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夜に爆ぜ朝を食い尽くせ  作者: 蜂月ヒル彦
第一章 新宿編
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第八話 対話と名前

 ————嗚呼(ああ)


 何故だ。


 何故、こんな所に、居る。

 此処は、何処だ。私は、誰だ。


 ()()は、何だ?


「……こんにちは?」


 ————誰?


「私は、ヒナ……あの、泣いてるの?」


 こちらを心配するような、声。

 ああ、これはニンゲンか。


「大丈夫?」


 ————何、が。


「何があったの? どうして私を中に入れたの? どうして泣いているの?」


 まだ何処か幼さが残る声を持つ人間の女。それが、私の中で質問を繰り返す。

 泣いているのか、私が。


 ————私?


 いや、僕? 俺?

 何だっただろうか。


「自分が、分からないの?」


 女が不安げに唇を開く。どうして、そんな顔をするのだろうか。君の事ではないと言うのに。

 自分。自分とは何だっただろうか。自分とは私の事で僕の事で俺の事か。だがそれが、つまりどう言う事だったかが思い出せない。つまり。自我で。自我とは、どんな形をしていただろうか。


 考えが纏まらない。何も見えない。何も触れない。


 酷く、(くら)い。

 此処は、月の隠れた夜に息を引き取った死者の布団の中のように、重苦しく、乾燥している。


 此処は、何処で、誰だ、お前は。知らない。何も見えない。身体は何処にある。思い出せない。身体が無いのに何故自分が泣いているのかさえ分からない。


 自分は何処から来て、どんな見た目で、どんな風に話して、どんな声を、していた?

 私は誰?

 誰?

 だれ?

 誰誰誰誰誰誰誰誰誰?


 ————分からない。見えない。認識できない。何も。ただ暗闇の中で、自分の全てが少しずつ入れ替わって、そのまま溶けて消えていくような。恐ろしい。どうしようもなく怖い。記憶が、消えてはまた別のものになって頭の中で挿げ替わっていく。そんな感覚から、逃げられない。きっと、今すぐにでも、意識は消えてしまうだろう。それだけは分かる。分かってしまう。


「どうにか、できないの?」


 ————どうしようもない。自分の事すら、何一つ思い出せないのだから。何もできない。


「……消えちゃうの?」


 ————そう。もう、何も、維持できない。君を、向こうに戻す事すら、できない。君はまだ子供なのに。こんな事に巻き込んでしまって、ごめん。ごめんね。


「泣かないで、きっと、貴方は悪くないよ」


 ————君は、優しい子だ……ああ、そうだ。私は、人間が好きだった、と思う。君のような優しい子が、お互いにとって無くてはならないものだと理解していたんだ。


「お互い?」


 ————人間と私達にとって。


「貴方は、人間じゃないの?」


 ————君達から見れば、死神と呼ばれるものに近い。だが人間の思い描くそれとは、少し違う————ああ良かった。少しだけ、思い出した。すると、私は罪を犯したのだろうか。どちらにせよ、もう消えてしまうから、償う事もできないのが、口惜しい。


「どう言う事?」


 ————もう少し思い出す事ができれば、君に伝える事もできるのだが、それも無理そうだ……記憶はほとんど壊れてしまっているのに、全てが無になるだろうと言う確信だけはある。今の自分には、できる事が無い。すまない。


「ううん」


 応える女の声。

 そこには絶望も悲観もない。ただ純粋にこちらを労わる温かな響きがある。


 ふと、女の声に、記憶の琴線に触れるものがあったような気がするが、外界から聞こえる別の声に思考が途切れ、すぐに忘れ去った。

 その声はかつての自分と同じ存在だ。


 ————私の同類が、君の帰りを待っているようだね。それにどうやら……名前を、呼ばれたがっている。


白鴉(はくあ)が?」


 ————いや、もう一人の方だ。


「もう一人は…………名前も知らない。声だけ」


 ————いや、君は知っている。君が自分で名付けたんだ。彼はその名で呼ばれるのを、長い間ずっと、ずっと待っていたようだ。彼なら君を、守って、くれるよ。


「私が、名付けた?」


 ————そう。だから…………名前、を。


「憶えてないよ、私、誰かに名前つけた事なんか」


 ————彼の、名前、を、呼ん、で、ヒナ。呼ば、なけれ、ば。なま、え————。








 衝撃が、全身を襲った。


 ぐんと強く引っ張られるように、突然現実に浮上した意識で薄く目を開くと、辺りに浮遊する硝子の断片がそこら中に見えた。同時に、全身の浮遊感に内蔵が動くような錯覚。目を覚ましたばかりだからか、時間の進みが愚鈍で、耳鳴りがやけに大きく頭に反響している。


 どこかで白鴉が叫ぶ声が微かに聞こえた。だがそれは割れた硝子の音と耳鳴り、全身を包む風の音で掻き消されていく。


 踏ん張りの効かない体で、どうにか首を動かして白鴉の声がする方を見る。すると無惨に破壊された窓硝子の残片が見えた。

 その向こう側に先程、白鴉と共に入った扉が、ひしゃげて蝶番が外れた状態で床に転がっている。扉があった通路は、象か何かが中から無理矢理突き破ったように壁面がへこみ、黒い擦り傷が一直線に手前から奥まで続いていた。


 白鴉が通路の向こう側からこちらに走って来ていたが、彼の助けは間に合わないだろう。


 どうやら、私は巨大な目玉を持つ黒い塊に飲み込まれた後、塊と共に通路の扉とその前にあった四畳程の窓硝子を突き破って、外に飛び出してしまったらしい。

 私を飲み込んだ後の事は分からないが、先程の様子を見るに、恐らく黒い塊は苦しみに悶え、あの一本道を転げるように出てしまったのかもしれない。


 その衝撃で、私は運良くあの黒い何かの中から出られたのだろう。


 建物外に身一つで放り出されたので、出られたと言っても今が最悪な現状である事には変わりはない。むしろ悪化の一途を辿っている、と言える。


 放り出された私の体は今まさに、地面に向かって真っ逆さまに落ちようとしていた。


「————あ」


 叫ぼうにも息が苦しくて声が出ず、全身を覆う冷たい夜気も身体の力を急激に奪った。

 非常事態だと言うのに、未だ頭はぼんやりしているままで、何なら眠気まで感じていた。


 はて、ここは地上までどのくらいの距離があっただろうか。そんな事を冷静に考える。

 エレベーターで十三階まで昇って来たから、少なく見積もっても高さ四十メートルくらいはあるだろう。試した事など無論無いが、生身で落ちて無傷で帰る事ができる高さではないと言う事くらいは分かる。


 掴まる物もなく、地面との直撃を免れられるクッション代わりになりそうな物も無い。真下にはただ固く冷たい無機質なコンクリートが、私を待ち構えていた。


 あと数秒で、私の体は重力に従い、頭から叩きつけられる。

 きっと、ぐしゃっと言う情けない音を立てて壊れるだろう。それはそれは、いとも容易く。


 縋る思いで目の前の空虚に手を伸ばすが、何処にも届く事はない。それどころか飛んできた硝子の破片で指先を切った。だが鈍感になっているのか、痛みは感じなかった。

 幾ら手足を動かしても、その度に無様に空を切るだけだった。


 何故、私は偽物の世界で死にかけているのだろう。何処か冷めた頭の中の片隅で、そう考えた。


 映画の主人公でもない自分は、こんな状況に遭う理由など一つも無い筈だった。


 普通の人間である私は怪物退治どころか、自分の命さえも満足に守れない。分不相応にも程がある。

 それどころか、自分の人生と向き合い突き動かせるような勇気も無い。

 私は、両親の離婚の事実も変えられなければ、義理の父を嫌いになる勇気も、真っ向から好かれる勇気も無かったのだ。

 家族と言う関係性を構築するだけの勇気も無い、こんな自分が、何かしらヒーローめいた事ができると思った事など、一度も無い。


 私は今まで、ただ救われていただけだ。虚構に。


 現実から逃避するように映画を観て、それだけで充分だと感じている平凡で矮小な人間だ。

 当然こんな状況で使えるような特別なものなんて、何一つ持っていないし、仮に持っていたとしても、好機を掴む自信も無い。


 だから、現実で映画みたいな展開を期待した事など、一度も無い。

 一度も無いと言うのに————。


「————思い出せ」


 私と共に落ちて行く目の前の黒い液体の塊を裂くように、何かがこちらに向かって手を伸ばすようにして現れた。黒爪の骨張った指先が鼻先に迫る。どちらかと言えば血色の悪いその肌を視線で辿っていけば、そこには人のような、違うような。黒髪に黒い服を纏った誰かが、真っ直ぐ落ちて来ていた。


 その誰かは、叫ぶ。


「僕の名前を、思い出せ!」


 名前————さっきもそんな事を言われたような。

 でも私、誰かに名前をつけた記憶なんて、無いんだって。

 そもそも一体、誰の名前を————。


「————……」


 必死にこちらに手を伸ばす、誰か。

 その後ろに見えているのは、画面いっぱいの、新宿の夜空だった。

 

 最上階に居たからか、周りには広大な星空を邪魔するものもなく、ただただ、暗闇と、数えきれない程の星の瞬きだけが見えていた。

 

 普段は街の光が邪魔するせいで星は少ないが、そんな新宿の夜空も私は別に嫌いではない。だがここの夜空は普段見るそれより何倍も広く、輝いて見える。


 その光景は都会育ちの私には見惚れるほど美しく感じられて、死ぬ間際に見る景色がこれなら、まあ悪くないかな、などと。


 刹那。私の頭の中の最奥にとっくに仕舞われていた記憶の断片が、何億光年も先で煌めく星の瞬きによって引き上げられ、息苦しさも忘れた私は、大きく息を吸い込んだ。


 ————そうだ。


 私は、あの日の幼き私は、彼の瞳があれにそっくりだと思って、名前をつけたのだ。


 そう、そしてあの時、彼は私が考えた名前を聞くと、何処か満足そうな表情で。


「貴方の名前は————ヨル」


 あんな風に、微かに笑ったのだ。

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