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夜に爆ぜ朝を食い尽くせ  作者: 蜂月ヒル彦
第一章 新宿編
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第四話 十三番目のスクリーン

 牛丼で胃を満たした私は、上映開始時刻の十分前に劇場に戻った。

 

 新作を見届ける時間をより最高なものにする為に、普段は節約の為に食べないポップコーンも今日は解禁——と、直前まではそう思っていたのだが、牛丼を食べた後だからか、高揚感が邪魔をしたのか、先程までは確かにあった筈のポップコーン欲がどこかへ消え去ってしまっていたので、結局コーラのLサイズのみを購入する事にした。


 しかしこのLサイズと言う選択も要らぬ見栄だと言う事にすぐに思い至る。たった二時間程度で自分の顔程もある大きさのカップに入った水分を飲むとは思えなかった。恐らく、スタッフロールが流れてきた頃に半分くらいを慌てて飲み切る事になるだろう。

 それが分かっていて私は何故頼んだのだろう、と受け取った巨大なカップを見て他人事のように思った。


 そんな自分に呆れる気持ちもなくはないが、仕方がない。今日は二年待ち焦がれた映画の新作を観る日なのだ。浮かれて困る事も大してない無い。いっそ浮かれてなんぼだと開き直る事にしよう。

 脳内でそんな言葉で己を言い包めると、Lサイズのコーラだけを片手に持って歩き出す。


「さて、本日のスクリーンは……」


 ストローで冷たい炭酸を啜りながら、場所の確認の為にポケットからチケットを取り出す。

 チケットには、映画の作品名と一緒に、十三スクリーンと言う文字が書かれていた。


「お、十三スクリーンなんてあったんだ」


 この映画館には何度も来ているが、十三スクリーンで観るのは今回が初めてになる。そもそも、そんなに数があったのかと内心驚くが、書いてあるのだからずっとあったのだろう。幾つもスクリーンが常設されているシネコンであるならば、今まで入った事がないスクリーンの一つや二つあったとしても何ら不思議ではない。

 きっと自分は混雑が嫌で初日に観に来る機会がほとんど無かったから、この映画館で一番大きいスクリーンを知らなかっただけ——そう思った。


 私は勝手に思い描いた想像の巨大スクリーンに更に気分を良くし、スキップでもせんばかりの軽い足取りで劇場スタッフにチケットを見せる。嬉しさに表情筋が緩んでいるのが自分でも分かるが、好きな映像作品を観る前なのだから許してもらいたい。


 そんな私にスタッフは特に訝しむ様子も見せず、淡々と通してくれた。

 そのまま浮かれ気分でエスカレーターを昇る。


 三階分か四階分か、とにかく長いエスカレーターに身を任せていると、壁にスクリーン十三の文字が見えた。


 自分の前後をちらりと見遣ると、私の他にも沢山の人がエスカレーターで運ばれていた。時間を考えるに、今見えているほとんどの人は、私と同じスクリーンを目指しているのだろう。思わず口角が上がる。

 基本的には人混み嫌いな私だが、やはり自分の好きな作品を同じく楽しみにしていた他の人達と共に鑑賞できるのは、映画館と言う場所の醍醐味の一つであり、私が映画館を好きな理由の一つでもあった。


 ぞろぞろと人の波がエスカレーターから降りて視界の右側に進んで行く。

 私もその一部になって歩くと、すぐに十三スクリーンの入口が見えた。同時にこの階の全体が見え、私は漸く合点がいった。なるほど今までこのスクリーンが自分の目に入らなかった訳である。

 この階にスクリーンは一つしか無かったのだ。


 つまり十三スクリーンで上映される映画のチケットを買わない限りは、この階に来る機会すら無い。だから私はこのスクリーンの存在を今まで認知していなかったのだろう。


 スクリーンが一つしかないからか、やけに通路がすっきりして見えた。

 エスカレーターを降りると左右に真っ直ぐ伸びる通路があり、その通路の両端と中央に場内への入口が一つずつ存在している。これだけシンプルなら、例え小さな子供であってもこの階で迷子になる事は無いだろう。

 淡白過ぎると言えばその通りだが、通路にがちゃがちゃと物が置かれている映画館の方が珍しい。お手洗いも、通路を行った先の角に設置されているのが見えた。


 人の流れに従いつつ、壁面にあった座席表が描かれたパネルを見た。自分のチケットの座席の場所と照らし合わせる。どうやらすぐ側の左の入口から入場すれば問題無さそうだ。


 防音になっている重たい扉が、自ら客を迎えるように左右に開かれていた。

 高揚感に背中を押されながら、私は扉を潜って中に進む。


「うわ、大きい」


 初めて見る十三スクリーンは想像以上に大きかった。一階層丸々使っているのだからそれはそうなのだが、分かっていても口から小さく声が漏れた。


 湾曲し視認性を高めた巨大な曲面スクリーンと、そのスクリーンに合わせた高い天井。スクリーンの両側には存在感のある重々しいスピーカーがどっしりと佇んでいる。

 深紅に染められた上品で厚みのある椅子も新品のように清潔で、更には席と席の感覚が適度に開いており、観客に圧迫感を感じさせないようになっているのも好印象だ。


 まさに今日の上映に相応しいスクリーンではないだろうかと、全体を見回した私は内心、偉そうにそんな感想を抱いた。


 興奮で顔をにやつかせながら、自分の席を見つけて腰掛けた。

 座った状態でもう一度スクリーンを見上げる。いつもよりも前の方の席を選んだので少し心配だったが、比較的スクリーンと最前列の間が広く取られているおかげで、長時間映像を見上げて首を痛める心配は無さそうだった。


 ふと視線を横に向けると、自分の左側にはパンフレットを開いて、上映前に熟読している若い男性が座っていた。


 それを見て思わず「あ」と言う誰にも聞こえない程度の声が喉から漏れた。


 パンフレットを買うのを失念していたのである。

 そして同時に、私はもう一つ重大な事実に気付いた。


 入場特典のキーホルダーを、貰っていない。


 はっとした私は左の男性の手元と、それから右の席の女性と、後ろに座る観客にも同じように目を向けてみたが、誰一人としてそれらしきものを持っている人間は居なかった。

 

 ——まさか、もう配布終了? そんな、まだ初日も終わっていないのに? いや、まだ貰えないと決まった訳では……転売対策か何かで、上映終了後に配布する決まりになったとか……それならチャンスはある? いや、うん、ある。 ……あるよね?

 

 映画の公開初日で入場特典が無くなってしまうのは、残念ながら全く無い訳ではない。だからこそ、今自分を含め周囲の人間もキーホルダーを持っていない事実を受け、呼吸を忘れる程に動揺した。

 そんな混沌と化した私の気持ちを打ち切るかのように、スクリーンに近々上映される映画の予告が流れ出した。

 内容はアクション系のものが多い。きっと、上映される映画によってジャンルを変えているのだろう。


 合間合間で入場特典のキーホルダーの事を思い出したり、また忘れたりしながら、十分程ぼんやりと予告を見続けていると、場内が暗くなり、スクリーンの両端が少しずつ拡張し始めた。


 もうすぐ本編が始まる。

 私は無意識に背筋を正し、制服のスカートの端を握って唾を飲み込んだ。

 緊張のせいか、この時微かに、目眩を覚えた。


「……?」


 しかし、待てども目の前の大きなスクリーンは何も映す事なく、暫く真っ暗な状態のまま、気付くと二分程経っていた。

 最初の数十秒はそう言う演出なのかと思い気にしなかったが、あまりに沈黙の時間が長いので、私は、これは機材トラブルか何かだろうと途中で思い至った。流石にこの沈黙が作品の演出だとすると、少々前衛的過ぎる。今日は映画版ジョン・ケージを観に来た憶えは無い。


 機材トラブルの現場には、過去に一度だけ遭遇した事がある。その時は家の近所の小さな映画館で、上映の途中で映像が止まってしまった。


 確かその時は、同作品で次回使える引換券を貰って帰った。

 しかしまさか新宿の、比較的新しい大きな劇場でも同じ状況に陥ってしまうとは。

 

 以前のように上映の途中で止まってしまうよりはまだ良いが、これを楽しみに幾つものテストや勉強を頑張ってきた私は、この瞬間泣きそうになった。このまま上映が始まらなければ、入場特典どころか、映画の本編すら観る事が叶わないまま帰る羽目になるかもしれないのだ。そうなれば、暫くは立ち直れないだろう。自分の運の悪さを身悶える程に呪みまくって、月曜日になっても学校に行く気など微塵も起きないと言い切れる。

 まあ良く考えなくとも、今一番泣きたいのは映画館のスタッフだろうが。

 客席に向けてのアナウンスも無いところを見るに、裏で相当慌てていると見える。


「まじかあ......」


 映画館のスタッフに同情しつつも、私は映画を鑑賞する事もできない現実に対する落胆を、無意識に小声でそう吐露した。

 だがすぐに、自分の周りに沢山の客がいた事を思い出して、咄嗟に口を手で抑え両隣の席を伺った。


 しかし。


「……あれ」


 両隣の二人が、居ない。


 はて私の隣の席には誰もいなかっただろうか——いや、予告の前にパンフレットを眺めていた男性も、右隣の女性も確実に見た。二人共どこへ行ってしまったのだろう。

 私は首を傾げた。


 良く見れば、姿が見えないのは両隣の二人だけではない。上体を屈めて左右の奥の席まで見たが、上映前には空席などほとんど見受けられなかった自分と同じ列の人々が、ごっそりと居なくなっていた。


 ——まさか。


 嫌な予感が足元から首筋まで上ってくるのを感じながら、そのまま、ゆっくり後ろに振り向く。


 そこに見えたのは、深紅の空席だけが並ぶ、無人の景色だった。


「……何で……?」


 ぽろっと溢れた呆けたような声とは反対に、どっと跳ね上がる心拍数と、無意識に強張る体。

 後ろの席も前の席も、立ち上がって最後列まで何度視線を向け目を凝らしても、誰も居ない。


 まるで、最初からここには誰も居なかったかのようだ。


 良く考えれば、スクリーンに何も映し出されなかったのにも関わらず、誰かの困惑の声すら耳に入らなかったのは不自然だ。

 疑問に思うような声や不満の嘆息も無く、飲み物を飲む時の氷が当たる音や、ポップコーンを掴む時の雑音も、いつからか聞こえなくなっていた。


 この二分余りの間に、皆待ち切れずにスタッフを呼びに出て行ってしまったのだろうか——鈍くなった頭でそんな風に考える。

 だがすぐに上映が始まらなかったからと言って、自分以外の全員がこんなにあっさり場外に出ていく事などあるのだろうか。何よりその状況に、私だけが気付かないなど。


 これだけ大きなスクリーンの場内なら三、四百人くらいの人間は居たと考えられる。それだけの人間が、スタッフの案内も無しに一度に同じように動くものなのだろうか。


 何の音も立てずに?


 言いようのない不安に駆られ、目の前の光景をそのまま受け取る事ができずに、暗い場内を何度も目を凝らす。だが何度瞬きをしても、何度目を擦っても、賑わっていた先程の風景は欠片も残っていない。


 だだっ広い劇場の中、何も映さないスクリーンの前で、ただ私一人だけが佇んでいる。


 ——……ざ、ざざ、ざ。


 茫然自失としている中で突如聞こえた耳障りの悪いその音に、びくりと肩を震わせた。

 視線をスクリーンの方に戻すと、相変わらず眼前のスクリーンは真っ暗なままであったが、その両側にあるスピーカーから、昔のアナログテレビの砂嵐のような、不快な音が微かに流れてきていた。


「びっくりした……」


 まさかスピーカーも壊れてしまったのだろうか。最初はそう訝しんだ。

 しかし、いつまで経っても鳴り止まないそれに、私の不安は急速に煽られていく。


 ——ざざザ、ざ、ザざ。


 音は、少しずつ大きくなってきている気がした。

 いや、確実に大きくなってきている。

 しかも良く聞くと、アナログテレビの砂嵐の音ではない。


 これは——砂利の音だ。

 まるで何かが砂利の上を這うようにして、遠くからこちら近付いて来ている、そんな風に聞こえた。


 ——ザザざザ、ざざ、ざザザザ。


 何だ。

 何かがおかしい。何かが、いつもと違う。


 私は、咄嗟にポケットに手を突っ込んだ。チケットを確認する為だ。

 だがそこに書かれていたのは、やはり先程も見たスクリーン十三の文字。


「……いや、違う、これは……違う違う違う。そうだ、私は、」


 私は、券売機からチケットを発券した後、無くさないように()()()()()()()()()()()のだ。


 確かに劇場に帰って来てスタッフにチケットを出す時、私はいつもの癖でポケットからチケットを出した。本当はそこには無いはずの場所からチケットを取り出し、そのチケットで中に入ったのだ。


 ——なら、本物のチケットは。

 

 私は急いで、今度は足元に置いていた鞄から財布を取り出して、中を確認した。そこには、発券した後に自分が仕舞ったチケットが、確かにあった。


「……二枚ある? 一枚しか買ってないのに、何で……」


 二枚を並べて見てみると、形も色も全く同じであったが、スクリーンの番号だけが違った。

 財布から取り出したチケットには、“スクリーン九“と書かれていた。


 自分の手の中には今、スクリーン九とスクリーン十三の、二枚のチケットが存在していた。


 自分が券売機から買ったのは、間違いなく財布の中にあったチケットだ。

 ならポケットから取り出したもう一枚のチケットは、一体何だ。誰の物で、いつから紛れ込んでいたのだ。


 ——ざざザザ、ザザ、ざ、ザざザ。


 また、近付いて来ている。何かが。

 それが何なのかは見当も付かない。

 けれど、自分の中で煩いくらい警鐘が鳴っている。


 そうだ。私がこのスクリーンを知らなかったのは当たり前の事だ。


 この映画館には、スクリーンは十二までしかなかったじゃないか。


「————ッ」


 私は弾かれたように、鞄を引っ掴んだ。


 先程よりはっきりと聴こえてしまう砂利の音から、とにかく早く遠ざりたくて、未だ暗いままのスクリーン前の通路を、足がもつれそうになりながら走った。


 一刻も早くここから出なければいけない気がした。確証は無いがとにかく早く、誰か、人に会いたい。一秒でも早く、雑踏に紛れ込み視界の中に日常を捉え安堵したい。


 劇場の重い扉を開け、先程昇ってきた方向とは反対側に回り込み、降りのエスカレーターを我武者羅(がむしゃら)に走って降りた。暫くは恐怖で後ろを振り向けなかった。

 ほとんどまともに呼吸もできずに、ロビーがある階まで駆け降り、窓口の横を通り過ぎてぶつかるようにして自動ドアを開けた。


 そこには、来た時と変わらない沢山の人の往来があった。


「————はあっ」


 思い切り息を吸い、勢い良く吐いた。

 一瞬、劇場スタッフの人に打ち明けようかと思ったが何と言うべきか分からず、早く外に出てしまいたい気持ちに負けてそのまま地上に向かうエスカレーターをまた駆け降りた。


 途中、走る私に少し驚いたようにこちらを見る人と目が合った。その視線に、自分がいつもの雑踏に帰ってきたような気がして、ようやっと安心感が湧いてくる。目が合った人に小声で謝りつつ、足取りを少し緩める。


 それでも決して後ろを振り向かず、大股で夜の新宿を駅に向かって進んだ。


 気のせいだ。全部気のせい。

 何も怖くない。大丈夫。

 きっと。


 何度言い聞かせても、頭の中の警鐘の音は未だ——鳴り止まない。

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