第126話
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ヤーレスツァイト、ヴェッター、ラヴィーネと出会ってもう四年の月日が経っていた。
ヤーレスツァイトはずっと人間界に滞在しているし、ヴェッターも魔界中を転々として調査をしているらしい。
城にいる同僚といえばラヴィーネしかいない訳だが、ここの所彼女の様子が可笑しいのだ。
話し掛けても返事は無いし、ぶつぶつと独り言を述べている時の方が圧倒的に多い。
しかし軍隊長としての仕事はこなしているそうなので、心配ではあるものの深入りは出来なかった。
モーナト自身もかなり忙しい。以前までは一日二回程は長い休憩を取れたものだが、現在はトイレに行けない程に忙しいのだ。
理由は、アルターが突如として人間界へと赴いたから。
彼が行っている仕事を出来る者は、下っ端であれ雑用であれそっちに回される。モーナトは回されたのだ。机に留まらず床にまで積まれた書類の山を。
これならばメイドの肉体労働の方がマシである。そう思える程に根を詰めていた。
アルターが帰ってくるのは数週間後との事。それまでに床にまで積まれた書類を片付けなければならないのかと思うとゾッと背筋が凍る。
重い溜め息をつきながら書類を一枚手に取った所で、部屋の扉が開かれた。
「モーナト。久し振り」
「んぁ? あー……ヤーレスツァイト……。おかえり……」
長らく人間界に滞在しているヤーレスツァイトが、そこに立っていた。
「何や、皆忙しそうやなぁ。まだ繁忙期とちゃうやろ?」
書類の山を飛び越えて、ヤーレスツァイトはモーナトの隣にまでやって来る。否、それより彼が気になったのは……
「何その変な喋り方」
ヤーレスツァイトの口調である。聞いた事の無い訛りに目を剥いていると、彼は軽快に笑って誤魔化す。
「おもろいやろ? これな、前に言うとった隣のおばちゃんに影響されてしもてん」
「前そんなにキツくなかったじゃん」
「あん時も結構我慢してたんや。とうとう日常生活に支障きたしてきたから、もう割り切ったろうと思ってなぁ」
「へぇ。印象も結構変わるもんだね」
幾分か彼の纏う雰囲気も柔らかくなったような気がする。余程良い人に影響されたんだろうな、と思いながら書類作業を続行していると、ヤーレスツァイトがモーナトの手元を覗き込んできた。
「何?」
「これメイドの仕事とちゃうやろ? 何でこないな事しとるん?」
「アルター様がお留守にしてるからね。宰相様も留守にしてるから下っ端官僚から雑用係まで書類作業が出来る者は総動員さ」
ヴェッターへの嫌味を込めてそう説明する。今頃彼はくしゃみでもしているだろうか。その姿を想像すると少し笑いそうになった。
「成程なぁ。…………なぁモーナト」
「んー?」
「お前は……どうしても許せへん事があった時、どないする?」
ヤーレスツァイトの質問に、モーナトは手を止めてしまった。彼の暗い声色から察するに、何か悩んでいる事があるのだろう。
朗らかで陽気に聞こえる訛りがやけに重苦しく聞こえるのだから相当だ。
「……そうだなぁ……。私は、そこまで怒った事無いや」
「無いん?」
「うん。誰かに対してムカついたりはあるよ。でも、どうしても口にする事が怖くってさ。前にもあったでしょ? 私、中途半端だから……」
魔界と人間界は不干渉を貫いてきた。それを変えるべきでは無い、とモーナトは以前アルターに物申した事がある。
しかしアルターの圧に押され、結局口を噤んでしまった。
モーナトは、断固として自分の意志を貫く事が苦手なのだ。
「でもきっと……大切な誰かを貶されたりしたら……声を荒らげて怒るだろうね」
「…………そう、なんやね……」
「結局は、その感情にどう区切りを付けて割り切るかだと思うんだ。許せなくて、許せなくて、どんなにフォローしても駄目だ、って思った時だけ……私は口にする。結構ストレス溜まるから、あんまりオススメしないけど」
「……ははっ、お前はそんな奴だったな。俺とは全然違ったわ……」
「私に相談したのは間違いだったかもね」
自嘲気味にそう言うと、ヤーレスツァイトは静かに目を伏せて首を振った。
「いや。お前はそれでえぇんや。凄い安心するしな……」
「へへっ、良かったよ。答えになってなくてごめんね。でも、ヤーレスツァイトが私にそれを言うって事は、きっと当人には言えない内容なんでしょ。私でよければ、その苛立ちをぶつけてくれていいんだよ」
「……おおきに」
おおきに? と首を傾げながらも、何となく彼の言いたい事は伝わった。
きっと、「ありがとう」だ。