第三話 新宿にて、白服の美少年と出会う
————新宿。
自分の通っている学校の近くにシネコンは無い。シネコンどころか単館の映画館も無い。
学校の周りは住宅街なので、そもそも大きな商業施設が近くに無く、必然的に映画館で映画を堪能する為には、電車で新宿まで出てしまうのが一番手軽で、且つ早かった。
再開発で日々変わりゆく新宿駅の地下から、普段使っている東口の階段を昇って外に出ると、十二月らしい氷のように冷たい冷気が肌を撫でた。
肩を窄めて空を見上げると、先程までの絵の具をぶちまけたような青がいつの間にか身を引き、代わりにビルの上空や隙間に、橙色と、桔梗に似た鮮やかな紫色の空が顔を覗かせていた。
どうやら電車に揺られている間に、夕暮れになっていたらしい。
学校で昼食を摂った後に何も食べていなかったせいか、自身の胃が空腹を訴えるように唸り声を上げた。が、今は構わず駅前の横断歩道を渡る。先に映画のチケットを買わなければいけないのだ。
金曜日だからか、普段以上に人々で賑わう新宿は、少々げんなりする。
横断歩道を渡りきった私は喧騒から逃げるように、鞄の中から首に掛けるネックバンドタイプのワイヤレスイヤホンを取り出すと、電源を入れて両耳に差し込んだ。携帯の音楽アプリからアップテンポの曲を選択して、再生の文字を押す。
音楽を聴きながら横断歩道を渡り、駅に向かおうと正面からやって来る人々を避けつつ、最近できた屋台のお店や以前からある靴屋、ゲームセンターを横目に進む。道中では居酒屋の声掛けなのか、もっと別の声掛けなのか分からない人達が何人もいる。自分が学生服だからか、彼等に声を掛けられる事は無く横を通り過ぎる。
一つ目の横断歩道を渡ってから、また別の横断歩道がある大きな道路が見えた。丁度信号が青になったのが見えたので、走って渡る。渡りきる頃には少し息が上がり、喉に冷たい空気が入り込んで、じんと痛みを感じた。
横断歩道より更に先に、今や観光の目玉にもなっている有名な特撮映画の怪獣の頭部を正面に捉えた。
このほぼ等身大の怪獣の頭部は、私が目指す映画館のある複合施設の最上階に設置されている。頭部のすぐ下にはホテルが入っているらしいが、私は映画館以外には入った事が無いので、この怪獣に関しては外から見える頭の部分しか知らない。
生憎、私は特撮物は詳しくない。唯一、繰り返し観た特撮映画はどう言う訳か、有名なテレビシリーズとは別で製作された単発の劇場公開作品だった。
そう言えば、映画館上の怪獣の頭部は以前、写真に撮った記憶がある。前の携帯の写真フォルダを見れば、数年前に、義理ではない方の父親に連れて来てもらった時の写真が、今も残っているだろう。
今はどこで何をしているのかすら分からない実父を薄らと思い出しつつ、映画館のあるビルの入り口までやって来る。
現在上映中の映画のポスターと、本日の上映スケジュールが、壁に表示されていた。それらを流し見ながらエスカレーターに乗って上まで行くと、右手に自動ドアが現れ、開いた瞬間にもわりとした暖かい空気に包まれた。
足早に券売機があるロビーの奥に向かう、券売機の前には何人か並んでいたが、券売機は横並びに幾つか台数があるのですぐに私の番になった。
電子画面を指で操作し、お目当ての作品名を選んで席を選択する。
幸い完売はしていなかったが、初日の夕方と言う事もあって、収容人数が多いスクリーンにも関わらずかなりの席数が埋まってしまっていた。いつも自分が座る辺りの席は、一列全て埋まってしまっていたので、いつもより二列前の席を選んだ。
鞄から二つ折りの財布を取り出し、中から現金と、会員カードを探し出す。
滞りなくいつも通りの取引が完了すると、機械音を響かせながら白緑色の映画のチケットが吐き出された。
間違っても無くさないように、会員カードと一緒にチケットも財布に入れた。普段、チケットはポケットに入れてしまうのだが、今日は一度外に出るので財布に仕舞った方が安全だろうと思った。
これで、急ぎの任務は完了である。
一先ず席が取れた事に安堵した私は、ほっと一息吐いた。後は、上映時間までに自分の腹の虫を満足させる事だけを考えれば良い。
上映開始の時間までは一時間ある。晩御飯を食べるには充分な時間だろう。
さて何を食べようかと一旦自問するも、私の脳は深く考える間もなく、たった一つの答えだけを浮かべた。
「牛丼かな」
あっさりとメニューを決め、冷たい風の中、映画館を出て駅までの道程を足早に引き返した。
大通りに面している見慣れた牛丼屋の看板を見つけると、静かに硝子張りの重い扉を引いた。
暫く着けていたままだったネックバンドイヤホンを外して首に掛ける。新宿には牛丼屋は何軒もあるが、ここは映画館からも近いし、横断歩道も渡らずに済むので、必然的に同じ場所に来る事が多かった。
イヤホンを外したので背後からは街の喧騒、頭上からは牛丼屋のスピーカーから流れる有線放送が一度に耳に流れ込んで来る。
カウンターの奥、キッチンの入り口辺りで水仕事をする店員の背中が見えた。
こちらが何も言わずとも気配を察したのか、店員は不意にこちらを向いて「いらっしゃいませえ。お好きな席どうぞお」と威勢良く声を上げた。軽い会釈で返し、少し店内を見回してから私は二人用のテーブル席に座った。この時の客は、自分を除いて二人だけだった。
一人なのでカウンター席の方が良いかとも考えたが、ここのカウンター席は椅子が少し高い。座れないなんて事は無いが、心の中で、よいしょ、と呟いてしまう絶妙な高さだ。私の身長はクラスの中で下から三番目。殆どの人間に身長で負けている。嗚呼悲しき哉、神様は不平等だ。
愚にもつかない文句を内心で垂れながらテーブルの上にあった電子版のメニューを眺めていると、私の後にもう一人、中に入ってきた足音が聞こえた。
何となしにそちらを一瞥すると、私はその姿に一瞬、目を奪われた。
真っ白な、不純物の一切無い雪のような見た目の子供だった。
服どころか頭のてっぺんから爪の先、はては睫毛まで全て真っ白である。
唯一白でないのは瞳の色くらいのもので、その瞳ですら日本人のような黒褐色ではなく、絵画でしか見た事がない、光の差し込んだ泉のような、怖いくらい透き通った浅葱色の瞳だった。
年齢までは推測できないが、恐らく小学校高学年くらいだろう。私よりも背が低いが、その反面、佇まいは落ち着いていて幾分大人びて見えた。
昔の西洋の人形のような陶器に似たその白い肌は、周囲の空気すら弾くようで眩しい。
程良く短く、毛先がふわりと遊ぶ髪と、浅葱色の瞳は、窓から入り込んで来る夕陽の光の粒子を受け一層煌めいていた。瞳に届き損ねた夕陽さえも睫毛に反射し、更にその子供を彩る光の装飾となっている。
ぱちり、とその子が一つ瞬きをすると、それらの光が喜ぶように点滅した。
この子が息を一つ吐くだけで、周りの空気が浄化され、澄んでいくような気さえした。
女の子だろうか。いや、男の子かもしれない。
頭の中で一瞬考えたが、次の瞬間には性別などどうでも良くなる。それくらい衝撃的な美しさだった。
こんなに美しいなら、もはや人間ではないと言われた方が納得する。
数秒見惚れてから、はっとして私は視線を逸らした。
怖いとか気持ち悪いとか思わせてしまっただろうか、そう不安に思っていると、
その子はどう言う訳か、私のテーブルのもう片方の椅子に座った。
「…………」
「…………」
同じテーブルを共有する所謂、相席状態である。
驚いた私は数秒、呼吸を忘れて目をぱちぱちと瞬き、やっと思い出したかのように「えっと」と頼りない声を零した。が、その次に何と言うべきかが分からない。周りの席は空いているのに真向かいに座った理由を訊くべきか、まず名前でも訊くべきか、いやその前に人違いかを確かめるべきなのだろうか。
そもそも、この子の親は今何処に居るのだろう?
入って来た時には一人だった。では親は外で待っているのだろうか。それもおかしな話だが、全くあり得ない話でもない。
私は扉の向こう側に目を向けて見たが、こちらの様子を窺うような大人は居ない。そもそも立ち止まっている人間が居ない。
暫し困惑していると、その子供はおもむろに片肘を突き、もう片方の手を軽く上げて挨拶をして見せた。
「よ、久し振り」
意外にもと言うべきか、想像よりもずっと子供らしい口調だった。
「……え?」
全く想像していなかった台詞に、私の脳内は更に混乱する。
私とこの子は初対面だ。こんな目立つ綺麗な子を一度見て、そう簡単に忘れられる訳がない。
「い、今、久し振りって言った?」
分かりやすく戸惑う私に、何故か白い子供は答えない。
念の為自分の後ろに誰か居ないか確認するが、薄汚れた白っぽい壁があるだけで誰も居ない。この子は間違いなくこちらに向かって話しかけている筈だが、やはり私の言葉に対しての返事は返って来ない。
決して悪戯をしているような、揶揄っているような雰囲気は無い。
まるで、私と同じ場所に違う人物が居て、その人物に話し掛けているようだった。
更に白服の子供は片肘を突いたまま、少々鼻に掛かった声で喋り始めた。
その喋り方は見た目に反して、多少の奔放さや荒っぽさを感じさせる、少年のものだった。
「何してんだよ?」
「な、何……って?」
「あ? へえ。何だかんだ初めて見たな」
「うん? え、何が?」
やはり会話になっていない。
私が答える前に、この少年はどんどん話を進めてしまう。
私が驚いて固まっている間にも、白い服の少年は誰も返事をしていない話題に相槌を打って、独り言を続けた。
何だか知らないが、やばい子に声を掛けられた。その事に私は初めて気付いた。
目の前で一人、話を続ける少年を前にどう対応するべきか冷や汗を流しながら悩む。これは、下手に反応しない方が良いのだろうか、とか、もしかして私の後ろに幽霊でも居るのだろうか、とかそんな事を悶々と考えた。
少年が話し続ければ続ける程、私の神経はゴリゴリと音を立てて疲弊していった。
気付けば私は、息を止めてただただ少年と視線を合わせない事に徹していた。
それでも少年の方は私を見たり、時には視線を上に向けたり、綺麗な顔を不満げに歪めたりしながら独り言を続けた。
「この辺最近やばいからな、あんたも気を付けた方がいいぜ。ほら、噂の。そう、それな。……俺もジジイも追い出そうとしてるんだけどさあ、多分、どっかで増えてんだよ。やべえよ。間違いなく異常。……あ? それいつの話してんだよ。ジジイかよ。二人して事あるごとに言いやがって。あれ以上に決まってんだろうが比べんなボケ」
暫く聞いていると、何だか、思ったより口が悪いような。いや、間違いなく口が悪い。
不良小学生なのだろうか、そう考えると私は今度は別の恐怖を感じてきた。それは、もしかしたら牛丼代をたかられるかもしれないと言う恐怖だった。牛丼代を私に払わせようと言う魂胆ならば、同じテーブルに座るのも納得できる。
幸い私も少年もまだ注文をしていない。いっそ今から外に出て逃げてしまおうか。
恐怖のあまり頭の中で退店を考え始めた時、いつまで経っても注文をしない私に痺れを切らした店員がカウンターから出て来て、近くのテーブルを拭くついでにこちらを見た。その目には疑惑の色が宿っている、ような気がする。
「ご注文お決まりですか?」
「あ、すみません、えっと……普通の牛丼……並で……」
ずっと両手で持ったままだったメニューを見る事もなく、店員にそう告げる。
今から店を変えては上映時間に間に合わなくなるかもしれないと思った末の、苦渋の決断だった。
しかしこのままだと少年の支離滅裂な独り言を聞きながら私は牛丼を食べる事になるが、本当に良かったのだろうか。いや、良くはない。決して良くはないが、一体私にどうしろと言うのだ。
悔やみ切れぬ後悔に苛まれそうになっていると、不意に、少年の声が聞こえなくなっていた事に気付いた。
恐る恐る、なるべく少年を見ないよう必死に逸らしていた視線を正面に戻した。
「あれ?」
白い少年は居なくなっていた。
すっかり、後で牛丼代を請求されるとばかり思い込んでいた私は、ただ呆然と目の前の誰も居ない椅子を見つめた。
もしかしてあの少年は、私を揶揄う為だけに入って来たのだろうか。それともあれは、この牛丼屋に住まう幽霊、もしくは斜陽の眩しさが見せた幻覚だったのだろうか。
悶々と少年の事を考えていると、注文から大した時間も置かずに「お待たせ致しました」と言う声が聞こえた。同時に、いつも食べている牛丼並盛りが目の前に置かれる。流石、安さと早さが売りのお店である。
食べる前に何となく店の外に白い少年がいない事を目線だけで確認したが、見えるのは車と人間の雑踏ばかり。 私はやはり、ただ揶揄われただけだろうと無理矢理、納得する事にした。
テーブルの上にあるケースから箸を手に取り、未だ晴れぬ疑問を叩き潰すかのように、私は両手を合わせた。
「頂きます」
若者と牛丼は切っても切り離せない関係にある。それは言い過ぎかもしれないが、少なくとも私はそうだ。
両親の離婚直後は母親が料理をする機会が減り、私にはお金だけ渡される日も多かった。そんな時に良く食べていたのが様々なチェーン店の有り難く安いご飯。その中でも牛丼は何度お世話になったか数え切れない。今は再婚して母親の生活も安定してきたが、私はすっかりチェーン店のご飯に慣れてしまっていた。いや慣れ言うより、単純に好きなのだと思う。
そんな時期があったからか、私は晩御飯の時間に帰らない事が今でもままある。
理由は大した事は無い。今日みたいに学校帰りに映画を観に行くからとか、友達とゲーセンで音ゲーを長時間やり過ぎたからとか、ただ何となく帰りたくないからとか、本当に何でもない。創作で良く見るような感傷的な理由も無い。
しかし仮にそこで無理をして家に帰ってしまうと、それはそれで不都合なのだ。
何故だか気持ちがモヤモヤしたまま落ち着かなくて、結局夜中に近所のコンビニに行くとか何とか理由を付けて、外に出る羽目になる。
ちなみにその際に母親とか義理の父親とか、誰かがついて来るとなると、途端に意味が無くなってしまう。あくまで一人で、静かに、外に出ないといけない。それが夜だと尚良い。
話は逸れたが、とにかく牛丼ならいつ食べても美味いし安い。高校生のお小遣いから捻出しても負担が少ない。それでもつい遣い過ぎてしまった月は牛丼を頼む事すら困難だったりもするが、基本は学生の味方である事は間違い無いだろう。
私は既に人生で何度も食べている牛丼を口内に頬張った。
「うま。さんきゅー牛丼」
ほとんど無意識に変な独り言を呟いてしまっていた。
こうなると、私も先程の少年と変わりないかもしれない、と一瞬思ったが、すぐに首を振った。あの少年の方が変である。
でも————本当、綺麗な子だったなあ。
心の中でそう呟いて、ご飯の牛肉巻きを丼の中で作り、箸で丸めるように持って口に運ぶ。
もぐもぐと咀嚼しながら携帯の時計を見た。
待ちに待った時間まで後、三十九分。
街の描写は、恐らく三年程前の描写なので、現在の街の姿と多少誤差がありますのでご了承下さい。
今のところファンタジー要素はあまり見当たりませんが、次回辺りから徐々に出て来ます。