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夜に爆ぜ朝を食い尽くせ  作者: 蜂月ヒル彦
第一章 新宿編
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第一話 死神とわたしの朧げな記憶

⚠️この作品はファンタジーですが、作品の性質上、幾つかの暴力表現や死の表現などがございます。

恐れ入りますが苦手な方はご遠慮下さい。






 見た目は人のようであった。

 人のようであるがしかし、どう考えても人ではない彼は、私の祖母を奪い、そして。

 

 私を、救った。



 





「——君の番ではないと言うのに」


 ()()は抑揚の少ない無感情な声で呟きながら私を見下ろした。


 真っ直ぐにこちらを捉えたその瞳は、まるで宇宙の暗黒を切り取って詰めたような、海の底の極低温の暗闇を掬い取ったような、深く暗い色を湛えていた。にも関わらず、どこまでも澄んでいるその瞳は、ある種の説得力のような、重力に近いものがあり、幼年の私はそれが持つ瞳の中に別世界が広がっているような、そんな錯覚をした。


 それは、纏っている物全てが黒く、目を見張る程に背が高かった。

 二メートル以上はあるだろうか。いや、この歳の私には、それくらいに見えただけだろう。


 細長い、黒い塊のような人型の何者かは、暫しこちらに向けていた視線を緩慢と逸らすと、そのまま薄暗い部屋の一角に置かれていたベッドを見た。実際にはベッドの上に横たわっていた、私の祖母を、じっと見つめた。


 きっと男の人だろう、この時の私は、目の前の存在をそう推測した。

 だがこれは祖母の部屋に突然現れた、この異様な風体の人物を、身長や声の雰囲気で、自分が知っている生物の中で一番近しいものを当てはめただけに過ぎない。


 目の前の存在を的確に形容する言葉を、幼い時分の私は、まだ持っていなかったのである。


 呆けた状態の私を他所に、緑茶で染めたような色の絨毯の上をおもむろに土足で歩き始めたそれは、それまで居た窓の近くからゆっくりと、静かに眠る祖母の枕元まで近付いていった。

 窓の外から雀の鳴き声が聞こえる。その鳴き声で、窓が開いている事に気が付いた。だが祖母は普段、あまり窓を開けたがらない。


「おばあちゃん」


 不安になった私は咄嗟に祖母を呼んでみたが、声が小さかったからか、覚醒には至らない。


 私の祖母は十年以上前から心臓病を患っており、体調が優れない時はそっと部屋に篭って一人静かに休むのが常であった。祖母の性格を考えれば、家族と言えど他人に心配を掛けまいと考えて篭っていたのだろうと、今になって思う。しかし小さな私は、そんな祖母の心情など想像できはしない。


 それどころか、部屋に戻る際の祖母の背中を見て私は、ただ落ち込んでいるだけなのだと、何故かそんな風に思っていた。とんだ的外れな想像である。

 毎日薬を飲み続けなければいけない明確な理由も、どんなに嫌でも痛みに耐えなければいけない孤独も、長くは無い自身の命と向き合わなければいけない絶望も、私は何一つ理解できていなかった。


 だからなのか、それともただ祖母の傍に居たかっただけなのかは分からないが、とにかく、リビングに祖母が居ない事に気付くと、私はこっそり祖母の部屋の中に入って様子を見に行っていた。


 この時期の祖母は特に病状が重かった。長期の入院を終えてやっと家に帰って来たというのに、それでも度々体調を崩していた。この瞬間も祖母の呼吸は浅く、時に呻き声が聞こえている。


 幼い私はそんな様子を毎日見ていて、ただただ漠然と不安だったのを憶えている。

 病気と言う事実も何となくでしか理解できていなかったが、生前の祖母は辛そうな表情をしている時間がとにかく長かった、ような気がする。


 私はいつだって、祖母がどうにか楽にならないかと考えていた、——楽に。


 その時、祖母の傍までやって来たそれは、不意に片手を上げると祖母の乾燥した唇の間に指を挿し入れ、引き抜いた。


 自分の祖母の口の中に指を挿れた男性らしき何かに、驚いた私は短く息を吸うと、少しの間呼吸を忘れた。


 見ると、引き抜かれた指の先には、白銀の(もや)を糸のように撚り合わせた長い何かが握られていた。祖母の口から靄が途切れるまで、躊躇う事無く引きずり出していく。口元にあるせいか、靄は食い千切る直前の綿飴のようにも思えた。


 私は、祖母の口から引き出された謎の靄の美しさに目を奪われた。

 引き出された軌道に沿って、束となった靄が音も無くふわりと宙を舞う。

 綿飴に似た靄の束の表面は、小さな光がきらきらと反射していた。いや、靄自体が微かに発光しているのかもしれない。朝の陽光を反射する海面のように、忙しなく煌めいていた。

 

 すると黒い何者かは、引き出したばかりの細長い綿飴に似た靄を、細かく鋭い牙が立ち並ぶ大きく開いた口で、突然噛み付くようにして食べ始めた。


 私は悲鳴は上げなかった。ただただ驚いて、口は馬鹿みたいに開いていた。

 本当に綿飴を味わうかのように暫く口の中をもごもごと動かして、一人用の縄跳びの縄くらいの長さの綿飴を、先端まで食む。その内、嚥下する音が聴こえると、何者かは無感情に口の端を舌で舐めた。


 気付けば、今まで微かに聞こえていた祖母の呼吸音は、途絶えていた。


 私は成り行きを呆然と見ていたが、その時に黒いそれは、——いや、きっと、彼と言うのが正しいのだろう。

 彼は、再び小さな私を見下ろすと、目に掛かりそうになっていた自身の黒い前髪を、黒爪の長い指で耳に掛け、独り言なのか誰かと話しているのか判断がつき難い小声で、ぼそぼそと喋り始めた。


「君の番ではないと言うのに……やはり、僕の事を認識している。珍しい。君は、誰だ?」

「わたし?」


 『貴方こそ一体、何処の誰なのだ、おばあちゃんに何をした』

 この時の私はそう糾弾すべきだったと、後になって後悔した。しかし敢えて言い訳を述べるのであれば、この時の私は恐らく五歳前後で、このような状況に発揮されるべき常識的な反応など持ち合わせていなかった。

 故に、私は逡巡した挙句、目の前の何者だか分からない人物に向かって、素直に自分の名前を伝えただけに留まった。


花ヶ峰(はながみね)ヒナ」

「ふむ、自己紹介、感謝する。君は何故そこまではっきりと、姿を見せていない筈の僕の事が見えるのだろうか。もしかして君は今まで、他に誰か見た事があるのか?」

「他……? お兄さんみたいな人って、こと?」


 私の言葉に、彼は無言で頷いた。私は彼を頭の上から爪の先まで見てみるが、他の人間との違いが、その時は明確にあまり分からず、ただ首を傾げるだけで、質問に答える事はできなかった。


「ねえ、おばあちゃんは?」

「……ああ、彼女は君の祖母なのか」


 彼は、ベッドの上で横たわる祖母に視線を向けると、当たり前のように「死んだ」と言った。


「死んだの? おばあちゃん」

「死んだ。君の祖母は」


 彼は何故か、私の言葉を繰り返すように返事をした。


 私は意味が分からず、おもむろに亡骸となった祖母の隣に立った。


 その表情を見て、どこか安堵した。

 ずっと苦しげに歪んでいた祖母の表情ばかりを見ていたせいか、初めて見る安らかな脱力した顔に『あばあちゃんはもう苦しくないんだ』と子供ながらに安心したのだ。


 私は決して、おばあちゃんが早く亡くなってしまえば良いなどと考えていた訳ではない。

 私は祖母が好きだった。好きだ。これだけは言いきれる。

 でも、だからこそ、辛いままでいて欲しくなかった。それだけだった。


 だから私は、安心、した。


「お兄さんが……おばあちゃん、死なせちゃったの?」

「客観的に見れば、そう見えるかもしれない」

「きゃっかん……? じゃあ、違うの?」

「もし僕が来なければ、彼女の魂はどこにも行く宛が無くなる。それは生きるよりも死ぬよりも不幸で、救いがない。だから僕のような存在が回収する……つまりこれが、僕の仕事だ」

「お仕事、なの?」

「仕事であり、僕の存在理由だ」 

「……ふうん」


 この時の私はやはりまだ、何が起きているのかすら良く分からないままで、彼の話にも相槌しか打てなかった気がする。記憶は定かではない。だが彼を責めようとは思わなかった。

 幼い私には人間の死の実感などまだ無かったし、何よりあまりにも、ベッドの祖母が安らかだったから。

 いや、彼の言い分がまるで当たり前の事を言っているような口調で言い訳がましくなかったから、何となくでつい信じてしまっただけなのかもしれない。


 とにかく私は、あの日、彼を責めたり断罪しようと考える事など思い付かず、それどころか彼の存在そのものに興味を持った。


 証拠に、私は佇む彼の事を穴が開くまで観察した。その観察時間は、見知らぬ子供の直視に黒い彼の眉間の皺が微かに刻まれる程には長かった。


 黒い彼は、知性と品性を感じさせる喋り方や仕草、細く高い身長、昔話の魔女のような骨張った手に、黒いフードから溢れる肩くらいのぼさついた黒髪と、何者にも興味がなさそうな、それなのに泣きたくなるくらい優しい声を持っていた。


 そして何よりもやはり、黒色の瞳。

 黒と言っても自分の知っている黒ではない。檳榔子染(びんろうじぞめ)の黒に似た奥行きに、黒曜石(こくようせき)のような艶かしさを持っていた。

 勿論、言語能力が不足しているこの時の自分は精々、綺麗な黒い石みたいなお目々だなあ、くらいにしか思わなかった筈だが。


 今考えれば、最初の段階で大泣きして上の階に居る両親の元に走って行くのが、きっと正常な判断だったのだろう。だがこの時すでに、物珍しい目の前の存在に、私の理性なんてちっぽけなものは忘れ去られてしまっていた。


 そもそも彼からは敵意や悪意を欠片も感じなかった。これは子供ながらの直感でしかないが、落ち着き払った態度や穏やかな声色、そう言った要因が私のあるべき警戒心を解いていたのは間違いなかった。


 私はうずうずと内側に好奇心が渦巻くのを感じて、それまで距離を置いて観察していたのを、自分から徐々に黒い彼に近付き、


 そして黒い彼の服の端を、摘むように握ってみた。


 ——居る。


 ざらざらとした硬い布の感触が、指先から伝わって来た。

 御伽噺(おとぎばなし)に出てきそうな見た目の黒い彼は、確かに目の前に存在していた。

 その事実が私の胸を高鳴らせ、存在し得ない宝を見つけたような、夢の登場人物が現実に飛び出てきたような高揚感に全身が襲われた。


 私は頭上の彼に向かって、言葉になっていない何かを叫んだ。恐らく『凄い』と言ったと思う。あまりに身長が高く見えていたので、聞こえないかもしれないと思って叫んだのだ。


 すると予想に反して、彼は煩いとばかりに眉間に皺を寄せると、唇に細長い人差し指を当てて静かにするように私を諭した。私は収まらない高鳴りに任せて子犬のように低い跳躍を何度か繰り返しながら、今度はやたらと小声になって話した。


「ねえ、ねえ。お名前、なんて言うの?」


 ほとんど吐息だけの問い掛けだったが、一応それでも聞こえるらしい彼は、また無表情で返答した。


「無い」

「え、名前無いの? そっか。じゃあ、私がつけてあげるね」

 

 私の言葉に、初めて、彼の表情が明らかに変わった。


 伏せがちだった瞼をかっと開いて、大きな黒目が更に大きく見えた。はっと息を呑んだ音も聞こえる。それは期待の表情であった。

 しかし、すぐに何かを思ったのか、頭上の黒い彼はふいと視線を逸らしてぶつぶつと呟いた。


「……いや、名前など無くとも、別に」

「やだよ。だって私が呼ぶ時、困っちゃうから」

「……君が、僕を呼ぶのか? いつ?」

「これから」

「これから」


 驚いたように鸚鵡返(おうむがえ)しで応える彼を見て、私は思わず吹き出し笑い声を上げて喜んだ。

 言ってしまえば、ぬいぐるみに名前を付ける時と大差無い。自分にとってはあくまでも子供の遊びの延長でしかないのに、彼が分かり易く動揺している姿がおかしく、同時に自分の言動一つで相手の反応が変わった事が、同じくらい嬉しかった。


 笑い続ける私を、彼はとっくに取り戻していた無表情で見ていたが、今の話に興味を持ったのか、初めて彼が自らしゃがんで、小さな私を正面から視界に収めた。


「あっ」


 その瞬間、私は初めて気付いた。

 彼の瞳は、漆黒などではない。

 近くで見ないと分からないが、その瞳の中には幾千もの極小の星々が輝いていたのだ。


 彼の瞳は、それまで私が見た中で一番綺麗で、小さな星空だった。


「あのね、名前すごいの、思い付いたよ」

「僕の?」

「あたりまえじゃん」


 語彙に乏しいその頃の私が得意げに思い付いた彼の名前は、単純過ぎる点は否めないが、今でも嫌いではない。中途半端に例えるような言葉よりは、よっぽど潔いとさえ思う。


 まるで天啓とでも言わんばかりに降ってきたその言葉を大事に抱えて、私は高揚感を隠す事も無く、しゃがんだままの彼の固く冷たい肩に触れて、耳元で囁いた。


「聞きたい?」


 くすくす笑いながらわざと秘密を勿体ぶるようにそう言うと、彼は普通の人より少しだけ長くて先の尖った耳を微かに震わせ、こちらを見た。


「君が言いたいのだろう。分かっているぞ」


 良いから早く言え、そう言われているような気がした。

 私は彼が何故急かすのか不思議ではあったが、それよりも面白さが勝ってしまい、また笑いそうになるのを必死で堪えた。


 自身が考えた名前を今か今かと待つ、目の前の彼の真剣な表情に満足すると、私は小さな足の爪先を精一杯に伸ばし必死に彼の耳に唇を近付けた。どんなに隠そうとも、聞き耳を立てる者は誰も居ないと言うのに。


 そして私は。


 ——私は、祖母の魂を連れ去った彼に、名前を付けた。

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