第125話
事件は、数年後に起こった。
ヤーレスツァイトは魔界へは数ヶ月に一度の頻度で帰省し、モーナト達と語らっていた。
人間界で隣人の婦人との何気ない会話を交わしたりしての平和な日々も突如、壊されたのだ。
数年振りに姿を現したタールから「そろそろ作戦が始まる。心積りしておいてね」と告げられた。
とはいえヤーレスツァイト自身への司令は何も下されていない。普段通りバイトして食事をするだけかに思っていた。
アパートの敷地に入った瞬間鼻を掠めた、血の匂いに気付くまでは。
「…………血の匂い……? かなり濃いな……」
それも一人のものでは無い。複数人のものが混じり合って鼻の奥が痛くなる程だ。
窓がある裏手に回り、ヤーレスツァイトは不躾と思いつつ部屋の中を覗き込んだ。
──赤。
小さな窓枠から覗いても分かる程の赤が、床や壁に留まらず、天井にまでこべり着いていた。
この様子だと、この部屋に住んでる者は既に息絶えているだろう。
「……おばさんは……!?」
ふと脳裏に過ぎった嫌な予感。隣人に住む佐々木の婦人は無事だろうか。
入口に回って扉を強く叩いた。
「おばさん!! おばさん無事か!?」
ドアノブを慌てて捻るとガチャッ、と扉が開いた。
──そこも、赤だった。
「あ……そんな……」
頸動脈をざっくりと切られ、うつ伏せになって倒れている見慣れた筈の隣人。靴を脱ぐ事も忘れ、まだ息があるかを確認する。
しかし婦人の身体は既に冷たくなっていて、ぴくりとも動かない事から手遅れであると察してしまった。
「おばさん……くそっ、誰が……」
「──ヤーレスツァイト」
突如名を呼ばれ、ヤーレスツァイトはハッとして声の主を振り返る。そこには人間界にいる筈の無い、主の姿があった。
「アルター様……!?」
「先日の帰省振りだな。ヤーレスツァイト、これより俺達は全てを終わらせに行く。貴様は急ぎ魔界へと戻るが良い」
「……了解しました。ですが、一つだけ質問させて下さい」
「何だ」
アルターの承諾を得てから、ヤーレスツァイトは拳を握り締めて
「ここの住民を殺したのは貴方ですか?」
と、問う。
「いや、俺では無い。俺は不必要な殺戮は好まんからな」
アルターは呆れたようにそう答えた。ヤーレスツァイトはそれに酷く安心感を抱き、握り締めていた拳の力が抜けた。
断じて、情が湧いた訳では無い。しかし数年もの間何かと世話を焼いてくれた人に対して何の感情も湧かない程、ヤーレスツァイトは無情では無いのだ。
婦人を殺したのが、アルターじゃなくて良かった。彼女の死を前にしても、ヤーレスツァイトはその感情が優先されたのだ。
「準備が済み次第、すぐにここを去れ。感付かれては面倒だからな」
「…………御意」
そうだ、とアルターは去り際に静かにそれを口にする。
「殺戮を好むのは……この世の事象全てを無意味だというあの男だ。平静を保っていられると確信出来たなら、確認なり好きにするといい」
この世の事象全てを無意味だというあの男。ヤーレスツァイトの思い当たる人物は、ただ一人しかいなかった。
(タール……か……)
既にアルターの姿はもうそこには無かった。ヤーレスツァイトはこれからの事を考えるかのように天井を仰ぎ見る。
「…………あークソ……」
アルターは警告してくれたのだ。
あの男は全ての事柄に対して無意味だと言う。全ての事象を個人の判断で生かすか殺すかを決める自己中心的な男だ。
ヤーレスツァイトが抱いている憎悪は、きっと彼にとって無意味な消去対象なのだ。彼は記憶操作という厄介な能力を持ち合わせている。
闇雲に突っ掛かると、瞬く間に記憶を消されて無かった事にされるだろう。それは何より、苦しい事だと知っている。
家族から、家族でないように扱われるあの苦しみを知っているから。例え自分自身で思い出せなくなったとしても、それはきっと辛い事だ。
婦人は言っていた。
夫を亡くし、息子から連絡も来ないと。
彼女は寂しい思いをしていたのだ。だからこそヤーレスツァイトに沢山世話を焼いてくれたのだろう。
そして、ヤーレスツァイトはそのお節介に助けられていた。家族の温もりを忘れていた彼に、思い出させてくれたのは紛れもない婦人だ。
その思い出は、ヤーレスツァイトにとって決して無駄では無い。無意味でも無い。だから──
「ホンマ、腹立つわぁ……」
決して忘れないように。例え消されてしまっても無かった事にはさせないと。
独特な隣人の喋り方を、ヤーレスツァイトは真似た。自分自身に馴染ませる為に。
口調が移るなんて事はよくある事だ。怪しまれる事はないだろう、と。
「おばちゃん、おおきにね……。ご飯、美味しかったで」
人間は、魔物と違って魔石に変化する事も無い。蘇る事も無い。呼吸が止まって意志を無くせば、そこで終わってしまうのだ。
ひしひしと実感しながら、ヤーレスツァイトは礼を言って部屋を後にする。
その頃にはもう、彼の耳は魔物特有の尖った耳へと変わっていた。