第46話
北東の屋敷に、一人の青年がいる。艶のある漆黒の髪に、エメラルドのような緑色の瞳。しかしその美しい瞳は奥底まで濁っており、常に激しい憎悪を宿していた。
彼の名はアルター。
公には知られていないが魔界の王、ディツェンバーの弟である。
手元に本を抱えた彼が自室に入った事を確認した女性は、溜め息をついてその場を去った。
桃色の髪に赤色の瞳をしたメイド服を着た女性。目の下にはそれぞれ三個ずつ、黒子があった。
彼女はフリューリング。アルターの身の回りの世話を任されているメイドである。
フリューリングが部屋に入ると、同じく同僚メイドのヘルプストが声をかけてくれる。
温かみのあるオレンジの髪をショートカットに切り揃え、煙草の煙をふかしていた。
「よぅフリューリング。坊ちゃんの調子はどうだぃ?」
「お食事はちゃんと摂ってくれるになりましたですが……話し掛けても『あぁ』としか言ってくれなくてです……不安で不安で仕方ないですです〜」
再度溜め息をついてソファーに腰掛けるフリューリング。その様子を見たヘルプストが、煙草の火を消して励ましてくれる。
「まぁまぁそんなに気負う必要はないさぁ。名目としては謹慎なんだからねぇ。あたし等は言われた仕事をこなしてりゃいいのさぁ」
「駄目ですよぉです! アルター様はわたし達のご主人様なんですからです」
その通り、とフリューリングに同意したのは、質の良さそうなスーツを身に纏った青年、ゾンマーだった。
艶やかな金髪に、四角い赤縁眼鏡をかけた整った顔立ちをしている。
「ヘルプスト。貴女には忠義というものがないのですか?」
「ない訳ではないさぁ。ただ、あたしは忠義よりも金を取る、ってだけさねぇ」
「全く……」
「でも、フリューリングもゾンマーも、ちょっとは肩の力抜いた方がいいと思うなぁ。確かに、使用人が四人しかいないのは大変だけど、アルター様には心地良く過ごしてもらわないとなぁ」
「貴方は力を抜き過ぎです、ヴィンター」
ヴィンターと呼ばれた白髪の青年。ゾンマー同様にスーツを身に纏っているが、ジャケットのボタンを全て外している。
「問題はわたし達ではなくアルター様ですです! 何か……力になりたいですです……」
「だがねぇ。彼自身にその気がないんじゃぁ、あたし等に出来る事はないさねぇ」
「ヘルプストの言う通りです。フリューリング、くれぐれも余計な詮索はしない事です」
「うぅ……でも……」
謝罪する事も許されず、"アルター個人"として生きる事も許されない。そんな彼の精神状態が心配なのだ。
フリューリングはただの使用人にすぎないが、主であるアルターの力になりたいと本心で思っている。それはゾンマー達も同じなのだが……
「そっとしておいた方がいいに決まっていますよ」
ゾンマーの口にした言葉に、黙り込むしかなかった。それが主の為だと信じて──。
※※※※※※※※※※
──憎い。
──憎い。憎い。
──憎い。憎い。憎い!!
「……何故、誰も俺を見てくれない…………父上も、母上も、兄上も……」
ただ一人の友にも裏切られ、闇の中を彷徨うしかない。それ以外の道は残されていなかった。
努力してきたつもりだ。誰かに認められる為に、ずっとずっとそうしてきた。まだ足りないというのか。
どんな事をしても、罪を裁いてくれる場すら設けられない。
それは一種の呪いだった。
両親をこの手で殺めた時も、アルターは死を覚悟した。許されない罪を犯し、自分はこの首を跳ねられるのだと。
しかし、この身に罰は下されなかった。
──事実すらも隠蔽され、俺はどうすれば良かったのだろうか。
今回の件もそうだった。
あれは本当に、本当に無意識だった。ディツェンバーが言っていた残虐性とはこの事だったのだろうか。
──また、罪を重ねてしまった。
そしてそれもまた、無かった事にされたのだ。
自分のするべき事が分からない。このままではきっと、また罪を犯してしまう。俺はきっと、そういう魔物なのだ。
────だったら堕ちる所まで堕ちればいいんだ。
そんな囁きが、耳元で聞こえた。
────確かに、そうだな。
──誰も俺を見てくれないのならば……誰かが裁いてくれるまで罪を犯せばいい。
──あぁ、いい案だ。
──悪逆に溺れてしまおう。
──誰かが俺を殺してくれるまで。
「…………ははっ……全部、全部……この身が果てるまで…………俺は、……壊し続けてやる…………まずは貴方だ……兄上…………」
そう口にしたアルターの目には、少しの迷いもなかった。狂気的な笑顔で、それでいて夢を見ている子供のように無邪気な笑顔を貼り付けて、アルターは含み笑いを続ける。
これから起こるであろう最悪の結末に、思いを馳せながら──。