第136話
耳を劈くような音が耳に届く。エアバッグが作動してくれたおかげで、運転席に座っていた宇宙に大きな怪我は見受けられなかった。
しかし外から喧騒は一切聞こえない。
大型トラックが突撃し、そこそこ大きな音もした。休日の朝方とはいえ人の通りも多い街のど真ん中で事故が起こったのだから、野次馬が集まらない筈が無い。
「みっ君……?」
「…………時を止めた。今動けるのは僕と宇宙さんと……」
ディツェンバーは時を操る能力を持っている。彼の決めた範囲内にいる者であれば動く事は可能だが、その範囲外に出ればそこは時の止まった世界だ。
ひしゃげた車の扉を開き、ディツェンバーは車から降りる。宇宙もそれに続くと二人の眼前に一人の男性が現れた。
艶やかな漆黒の髪に、エメラルドのような瞳。マントを翻し、その男は口元に弧を描いた。
「──久方振りだな、兄上」
「アルター……」
ディツェンバーの弟にして第75代目魔王・アルター。二十年前に反乱を起こし、ディツェンバーを王位から引き摺り下ろした張本人がそこにいた。
「彼が……みっ君の弟……」
「ほう。見知らぬ土地で苦しんでいるのかと思いきや、そこそこ謳歌していたようだな」
興味深そうに宇宙に視線を向けるアルター。彼の視線を遮るように宇宙の前に立ち、ディツェンバーは目を細めて彼を睨み付ける。
「何の用だ」
「くくっ……相変わらず辛辣な奴よ。今までのうのうと生きていると考えると腸が煮えくり返っておったが……それも今日までだ」
どこからともなく剣を取り出したアルターは、にやりと口角を上げる。
「死ね、ディツェンバー」
「!」
アルターの姿が消えた。ディツェンバーも剣を取り出し、繰り出された剣戟を防ぐ。
「宇宙さん! 真っ直ぐ走って!」
「っ──、誰が逃げるもんですか……!!」
ポケットから魔石を取り出した彼女は、ディツェンバーの制止を無視してアルター目掛けて投げ付ける。
小さな爆発が起こり、アルターが後退する。
「みっ君はずっと私の隣にいてくれた……見捨てるような事は絶対にしないわ!」
「アルターは容赦の無い男だ。さっき話したばかりじゃないか……君が死んだら陽羽が──」
「何かあれば殲滅隊を頼るように言ってあるわ。それに、彼が私の事を逃すとは思えないもの」
そうでしょう? と笑い掛けると、アルターは肯定するかのように目を細めた。もしも、ディツェンバーが敗れ、アルターが勝つような事があれば、それこそ陽羽だけでなく宇宙までもが危険な目に遭うだろう。
「っ……。宇宙さん」
ディツェンバーの声色が、少しだけ低くなる。静かに刀を構える彼の姿は、それまでのものと異なっていた。
尖った耳と長く伸び、一つに纏められた銀髪。真っ直ぐにアルターを見据える彼は、人間として生きる『師走満』では無い。
部下を殺され、立場を奪われ、大切な人をも殺さんと武器を構える弟に、制裁を下すと決意した一人の魔物の姿だった。
「最後まで、僕の隣にいると約束してくれますか」
これが最後だとは思いたく無い。しかし、次の瞬間にはもう喋れなくなっているかもしれない。そう思うと、どうしても彼女に確認しておきたかった。
宇宙は心強い笑みを浮かべ、ディツェンバーの隣に並び立つ。
「とーぜん! 私はみっ君の奥さんだもの。病める時も健やかなる時も……そして命の危機にある時も。ずっと一緒よ」
「…………ありがとう」
──最後の戦いの、幕が上がる。