第90話
「考えてない……んですか……」
「だって僕、やっと人間界の通貨に慣れてきたんだよ? それにこの前バス? っていう乗り物に乗った時、両替の方にお金入れちゃってさ〜」
「は、はぁ……」
「あと自動販売機で飲み物買った時にお釣り取るの忘れてたり、砂糖と塩を間違えて入れちゃったり」
それはただのドジなのでは? とツッコミかけて、陸は思い留まった。
誰しも失敗の一つや二つはある。ましてや陸もよく失敗して海に呆れられているのだから、人の事は言えない。
「言語が共通してただけまだマシなんだろうけど……まだまだ勉強中の身。僕はこれから、何をしてどう生きるのか。まだ何も考えていない……でも僕に出来る事があるなら進んでやりたい。それを探す為にも、僕はまずこの世界の事を知らなければならないんだ」
勿論君達の事もね、と付け足して、ディツェンバーは立ち止まった。釣られるように陸も立ち止まる。
「人間界は、魔界と同じようで大きく異なる。住んでる者達も、暮らしの様子も、習慣も。でもとても素敵なんだ。不思議だね」
「…………なんていうか、視野が広いですね」
人間界で暮らす彼の目線や捉え方は、やはり王の視点なのだろうか。少なくともそう思わせられる気はする。
「そうかい? なんというか……純粋に楽しくもあるし、不安でもあるんだよ。自分の行いが本当に正しいのか」
その言葉に、陸はハッとした。
「僕は弟に対して理解が足りなかった。彼は僕を嫌っていたから……僕も自然と距離を置いてしまっていたんだ。その結果が今に繋がっているから……嫌でも実感させられる。僕は……大勢の民を守る為に、両親も、弟も見捨ててしまった」
宇宙が以前、ディツェンバーを召喚する前に言っていた言葉が蘇る。
『百万人の人間と一人の知り合い。どっちをとるの!? 私は前者よ。多くの人を救う為には、少なからず犠牲が必要だから!』
彼女が空に投げ掛けた質問は、今し方ディツェンバーが口にしたそれに酷似していた。
宇宙は百万人の人間、つまりディツェンバーで言う所の国民。
宇宙は百万人の命を救う為ならば、一人の知り合いを捨てる覚悟を持っている。それはディツェンバーと同じ。
しかし彼は後悔しているのだ。
民を優先した結果、最悪の形となってしまった事を。
(宇宙さんが聞いたら……どんな反応をするんだろう……)
強い意志を持っている彼女は、それでも意見を変えないのだろうか。ぐるぐると頭の中を駆け巡る疑問を、陸は一度かき消す。
「それでも……ディツェンバーさんの選択は間違いではないと思います」
「……ありがとう。君は優しいね。……僕は、家族を救えなかった事を後悔しているけど……時間は戻せないからね。だからこそ前向きに、次への対策を練る事が大切だと思うんだ。海さんにも背中を押されたから……僕はこれからも進み続けるよ」
ディツェンバーの言葉を聞いて、陸は意を決してある頼みをする事にした。
「あの、ディツェンバーさん。お願いがあるんですが──」
※※※※※※※※※※
駅から徒歩十分程の高級住宅地に分類される場所に聳え立つ、水色の屋根の家。
表札には黒字で『師走』と書かれており、有名な政治家の住宅である事は近辺に住む者なら誰でも知っている。
その師走家のリビングでは、桃色の髪をした女性と、金髪を緩くおさげに結んだ少女が睨み合っていた。
「何でここにいんの……出ていったんじゃなかったの……?」
白いセーラー型の制服のまま、スクールバッグをその場に落として忌々しげに口を開く少女。お嬢様学校と名高い太聖高校の制服を身に纏った彼女の名は師走大地。宇宙の妹だ。
「別にいいでしょ。実家に帰ってきちゃいけない?」
「アンタ私達に何したのか忘れた訳じゃないでしょ!? 何すまし顔でここに立ってるのって聞いてんの!!」
「忘れたとか言ってないわ。一日泊まったらまた出て行くの」
「ふざけないで! 今すぐにでも出てって!!」
「──うるさい姉さん達。騒ぐなら外でやってくんない?」
ソファーから身体を起こし、不満げな表情で間に入ったのは、宇宙と大地の弟、師走夕凪だ。
彼もまた制服に身を包んだまま、読んでいたらしい雑誌をテーブルの上に放り投げる。
「これから彼女来るんだから。みっともないとこ見せないでよね」
「ハァ? そんなの知ったこっちゃないわよ! アンタ達が出ていけばいい話でしょ!?」
「大地も夕凪もうるさい。父さんは何処」
大地と夕凪の言葉を聞き流し、自身の目的を果たそうと宇宙は二人を見下ろす。
そんな宇宙の態度が気に食わなかったのか、大地は躊躇う事なく彼女の頬目掛けて手を振りかざした。
パァンッ、という乾いた音と共に、宇宙が一歩後方によろける。突然振るわれた暴力に、叩かれた宇宙も、見ていた夕凪も全く動じなかった。
「アンタのその態度が気に食わないのよ……天月の時もそうだった! 姉さんは人じゃない!!」
ガッ、と。今度は鈍い音がした。
固く握った拳が大地の頬に当たり、短く悲鳴をあげてその場に倒れる。
大地を殴った当人、宇宙は何の感情も映っていない虚ろな瞳で彼女を見下ろしていた。
「アンタに何が分かるの? 空気も読めないガキが一丁前に正義ヅラかましてんじゃないわよ」
「あーあ。女って怖いなぁー」
口ではそう言いつつも、夕凪はどこか面白がっている様子で壁にもたれ掛かる。そんな彼をひと睨みしてから大地は立ち上がった。
「姉さんこそ人の事言えないじゃない……私は天月の時の事、絶対に許さないから!!」
「好きにしなさいよ。そうやって真実から目を背け続けるといいわ」
「真実って何!? 姉さんも父さんも頭が可笑しいんじゃないの!? ありもしない存在をでっち上げてまで天月の事件を揉み消したいの!?」
と、大地がそう述べた所でインターホンが鳴り響いた。
彼女が来たのかな、と夕凪は席を外し玄関へと向かっていく。宇宙と大地。どちらも黙ったままお互いを睨み合っていると、夕凪が顔を覗かせた。
「宇宙姉さんお客さん」
「誰」
「ディツェンバーとかいう外人さん」
ハッ、と。思いもよらぬ名前を弟の口から聞いた宇宙は驚いたように息を飲んだ。