第96話
宇宙の事をディツェンバーに任せて、陸は一足先に研究所へと戻ってきていた。買い物袋を自室に置き、海の姿を探す。
研究所内にあるキッチンに、その姿を見つけた。ぐつぐつと煮える鍋からスパイシーな香りが漂っている。陸は若干嫌な予感を覚えながら海に歩み寄った。
「ただいま、海ちゃん」
「あぁ陸。帰ってきてたの、か……」
トマトを切っていた手を止めて、海は陸をまじまじと見つめた。
「な、何……?」
「…………………………」
海は黙り込んだまま、眉間に皺を寄せて何かを考え込んでいる。
やはり陸が現在着ている服の事について何か物申したいのだろうか。不安を抱いていると、やっと海は口を開いた。
「せめて上着を羽織れ」
「え、…………」
「仮にも女だろう。変な男に目を付けられたらどうするんだ」
「海ちゃん……。…………ふふっ」
思わず、陸は笑ってしまった。
服装について言及されるものかと思っていたが、それについては何も言わなかった。それはつまり、陸好みの服を着てもいいという事を指している。
今まで憧れながらも遠ざけていた自分の趣味を楽しめるという事よりも、海が陸の気持ちを汲み取ってくれた事が何より嬉しかった。
「何が可笑しい」
「なーんにも? どう? 似合う?」
くるり、とその場で回って見せる。
しかし海は此方を見ておらず、再び料理を再開してしまっていた。
「ちょっと見てよ!!」
「見た」
「ちゃんと!! 見てよ!!」
「カレーが焦げるから後でな」
「お昼もカレーだったのにー!!」
やはりあのスパイシーな香りはカレーだったのか。海の作るカレーは陸の好物なので嬉しくはあるのだが、昼間の激辛カレーの余韻がまだ鮮明に記憶に焼き付いている彼女にとっては苦痛でしかない。
その場で頭を抱えていると、野菜を盛り付けながら海が問う。
「あの質問、聞いてくれたか?」
「あぁ……それがね──」
昼間、宇宙に質問した時に彼女が口にしていた事。何か恐れているかのような表情を浮かべていた事を海に伝える。
陸の話を最後まで聞いた海は、火を消して溜め息をついた。
「すまなかったな」
「ううん。きっと聞くタイミングが悪かったのよ。海ちゃんが気にする事ないわ。宇宙さんの反応を見る限り……ね」
「…………次は俺が問い質す」
「くれぐれも優しくね。あと、宇宙さんの事はディツェンバーさんに任せたから……」
ディツェンバーにならば。空でも、海でも、陸でも話せない何かを零せるのではないか。
殲滅隊に身を置きながらも役割のない彼ならば、宇宙の抱えている重圧を解してあげられるかもしれない。
陸のお節介でもあるが、宇宙は大切な仲間だ。悩みがあるのだとすれば、助けてあげたい。そう思っているのだ。
「…………成長したな、お前は」
「やだぁ。海ちゃんお父さんみたい」
くすくす、と笑みを零していると、勢いよくキッチンの扉が開かれた。陸は勿論、海も驚きを顕にしながら音のした方へと視線を向ける。
「くぅちゃん……どうしたの? そんな慌てて」
ここまで走ってきたらしい。
空は肩で息をしながら陸達を見上げて
「近くに魔物がいる……!! 準備して!」
と口にした。
魔物との戦闘は既に何度か経験している陸達だ。故に驚きはしても恐怖心は薄れてきている。
しかし空の慌てぶりを見る限り、敵は只者ではないのかもしれない。ごくり、と生唾を飲み込んで陸は頷いた。
海もまた神妙な面持ちで、目を細めたのだった。