第29話
部屋を出てしばらくした所で、ユーリは立ち止まった。
「申し訳ございません……私のせいで……」
「あははっ!! ユーリ何も悪い事してないよ!! 皆分かってるからだいじょぶだいじょぶ!!」
励ますユーニに礼を言った後、もう一度部屋の方へと振り返る。そんな彼女を見つめていたユーニは、普段よりも声を潜めて言う。
「大丈夫だよ。おれも、ゼプテンバールも。ディツェンバー様だって君を守ってくれる」
「ユーニ……さん……」
心配そうに眉尻を下げるユーリに、そっと小指を差し出す。
「約束。必ず君を守ってあげる。だから……いつもみたいに笑ってて」
ユーニは彼女の事情を知らない。
それでも、グレッチャーの口振りやゼプテンバールの怒った所等である程度の察しは着いた。
だからこそ、ユーニはユーニに出来る事をしようと。そう思ったのだ。
「じゃないと、せっかくの美人が台無しだよ」
「…………」
そっと小指を絡めるユーリ。
約束、と笑みを浮かべた後、ユーニはいつもの調子で足を弾ませた。
「さ!! 先に休憩室行こーぜ!! お話終わったら皆来るだろうしな!!」
「……はい……」
今度は振り返らずに、ユーリは先を歩く彼の後に続いた。
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扉が閉められると、ヤヌアールが剣を下ろす。まだ警戒しているらしく、鞘に収める気配はない。
「彼女が拒否しているし……ここは手を引いて貰えないかな」
仕方ないからね、といったふうに窘めるディツェンバーだったが、グレッチャーがそれに頷きを返す訳もなく……
「お言葉ですが魔王様……貴方は本当にあの女を必要としているのですか? オレにはそうは思えない……何の為に傍においておられるのですか」
と、ディツェンバーを睨め付けた。しかしそれに動じる事もなければ怒りもしないのがディツェンバーだ。
「それは勿論、僕が彼女のファンだからさ。有名な割に公での活動の場が極端に少ない。一ファンとして、彼女の為になんとかしてあげたいと思っただけだよ」
含みのある言葉にゼプテンバールが首を傾げていると、それを読み取ったかのようにマイが眼鏡を押し上げて補足してくれる。
「彼女の活動は年に五回とかなり少ない。全て含めて五件です。その分チケット代はかなり高いですが、相応と言えるでしょう。ですが……メルツさんの情報によれば、裏の世界で商品としてやり取りされていたそうで。これは酷い」
絶句した。
ヤヌアールは知っていたらしく、微かに眉を顰めただけだった。
目の前に立つグレッチャーは、悪びれる様子もなく嘲笑してみせる。
「それがアイツの価値だろ?」
「お前っ……!!」
「利用出来るものを利用して何が悪い! 綺麗事で生きていけるなら苦労しねぇさ!!」
「──そういった思考は言い訳でしかない。綺麗事でも正しい行いをした者が"善"なのさ」
ディツェンバーの凛とした声が部屋の中に響き渡る。
「この場において"悪"は君だという事を理解しておいた方がいい。君が僕に謁見に来たんじゃなくて、僕が君を来させたという事もね」
「くっ……!」
「なに、糾弾している訳じゃないよ。ただ……大人しく手を引きなさい。そう言ってあげているだけ」
ギリッ、とグレッチャーの歯軋りする音が聞こえた後、彼は更に声を荒らげた。
「ふざけないで頂きたい!! 元々あの女は──」
──バシャッ。
突如、そんな水音がゼプテンバールの耳に届いた。ディツェンバーの手には水の入ったグラスが握られていたが、中身はもう入っていない。
グラスの口をグレッチャーに向けて微笑んでいる。
ポタポタと毛先から滴り落ちる水を目で追って、ようやく状況を理解したらしいグレッチャーは、呆けたように声を発した。
「は……?」
「僕は始めからお願いなんてしていないんだよ。君は由緒正しい貴族の家系で、そこそこ権力のある坊ちゃんだ。でも僕は? 言ってごらん?」
「そ、それは勿論……」
「遅い。マイ、言ってあげて」
「ディツェンバー様はこの世を治める御方。この場においての絶対権力を握っている唯一の御方です」
「いやぁ照れるなぁ……」
自分から指示を出しておいて恥ずかしそうに頬をかくディツェンバー。その異様な光景に戸惑いつつも、ゼプテンバールはそっと気配を押し殺して生唾を飲み込む。
「さて、そんな絶対権力を持っている僕だけど……。君は口答えしたね?」
「そっ、そんなつもりは……!!」
「あるよね?」
にこやかなのが余計に怖い。怒りを顕にしてくれていればまだ良かったのだろうか。
「もう一度だけ言ってあげる。ラストチャンスだよ。
──二度とユーリの名を口にするな、愚か者」
ぞくっ、と。そこで初めて背筋が凍ったのが分かった。普段よりも声色が低く、目に光を宿していない主が見せた『魔王』の側面。
初めて目の前にした時の心地よい威圧なんて、そこにはなかった。
圧倒的な支配の元に成立している関係。虐げる者の視線をグレッチャーに注いでいる。
とん、とグレッチャーの首筋に指先を添えて……
「次に彼女を貶してごらん。僕直々に、その首を跳ねるから」
「ひっ……!!」
あまりの恐怖に身動きが取れないらしいグレッチャーの首筋に這わせていた指先を、そのまま唇の前に持ってくる。
「返事は?」
「はっ、は、はい……!!」
震えながら頷いたグレッチャーを見て、ディツェンバーはにっこりと笑った。もうそこには恐怖を感じさせられる気配もない。
「いい子だね。気を付けてお帰り」
「お、お気遣い……痛み入りますっ……」
「マイ、送ってあげて」
「畏まりました」
マイに連れられて、グレッチャーは部屋を後にした。その後ろ姿が小動物のように感じられて、思わず笑いそうになってしまう。
ヤヌアールもやっと剣を鞘に収めて、ほっ、と息をついた。
「罰を与えなくていいのか?」
「あそこまで脅せば大丈夫だよ、きっと。念を押す為手紙も書くつもりだからね」
「そうか……」
「ディツェンバー様……その、知ってたの……? ユーリの事……」
どういう風にして問うべきか分からず、変に濁す形で聞いてしまったゼプテンバール。ディツェンバーはそれに柔らかく答えてくれる。
「まぁね。少し調べればかなり浮き上がってきたから。とはいえ、これを調べたのはメルツであって僕の手柄じゃないけどね」
「じゃあ……ユーリをここに置いているのって……」
「そう。さっき言った事も勿論本当だけど……何より痛ましかった。他にも彼女と似た境遇の子はいるだろうから、見つけ次第保護してあげようと思う」
弱き者に優しい、慈愛に満ち溢れた瞳。宝石のように美しい瞳に吸い込まれそうになりながら、ゼプテンバールは返事をする。
「まぁ、直属の部下にした理由はそれだけじゃないけど……」
「えっ……?」
「どういう意味だ?」
この呟きには、ヤヌアールも理解出来なかったらしい。ゼプテンバールと一緒になって首を傾げた。
「なら、その目で見てみるといい。丁度、頼みたい仕事があるからね」
また少し、嫌な予感がした。
穏やかで優しくても、彼は紛れもない『魔王』で、ゼプテンバール達部下に断るという選択肢はないのだから。