第36話
※※※※※※※※※※
シュテルンは夜を人間界へと送り届ける為、城の地下へと訪れていた。報告はアウグストが済ませてくれているし、ディツェンバーから人間界に滞在している魔物への連絡も行っている。
シュテルン自身が人間界へ行く事は不可能だが、見送りだけなら問題ない。
道すがら、シュテルンは後ろを歩く夜に話し掛けた。
「もうすぐ帰れますからね」
「はい……助けて下さってありがとうございます」
「いえいえ。アウグスト様達にも伝えておきます。…………」
夜にかけるべき言葉を探す。知らない世界に連れてこられ、殺されそうになった彼女の心の傷は深いだろう。何か一言、励ます言葉を──と、シュテルンよりも先に夜が口を開いた。
「私……魔物ってずっと怖い存在だと思ってたんです……」
「……そりゃあ、姿かたちが違うのですから当然ですよ…… 」
「でも……優しい方もいて……安心しました」
そう言ってふわりと笑む夜。その笑顔から、シュテルンは目を離せなかった。
「このご恩は決して忘れません。その……何かお返ししたいのですが、人間界にいらっしゃる事は可能ですか?」
夜の質問にそっと首を横に振る。シュテルンには、人間界に行く為の資金はおろか、審査にも合格していない。
それを見た夜は、残念そうに眉を下げた。
「……いつか、自由に行き来出来る時代が来るといいのに……」
夜の呟きに、シュテルンはいてもたってもいられなかった。
「分かりました。俺が貴女に会いに行きます」
「えっ……!?」
「もう一度会いましょう。そしてその時に……俺に人間界を案内して下さい。食べ物や文化、暮らしを……俺に教えて下さい」
「…………」
少し難しいかもしれない、とシュテルンは言ってから後悔した。しかし夜はふっ、と笑って
「はい。私も沢山勉強しておきますね」
と、言ってくれた。口だけの約束になるが、シュテルンはそれでも良かった。と、夜は前髪を止めていたピンを一つ外す。
「これ……持っていて下さい。そして必ず来て下さい。あまりに遅かったら私がもう一度魔界に赴きますから」
「……魔界は危険なので、俺が行きますよ。必ず」
冗談目化してそう言ってから、シュテルンは夜からヘアピンを受け取った。
「では夜さん。また」
「はい。本当にありがとうございます、シュテルンさん」
そうして、夜は魔界を去っていった。
シュテルンは一人、手元に残されたヘアピンに視線を落とす。いつか必ず、二人を巡り合わせてくれると信じて。
※※※※※※※※※※
城に到着し、真っ先にディツェンバーの元へと向かう。
いつもの書斎にディツェンバーはいた。彼の向かいにはメルツ、アウグストの姿もあり、何か報告していたらしい。
「皆、おかえり。無事で何よりだよ」
「只今戻りました。アウグスト、夜は?」
「今し方事情を聞き、シュテルンさんに見送ってもらいました。あちらに滞在している者と連絡もとれたので、無事に帰れたかと」
「そうか、良かった……」
町田夜、という無理矢理魔界に連れて来られた人間の女性。無事に帰還出来たと聞き、ゼプテンバールもほっと胸を撫で下ろした。
ヤヌアールの口からしか聞けていなかったのだが、いきなり姿形の違う者に誘拐され、知らない世界に連れて来られたのだ。
精神的なダメージは大きいだろうが、安全は確保されたようなので安心だ。
(また狙われない、とは限らないけど……)
「館の主はルフト……ねぇ」
「それともう一人、人間の女子を誘拐した女性がいた」
「金髪で黒いリボンを着けてて、180cm位の女性でした。所々メッシュが入っていたような気がします。服装は……首元を隠すような作りをした紫のマントを羽織っていました」
キュステの証言に反応したのは、意外にもメルツだった。目を見開き、小さく息を飲んで。
「? どうした、メルツ」
そんなメルツを不審に思ったヤヌアールは、怪訝そうに視線を向けるが、当の本人は「なんでもねぇ」と誤魔化した。
明らかになんでもない筈がないのだが、それ以上追求出来る事なく、「そうか」とヤヌアールは諦めてしまう。
「此方でも調べてみよう。今後は見張りも徹底しなくちゃね。ヤヌアール、指揮を頼むよ」
「承知」
「それじゃあ、もう戻っていいよ。ゼプテンバールはここに残りなさい」
指名され一瞬肩を揺らす。が、すぐに返事をして皆が部屋を去るのを待つ。
扉が閉められてから、ディツェンバーは口火を切った。
「ユーリの実力は本物だったでしょ?」
「驚いたよ……でも……凄くかっこよかった」
「実は戦闘を禁じていたのは僕だったんだ。彼女は表向きでは歌手だからね。傷を作る事は勿論、彼女自身が戦闘をよく思わない様子だったから…… 」
「……そう、だったんだ……」
「その様子を見る限り、彼女に戦いを強要した訳じゃなさそうで安心したよ。そんなゼプテンバールに、いい事を教えてあげるね」
含みのある言い方に戸惑いつつも、少しだけ期待を抱く。それがディツェンバーにとってのいい事なのか、ゼプテンバールにとってのいい事なのか、予想はつかない。
少しの沈黙の後、ディツェンバーは微笑みを浮かべながら言った。
「──ヴェルメ族の覚醒について、ね」
「!!」
※※※※※※※※※※
ディツェンバーの書斎を後にして、自室に戻ろうとしていたメルツの顔色は良いとは言えないものだった。
蒼白な顔色にふらふらとした足取り。小刻みに震える身体を抱くように腕を組み、堪らずその場にしゃがみ込んだ。
上手く息が吐けずに、胸が苦しくなるのが分かる。決して胸のさらしをきつく巻きすぎたとか、そんな理由ではない事をメルツは知っていた。
(近くにいたなんて……アイツが……クソ、何でっ……)
脳裏に焼き付くその姿に吐き気すら覚える。ぐらぐらと頭が揺れ、その場に倒れる──寸前で、誰かに受け止められた。
「大丈夫ですか!? メルツさん! どうしましたか!?」
メルツの背を摩り、顔を覗き込むマイ。焦った様子で傍らにいたユーニに指示を出す。
「ユーニ君! メルツさんを運びますのでそこの扉開けて下さい!」
「りょーかい!!!」
メルツを抱えて部屋に駆け込み、ソファーにそっと寝かせてやる。その間何度も呼び掛けるが、メルツに声は届いていない。
心臓が強く脈打つ音と、荒くなる自身の呼吸音。そして込み上げる吐き気を抑えきれずに嘔吐してしまう。独特の鼻を突くような臭いを感じながら、マイは更に指示を出す。
「ユーニ君! 近くにいる使用人を三人程呼んで下さい!」
「分かった!!」
「熱はありませんね……。メルツさん、聞こえますか? 大丈夫ですか?」
嘔吐して少し落ち着いたのか、ぼんやりとした瞳でマイを見つめるメルツ。少し涙ぐんでいるが、段々と呼吸も整いつつある。
「ペイント……眼鏡……」
「マイです」
「ここは……?」
「休憩室ですよ」
「誰か……いるか……?」
「僕以外いないですよ」
「……そうか、……良かった……」
「誰かから……逃げてるんですか?」
マイの質問に、メルツは答えなかった。涙を堪えるかのように目を閉じて
「なんでもねぇよ」
と、誤魔化した。
脳裏に焼き付くのは金髪の高身長の女性。黒いリボンを巻き付け、紫色のマントを羽織っていて。一人称は僕で、堅苦しい話し方をする。
(姉御が近くにいる……あぁ……気分が悪ぃな……)
──僕の兄弟分よ。僕は君の事を──────のだ。君はどうかね。
そう聞く彼女の声が、姿が、焼き付いて離れない。だがそれはメルツを捕える為の呪縛。
蓋をしていた記憶を思い出さないように、メルツは拳を握り締めた。