第91話
宇宙は慌てた様子でディツェンバーのいる玄関へと向かう。
彼はごく最近人間として認識されるようになった存在だ。まだ生活に馴染めていない所もある。
海か空、陸が一緒に着いてきたのだろうか。もしも陸だったら気まずい雰囲気になるのだろうが、それよりもディツェンバーの事が気掛かりだった。
師走家の表札をまじまじと見つめるディツェンバーを見て、宇宙はまたもや驚きに満ちた表情を浮かべた。周りに海も空も陸もいなかったからだ。
「ディツェンバー君、どうしてここに!?」
「あっ、本当にいた。やぁ宇宙さん」
ひらひらと手を振って微笑み掛ける彼に手を振り返し、宇宙は駆け寄った。
「一人で来たの?」
「空さんに宇宙さんの実家の場所を教えて貰って、ここまで歩いて来たんだ。迎えに来たよ、一人で」
「……空君に連絡しておいたんだけど……、私今日は帰らないわ」
陸にも嫌な態度をとってしまった。一度頭を冷やす為にも今日は実家に泊まろうと思っていたのだ。
大地と夕凪にはいい顔はされないだろうが、宇宙の知った事ではない。
「…………家出、かい?」
ディツェンバーは柵越しに身を乗り出し、宇宙の瞳を真っ直ぐに見つめる。エメラルドのような美しい双眸が、若干の光を帯びているような気がした。
「……そんな、子供じみた理由じゃないわ。ただ父さんにも話があるから……」
「それは建前だよね?」
「……ふふっ、まさか」
まるで全てを見透かしているかのように、ディツェンバーは問い掛ける。
「僕、ずっと宇宙さんの事見てきたから知ってるよ。宇宙さんは質問に答えられない時、一瞬左に視線を動かすんだ。その後すぐに取り繕うから、上手いなぁって思ったんだ」
本当に見透かされていた。今度こそ宇宙は口を噤んでしまう。
自分は上手く誤魔化せていると過信していた為、余計にそのダメージは大きかった。
「その自信は、最終的に身を滅ぼす事となるよ。あまり自分を上げない方がいいかもね」
ディツェンバーが言うと妙に説得力がある。しかしそれを「えぇそうね。気を付けるわ」と言える程の余裕を、今の宇宙には持ち合わせていなかった。
正直言って、苛立ちだけが込み上げてくる。しかし何とかそれを堪えて、笑みを取り繕う。
「……お気遣いどうも」
「────あ、あの……」
と、気まずそうに声を発しながら、一人の少女が現れた。
紫がかった黒髪を腰まで真っ直ぐに伸ばした、琥珀色の瞳の少女だ。近くにあるスイーツ店の紙袋を手に、宇宙とディツェンバーを交互に見つめる。
「お取り込み中すみません……、師走さんのお家……ですよね?」
「えぇ、そうよ」
少女にどこか既視感を覚えるも、すぐには浮かんでこなかった。
「師走君……じゃなかった……、夕凪君いらっしゃいますか?」
弟に用事があるらしい。そういえば彼女が来るとか言っていたな、と思い出して玄関から夕凪を呼び付ける。
するとパタパタ、と足音を響かせて部屋の奥から夕凪が出てきた。
「いらっしゃい泉ちゃん。上がっていいよ」
「あっ、お、お邪魔します……! あの師走君……あの方はお姉さん……?」
「まぁそんなとこ。ちょっと頭可笑しいから気にしなくていいよ」
冗談めかして言う夕凪に殺意を覚えながらも、弟の彼女は師走家の事情を知らない。ここで夕凪に殴り掛かる事も考えたが、それは彼女が可哀想だ。
露骨に顔を歪めて、宇宙は玄関を勢いよく閉める。バタンッ、と強い音がして、少しの間静寂に包まれた。
宇宙の後ろではディツェンバーが無言で視線を送ってきている。訳を話せとも言わなかったし、弟に対して何かしらの感情を露わにするでもない。
──それが、心の底から腹立たしくて。
「…………ディツェンバー君。ちょっとさ、私に付き合ってくれない?」
「…………うん。いいよ」
ディツェンバーに迷惑を掛けるとか、そんな考えは頭の中になかった。ただ怒りでどうにかなりそうな自分を何とかしなければ。
陸にも、まともな顔を見せる事は出来ないだろう。それどころか向き合う事すら出来るか怪しい。
宇宙はディツェンバーの腕を引っ張って、ネオン街へと向かって歩き始めた。