45. 人間時代(1)
「黒男」。
人間時代の名を、九重光といった。
少年時代の彼は、幼稚園に行くのが大嫌いだった。毎朝、家の前に迎えに来るバスの音が聞こえると、激しく泣きじゃくり、母親の服の裾を掴んで離そうはしなかった。
幼稚園に着いても、彼はいつも独りぼっちだった。遊びの時間には、園庭の隅っこにうずくまり、ひたすら砂をいじっていた。彼は一つのルーティーンがある。手のひらに砂をすくい取り、小刻みに左右へ振る。指の間からボロボロと粒の大きな砂が落ちていくのを観察する。そして、海の砂のようにさらさらになるまで、せっせと手でふるいにかけるのだ。
本当は砂場でやりたかった。でも、気が強そうな子どもが、いつも砂場を独占していて、彼が入る余地などなかった。彼は子どもたちが飽きた頃を狙って、砂場へとそろそろと移動する。
彼が本当にやりたかったのは、砂いじりではなかった。ブランコだ。
園内の遊具で、断トツの人気を誇るブランコには、常に予約待ちの列ができていた。彼が勇気を出して列に並んだとしても、平気で横入りをされてしまう。
次が自分の番だと思っても、「○○ちゃん! 次乗っていいよ!」と、後方に並ぶ友だちにあっけなく譲られてしまう。惨めさに耐えて、今度こそ乗る番が来たときには、おしまいのベルが鳴るのだった。
彼はいつも思う。自分はどうして、こんなに惨めなんだろう……。なぜ誰も、僕を一人の人間として見てくれないんだろう……。僕に強い仲間さえいれば、今よりずっと上手くいくのに……と。
彼はどうしてもブランコが漕ぎたかった。高く、空へ届きそうなほど高く。
ベルが鳴り、子どもたちが園舎へ吸い込まれて誰もいなくなった園庭。いっそのこと、園内の遊具を片っ端から遊び尽くそうと考えた。
猿のように、ジャングルジムの中を器用にすり抜け、滑り台の上で両手を突き上げる。
「ジェットコースターだぞ!」
叫びながら一気に滑り降りた。
シーソーの真ん中に立ち、片足ずつ交互に重心を傾ければ、ギッコン・バッタンと、軽やかな音が鳴る。
そして、いよいよブランコだ!大樹の陰にあるお気に入りのブランコは、鎖が長い。年長組になった今の彼なら、宙を一回転しそうなくらい高く漕げるはずだった。
「光君! なにしてるの、だめでしょ!」
建物からエプロンを着けた小太りの先生がやってくる。
「遊びの時間は、終わったでしょ!もう、みんなは中で、お絵描きしてるでしょ!」
"でしょでしょ先生" は、いつだって面倒くさい。
「どうして、ベルが鳴ったのに、遊んでいるの? だめでしょ」
先生は教室に戻った後も、みんなの前で、また叱りつけた。他の子たちは彼を見て、にやにや笑い、「いーけないんだー! いけないんだー!」と、はやし立てる。彼はただ黙って、うつむくしない。
「ごめんなさいでしょ? 悪いことをしたら、謝るんでしょ?」
"でしょでしょ先生" の目が三角につり上がり、眉間に三本の皺が寄る。
「……ごめんなさい」
先生は勝ち誇ったかのような顔で頷いた。
「そうでしょ? はーい、じゃあ光君もみんなと一緒にお絵描きしてー」
先生の視線が、光から園児たちに変わった瞬間に、"でしょでしょ先生"は、鬼の形相から満面の笑みへと変貌する。彼はそれがなにより怖かった。
一人冷めた目をした彼は、みんながクレヨンでヘタクソな絵を描いているなか、画用紙いっぱいに黒のクレヨンで塗り潰し始めた。
「終わったら、先生に見せてねー」
他の子が次々と、紙を先生に見せに行く。
「まみちゃん上手ね~、ヒマワリでしょ~?」
「わぁ。たかゆき君、これはママかなぁ?」
「うん。この前、ママと一緒に遊園地に行ったの」
「よかったね~、楽しかったでしょ~」
クラスの子たちが体育館へ移動した後も、彼は一人、黙々と画用紙を塗り潰していた。
「光君、まだ?」
先生は "大人の顔" に戻って、光の方へ近づいていく。光はとっさに、紙を隠した。
「まだ途中」
冷たい顔をした先生が光を見下ろしている。
「見せて」
「……いやだ。まだ終わってないもん」
冷たい仮面が剥がれ、先生の顔が怒りでフツフツいっている。
「見せなさい!!」
先生は光から画用紙をひったくった。
「……何これ。真っ黒じゃない。ふざけちゃだめでしょ! ほら、みんなこんなに色んな色できちんと塗っているのに。もう一度、描き直しなさい。終わるまで帰れません!」
「それ返して!」
「これは捨てます。こっちの新しい紙に描きなさい」
「やだ!! 返して!!」
光は先生の手に握られた真っ黒な画用紙を夢中で追う。
「ダ・メ!!」
「アーーーーー!!!!」
園内に響き渡る絶叫だった。自分の喉の奥から、こんなに大きな声が出るなんて知らなかった。意識の片隅で、彼は知覚する。先生の大きな丸いお尻に一発蹴りを入れた後、描きかけの画用紙をもぎ取ると、そのまま一目散に外へ走り出した。
「こらーー!! 光君! だめでしょぉーー!!」
先生の声が聞こえなくなるまで、遠くへ走り続けた。以降、彼が幼稚園のアーチをくぐることは二度となかった――。
小学校、中学校と進んでも、彼には "友達" とは呼べる人はいなかった。いつも、みんなから一歩離れて、冷ややかに様子をうかがっているような子どもだった。不良じみた彼に、誰も寄り付かなかった。
やがて通信制の高校に進学した。勉強はよくできたため、かなり優秀な大学に進み、大学院に通っていた。専攻は『宇宙応用物理学』。
宇宙の謎を解明するための技術や装置を作ることに、彼は己の孤独を埋めるかのように情熱を注いだ。毎日、研究室にこもり、山のような論文を書き、気がふれるくらいの数の試作品の実験を繰り返した。
そんなある日、彼のアパートに一人の男がやってきた。
当時流行していた60年代ヒッピー風の出で立ちだった。ゆるくパーマをかけた長髪に不精髭、色つき眼鏡にパンタロン。派手なシャツの首もとにはスカーフと、てんこ盛りのファンションだった。
「やぁ! 隣りに越してきた、華岡ってんだ! ひとつよろしくぅ!」
変な奴だ……。絡まれたら面倒だな……。
「君、○○大学の学生だよね? 名前、何て言うの?」
そいつは、眩しいほどに目を輝かせて自分を見つめている。
仕方がない。ここは早く話を終わらせよう……。
「……九重」
「九重か! なんか、格好いい名前だな! へぇー、何年生?」
「大学院」
そう答えると、男は急に恥ずかしそうに頭をかき、猫なで声になった。
「ああ、 先輩っしたか! そりゃ、失敬失敬。ちなみに、専攻は何を?」
「宇宙応用物理学」
「そうなんすか~。格好いいっすねぇ~。……あ、そうだ! 昼めしまだっすよね? 俺、おごりますから、一緒に "タラフク" 行きませんか?」
お疲れ様です。




