第105話
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最終的に空が辿り着いたのは研究所のバルコニーだった。心地よい風が吹き抜け、空の柔らかな髪を揺らしていく。ふと、そこから下を見下ろした。
庭園を散歩しているらしい宇宙とディツェンバーの姿が、空の目に映った。
どんな会話をしているのだろうか。
自分ではとても言えないような甘い愛の言葉を、ディツェンバーならば簡単に口に出来そうだな、と自嘲気味に笑う。
もしも、彼女の隣に立っているのが自分だったら、どんなにいいだろうか。幼い頃、自分の事を救ってくれた彼女を、今度は自分が守る。
真正面から向かい合って、恥ずかしいけど愛の言葉を囁いて。
──出来たら、どんなに幸せだっただろうか。
「…………僕じゃきっと、宇宙さんの心は掴めないんだね……」
宇宙にとって、空を救った事は自分の正義に沿った行動であり、空に対する好意では無い。
それがとても虚しくて、悲しくて、苦しくて。
「──くぅちゃん」
と、突然背後から陸の声がした。今きっと、空の顔は酷いものなのだろう。それを分かっていたので、振り返らずに声を発する。
「何か用?」
「……どうしたの? 様子がおかしいけど……」
「…………」
もしかして、陸は気付いていたのだろうか。空は暫く俯いていたが、やがて呟くように言う。
「……何でもないよ」
「…………」
と、海が無言で空の隣に並んだ。陸だけでなく海もいたのか、と内心驚くもわざわざそれを口にする事は無かった。
そして何を思ったのか、海は満天の星を見上げてぶっきらぼうに言った。
「話せ」
「は?」
間の抜けたような、呆けた声が出てしまった。
「いいから話せ。聞き流す位は俺にでも出来る」
これはもしかしなくとも海にも知られていたのだろうか。この調子では本人にも知られていたかもしれないな、と自分でも呆れてしまった。
彼の好意を無駄にはしたくない。
震える声で、今の自分の心境を語った。
「……後悔……してるんだ……」
自分でも情けないと思う程に弱々しく震えた声。陸も空の隣に並んで静かに耳を傾けてくれる。海同様に、空の顔は見ないようにして。
「ちゃんと……言えばよかった……」
「あぁ……」「うん……」
「ちゃんと……好きだ、って……言えばよかった……!」
声を押し殺して、俯いて、空は涙を流した。それは頬を伝って足元へ落ちていく。
そうだ。自分の心に穴が空いたような感覚は、ディツェンバーに対する嫉妬でも、ましてや自分が選ばれなかったという劣等感でもない。
自分の言葉で、宇宙に想いを伝えられなかった後悔。
それが空の心を埋め尽くしていたものの正体だ。
海はがしがし、と空の頭を撫で回す。陸もそっと空の背中を摩ってくれた。
何も言わずに、ただ空が泣き止むまでそうしてくれていた。
暫くすると落ち着き、空は唇を結んで鼻をすすった。目元も赤く腫れ、頬には涙が流れた跡が残っている。
「なんかごめん……最年長めっちゃ恥かいた」
とてつもなく情けない感覚を覚えながら、謝罪を述べる。
「年齢なんて関係ないよ〜」
「そうだな」
励ましてくれて少し安心した。
しかしそこでハッとした。二人が空の元へやって来たのは、ただ慰めに来ただけではないのではないかと。
「ていうか、何か用事あったの?」
そうだった、と海はポケットから封筒を取り出した。
「本格的に、魔物殲滅隊が政府公認組織として動き始めるそうだ」
「ついに……、か……」
空の名前が書かれている封筒を受け取り、その場で中を確認する。
「今後の動きが書かれているそうだ。師走は暫くの間、数人残っている子供達に魔力を埋め込む仕事をするらしい」
「終わったら……研究から離れるのかな……」
陸の呟きに空は小さく首を振る。
「そりゃないと思うよ。彼女、根っからの研究者だもん」
「……ふふっ、確かに」
「……離れ離れになってしまうな……」
ふと、海の口から零れたその呟きは、空の耳にも、陸の耳にもしっかりと届いた。
強面の彼が寂しげに口にするその姿が、どこかおかしくて思わず笑みを浮かべてしまう。
「……いつでも会えるさ」
「たまに集まってお喋りしましょうよ」
「……そうだな」
ふっ、と海は頬を弛めた。仏頂面の彼が見せた笑みを見た空と陸もそれぞれ笑みを浮かべたのだった。




