第94話
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陽が沈みきった夕刻。
両手に大量の買い物袋を持って、ノヴェンバーは研究所までの道のりを歩いていた。
彼女はディツェンバーよりも飲み込みが早かったので、進んで買い物に出掛けたりする事が多い。
明日の朝食は何にしようか、なんて考えながら歩いていたから。気が付かなかったのかもしれない。
自分の首に迫っていた、剣先に。
しかしノヴェンバーも戦闘が不得意な訳ではない。間一髪でそれを躱し、買い物袋を手放してどこからともなくナイフを取り出した。
首筋につぅ、と生温い液体が伝う。幸いにも出血量は少ないので、この場を対処する位の余裕はありそうだ。
「流石はかの魔王が選んだ使用人。今の攻撃を躱した事への賛辞を述べようか」
すらりとした高身長の金髪の女性が、剣を構え直す。長い睫毛を揺らし、赤い双眸でノヴェンバーを見つめた。
「さぁ、ここで大人しく殺される気はないかね?」
「生憎と。これから皆様の夕食の準備に取り掛からなければなりませんので」
「では、食卓に君の肉でも盛り付けるかい……!」
ダッ、と地を蹴り女性が剣戟を繰り出す。
「カニバリズムの癖をお持ちですか? 何にしても、私の身体を貴方に渡すのは全力で拒否させて頂きます」
いくつもの閃光を潜り抜け、女性の懐に飛び込みナイフを突き出した。
「そうかい。それは残念だ」
キィン、と金属音を響かせて、女性は剣でナイフを防ぐ。その隙を逃さずに空いている右手でナイフを振り下ろす。
後退するしかない女性にもう一度攻撃を、と次の動きを予測するノヴェンバーだったが。
「甘いよ、お嬢さん」
ノヴェンバーのナイフは、女性の胸に突き刺さった。骨に当たったらしく、深々とは突き刺さらない。
女性は苦痛の表情を浮かべる事なく、そのまま距離を詰めノヴェンバーの腹部目掛けて膝蹴りを繰り出した。
込み上げる吐き気と共に空気を吐き出し、ノヴェンバーは数歩よろけてしまう。
「良い動きをしている。でも……」
微笑みを浮かべながら、女性は先程とは比べものにならない早さで剣を振るった。
ぎりぎりの所でそれを躱していたが、その内の一撃を受けてしまう。
すっぱりと斬られてしまった腕から血が伝うのを感じながら、ノヴェンバーはナイフを女性目掛けて投げ付ける。
「この僕を仕留める一撃には至らない……!!」
ナイフを全て弾き、躱した後、女性は笑みを貼り付けた。
「答えてくれないか? ディツェンバーは何処にいるのかね」
「……まさかとは思っていましたが、貴方……」
数年前、魔界で起こった反乱でメルツ、マイと交戦し、最後には二人を助けに来たゼプテンバールに首を斬られ魔石へと姿を変えた半月のその人の名は──。
「──ベヴェルクト、生きていたなんて……」
「僕の名前など今はどうでもいいだろう。それよりも、質問に答えてくれないかい?」
口振りから察するに、彼女はベヴェルクトで間違いないらしい。
内心、ノヴェンバーは焦っていた。ノヴェンバーは決して弱くない。ディツェンバー直々に使用人として雇われた彼女にも、それ相応の実力が備わっている。
しかし、ベヴェルクトはその基準を超えているのだ。
一言で言えば『普通に強い』のだ。
ベヴェルクトは力が強い、動きが早い、と説明するのであればそんな単調な言葉でしか表せない。それが最大の弱点であり最大の脅威なのだ。
秀でた強みがなく、突ける弱点がない。
加えて膨大な魔力量。魔力量の多さは生命力の強さでもあるので、先程刺された傷すらもダメージとして成り立っていない。
(しかし妙ですね……今のベヴェルクトには何かが欠けているように思えます)
魔力の質も、姿形も、以前見掛けた時と何ら変わりはない筈だ。しかしその凛とした佇まいには──
「ほら早く。答えてくれたまえ」
「何の目的があって、そんな事を……?」
「理由なんてないさ」
コツコツ、と靴音を響かせて、ベヴェルクトは接近する。
両手にナイフを構え、跳躍しようと立ち上がった時──。
「!?」
──立ち上がれなかった。
足を何かに固定されたかのように、蔦に絡まったかのように、その場から離れる事すら出来なかったのだ。
その一瞬の隙を逃さずに、ベヴェルクトはノヴェンバーの喉元に剣先を沈める。
「っっ!!」
「目的も理由も、何一つとして必要なものはない。余計な感情等、足でまといにしかならないからな」
やはり、ベヴェルクトの様子は何かが可笑しい。
それ以上、思考を巡らす事は出来なかった。
静けさを取り戻した歩道に、茶色の魔石が一つ残されている。
傍に仕入れたばかりの食べ物が入った買い物袋が、風に揺られて音をたてていた。