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夜に爆ぜ朝を食い尽くせ  作者: 蜂月ヒル彦
第一章 新宿編
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第五話 一難去ってまた一難

 新宿の道中のコンビニで買ったばかりの温かいペットボトルのお茶を煽るように飲むと、予想以上に熱く感じて()せそうになった。喉の違和感を無くそうと軽く咳払いをするが、その音は新宿の街の喧騒に吸い込まれていく。


 先程渡ったばかりの大通りの方から救急車の音が聞こえてくる。この街では珍しくはない。そもそも人間が多いのだから仕方が無いのだ。人口が多い分、怪我人も病人も出る。


 轟く救急車のサイレンの音に、それまでずっと聞こえていた自身の心臓の鼓動と、頭の中の警鐘が掻き消されていくのが分かった。


 先程の出来事が全て気のせいだったと言うように、この街はいつも通りだった。


 一つ小さく息を吐いてから、片手にペットボトルを握ったまま再び駅に向かって歩いて行き出す。外気が冷たいせいなのか、それとも一度恐怖したからなのか判然としないが、手は冷たいままだ。


「ふう」


 自分で笑ってしまうくらいに分かりやすい溜息を吐くと、その息が白く濁った。

 今日は特段に寒い。この調子では来年の一、ニ月はもっと寒くなるのだろうと思うと、今から気が滅入る。


 不意に足元で、からん、と言う軽い音が聞こえた。ついびくりとして立ち止まると、足元で空き缶が風に吹かれて転がっていくのが見えた。無意識にもう一度息を吐く。

 おかしな状況を見てしまったせいで、少し過敏になっているだけだ。


 私は歩調を速めると、早々に駅の階段を降りた。構内は暖かく、それまで強張っていた身体が少しずつ解れていくような気がした。


 着崩れたスーツの酔っ払いが、同僚らしき人間と大声で話しながら横を通り過ぎた。酒の臭いが鼻をつき、一層目の前の光景に現実味を覚える。


 何の緊張感もない、ただの金曜日の夜。普通の夜だ。

 この弛緩しきった周囲の空気こそが、私を日常に連れ戻してくれるに違いない。


 改札前まで着くと、視界に映った電光掲示板に“電車遅延”の四文字が見えた。一瞬ひやりとするが、見合わせている訳ではないらしい。


 広い改札前には、遅延している電車に乗るか否か思案している人間が何人か見えたが、ほとんどはあまり気にする事無く皆改札の中に吸い込まれて行った。

 私も定期を取り出し、そのまま人流に乗るように改札を通り、ホームまで降りる。ホームの中を見渡しても、普段と同じくらい人が密集していて、賑やかだった。


 もう何か可笑しな事が起こる事は無いだろう。

 少なくとも生身の人間がぎゅうぎゅう詰めにされる、帰宅ラッシュ時間の電車の中で心霊現象や超常現象が起きる話など私は聞いた事が無い。

 そう言う話は大抵、人の少ない終電車辺りが定石である。


 遅延しているせいか、まだ電車は来ていない。電光掲示板にも次の電車の到着予定時刻が書かれていないので、いつ乗れるかもはっきりしない。


 私は今日何度目かの溜息を溢し、イヤホンを取り出した。


 耳にイヤホンを挿し、とりあえず自分が持っている曲のなかで一番陽気で気分の良いものを選び再生ボタンを押す。


 更に、完全に恐怖を追い払う為に、いつもより音量を少しだけ上げて、電車が来るまでベンチで待つにした。

 座った途端、どっと疲れが全身にのしかかってきて、自身の膝の上に両肘を乗せるようにして前のめりになる。

 足が小刻みに震えていた事に、その時初めて気付いた。


 私はふと思い出して、音楽を流したまま携帯でインターネットを開いた。今日行った映画館のホームページを調べて、改めて確認したい事があったのだ。


「やっぱり……スクリーンの数が違う」


 ホームページに記載されているスクリーンの数は十二まで。

 つまり本来は無い筈の十三番目のスクリーンが、あそこにあった。

 そして何故か私のポケットにあったチケットは、その存在しない十三スクリーンを記していた。


「……映画、観たかったけど……暫く観れないかな」


 そう思わずにいられなかった。あれほど楽しみにしていた一大イベントだった筈なのに。

 大好きな映画館と言う場所すら、今後行くのに足踏みしてしまいそうだ。それくらい恐怖だった。


 仮に、これがホラー映画だったとしたなら、別に何でもなかった。

 観ている間は怖くてもそれらは結局全て作り物で、見る人に恐怖と言う名の娯楽を与える為の映画作品。どんなに怖くても、それはあくまでエンターテイメントの一環でしかない。作り手が居て、作り手の意思があって、何らかの意味を、意図を持って存在する。


 だが私が体験したモノは、そう言う誰かの為に用意された娯楽などではない。


 理解不能で、原因不明。

 何の為に起きたのか。何かしらの因果関係があるのか。あの不気味な砂利の音は何だったのか。私が見た人達は一体どこに行ってしまったのか。


 何も分からない。


 今日の私は一体いつから、何を間違えていたのだろうか。片方のチケットは誰の物で、何故、存在しない場所を示していたのだろうか。そもそも何故、存在しない場所が存在していたのか。


 思い出して、忘れようとして、また思い出して、思考が廻まわる。廻って廻って——目眩がした。


 すると。


「————逃げろ」

「わぇっ!」


 突然、両耳のイヤホンから音楽ではなく、喋り声が聞こえた。反射的に私は全身で跳び上がり悲鳴を上げ、その跳び上がった反動で鞄を盛大に落とした。

 咄嗟にイヤホンを抜き取ろうと首周りのケーブルに指を掛けたが、その前に声の主がはっきりと言葉を続けたので躊躇った。 


「僕の声が聞こえたら、逃げろ。君の周りを見るんだ」

「何、こわ、え? 何? 誰?」

「聞こえたな。良いから、まずは状況を把握しろ」

「怖いってだから!」


 混乱したまま、言われた通り顔を上げて周りを見るが、何も変わった様子は——。


「また、人が——消えてる」


 そう呟く自分の声が震えている。

 息を呑んで、鉛みたいに硬くなった首を動かしてホームの端から端までを見渡した。帰宅の為に電車を待っている筈の大勢の人間が最初から居なかったように、影も形も無く消え去っている。その光景に打ちひしがれた。


 電車も来ていないのにどこからか生温い風が吹き抜け、力無く佇む私の肌を撫でた。全身が心臓の鼓動に合わせて何度も微かに震える。


「何で……」


 これでは、先程の映画館の時と、同じではないか。


 はっと先程の事が思い起こされて、私は息が詰まるような思いで、ゆっくりとベンチの後ろの柱に書いてある、ホーム番号を振り返って見た。


 番号は、四。


 数字を視認した途端、膝から崩れそうになりベンチに手を掛けた。自分の呼吸音がやけに大きく聞こえる。


 本来この路線には、三番ホームまでしかない。

 四番ホームは、存在しない。

 だがこれも先程と同じで、存在しない場所に、確かに自分自身は存在している。


「そんな、訳……」 

「走れ。早く。走れ」


 幾分か強めになった語調で、イヤホンの声は私を急かした。その声は全体的に落ち着いた低い声だったが、私にはどこか焦っているようにも聞こえた。


「ま、待って、そもそも誰? どうしてイヤホンから……もしかして電話?」


 何故か自分のイヤホンから聞こえてくる知らない声に、いつの間にか着信を受けていたのかと思い携帯の画面を点灯させて確認するが、画面にはただ音楽アプリが開かれているだけだった。着信を受けている訳ではない。


 その時イヤホン越しの人物が動かない私に苛立ったのか、今度は叫ぶように「走れ!」と声を上げた。


 ————ザざざ、ざ、ザ


 その時、イヤホンから聞こえて来る声とはまた別の音が聞こえ、私の喉から声にならない声が微かに漏れ出た。


 あの、砂利の上を這うような音は。


 ここは映画館ではない。勿論スピーカーも無い。イヤホンもしている。だと言うのにその不快な音は、線路の遠い暗闇の向こうから確実に、聞こえてきていた。そしてその耳触りの悪い音は間違いなく映画館で聞いた音と全く同じものだ。


 私は震える手で落としたままの鞄を拾い肩に掛けると、今度こそ一目散に走り出した。


「そう、走るんだ。()()は早くない」


 声の主はイヤホン越しで私にそう言った。

 ()()が何の事を指しているのか、私には検討もつかない。


 訳も分からぬまま、急いで一番近くにあった階段を昇り、改札に戻った。


「そのまま出るんだ。ここには君以外、誰も居ない」


 確かに声の言う通り、構内には人影一つ見当たらなかった。

 大都会の帰宅ラッシュ時間の改札だと言うのに、帰りのサラリーマンや学生も、それどころか制服を着た駅員すら存在していない。ただの伽藍堂(がらんどう)だった。

 見慣れない殺風景な景色は私の混乱を収める事は無く、寧ろ混乱を助長させるだけで、私は声を荒げるように見知らぬ声の人物に問うた。


「何で、何で誰も居ないの?」

「今は距離を取れ。走って身を隠せば少しの間は誤魔化せる」

「身を隠すって——いったい何から逃げてるのっ、私は!」


 言葉尻に、後ろから背筋を撫でるようにあの音が聞こえたので、私は言われた通りにそのまま改札をすり抜けた。すぐ背後で改札機が閉まる音が大きく響く。振り向いて自分が通ったばかりの階段に目を向けるが、何かが追って来ている姿は見えなかった。


 イヤホンの声の主は、また「走れ」とだけ私に言った。


「貴方は誰? あの変な音は何? 何を知ってるの?」

「質問は後にしてくれ。とにかく僕の言った通りに走れ。絶対にあれに捕まるな。今は言葉でしか君の手助けになれないんだ」

「だから、あれって」

「そこを左に曲がれ」

「ああもうっ、教えてくれたって良いのに!」


 色々文句を言う前に指示が飛んできたので、仕方なく言われたままに左に曲がった。走りながらではどうにもならない事は事実だ。体力だって長くは続かない。とにかく今は逃げれば良いのだと言う事だけを理解して、私は両足に力を込めた。


 駅の中を走っている筈なのに、どこを見渡しても、どこまで行っても誰も居なかった。

 声どころか気配も何も感じない。本当に突然、誰も居ない世界に私だけが放り込まれてしまったようだ。


 だが可笑しいのは、イヤホンから聞こえる声の人物も同じである。先程から冷静に、私にどの道を進むかを的確に指示を飛ばしている。まるで手元で地図でも読んでいるようだ。そもそもどうやって、私の位置を把握しているのだろう。

 今は分からない事が多過ぎる。


「次に、その階段を昇るんだ」


 その階段、と言われた無愛想なコンクリートの段差の前で私は急停止した。そして周囲を見て、つい訝しげな声を上げる。


「え、待って。ここに階段なんて無かったと思うんだけど、本当に行って大丈夫なの?」

「今は使って問題無い」


 階段の先を見ると、今自分が居る階と同じようなコンクリートの天井が見えた。ぱっと見ではこの階段が危険かどうか分からない。分からないが、今の状況でどこに繋がっているのか分からない階段を上るのは流石に躊躇う。


 私が躊躇しているのが分かったのだろう。イヤホンの声は今まで以上に平静に、しかし何処か懇願や優しさを含めた声でこう言った。


「信じてくれ。今この場で君の味方は、僕だけなんだ」

「……分かった」


 どの道自分の理解の範疇は超えてしまっている。それに、この声の人物の事は、あまり怖くなかった。

 信用して良いものかどうかは、正直はっきりとは判断ができないが、僅かにざらつく低い声にはどこか安心感があった。


 何より、この場で一人きりでは無いと言う事実が、先程からギリギリ私の平静さを保ってくれていた。

 例え誰だか分からなくても、あの音から逃げろと言ってくれていると言う事は、この人物にも、あの不愉快な音が聞こえていると言う事だ。その事実が、私に一欠片の安心感を(もたら)してくれていた。


 私は覚悟を決めると再び走り出し、階段を勢い良く駆け上がった。


「近くにエレベーターがある筈だ。それを探せ」

「エレベーター? 百貨店にでも行くの? あ、いや、あれはこの前閉店してたっけ?」


 そんな私の問いに、何故か突然返答が無くなってしまった。急に黙ってしまったので、声が聞こえなくなってしまったのかと思ってつい「聞こえなくなったの?」と不安げな声を出すと、思わぬ憎まれ口が返ってきた。


「答える気が失せただけで、途切れてはいない」

「ええ……急に冷たくない? 何で?」


 案の定、その質問に答えは返ってこなかった。

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