第130話
《人間界》
「ヤッベ遅刻するかも行ってくる!!」
「悠月お弁当は!?」
「わっ、いる!!」
玄関先で弁当箱を受け取り、悠月と呼ばれた茶髪の少年は全速力で走って行った。その背を見送った後、緑がかった黒髪の女性は呆れたように溜め息をつく。
「全くもう……だから夜更かしするなって言ってるのに……」
「あはは。俺も学生時代はあんな感じだったよ。夜は真面目そうだもんね」
「普通です」
悠月の母、町田夜と父、シュテルンは他愛も無い話を交わしながら食べ終えた朝食の食器を片付ける。
ふと、夜が口を開いた。
「……ねぇあなた。魔人の間でね、魔物殲滅隊っていう組織に加入しないか、って連絡が回ってきているの」
「!」
夜は人間だが、生まれた時から魔力を持ち合わせている。よって、一般的な人には見えない存在、魔物が見えるのだ。
魔物のシュテルンはいわゆる殲滅隊の討伐対象、という事になるのだが。
「それ……夜にも処分が下るのかな……」
「……かもね。人間同士でもそうだもの。犯人を庇ったら罰せられる。きっとそれと同じね……」
シュテルンはぐっ、と拳を握り締めた。
彼には今、愛する妻と子がいる。少し前であれば自分だけを犠牲にして──と考えただろうが、今はそうはいかない。
二十年前。魔界から人間界へやって来たが、到着に時間差があったらしい。キュステと離れ離れになってしまった彼に住む場所を貸してくれて、愛し合う関係になった夜を見捨てる行為になってしまうから。
そして、息子の悠月の成長を近くで見守りたい。そんな願いが、シュテルンの胸の中を埋め尽くしているのだ。
「……俺は……」
「大丈夫よ。私は魔人って事、話すつもりは無いから。それに悠月は人間と魔物のハーフ……殲滅隊に知られたら大変な事になるかもしれない……」
夜の不安も最もだ。最悪の結果にならないように静かに同意して、シュテルンは言った。
「じゃあ、ひっそりと生きていくしかないね……」
「それでも、貴方達といれるなら私はそれでいいよ……」
「……うん」
シュテルンもまた、ある者によって記憶を操作されている。彼が人間界に来た目的も、綺麗さっぱり無くなってしまっている。
忠誠を誓っていた主の名前すら、思い出せなくなっているのだから。
それでもシュテルンは、愛する者の為に生きると決めたのだ。
※※※※※※※※※※
『宮下』と表札が掛けられたアパート内の一室。黄緑色のショートヘアーの少女は、苛立ちを顕にしながら母に言及した。
「お母さん! お父さんのと一緒に下着洗わないでって言ったでしょ!?」
「あらあら〜忘れてたわ、ごめんなさいね。でもそんなに嫌なら自分で洗えばいいじゃない?」
「そんな時間無いんだって。部活忙しいんだから。お父さんの後にお風呂入るのも嫌なのに」
「昼、かなり傷付くからせめてお父さんのいない所でやってくれないか……?」
昼、と呼ばれた年頃の少女は、不満げに唇を尖らせる。近所にある月下高校に通っている昼は、制服のリボンを留めながら言った。
「別にいーじゃん。嫌なものは嫌なんだし」
「そんな年頃か……」
重い溜め息をついている父に構わず、昼は鞄を手にして部屋を出る。
「行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい」
母の名はキュステ。かつては魔界で宝物官として働き、殺し屋としても活動していたハイスペックレディだ。
そして父の名はフルス。家から徒歩十分圏内にある家具屋の店長を務めている男性だ。ディツェンバーとノヴェンバーを人間の姿に見せるよう術を掛けた人でもある。
「朝からとんでもないダメージを食らったな……」
「ふふっ、あの位の女の子なら通る道よ」
「しかし限度ってものが無いか……?」
「可愛いものよ、多分」
そんな会話を交わしながら、微笑み合う。
宮下家の一日は、そのようにして始まるのだ。
今日までは、そうだった──。