つい鼻声で呻くと、急に隣から、白い手がにゅっと現れた。
「ん」
「おわっ!」
喫驚して腕が伸びる先を見ると、服から髪まで白い、この世ならざる美少年が隣の席で足を組んで座って、こちらに紙ナプキンを差し出していた。昨日と今日で私は何度この少年に驚愕させられているのだろうか。
「……び……っくりした。え? 白鴉? 何で?」
白鴉が居ると言う事は、やっぱり全部夢じゃなかったのか。
心の何処かで夢オチを期待していた私の気持ちは、報われる事無く潰えた。
白鴉は私に紙ナプキンを差し出したまま、不機嫌そうな顔を隠しもせず突然「夜にまた来い」と投げやりに言い放った。あまりに何もかもが唐突で、寝起きの上に凍え死にそうだった私は反応が遅れた。
「……え、何? 夜に? 新宿に?」
「そうだ。ちゃんと太陽が沈んでから来いよ」
「ちょ、いや待ってよ、何でまた来なきゃいけないの? しかもわざわざ夜に」
「良いから、とにかく夜に来い」
文句を言いながらも鼻をかみたい一心で、私は白鴉の指先から差し出された紙ナプキンを受け取った。疑問を抱きつつもお礼を言うと、紙ナプキンに綺麗な文字で何かが書いてある事に気が付いた。
「……え、何これ?」
「それに全部書いてあるから良く読んどけ、間違えんなよ。夜だからな。絶対に来いよ」
「いや、これティッシュ代わりにくれたんじゃないんかい......って、白鴉?」
思わず力無く突っ込んだが、顔を上げたその時には白鴉は居なくなってしまっていた。
「……また消えた」
徐に自分の後ろや机の下、窓の外まで探してみたが、あの白い少年の姿は見つけられなかった。
昨日もそうだが、一体彼は短い間にどうやって消えてしまうのだろうか。理解不能な状況に叫ぶ気力は無く、代わりに大きな溜息を吐き出した。もはや感情を動かす体力すら残っていない。
それでもどうにか公共の場で鼻水を垂らしてしまう前に、立ち上がって紙ナプキンを取りに行き一枚だけ引き抜くと、漸く鼻をかんだ。
席に戻ってから改めて、白鴉から渡された紙ナプキンの文字を追ってみる。
『“喫茶室 猫の目々“にて紅茶を一杯。レモンを絞り、三回混ぜてカップを二周回す。カップの縁をスプーンで一回叩き、『春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや 春日暮らさむ』と言って、一口飲む』
来いと言うからには何かの住所なのかと思ったら、そこに書いてあったのは、殆どが紅茶の飲み方の指示だった。しかも、最後の締めは何故か和歌ときた。喫茶店で和歌を読めとは、一体どう言う事なのだろうか。
私は眉根を寄せ、テーブルに肘を突くと不満の声を漏らした。
「意味分かんない。そもそも喫茶室猫の……目々ってどこ?」
日々、と空目しそうだがこれは目だ。まるで子供に向けるような言い方である。
指示の意図も謎だったが、唯一場所を指し示す喫茶店らしき名前も聞いた事がない。
しょうがなく携帯を取り出して、割れた画面に指を這わせながら地図アプリを開くが、喫茶室猫の目々と言う店は見当たらなかった。そこで一度地図を閉じて、今度はネット上で検索を掛けてみる。
「うわ、本当にあった。『新宿喫茶室 猫の目々』」
地図には載っていないが、ホームページだけは存在していた。訝しがりながら開いてみるが、特に変な所はなく本当にただの喫茶店のようだった。
ページの一番上に、可愛いとも不細工とも言えない、カップを持った笑顔の猫のイラストが描いてある。
行き方のページも見てみると、どうやら雑居ビルの中にあるようで、意識せず前を歩いたら気付かないような、分かり難い場所にあった。
正直、怪しいと言えば怪しいし、怪しくないと言えば怪しくない。
「うーん……これ、行かなかったらどうなるんだろう……」
今度は何となくメニューのページを流し見ながら、未だにはっきりしない頭で考える。
もし夜にまた新宿に来たら、またおかしな事が起きるかもしれない。
そうなった時、あのイヤホンの声と白鴉は、昨日のように私を助けてくれるのだろうか。
「……あれ、私、イヤホンどうしたっけ?」
途中まで首にぶら下げていたイヤホンの存在を思い出して、自分の首周りを触るが、制服の襟以外何も無かった。自分が寝ていた植木の辺りに落としてしまったのかもしれないが、戻って本当にあるかどうかも分からない。もし偽物の新宿の方に落としてしまっていたとしたら、どれだけ探しても一生返って来る事はないだろう。
「はあ……まあ、もう良いか……今日は、もう」
今は、昨日の夜を思い出す事すら、酷く億劫だ。食べたら真っ先に家に帰って、お風呂に入って、ふかふかのお布団に包まれて眠りたい。考えられるのはそれだけだ。
半分停止した頭で、白鴉から貰った紙ナプキンをおざなりに鞄に突っ込んだ。
気を取り直して、テーブルの上にある温かい包み紙を開けると、私はとびきりの大口を開けてハンバーガーを頬張った。食べ慣れたほかほかのジャンクフードの包み紙の匂いと、濃いソースの味に何だか無性に安心して、不覚にも泣きそうになった。
思わず唸り、周囲に人が居ないのを良い事に拳まで握り呟く。
「うっまぁ……」