指輪の精霊
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最後の日記を書き終えてヴァイオレットの意識は遠のいた。ガラスの無い窓から小雪がちらちらと舞い落ちてきた。部屋の空気は凍るほど冷たい。ひび割れた唇から末期の白い息が漏れた。
「ふう…」
その瞬間。右手の人差し指の護符の指輪が煌めき、ベッドの上に精霊が現れた。その手がこけた土気色の顔に触れる。すると王女の目が開いた。
「ヴァイオレット。もう大丈夫」
手のひらに収まるほどの小さな少女が話しかけてくる。半透明の4枚の羽根が動き、宙に浮いている。王女は飢えの苦しみが無いのに気づいた。いつの間にか醜く痩せ細った身体も元に戻っていた。
(やったわ。転生したのね。私)
故郷でよく読んだ御伽噺の主人公みたいだ。
「いや。違うって。死にかけたから護符が発動したんだよ。ギリギリ間に合った」
ヴァイオレットは起き上がった。体中に力がみなぎっている。しかしその場所は元居た牢獄だった。おかしい。転生したら全く別の世界に生まれ変わるはずなのに。
「だから死んでないって。あんたは王女ヴァイオレットのまんまだよ」
「何ですって?あなたは誰なの?私を異世界に誘う女神さまじゃないの?」
納得できないヴァイオレットは精霊に詰め寄った。もう王女なんてまっぴらだ。平凡な市井の娘に生まれ変わって美貌の騎士様に溺愛されたいのだ。精霊は呆れたように言った。
「少女小説の読みすぎ。あたしは護符の指輪に宿る精霊ナナコよ」
護符の指輪にそんな神秘が隠されていたとは。窓から冷たい風が吹き込む。ヴァイオレットはくしゃみをした。
「とりあえず餓死は回避したけど。凍死しそうだね。ちょっと待ってて」
ナナコと名乗る精霊は小さな腕を振った。とたんに部屋が暖かくなった。魔法だ。王女は目を輝かせた。
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精霊の魔法で体の汚れを消してもらう。どこからともなく出てきた真新しい服に着替えると、ようやくヴァイオレットは人心地がついた。
「魔法ってすごいのね。もっと早く助けて欲しかったわ」
ナナコはすまなさそうな顔をした。持ち主の命が危機にならない限り、出てこれないと言う。
「例えば暴漢に襲われるとか、馬車が崖から落ちるとか大ピンチの時に現れるわけ?」
「まあね。でもあんた頑張ったじゃない。155日もの幽閉に耐えたのよ。大したもんだよ」
そうだろうか。怪物の生贄にされるとかえん罪で処刑されるとかよりはマシな気がする。ヴァイオレットは文学少女だったので、諸々の基準が物語の登場人物だ。塔に閉じ込められた姫なら美男の盗人が連れ出してくれるはずなのに。
「でも誰も助けには来なかったわ。ありがとう。ナナコ。あなたは命の恩人だわ」
これがお話なら時間を巻き戻して復讐とかしちゃうのに。
「復讐したいの?良いよ。手伝うよ」
ヴァイオレットの心を読んだかのように小さな精霊は言った。王女は首を振った。
「いいえ。ここから出してちょうだい。お願いはあと幾つ残っているの?」
大体、こういった物に宿る精霊への願いには数の制限がある。ランプの魔人なら3つだ。ただし命の復活や殺人、魅了は禁止事項のはずだ。7個の球を集めて召喚する竜神は1つだったような。復活もありだった気がする。
「え?幾つでも良いよ。さすがに死者の蘇生はムリだけど。それ以外なら何でもござれ!」
王女は驚いた。それでは永遠にナナコを使役できることになってしまう。
「ヴァイオレットが死ぬまで一緒にいる。助ける。護るよ。それがあたしの役目だから」
「ナナコ…」
自分と同じ金の髪と紫の瞳の小さな精霊。その熱烈な宣誓に王女は涙を浮かべて小指を差し出した。ナナコと握手をする。ヴァイオレットは強力な相棒を得たのだった。
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一刻も早くこの牢獄を出たい。だが脱獄が露見したら追われてしまう。そこでナナコの力を借りて自分の死を偽装することにした。
「私そっくりの死体を作って欲しいの。このドレスを着せて。それが発見されれば死んだと思ってくれるでしょ」
「了解~」
ナナコはあっという間にベッドにミイラを出現させた。ザンバラの金髪にボロボロの花嫁衣裳。ものすごく気持ち悪い。思わずヴァイオレットは目を逸らした。
「あ。これも着けて」
イエローダイヤの結婚指輪を外し、ナナコに渡す。もう要らない。王太子の顔も忘れてしまった。ミイラの左手の薬指にそれを着けて偽装は終わった。
「本当に幽閉された原因とか探らなくていいの?仕返ししたくないの?」
やけに精霊は復讐を勧めてくる。
「いいわ。暴いたところで良い気分じゃないし。オダキユ王国に害が及んでも困るし」
きっと自分は前世、飽食の罪を犯したのだ。末端王族が王太子妃になれるなんて。そんな旨い話があるわけなかった。これで贖罪は終わった。これから先は幸福な人生が待っているに違いない。ヴァイオレットは笑顔で牢獄を去った。