第七話 嘆きの眼
辿り着いた十三階は、本屋だった。
しかし、その内装は本来の様相とは異なっていた。
本棚の並び方や広さからして、駅から少し歩いた所にある老舗の大型書店だろうと私はすぐに思い至った。何度か本を買いに行った記憶があるので間違いない。
「何でこの本屋がここにあるの? 階段とかエレベーターもそうだけど、さっきから変だよ」
するとイヤホンの声の主が答えた内容と似たような事を、白鴉が悪態を付け加えながら答えた。
「は、そりゃ、此処を作った奴がド下手くそなんだろうよ。俺もこの街は詳しいけど、てんで駄目だ。ガキの一人も騙せやしねえ。ま、逆に言えばディティールがお粗末だからこそ、あんたは助かってる訳だけどな。これが上手な奴なら、今頃死んでてもおかしくねえ」
「ちょっと、私には何言ってるか分からないけど……」
白鴉と呼ばれるこの少年は、見れば見る程、話を聞けば聞く程、整い過ぎた顔と毒吐く不遜な態度のギャップが凄まじい。
見た目の造形だけで言えば、ある日突然天から現れて『私が太陽神アポロンだ』とか仰々しく言われても簡単に納得してしまいそうな程、浮世離れな美しさを持っている。だがそれも、本人の言葉遣いや傲慢な態度が、肥厚した表皮となって、一瞬にして上塗りされてしまう。
私自身の個人的感想を述べるのであれば、美しく硝子のように脆く純真な少年よりは、白鴉の方がよっぽど人として話し易くはある。それでもやはり、白鴉の内面と外見の温度差が殆どの人間にとっては混乱の元である事は、大きな間違いではないだろう。
私は、彼の肌や髪や瞳から自然と発せられているような気がする煌めきから逃れるように、無意識に薄目になりながら白鴉と会話を続けた。
「此処を作った奴って、誰? どう言う事なの?」
白鴉は胸の前で手を合わせると、合わせた隙間を柔らかく広げるように両の掌を開いた。
「誰かまでは俺達も知らねえけどな、あんたは例えるなら、蟻地獄に引き込まれたんだよ」
「蟻地獄?」
首を傾げると白鴉はこちらを一瞥し、更に言葉を続けた。
「いつもあんたが生きている本物の世界と、この出来の悪い不細工な紛い物の世界、二つの世界の境界線を、あんたはいつの間にか越えた。此処を作った奴に越えさせられた。何でそんな面倒な事をするのかと言うと、この紛い物の世界は人を食う為に用意された食台で、そいつは要は、あんたをこの広い食台に載せたい。こっちに引き込んじまえば、ただの人間ならまず逃げられねえ。現にあんたは此処まで来ちまってる訳だ。だから、声だけの澄まし顔のそいつは、その馬鹿でかい蟻地獄にあっさり引き込まれちまった超絶お間抜けなあんたを逃がす為に、此処まで指示を出してたんだよ」
顔も見えていないのに、澄まし顔のそいつ、と言って、白鴉は私のイヤホンに向かって白い人差し指を向けた。
ちなみに、イヤホンは今は片耳だけ装着している。
私は白鴉と違ってイヤホンが無いと彼の声が聞こえないが、隣に居る白鴉の声が聞こえないのも困るので、片方ずつ耳を使う事にしたのだ。
白鴉の説明に、私は急激な頭痛が押し寄せて来るのを感じながら「はあ」とだけ返事をした。何となしに両手を擦り合わせると、手汗が間断無く吹き出していた。
「ち、ちなみに食うとは……何?」
「何って、そのままの意味に決まってんだろ。魂ごとバリバリムシャムシャいかれるんだよ」
「バリムシャ......」
顔面を歪めながら絶句した私に、白鴉はまた鼻で笑うようにして言葉を続けた。
「俺とそいつが居なきゃ、あんたは今頃死んでるんだ。平伏して感謝しろよ」
「......えーっと、ごめん、つまり」
「あ?」
「つまり、今立っているこの地面も、壁とか駅とか空とも、全部、偽物?」
「だーから、さっきからそう言ってんだろうが。死にたくねえならさっさと現状を飲み込めよ。これ以上俺の手を煩わせんなボケ」
「白鴉、口が悪いぞ」
それまで話を聞いていたイヤホンの声が、私を庇うように白鴉を窘めた。しかし白鴉はそれで押し黙るような性格ではないようで、更に色々な文句をイヤホンの声に向けて喚き散らし始める。
だが、この時の私はそんな白鴉の大声すら耳にきちんと入って来ない。
————つまり、此処は現実ではない別の場所? いや此処も一応、現実? でも本物ではない?
なら、私が今立っているこの地面は、一体何なのだろう。確かに景色はおかしい部分が多々あるが、それでも、硝子やコンクリートの温度や感触は、本物としか思えなかった。
いや問題は、もし今白鴉が言ったその全てが虚構などではなく事実なら、私は気付かぬ間に恐ろしい捕食者の大きな食卓に並べられ、今まさにナイフとフォークを持った誰かに刻まれようとしている、と言う事だ。
この偽物の世界から出て行く事ができない限りは、私はその捕食者のメニューの一品に数えられたまま。
私はどうやって、元の新宿に戻れば————。
いつの間にか白鴉の怒声が収まっている事に気付いた私は、目を向けた。
「そう言えば、さっき言ってた“通路“って何なの? そこから逃げられるの?」
私の質問に、今度はイヤホンから聞こえる声が答えた。
「この世界の何処かで、本物と繋がっている連結部分があるんだ。その通路を使えば、君は元の世界に戻れる。それまで此処の主に捕まらなければ、と言う話だが」
最後に不穏な事を付け加えた声に私が短い呻き声を上げる。すると今度は白鴉が何処か自慢気な声を漏らした。
「さっき俺が叩き落としたから、暫くは大丈夫だろ。ただ、まあ、長くはねえ」
その口振りに、あの高さから叩き落としても死ぬ相手ではない、と言う事らしい。話の流れからして何となくそうだろうとは思っていたが、実際に言われると心底憂鬱になって、軽い嘔吐を催した。
そんな私の心情を知ってか知らずか、イヤホンから聞こえる声の主は、微かに希望を含めた口調で私を諭した。
「だから僕達で通路を探すんだ。恐らく近くにあるはずだ」
「何処にあるか、詳しくは分からないの?」
「僕は通路から漏れる“本物の匂いや気配“みたいなものを感じているだけだ。そこまで正確には分からない。さっきは上の方からしたから一番上と言ったが、そうではない場合も充分にある」
「匂いや気配? もしかして貴方って、犬の幽霊とかなの?」
「……全く違う」
声だけでもはっきり分かるくらい不愉快そうに言った。一体犬の幽霊の何がいけないと言うのか。
結局、この声の主については何も分からないままだ。聞きたい事は頭の中で絶え間なく列挙されているが、全てを訊いている時間は無さそうだ。
「じゃあとにかく、帰り道は確実に近くにある、って事で合ってる?」
「ああ」
「分かった。とりあえずは信じるからね。嘘吐いてたら二人共全力で蹴り飛ばす」
私がそう言うと、白鴉は「は」と言って馬鹿にしたように口角を上げ笑った。耳の方からは反対に「了解した」と生真面目に返答が返ってきて気が抜けそうになる。
白鴉は“くそ“が付く程に生意気だが、このイヤホンの先にいる人物は、その真逆である。それでも白鴉をこちらに寄越してくれたのは恐らくこの声の主なのだろうから、何かしらの関係性があるのだろうが……友人と言うにはタイプが違い過ぎるし、職場の上司と部下と言うには上下関係が見当たらない。
そもそも、私を助けようとしているのなら何故、彼は自分の姿を見せずにわざわざ白鴉を寄越したのだろう。
外出できない理由でもあるのか。いや、まず私を助ける理由は何だ。それに何故、私の危険を知る事ができたのか。
そんな風に思考が飛び始めた頃「そこの扉はどうだ?」と耳元で声が聞こえて、私ははっと顔を上げた。
本棚と本棚の間に佇む、細い通用口のような無機質な扉があった。
何処に繋がっているかは分からないが、他に扉のようなものは無かったので、開けてみる価値はありそうだ。
ドアノブを握った。
ひんやりとした鉄の冷たい感触がした。これが本当に偽物の世界だと言われても、正直未だに信じられない。
ふと背後に何も来ていないかが気になって、扉を開ける直前に振り返る。
そこには畳四畳程の大きな窓があるだけだった。
本屋には珍しい大きさの窓だ。本が痛むのを避ける為か、これほど大きな窓がある店舗は少ない。
窓から一瞥した外の景色は、やはりこの周囲だけが明るく、遠くまで目を向けると深い暗闇だけが横たわっていた。その異様な光景は、私の胸の内にある不安を僅かに助長させる。
「……開けるよ」
深呼吸をして扉を開けると、細長い廊下が続いていた。
狭い通路の幅を更に狭めるように、壁際には陳列前の本や段ボールの荷物などが、そこかしこに置いてある。
拍子抜けした私は安堵の息を吐きながら「バックヤード、なのかな?」と白鴉の方を見た。
「知らね。とにかくこの先に行くぞ。俺が後ろ見ててやる。あんたは前を歩け」
「う、うん……」
本物の世界への通路。私には到底、そんな有り難い道には見えないが、良く考えればこの変な世界に入り込んでしまった瞬間すらも自分では判然としないので、帰り道が何ら変哲の無いバックヤードでも不思議ではないのかもしれない。
床に放置されている物を跨ぎながら、中に進む。
二人並んで歩ける幅は無いので、私のすぐ後を白鴉がついて来ている。
私が乗ってきた物よりも一回り小さいエレベーターの前を通り過ぎた。恐らくスタッフ用のエレベーターだ。エレベーターの前に台車が開いたまま置かれていて、踏まないように飛び越えるようにして通過する。
小規模なエレベーターホールからまた少し歩くと、それまでの通路の三倍くらいの幅がある空間が目の前に現れた。
何処か広い別の場所に出たのかと一瞬喜び掛けたが、其処はただ、細長い通路の終着点と言うだけであった。何処かへ通じていそうな扉どころか、窓の一つも無い。しんとした十畳程の広さのタイル張りの空間があるだけだった。
「え、何処にも繋がってないの?」
思わず声を出すと僅かに声が反響して、自身に返って来た。
「ちっ、外れかよ」
私に続いて白鴉がそう漏らす。
肩を落とし掛けたその時、私は、空気の中に男女どちらとも分からない、囁き声のような微弱な振動を感じ取った。
直後、囁き声を押し退け、あの音が聞こえる。
突然大雨が降って来たような速度で、ざざざざ、と言う音が空間いっぱいに反響した。
「思ったより早かったじゃねえか」
白鴉が視線を動かして周囲を窺いながらそう言うと、イヤホン越しの声に別の緊張が走った。
「何だ……? 気配が……気配が変わってきている。 ……もしかすると、進行しているのか? 白鴉、彼女を一旦外へ————」
声が最後まで言う前に、それは姿を現した。
黒い、濃い、墨汁のような。
液体を凝縮して細く固めたような、または子供が無闇矢鱈に黒いペンを走らせたような物体が、所々を融解させながら、壁の隙間から次々に浮き出ていた。
それは壁から溢れ、べじゃり、と何度も床に水っぽい音を立てながら落ちては、徐々に絡み合うようにして大きくなっていった。
肥大化した一部はまるで鉄のように硬くなって、鋭利になった。
が、何故か硬い部分はすぐに崩壊し、墨汁になり、そしてまた硬くなっては液状化を繰り返した。その姿は化け物に違いなかったが、何処か、苦しそうにも見えた。
「こいつは————消え掛けだ」
白鴉が言った。
視線を奪われていると、それは、人と動物の声を機械で混ぜたような不気味な声で、
「ああああああああ」
と絶叫した。
壊れようとする体を無理矢理固めて形にして、黒い水の束を幾つも使って立ち上がると、黒い塊の真ん中に、大きな目玉が一つ見え、思わず叫びそうになった。
ぎょろりと表出した目玉と、真っ直ぐに目が合う。
瞼も無いそれが、まるで怒っているように見えた。
口は無く、自身の形を留める事も叶わないのに、その怪物は全身を痙攣させながらもう一度、咆哮を轟かせた。
「ああああ、ああ、あ、ああああああ」
砂利の上を這うような音を立てながら、その黒い何かはこちらに必死に近付こうと体を引き摺る。
決死に迫ろうとするその姿が、怖くないと言えば嘘になるが、恐怖だけではない事も事実だった。
「……何だか……」
可哀想————そう、思った。
「……行くぞ。こいつは、もう追って来れない。此処が壊れるのも時間の問題だ。その前に出ていかないと本格的に拙いぜ」
白鴉が静かにそう言って、来た道を歩き出した。私は曖昧な返事で、その後ろに着いて行こうとする。
しかし視線を逸らした次の瞬間、耳元でイヤホンから慌てたような声が聞こえた。
「ヒナ!」
「————え?」
どうして、貴方が私の名前を知ってるの?
そんな事を訊く余裕は、既に無かった。
私の体は、たった一瞬であの黒い物体に取り込まれていた。
半端に振り向いた私の眼前にあったのは、顔の大きさ程の巨大な眼球だった。