第28話
数分程経って、ユーリはハンカチで目元を拭いながら上体を起こした。ゼプテンバールのズボンを濡らしてしまった事を、申し訳なさそうに謝罪しながら。
「本当にすみません……」
「自然と乾くだろうし大丈夫だよ。気にしないで」
「…………あ、あの……ゼプテンバールさん……」
神妙な面持ちで名を呼ばれ、ゼプテンバールは目を瞬かせる。
「何……?」
「今……この事を話したのは……」
「……メルツや僕が……過去を話したから?」
ゼプテンバールが先にそう聞くと、ユーリはゆっくりと頷いた。
しかし全員の前ではなくゼプテンバールに零したのは、やはりまだ決意が固まっていなかったからなのだろう。
しかしゼプテンバールは何も言わない事にして、礼を言うだけに留めた。
ユーリは続けて言葉を紡ぐ。
「それと私……、まだ……皆様に言っていない事があるんです。実は……私、本当は──」
「ゼプテンバール!! ユーリ!!」
ユーリの声を遮って、ヤヌアールの声が響いた。きょろきょろ、と彼女の姿を探すが、近くにその姿はない。
だがふと城を見上げると、最上階の窓から身を乗り出しているヤヌアールの姿を発見した。あんな所で何をしているのだろうか……。
「どうしたのー!?」
「ディツェンバー様がお呼びだ!!」
それだけ伝えると、ヤヌアールは姿を消してしまった。何処にいるのか位は教えてくれてもよかったのに、と悪態をつきながらゼプテンバールは立ち上がる。服に着いた砂や埃を払って、ユーリに手を差し伸べた。
「行こ」
「……はい……」
ゼプテンバールの手を取って、ユーリも立ち上がる。そしてユーリと共に、急ぎ足で城の中へと入っていった。
ディツェンバーは城の最上階にある応接室にいた。豪勢なソファーに背筋を伸ばして悠然として座っている。
そんな彼の向かいに座っていたのは、深紅の髪を一つに束ねた身なりの良い青年だった。淡い青色の瞳を部屋に入ってきたゼプテンバールとユーリに移し、笑みを浮かべる。
「初めまして、久し振り。オレの名前はグレッチャー」
「ど、どうも……」
と、そこでゼプテンバールは疑問を抱いた。勿論、ゼプテンバールはこのグレッチャーという青年に覚えはない。
しかし彼は『久し振り』とも言ったのだ。
この場にいるディツェンバーには正式な挨拶をしただろうし、後ろに控えているヤヌアール、マイ、ユーニにも挨拶を済ませているだろう。
となると、グレッチャーが『久し振り』と言った相手は──
「……御子息……様……」
必然的にユーリという事になる。
御子息様、と呼ばれたグレッチャーはただ笑みを浮かべるだけだが、その視線が冷たい事はゼプテンバールにも伝わった。
ユーリの顔が僅かに、恐怖に引き攣っている。
(じゃあこの人が……前の御主人様……って事?)
否、御主人様ではなく御子息様なので、その息子だろう。
「それでは改めて、用件を伝えさせて頂きます」
「どうぞ」
「歌姫・ユーリを……返して頂けませんか?」
その言葉に、ユーリが小さく息を飲んだ。ゼプテンバールも思わず眉根を寄せてしまう。
「……と、いうと?」
だがグレッチャーの正面に座るディツェンバーは、穏やかに首を傾げるだけだった。
「ご存知の通り、ユーリは私の父の養子……私の兄妹です。『"魔王"という権力の元、彼女をただお傍に置かれているのであれば……娘を返して頂きたい』。それが父から仰せつかった伝言に御座います」
彼の発言が嘘であるという事に気が付いたのは、事情を知るゼプテンバールは勿論、ディツェンバーの後ろに控えていたヤヌアール達もだった。
ユーリはグレッチャーを見て『御子息様』と言った。本当に兄妹としていたのならば『お兄様』と呼ぶ筈だ。
ゼプテンバールは悟った。
(コイツ……ユーリの事を金儲けの道具として扱うつもりだ……)
将又、欲求の捌け口として扱われるか。
また別の所へ売られるのか。
少なくともグレッチャーがユーリの事を兄妹と思っていない事、良からぬ事を企んでいる事は確かだ。
「それはそれはご苦労様。確かに、僕は現在ユーリを雇っている形ではあるね。扱いは部下と同じだけれども」
だが彼の思惑に気が付いてないのか、ディツェンバーはそう言った。
それを好機と思ったのか、グレッチャーは更に畳み掛ける。
「ですから、魔王様さえ宜しければ彼女をこちらに──」
「それを決めるのは彼女自身だよね? 僕は雇用者であって所有者ではないから。彼女の意志を尊重するべきだと思うけれどね」
ユーリ、と名を呼んで、ディツェンバーは彼女に視線を向けた。
「君はどうしたい?」
「……ぁ……私、は……」
縋るようにスカートを握り締めるユーリ。そっと、その手にゼプテンバールは自身の手を重ねた。
「大丈夫だよ」
誰にも聞かれないように、小さく呟いて。これは彼女自身が口にしなければならない。承諾するにしても、拒否するにしても。当事者でないゼプテンバールに口を挟む資格はないから。
ゼプテンバールの呟きに意を決したのか、ユーリは一度深呼吸してから声を発した。
「……お断り、します……」
「…………は?」
「お断りします、と口にしたのです。私は御主人様の元にいるよりも……こちらにいる方が居心地が良いのです……。あの場には……帰りたくありません……」
静かに紡がれた言葉にゼプテンバール達は安堵し、ディツェンバーは笑みを浮かべ、グレッチャーは怒りを顕にした。
それまでは丁寧につくろっていた表面を破り、
「オレに口答えする気かよクソアマが!! 悪事働いたテメェを買い取って、世話してやったのが誰か分かってんのかよ!!」
と、声を荒らげる。
「す、少なくとも……それは貴方ではありません……!」
「生きる価値もねぇテメェに居場所与えてやったのは誰だっつってんだよ! どうせこっちでも男に媚びへつらって身体売ってんだろ!? でなきゃテメェみたいな女が──」
「黙れ!!」
重ねて声を張り上げたのはゼプテンバールだった。先程までは確かに、口を挟むべきじゃない、と思っていたのに。気が付けばそう叫んでいた。
「ユーリをモノ扱いするな!! 潔く諦めろよ馬鹿!!」
「なんだとクソガキが!!」
「そこまでだ」
静かに、それでいて凛とした声で制され、両者同時に動きを止めた。啀み合うゼプテンバールとグレッチャーを遮るようにして剣を向けたヤヌアールは、険しい表情のままユーニに指示を出す。
「ユーニ。彼女を連れて出て行け」
「りょーかいっ!! ユーリ!! 行こ行こ!」
「は、はい……!」
ユーニに手を引かれて、ユーリは部屋を後にした。ゼプテンバールの身を案じるかのように、不安げな視線を向けつつ。