第二話 呆れられても好きなもの
日本の映画の封切りは金曜日が多くなったらしい、と言うのを前にネット記事で見た。
時代が進むにつれ、幾つかの配給会社が方針転換をした事で金曜封切りが増えたらしいとの事だ。
確かに、私が小学生くらいまでは土曜封切りの映画も沢山あったような気はする。
だがそもそもの問題として、封切り日————つまり公開初日に観に行く人間と言うのは限定されている、と私は思う。関係者や批評を生業にしている人間ならいざ知らず、私のような映画鑑賞を趣味としているだけの普通の高校生や社会人が封切り日に、ましてや平日金曜日に映画館へ行く機会は限られる。
確かに映画館で観るべき映画だと思う作品は、この世に数多存在している。だが必ず初日に見るべき映画、と言うものは、少なくとも私にとっては稀であった。
何より封切り日は人が多い。それが休日となれば、自ら人混みに揉まれに行くようなものだ。
私はどちらかと言えば人の少ない映画館で、両側の席が空いている状態が一番映画の内容に集中できる人間である。だから初週末の興行に積極的に貢献したいとか思わない限りは、息切れを起こしながら自分から熱気に揉まれに行く事は滅多に無い。
同級生には、一人で映画館に行くと口を滑らせただけで「ガチ勢だ」などと言って囃し立てられるが、私は決してガチ勢などではないと、敢えてここで一度明言しておく。世の中には信じられないレベルの映画ガチ勢が存在している事を、皆が知らないだけだ。本物の前では私など、足元にも及ばない。
私は基本的に、好きな時に好きなものを観に行くだけの、映画享楽主義者だ。
映画を観るのに目的も大義も必要無いし、無論これを仕事にするつもりも無い。
だからこそ私は今まで、映画の封切り日が金曜日だろうと土曜日だろうと、どうだって良かったのだ。殆ど興味が無かったと言っても良いだろう。
そんな事で一喜一憂し、憤慨した事など私の人生の中で一度たりとも無かった。
しかしまさに今“そんな事“で情緒を乱され、不安で曇った顔の自分が、手元の暗い携帯画面に映っていた。
「あのさあ、ヒナ、別に初日が金曜でも良いじゃない。何をそんなに怯えてるの?」
私の机の横に立って呆れたようにそう溢したのは、同じクラスの藤本アヤノである。
彼女は今日一日、やたらと携帯を見る回数が多い私を心配してくれていた。
初めは純粋に心配してくれていたアヤノであったが、映画の初日が金曜である事に絶望していると知るや否や、極大の溜息と、今しがたの台詞を頭上から容赦無く落としてきた。
アヤノは中学生の時からの同級生で、小さな身体と黒髪のツインテールが特徴的な所謂可愛い系の外見をしているが、対してその中身は飾り気無く、言ってしまえばサバサバしている。彼女は私の趣味を知っているし、他人の趣味を虐げるような言葉を吐く事も無いので私も彼女に話した訳だが、流石のアヤノも、表情に呆れの色が宿っていた。
私は机に座って俯いていた視線を上げると、そんな呆れ顔のアヤノを睨め付けた。友達を睨め付けるつもりなど全く無かったのだが、この時の私は自らの表情筋に遣う気力すら残っていなかった。だが不思議な事に口だけはつらつらと動くもので、私は両手で携帯を握り込んだまま早口で捲し立て始めた。
「聞いてアヤノ。今日上映開始の映画がね、私が大好きなシリーズの二年振りの続編なんだけど、前作じゃ無かった入場特典があって。いや勿論これは嬉しいの。最高に嬉しいんだけど、その公式ホームページにこの恐ろしい文言があって」
「はあ? どう言う事?」
気の無い返事をするアヤノに、私は放置して暗くなっていた携帯の画面を指で叩いて、開きっぱなしになっていたネットのページを、印籠を見せるが如く突き付けた。そこに表示されているのは、まさに今日から公開の、アメコミ映画の公式ホームページである。
こちらの勢いとは反対に、アヤノは心の底から面倒臭そうな声で、携帯の画面の中に並んでいた文字を、薄目で見ながら気怠げに読み上げた。読む時に屈んだアヤノの肩から、彼女の綺麗に整えられたツインテールの毛束が滑り落ちて来る。
「えーと、入場者プレゼント決定……キーホルダー……数量限定……? これのどこが恐ろしいの?」
「数、量、限、定っ」
「え? いやいや、こう言うのって大体が数量限定でしょ?」
こいつは何を当たり前の事を言っているんだ、と言いたげな顔のアヤノに、私は今度は僅かに声のトーンを落とした。さも国の重大事項でも伝えるかのように真剣に。
「アヤノ……これは私の個人的な経験から言う事なんだけどね、入場特典と書いて、更に何万人限定とか、大まかでも人数を書いてあるものは……特典の数が豊富な場合が多い」
すると、初めてこの話題でアヤノは目を見張って意外そうな顔をした。
「そうなの? 確かにこう言うの百万人限定とか書いてあったりするの見た事あるけど」
納得しそうになったアヤノに、私は咄嗟に慌てて両手を振る。
「いやごめん、関係者でも何でもないから正確な事情は知らないんだけど、ただ、今までの実感としてあって。映画公開前に何万人限定ですよってちゃんと書いてあるものは、数に余裕がある場合が多い気がしたんだよね。真偽は別としてさ。で、そこで問題なのは、これ。個数の情報は全く無くて、数量限定としか書いてない、その上で無くなり次第終了って書いてるもの、これは私の経験だけで言うと、そもそもの用意が少ない。多分、用意してる数が少ないから何万人とか書けないんだと思うんだよね、大人の事情とかで」
「そうなのかなあ……」
「きっとそう。知らんけど」
「知らんけどって言ってるじゃない。憶測で物を言うな」
当たり前の正論で諭された。だがこれはただの憶測ではない。経験に基づいた憶測なのだ。
しかしこんな事を言えば、憶測は所詮憶測、とまたもや当たり前の正論で返ってくるだけと言うのを知っているので、私は口に出したりはしない。
代わりに、と言う訳ではないが、私は大袈裟に溜息を吐いて机に突っ伏した。
「もし今日が土曜なら今頃、映画館で最新作観て特典も貰ってたのに……このままだと出遅れる……いや、もう既に出遅れている……うう」
机に顔を押し付けた格好のまま、さめざめと泣く振りをした。
直後、私の後頭部に真っ直ぐアヤノの手刀が降って来た。別に痛くはなかったが、流れのままに私は「いて」と反応する。
顔を上げると、アヤノは髪を揺らしながら僅かに怒気を含ませた瞳でこちらを見下ろしていた。
「もうすぐ期末なんだから勉強しろ。相手がヒナでも、私は勉強教えないからね。教えるのは弟だけで充分」
「頼まないよ。アヤノに勉強の教え請うたら、お金取られそうだし」
「当然でしょうが。私の労働に友情料金なんて舐めた割引は無い」
最後の一言に私は笑い声を上げた。人形のように可愛い見た目だが、アヤノの精神は私の友人の中でも屈指の頼もしさである。大人になったアヤノは歴史的な女傑になるのではないかと、内心期待している。
「いや本当、私は今から君の将来が楽しみだよ」
「あんたは私の親戚か何かか」
アヤノが吹き出すように破顔すると、放課後のホームルームの始まりを報せるチャイムが鳴った。程無く担任がやって来るだろう。
早く、早く教室を飛び出て電車に乗って、映画館まで駆け抜けたい。
学校から駅まで、歩いて五分程度。そこから電車で十五分。更に駅に着いてから劇場まで歩いて十分は掛かる。つまり、最速でも三十分は掛かる計算だ。
例え今は空席があっても、その三十分の間に席が完売してしまっても不思議ではない。何せ今日は初日だ。私と同じように今作の公開を楽しみにしていた人々が大挙して映画館に押しかける可能性だって否めない。いや、大挙しては言い過ぎかもしれないが。
「あ、あとはホームルームだけだし、サボっても良いんじゃ……?」
はっと思い付いて、半分冗談、半分真面目な顔でアヤノにそう言うと、再び無言で頭頂部に重い手刀をお見舞いされた。おかしい、今回はしっかり痛い。
「じゃあヒナは今日、ゲーセンもクレープも行かないのね?」
アヤノは自身の席に戻る直前、振り向きざまにそう訊いた。
「うん、ごめん。また来週行こうよ」
「はいはい。嘉陽子と奈都にも伝えとく」
「ありがと」
感謝を述べると、アヤノは小さく手を振りながら、後ろの自分の席に戻って行った。
すると視界の端で気怠げに廊下を歩く猫背の担任の横顔が見える。その瞬間早々に鞄を背負いそうになったが、後方からアヤノの厳しい視線を感じたので、そっと鞄を膝の上に置くだけに留めた。
担任が教卓に着くと、ぼんやりとした声で三週間後の期末テストについて何やら喋り始めたが、やはり耳に入ってくる訳もなく、迅る気持ちを抑えきれない私は窓の外を見る。
外へ誘惑するかのように真っ青に澄んだ空が、鈍い銀色の窓枠の内側を、隅から隅まで埋めていた。細い鉄製の質素な額縁にも関わらず、澄み切った青空のおかげか、それはまるで高級な芸術作品にさえ思える。
今すぐこの窓から飛び出して翼で映画館まで行けたら良いのに————なんて思ってみたが自分で鼻で笑った。
ファンタジーは好きだが、それは映画の中だけで充分である。むしろ私は、現実との差が激しい程、あの非現実的な映画に没入できる性質である。
だから、映画と言うファンタジーに深く没入する為にも、現実は現実らしくあってもらった方が都合が良いのだ。
人類を救う特別な才能とか、誰にも言えない世界の秘密とか、宇宙人の相棒とか、そう言う非現実を日常の中で想像する事は無意味だ。現実が現実らしい程、自分の世界ではない誰かが作った映画の世界が輝き、自分にとって最上のものになるのだから。
今はただ、全く頭に入ってこない担任の話に、懸命に耳を傾けよう。
そう決意した側から、ポケットに仕舞ったばかりの携帯が再び気になり始める。案の定ホームルームは簡単には終わる気配は無い。時間は刻々と進んでゆく。
進む時と並行して、私はまた思い悩むように、時には祈りを捧げるようにして、机に肘を突いて項垂れた。
何分経った後だろうか、気付くと先程は青い色だけだった窓枠の内側に、極大の綿菓子のような分厚い雲が、半分程入り込んでいた。
その頃になって漸く担任の話は終わり、挨拶が終わった瞬間に私は鞄を抱えると、跳ねるようにして廊下へ飛び出した。
教室を出る際に、まだ座ったままのアヤノの背中に「アヤノばいばい」と早口で伝えると、彼女は背中を向けたまま声だけで応えた。
「行ってら」
「行ってくる」
「花ヶ峰、廊下を走るなー」
最後にやる気の無い担任の注意を背中で聞き流しつつ、私は学校の冷たい階段を急ぎ足で駆け降りると、校舎の玄関口まで一気に向かったのだった。