僕だけは、君を。あなただけを、私は。
「もう、いいんじゃないのか」
少年、双葉雪がその幼馴染の腕を掴んだのは、まさに彼女が『変身』のために、中学指定の鞄を道に放り投げようとしたその時のことであった。
雪は、続けて言う。
「……春、キミがみんなの為にずっと戦ってきたのは知ってる。『魔法少女』なんてものにいきなりさせられても一回も文句を言わないで、ずっと………そんなキミを、僕も誇りに思ってる」
だけど、と。
一呼吸を挟んで、雪は春の目をまっすぐに見据えながら。
「────今日だけは、キミを、行かせたくない」
ドン、と、奥に見える高層ビルの中腹部から、空気を直接殴りつけたような大きな爆発音がなった。同時、その場所から山ほどの大きさの黒蛇が現れる。蛇の鱗は光のひとかけらさえも反射しておらず、まるで子供が鉛筆一本丸ごと使って塗りつぶしたような、濁り切った黒色だった。
蛇によって吹き飛ばされたビルの上半分が、大火と黒煙に包まれながら、切り倒された木のようにガラガラと崩れ落ちていく。そして何重もの悲鳴と共にその衝撃による風が2人の元に押し寄せ、その髪を荒々しく揺らした。
「……雪くん。手を、離してくれないかな」
底冷えした声で、彼女は言う。
その瞳は、魔法少女にふさわしい愛らしい容姿からは想像もつかないほどに鋭く、冷たい輝きを放っていた。
だが、雪の右手は更に握る力を強め、一向に離す気配がない。浮かんだ手汗のじっとりとした感覚が、制服越しに伝わってくる。春はその事にますます顔を顰めると、痛いよ、と苛立たしそうに告げた。
「ねえ雪くん。キミにも見えてるよね、あの蛇が。それに、あいつが『魔王』だってことも、知ってるよね。なら、私たちがあいつを今すぐに止めないとどんなに酷い事になっちゃうか────頭のいい雪くんなら、私たち以上にわかってるでしょ」
世界、滅んじゃうかもしれないんだよ。
優しく────まるで、親が聞き分けのない子供に言い聞かせるような調子で、彼女は言う。
だが、雪の態度は極めて冷静のままで。
「ああ、わかってる。この戦いで、キミが死ぬかもしれないってこともね」
「────!」
その言葉が、彼女を激怒させるトリガーとなった。
「何それ────なにそれ! あはっ、私が死ぬかもしれない?? 何を今更そんな────世界が大変って時に、暢気なこと言わないでよ!」
「暢気なことじゃない」
「どこが! 命懸けなんて、今までもそうだったじゃん。なんで今回だけなの? この、1番大切な戦いの時に限って! 大丈夫だから、いつも通り『信じてる』って言ってよ!!」
「言わない。信じない」
「なんで!!!」
「だって、この戦い────勝算、ないんだろ」
「────っ!」
図星だった。
一週間前のことだ。
魔王の副官を名乗る魔物が、突如として街中に出現し、「魔王復活の儀」を始めた。春ともう1人いる魔法少女の2人で立ち向かったが、その戦いは苛烈を極め、なんとか討伐には成功したが、結局魔王復活は防げなかった。さらに2人は全身に大怪我を負うことになる。
魔法の力により傷自体はすぐ治ったものの、暫くの間は疲労で動くことができず、やっと動けるようになって久しぶりの登校日が、今日だった。
「敵の副官……それも、儀式の片手間相手にそれで、魔王になんか勝てる訳がない。まして、まだ体だって万全の状態じゃないのに、戦うなんて無茶だ。────死ぬよ。本当に」
オオオォォォ────!
遠く、蛇が哭いた。
その太く巨大な黒尾を叩きつけ、家が、道が、まるで路傍の小石のように軽々と吹き飛ばされていく。その様子はさながらフィクションの怪獣映画で、一つ秒針が進むごとに失われていく幾つもの命も、全く現実感がない。
今にも落ちてきそうな黒々とした雷雲だけが、人々の心に確かな絶望の実感を与えていた。
「……逃げよう」
雪は言う。
「確かに世界は終わってしまうかもしれない。でも、なにも全人類が死ぬわけでもないんだろ? なら、いいじゃないか。キミも、魔法さえあれば、終わった後の世界でも十分生きていけるはずだ。なのに今ここで無駄に死ぬ必要なんてない。……1人が寂しいなら、僕も付き合う」
だから逃げよう、と。
痛いくらいに優しい声色で、彼は提案する。
だが。
「だから……だから、なに?」
少女は、なおも強く、そこに立つ。
「確かに、勝算はない。でも、それはここで私が立ち向かわない理由にはならない。死ぬのが怖いから、自分1人だけ逃げて生き残ろうだなんて……ありえないよ。私は、正義の味方なんだから。世界のためなら、この命だって────」
「軽々しく『命』なんて言葉を使うな!」
ぐい、と、肩が外れるんじゃないかと思うほどの勢いで腕が引っ張られる。変身すれば百人力の魔法少女も普段はただの女子だから、雪の、男子としてのそれには抗えない。
よろめいた先で、2人の目があった。
顔が近い。互いの息遣いが伝わる。揺れる瞳に思いが透ける。
「いいか、キミは死ぬとか死んでもとかすぐ言うけれど、『命』っていうのは、キミだけのものじゃないんだ。おじさんやおばさん、その親のまたその親の祖先、それに、キミを今日まで生かそうとしてくれた人たち────国の偉い人とか学校の先生とか近所のお兄さんとか……僕とか! そういう人たちみんなの物なんだ。みんなの、大切な宝物なんだ。まだ十年と少ししか生きてないような僕たちが、勝手に捨てていい物じゃないんだよ!」
その言葉から逃げるように、春は顔を逸らした。
そしていつも以上にぶっきらぼうな調子で、反論する。
「……その『みんな』が、今死のうとしてるんでしょ。今まで世界に守ってもらった分、今度は私が恩を返さないと。きっと、世界のみんなだって、それを望んでるはずだよ!」
「〜〜〜〜〜っ、なら、そんな世界捨ててしまえ!! 中学生に世界の命運を握らせて、自分たちは助けてくださいだなんて……自分の命を守ろうとする行為を悪だとするような世界だなんて、そんな薄情な世界なら、守る価値なんてない!!!」
もう、無茶苦茶だった。
命を語るなと言いながら命を軽んじ、かと思えば命のために世界を捨てろと喚き散らす。矛盾だらけで、支離滅裂だ。最早口から出る単語は意味を成さず、言葉ともならない。だが、それでも不思議と想いだけは、真っ直ぐと春に伝わっていた。
つまり、死ぬなと。
「……なんで、なの?」
気づけば、彼女の瞳には涙が浮かんでいた。
「雪くんにも家族が、友達が、大切な人がいるでしょう!? ここで逃げたら、その人たちも死ぬことになるんだよ……!? なのになんで、私なんかを優先しようとするの?! 雪くんにとって、世界よりも私1人の方が大切だって言うの? なんで、そんな怖いことが言えちゃうの!!」
「────それ、は…………」
絶叫と共に、雫が頬を伝っていた。それは朝露のように透き通っていて、どこまでも清廉な思いの塊だった。
その切な思いに、雪は思わず気圧されて、言葉に詰まってしまう。
だから、それは今にも消えてしまいそうな声で。
「────それは……………キミのことが………す、好き、だ、から…………」
「………え?」
あまりの衝撃に、思わず固まってしまう春。目を見張った状態で、俯いたままの雪の姿をじっと眺めている。
顔を隠すように覆う髪の隙間から見える一文字の唇と真っ赤に染まった耳が、やけに印象に残っていた。
だが、そんな混乱の真っ只中にいる春をさらに置いてけぼりにするように、雪はさらに声をあげる。
「〜〜〜〜〜〜ああそうだよ、僕はキミが好きなんだ! ずっとずっと昔からキミに恋してる。愛しちゃってるってワケ! キミの笑顔を見るのが毎日の生き甲斐だったし、キミと恋人になる妄想なんてもう何百回したかわかんないし、花咲春は世界で1番可愛い女の子なんだってずっと前から確信してる!! だから死んでほしくないんだ、キミに生きて欲しいんだ。それこそ、世界なんてどうでも良くなるくらい、僕はキミのことが本当に本当に、大好きなんだよ!!」
そうやって一息に捲し立てると、ゼェハァと息を切らしながら、雪は春と目を合わせた。
相変わらず顔は真っ赤で、瞳は恥ずかしさからか涙すら浮かんでいる。全身をプルプルと振るわせている様子は、いっそ情けなくすらあった。理想の告白などとは程遠い、世界一情けないプロポーズ。
だが、春にとって、その言葉は────
「────っ!」
ジャラッ!!
その瞬間、何本もの鎖が空中から突如として現れると、雪の体に強く絡みついた。それは腕を、足をがっしりとかため、一切の身動きを許さない。
「……なっ、拘束魔法!? …………あ、春っ!」
その魔法の意図にすぐに気づいた雪は慌てて手の握る力を強めるが、時すでに遅し。そこには『魔法少女』の衣装に身を包み、雪の腕を振り解いた春の姿があった。
「……ごめんね、雪くん。そろそろ行かないと。多分、もう相方は戦ってるだろうし」
「く、そ…………離せ! 春、行くな!!」
沢山のフリルのついた可憐な衣装。そんな中で、彼女は力無く笑う。
雪はなんとか抜け出そうと身じろぎをするが、力を加えれば加えるほどに鎖はギリギリと体に食い込んでいき、拘束は一向に弱まらない。
しばらく経てば、もう鎖の擦れる音は聞こえなくなっていた。
「…………………じゃあね」
雪が動かないことを確認すると、春はくるりと背を向ける。別れの言葉は淡白で、その視線も、もう魔王の方にだけ注がれていた。
翻った髪が、風に流されている。
「────恨むぞ、魔法少女。僕から、僕たちから『花咲春』を奪った泥棒め。たとえどれだけ世界がキミを讃えても、僕だけはキミを許さない……!」
低く、喉の奥からの声だった。
ギラギラと輝く瞳が、彼女を射抜き、ギリ、という歯軋りの音が今にも聞こえてきそうだ。
だが、彼女はなおも平然としたままで。
「うん、恨んで。そして雪くんだけは、私のことを忘れないで。それだけで、私は怖くても戦えるから」
そう言って一瞬だけ振り返れば、透き通った黒目が、悲しそうに細められていた。そこに涙が浮かんで見えたのは、彼の願望が見せた単なる幻だろうか。春、と弱々しく呟くけれど、彼女からの返事はなく。ふわり、と宙に浮くと、そのまま魔王の方へと飛んでいってしまった。
────結局、告白が何かを変える最後の切り札になるのなんて物語の世界だけで、現実では、なんの効果もない。そこにはただ力のない少年がいるだけで、翼のない鳥のように、ただ空を見上げることしかできないのだ。
しばらくして鎖が消えると、雪はその場に座り込んでしまう。
そして段々と小さくなっていく彼女を見ながら、そういえば告白の返事、もらえなかったな。なんて、そんなありきたりなことを考えていた。