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弥生の輪廻

作者: 育岳 未知人




『この物語に登場する歴史的名称や遺跡は、事実に基づいたものである。』



一、出雲の出会い



美知は、本殿で丁寧に参拝すると、御朱印をいただき、五分咲きの桜を眺めながら、境内の東側にある北島国造館に向かった。恋みくじを引くためである。境内にもおみくじはあるのだが、可愛らしい和紙人形の入った恋みくじは、恋愛について詳しく書いてあるらしい。美知も普通の女の子、恋愛にも関心はあるのだ。すると、そこには次のようなお告げが記されていた。

『中肉中背で心優しき男性が現れるが、二人の間には障害が立ちはだかり、思いやりと忍耐が求められる。しかし、それを乗り越えれば幸せが訪れる』

父親の光一と邪馬台国への旅を楽しんでいた無邪気な少女時代の頃からすでに七年が経ち、美知は、東京の大学に通う大学3年生、近頃神社仏閣巡りと御朱印集めに熱中している。意中の彼氏がいるわけでもないが、神社めぐりの一環と思いながらも、導かれるように、今回は縁結びの神様で有名な出雲大社に訪れていたのだ。出雲大社は、周知のとおり因幡の白兎で有名な心優しき大国主大神を祀る出雲国一宮の由緒ある神社である。

東京からは飛行機を利用すれば3時間ほどで出雲に着く。美知は、春休みを利用して1泊2日の出雲旅行を計画した。最初は、友人の結衣と果歩も誘ったが、結局都合が付かず、一人旅になってしまった。


美知は、北島国造館を後に、すぐ近くの古代出雲歴史博物館を見学することにした。父親や兄の影響もあり元々歴史や考古学が好きだったのだが、神社めぐりが高じて古代の神様や遺跡にも興味を持つようになっていたのである。博物館の受付で入館料を払うと、係りの人が声をかけてくれた。

「無料でボランティアガイドさんの説明を受けることができますよ。」

美知は、出雲の遺跡からおびただしい銅剣や銅鐸が出土していて、この博物館に展示されていることを確認していた。

「ぜひお願いします。」

すると、30歳くらいだろうか、少々お腹がでっぷりとした太めの彼氏が登場した。

「ボランティアガイドの黒神くろかみと言います。私が館内をご案内しますよ。」

「ありがとうございます。よろしくお願いします。」

恋みくじの男性とは少々異なるが、ガイドしてもらえるのはありがたいと思い、美知は丁寧にお礼を言った。

入口を入ると、まず、出雲大社で見つかった巨大本殿を支えていたとされる宇豆柱が出迎えてくれる。

「古事記や日本書紀に記されている出雲の国譲り神話では、高天原からの再三の要求に屈して、大国主命が葦原中国の統治権を高天原に譲ることを承諾するんです。しかし、その代りに、高天原の統治者と同規模の自分の住む宮殿を建ててほしいと要求します。そして建てられたのが出雲大社ということなんです。この大きな宇豆柱は、出雲大社の本殿を支えていたもので、出雲大社の境内から出土しました。つまり、神話は事実を伝えているのかもしれません。」

黒神は、伸びのある柔らかい声で、丁寧に解説した。

「出雲の国譲り神話に書かれていることも事実なんですか?大国主命は実在の人物ってことですよね?」

美知は、出雲神話の時代も急に身近に思えて、思わずそう尋ねた。

「私にもわかりませんが、宇豆柱はそう伝えているように思えます。大国主命は、『だいこく』という呼び名から、インドの神様である大黒天と神仏習合して、七福神の一人である大黒様とも呼ばれています。」


次に常設展のテーマ別展示室に入る。

『出雲大社と神々の国のまつり』

ここには、古事記や日本書紀の複製本が展示されており、確かに、出雲大社のことが記されている。そして、古代出雲大社の神殿復元模型が霊験あらたかにそびえ立っている。

「これは模型ですが、出雲大社の社伝によると、昔の神殿は現在の出雲大社本殿の4倍くらいの高さがあったようです。」

「そんなに高い神殿だったら、お参りするのも大変だったんでしょうね。」


『出雲国風土記の世界』

ここには、出雲国風土記に記された景観や習俗が展示されている。

「奈良時代に、全国で、風土記が作成されたようですが、ほぼ完全な形で現存するのは『出雲国風土記』だけのようです。」


『青銅器と金色の太刀』

ここには、弥生時代の青銅器や古墳時代の金銀の太刀などが展示されている。

「出雲市斐川町の荒神谷遺跡からは358本もの銅剣が出土しました。雲南市加茂町の加茂岩倉遺跡からは国内最多の39個の銅鐸が発見されました。いずれの遺跡もおびただしい数の出土品であり、出雲国の勢力がいかに強大で、それが国譲りにより一か所に投棄されたことが窺われます。」

「出雲大社の規模や、銅剣・銅鐸の数からして、出雲国はすごい国だったんですね。」

「大国主命と呼ばれるように、大黒様は、日本海側の地方全体を統括していた広大な国の王だったんじゃないかと思われます。」


そして、二人は最後に総合展示室を見て、見学を終えた。

「興味あるお話を沢山聞くことができて勉強になりました。ありがとうございました。」

美知は、黒神にお礼を言った。

「ゆっくり回れれば、もっといろんなお話ができたんですが。また、機会があったらおいでください。これは、今度やる予定の企画展のパンフレットです。よかったらお持ちください。」

黒神は、名残惜しそうにそう答えて、名刺が添えられたパンフレットを渡した。

美知はパンフレットを受け取り、お礼を言って、博物館を後にした。


次は、出雲大社参道の神門通りを歩きながら、土産物を買ったり、食べ歩きを楽しむ。

少し西に歩いて稲佐の浜に出た。弁天島の向こうに沈む夕日が美しい。

辺りはすっかり暗くなってきた。

美知は通りに出て、一畑電車に乗り、出雲市駅方面に向かった。コンビニでスイーツと明日の朝食や飲み物を買い、駅のコインロッカーから荷物を取り出し、ホテルでチェックインする。




二、大黒様との対話



ホテルの部屋は思ったより広く、ゆったりくつろぐことができた。美知は、少しぬるめのお湯をたっぷりとバスタブに張り、ゆっくり浸かって今日の疲れを取った。そして、化粧を落とすと、全身をボディシャンプーの泡で包み込み、少し熱めのシャワーで洗い流した。タオルで身体を拭き、バスローブを羽織り、バストをアップして鏡を見ると、胸の谷間がまんざらでもないように見える。

冷蔵庫から冷えたスパークリングワインとチーズケーキを取り出し、ケーキをかじってはワインを味わった。

昼間に博物館を案内してくれた黒神からもらったパンフレットを何気なく取り出して眺めてみた。パンフレットに副えられている名刺には、島根大学 法文学部 社会文化学科 考古学専攻 助教 黒神健くろかみたける と記されていた。

「島根大学の教員がボランティアしているんだ。」

美知は、もう会うこともないだろうと、パンフレットと名刺をゴミ箱に捨てようとしたが、思いとどまって、旅行の記念にと、名刺を御朱印帳の出雲大社のページに挟み込んだ。

明日は、午前中にもう一社くらい神社を巡り、出雲縁結び空港から東京に帰るつもりだ。

ネットで出雲の神社を調べていたら、『万九千神社』というワードが目に入った。出雲は他の地方が神無月のときに神在月で、各地の八百万の神々がこの地に集まるのだ。この神社は、どうも、方々から来た神々が最後に神宴を開くために集まる場所になっていたとの言い伝えがあるらしい。面白そうなので、明日訪れてみることにした。

就寝前のスキンケアとストレッチを済ませると、室内照明を消して布団に入った。


目が覚めると、美知は巫女になっていた。そして、そびえ立つ社殿の奥に坐す大黒様へ、お神酒とお饅頭をお供えするため、長い階段を上り始めた。階段は登っても登っても辿り着けない。上まで登って大黒様にお供えできると、大そうな幸せが訪れるらしい。しかし、美知は途中で、堪り兼ねて、大黒様に大声で尋ねた。

「大黒様、私はどうして辿り着けないのでしょうか?」

「そなたの修行がまだ足りないのだ。この鳥が指し示してくれるだろう。」

大黒様はそう言って、一羽の青い鳥を放たれた。

青い鳥は、美知の足元に飛んで来て、尾を振りながら同じ段を右に1mほど歩いて止まった。美知も階段を登らずに、右に従った。そして、そこを上ると、しばらく階段を上ることができた。しかし、その先には、毒蛇がとぐろを巻いて行く手を阻んでいる。

美知は、もう一度大黒様に尋ねた。

「大黒様、毒蛇が居て登れません。どうすればいいでしょうか?」

「蛇はそなたを待ち受けている試練だ。自らを振り返るがよい。」

美知は過去を振り返って、妙案がないか思案した。そして、登って来た階段を一度降りて、残してきた青い鳥を手のひらに乗せた。すると、鳥の羽がみるみる紫色に、そしてもうしばらくすると赤色に変化した。美知はその赤い鳥を手に乗せたまま、再び階段を上り、毒蛇に立ち向かった。赤い鳥はピーピーと鳴いて毒蛇に突撃したが、毒蛇は赤い鳥を飲み込んでしまった。すると、毒蛇は粉々にちぎれて風に舞い、跡形もなく消えてしまった。

美知は、毒蛇の居た階段を再び真っ直ぐ上り始めた。しばらく上るともう少しで大黒様のところに辿り着きそうなところまで来た。しかし、まだ障害が横たわっている。前方には糞尿が積まれ異臭を放ち、左前方には金銀財宝が積まれている。そして、右前方は階段の端になり通れない。美知は、同じ段を左に歩いて金銀財宝を手中に収め登りたいと思ったが、ここは思案のしどころである。大黒様も金銀財宝がお好きだろうから財宝の一握りをいただいて、お供え物といっしょに残りの金銀財宝を捧げれば喜ばれるに違いない。しかし、「舌切り雀」や「おむすびころりん」などの昔話にもあるとおり、財宝に眼がくらんだ欲張り婆さんや欲張り爺さんのことを考えると糞尿を避けては通れないのではないか。

考えあぐねて困った美知は、思い切って大黒様に尋ねてみた。

「大黒様、金銀財宝をお供えするきれいな巫女と、糞尿にまみれたくさい巫女では、どちらがお好きですか?」

「そなたは正直者だな。しかし、目に見えるものに惑わされてはいけない。見えないものにこそ真実が隠されておる。」

美知は、心を決めて、袴の裾を絡げると、真っ直ぐ糞尿の中を上り始めた。すると、糞尿は消え去り、遂に大黒様のところへ辿り着くことができた。美知は、台座に坐す大黒様の御前にお神酒とお饅頭をお供えして、神式と仏式での参拝を行った。先ほどはお声をかけていただいたはずなのに、大黒様は仏像のごとく無言で微動だにせず、大きな袋を担いで打ち出の小槌を持ち、昼間出会った黒神によく似た笑顔と体形でにっこり微笑んでおられる。そして、大黒様の周りは黄金に包まれ、燦然と光り輝いて眩しく、美知は思わず目を閉じた。


 そして、再び目を開けると、美知はベッドの上で、カーテンの隙間から射す陽光で目を覚ました。

「やっぱり夢だったのか。昨日の出雲大社や博物館での出来事が頭に残っていたからだろうか。でも、大黒様が現れるなんて、何かよいことが起こるかもしれない。」

美知は、顔を洗って、ぼんやりと昨夜の夢を思い出しながら、何気なくテレビを点けた。朝のニュースで、平成20年から始まった出雲大社の式年遷宮に関して一連の平成の大遷宮事業が完遂されたことを告げていた。そして、今年は新天皇が即位し、新しい元号に変わるのだ。




三、思いがけない再会




万九千神社までは、電鉄出雲市駅から一畑電車で2駅目の大津町駅で下車し、徒歩で斐伊川を渡ること20分くらいで辿り着ける。美知は、サンドイッチの軽い朝食を済ませて、身支度を終えると、チェックアウトして、荷物をホテルに預けたまま、万九千神社に向かった。

この神社では、櫛御気奴命、大穴牟遅命(大国主命の別名)、少彦名命、八百萬神の四神をお祀りされているが、ご祭神として八百萬神を祀られているのは、いかにもこの神社らしい。そう大きな神社ではないが、鳥居を潜ると新しい神殿がある。美知は参拝を済ませて、参集殿で御朱印をいただいた。「その昔には『千と千尋の神隠し』に登場するような湯屋(油屋)などもあったのだろうか。」彼女は、八百万の神々の集いに思いを馳せながら、神社を後にした。

もう一度ホテルに戻り、荷物を受け取って、出雲縁結び空港行きのバスに乗る。バスは30分ほどで空港に着いた。美知は、昼食に大粒しじみの炊き込みご飯セットを食べると、お土産に『因幡の白うさぎ』を買って、スマホを眺めたりしながら、搭乗口で待った。

1時間以上待っただろうか、搭乗案内を知らせるアナウンスがあり、美知は機内に乗り込み、窓側の座席に座ると、外を眺めた。春の日差しが西に傾き、出雲の一人旅に終わりを告げていた。

機内の雑誌を眺めていると、隣の席に男性が座った。よく見ると先日会った黒神である。美知は、昨夜の大黒様の夢とも重なり、どういうことか、まだ状況が呑み込めずにいた。

「失礼ですが、先日、博物館においでになりましたよね?」

黒神が話しかけてきた。

「古代出雲・・・博物館の館内を案内いただいたボランティアガイドさんですか?」

「そうです。そのとき案内させていただいた黒神です。黒神健たけると言います。奇遇ですね。また会えるなんて。」

黒神は、大黒様を思わせる、打ち出の小槌を胸にあしらったジャケットに、大きなバッグを担いだまま、満面の笑みを浮かべて答えた。

「東京には、どんなご用なんですか?」

「実は私の実家が東京なので、春休みを利用して帰省するところです。私は、松江にある島根大学の教員をやっていて、週一で出雲の博物館のガイドもやっているんです。」

「そうだったんですか。東京から島根に就職されるなんて、島根が気に入られたんですね。」

「大学が島根で、そのまま大学に残ってしまいました。出雲や松江の歴史に興味があったんですが、食文化や風土も合っているみたいです。」

「島根と言えば甘い歌声の竹内まりやさんなんかが思い浮かびますね。なんか優しい町なのかな。」

「そうですね。住みやすくて、子育てにも良さそうです。」

「もうご結婚されているんですね?」

「いや、もう30歳になるけど、いい出会いが無くて、残念ながらまだ独身なんです。今度帰るのは、実は親が勧める見合いに出席するためでもあるんです。でも、あまり気乗りしなくて・・・。」

「そうなんですか、色々と大変ですね。」

「そうだ、私と付き合ってることにしてもらえませんか?そうすれば断る口実ができるし・・・。」

「ええ、でも・・・。」

「こんな太った男はお嫌いですよね?」

「いや、そんなんじゃなくて・・・。」

美知が困った顔をしていると、CAキャビンアテンダントが飲み物を運んで来てくれた。

美知はアップルジュースを頼んで、静かに前席背面のテーブルを広げ、手渡されたコップを置いた。黒神も続いてホットコーヒーを注文すると、テーブルを広げながら、切り出した。

「出会っていきなりじゃ困ってしまいますよね。軽率なお願いをしてすみません。もう、気にしないでください。機体が揺れないうちに飲んじゃいましょうか。」

そう言って、黒神は手渡された熱いコーヒーをフーフーと冷ましながら飲みほした。

美知も少し笑いながらジュースを飲みほした。

「熱いのでも大丈夫なんですね。私は、猫舌だから熱いのは苦手です。」

「そう、それはかわいそうだ。私は熱いのも平気です。ラーメンなんかも顔を汗いっぱいにしてぺろりと食べちゃいますよ。」

「大学ではどんな研究をなさっているんですか?」

「神仏習合に関わる遺跡の研究です。明治時代に政府は、それまで融合していた神社とお寺を分離し、神道と仏教の役割を明確化するんですが、それ以前の日本では、空海らが唐からもたらしたインド密教の影響を受けて千年以上もかけて神仏習合し、古来日本の神々と仏教の神々が同一視されるようになって行ったんです。例えば、出雲大社に祀られている大国主命が密教の大黒天と同一視されるのもその一つです。伊勢神宮内宮で祀られている天照大御神でさえ、密教における最高仏と位置付けられる大日如来と同一視されているんです。私は、そんな神仏習合の歴史を伝える仏像や曼荼羅などを含む遺跡の分析などを行っています。」

「遠い昔は神社とお寺が同居していたんですね。八百万の神を信仰するおおらかな日本人らしいかも。黒神さんは、難しい研究をされているんですね。」

「いいえ、そんなにむずかしいことはないんですが、奥は深いです。神仏習合の対比により、本来の弥生の神々の真実が見えてくるようにも思えます。大黒天は、本来ヒンドゥー教のシヴァ神の化身で、大日如来の命を以て戦闘と財福を司る神だったんですが、後々は財福が強調されて福の神になったんです。大国主命も同様に本来は高天原の女王である天照大御神の命で葦原中国の支配に伴う戦闘と財福を司っていたのが、国譲りで財福のみが強調されて福の神になったんじゃないかと思っています。」

「私も父とよく難解な古事記や魏志倭人伝なんかを読みました。そうだ、天照大御神は実は卑弥呼のことなんですよ。」

「えー、驚きです。若いのに古代史にお詳しいんですね。どのようなことをなさっているんですか?」

「私は、青山学院大学の史学科で東洋史を学んでいます。父や兄が古代史や考古学に詳しかったので、私もその影響を受けてしまったのかも知れません。」

「そうだったんですか。どうりでお詳しいと思いました。そうだ、今度東京国立博物館で、『国宝 東寺―空海と仏像曼荼羅』という特別展があるので、もしよかったらいっしょに観に行きませんか?空海は、さっきお話した神仏習合に大きく関わっているんです。」

「弘法大師の空海ですか?面白そうですね。都合が付けば構いませんけど。」

「それはよかった。あの、差支えなければお名前をお聞かせいただけませんか?」

「小出です。小出美知と言います。」

「美知さんか、素敵なお名前ですね。」

「機内モードでもWIFIが使えるみたいなので、よかったらライン交換しませんか?」

「いいですよ。」

「ありがとうございます。そうしたら、日時は3月30日(土)10時くらいでどうですか?」

「3月30日の10時なら大丈夫です。」

「どちらから来られます?」

「私は静岡県の三島に住んでいるので、東海道新幹線で来ます。大学にも新幹線で通っているんです。」

「遠くから通われていて大変ですね。僕は、田園都市線の二子玉川だから、じゃあ、直接上野公園の博物館前辺りで待ち合わせするのがいいのかな。」

「そうですね。博物館の前でお願いします。」

「でも、古代史に興味のある歴女の方に出会ったのは、初めてです。」

「いいえ、そんなに詳しいわけではないんですけど、父の影響からか、謎に満ちた古代史にはまっちゃったみたいです。」

「お父さんは何をされているんですか?」

「普通の会社員なんですが、趣味の邪馬台国研究にのめり込んで、本まで出しちゃったんですよ。兄もその影響を受けて、考古学の道に進んでしまいました。」

「邪馬台国かー、ロマンがあっていいじゃないですか。お父さんに一度会ってみたいな。」

「そう言ってもらえると、父も喜ぶと思います。」


シートベルトの着用サインが点灯し、まもなく東京上空に差し掛かり機体は徐々に高度を下げ始めた。

着陸すると、外はすっかり暗くなっていた。

二人は、京急で品川まで行き、挨拶を交わして別れた。

「おかげさまで今日は楽しい空の旅を満喫できました。今度は30日を楽しみにしています。じゃあ、また。」

「こちらこそ、ありがとうございました。それじゃあ、ここで。」

美知は品川から新幹線で、黒神は山手線で渋谷まで出て田園都市線で、それぞれ帰宅の途に就いた。




四、出雲建イズモタケル倭建ヤマトタケル




美知が三島駅に着くと、父親の光一が車で迎えに来てくれた。

「お帰り、美知、出雲は楽しめたかい?」

「ええ、楽しかったわよ。お土産も買ってきたから。」

「一人旅と聞いて、心配してたんだぞ。」

「大丈夫よ。もう子供じゃないんだから。」

「とにかく、無事に帰ってきて何よりだ。」

家に帰り着くと、母親の文江が美味しそうなビーフシチューを用意してくれていた。

「お帰りなさい。お腹空いてるでしょ。」

「ええ、ペコペコよ。シチュー美味しそう。」

「じゃあ、さっそく夕飯にしましょうね。」

三人で夕食を囲むと、自ずと出雲の話になった。

「私、出雲のホテルで不思議な夢を見たの。私は巫女の姿で、大黒様が現れて、大きな出雲大社の神殿にお供え物をして、ところが、長い階段の先に色々な障害があって・・・。」

「出雲大社のご祭神の大国主命は七福神の大黒様でもあるんだよ。」

「そうなんだよね。ところが、明くる日にその大黒様みたいに打ち出の小槌がデザインされたジャケットを着て大きなバッグを背負った人と出会って、びっくり。」

「えっ、旅先で男と知り合いになったのかい?」

「ええ、まあ。」

「どんな男だい?」

「痩せてたら俳優の佐藤健に似ていて割とイケメンかも。」

「美知だって、女優の土屋太鳳に似ていて可愛いじゃないか。」

「父さんの見る目はあてにならないからいいよ。」

「名前は何て言うんだ?」

黒神健くろかみたけるっていう人よ。」

「何だって!今度はおまえが父さんの後を継がなきゃならないのか。」

「まさか、また会うなんてことにはなってないよな?」

「そんなこと、父さんには関係ないじゃない!」

「古事記によると、倭建命は、出雲国を平定するにあたって、出雲建を殺害している。父さんは、九州を旅した時、天照大御神の化身の郁美と出会って、自分が倭建命の役目を担っていると悟ったんだ。そして、韓国を旅行したときは、柳花ユファと出会って、朱蒙チュモンの役目を担っていることがわかった。だから、父さんは両者に共通する役目を担っていたことになる。それは、つまり、東アジアに跨る隠された弥生の歴史を世の中に解き放せということじゃないかと思うんだ。そして、今度は、父さんに代わって、美知が黒神健という男に出会って、弥生最後の出雲に隠された歴史を解き離す役目を担ってしまったということじゃないだろうか。父さんは、若いおまえにそんな苦労はかけたくないんだ。黒神健という男は、倭建命が殺害したとされる出雲建の化身かも知れないんだ。そして、出雲建とは、父さんの研究では、実は大国主命じゃないかと・・・。だから、殺害者につながる父さんではなくて、美知、おまえに白羽の矢が立ったのかも知れない。」

「つまり、父さんは黒神さんの遠い前世で彼を殺害した人とつながっているかも知れないってこと?だから、私にお鉢が回って来たって言うの?」

「残念ながらそういうことだ。倭建命は天照大御神を支えて大和の建設に貢献した日の当たるヒーロー、そして、朱蒙も王として高句麗の建設に貢献した日の当たるヒーロー、二人は三足烏に導かれて聖なる関東軍を率いた東明聖王なんだ。ところが、大国主命は闇に葬られて、死後の世界で活躍した夜の国のヒーローなんだよ。おまえには、日の当たる人生を歩ませてあげたいんだ。仏教では、人は六道といって、因果応報によって、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界に輪廻転生すると言われている。父さんは倭建命や朱蒙と何らかの関わりを持った前世を生きたんじゃないかと思っている。そして、黒神君という男は遠い昔に大国主命として生きた人物ではないだろうか。だから、二人は、遠い昔の遺恨を引きずっているんだ。そんなわけで父さんではなく美知が黒神君と出会うことになったのかも知れない。」

「それは考え過ぎじゃない。あなたがどう思うと構わないけど、歴史探偵ごっこや前世とやらに巻き込んで、美知の幸せを勝手に奪うのはいけないわ。」

「そうよ、母さんの言うとおりだわ。父さんの妄想で私たちの人生をメチャクチャにしないで!」


美知は、悲しくなった。旅の疲れもあって、風呂に入ると早々に眠りに就いた。


目を覚ますと、黒神が父親と口論していた。そして、遂に父親が包丁で黒神を刺したのだ。血まみれになって倒れる黒神、美知は慌てて黒神に駆け寄った。

たけるさん、大丈夫?!父さん、何てことするの!早く救急車を呼ばなきゃ。」

美知は、慌てて電話をする。


ピーポーピーポー、救急車のサイレンの音、・・・


美知は、近所を通る救急車の音で目が覚めた。

「夢だったのか、よかった。でも、いやな夢だったわ。」

しかし、深夜というのに、それっきりもう寝つけなかった。

美知は、出雲の隠された歴史などどうでもいいと思った。そして、これが現実になったらどうしようと、考えあぐねた結果、今度の博物館デートを最後に黒神にはもう会わないことにしようと決めた。




五、東寺と空海の仏像曼荼羅




博物館デートの日がやって来た。美知は、いつもと変わりないそぶりで、友達と会うと言って家を出た。新幹線で品川まで出ると、そこから、山手線で上野まで向かった。道々は花見客で混雑し、見上げると青空をバックに満開の桜が咲き誇っている。しかし、華やかな桜の花とは裏腹に、美知の気持ちは沈んでいた。東京国立博物館に着くと、博物館前の正門プラザで待った。外は賑やかだったが、建物内は思ったより静かだった。

程なく黒神が現れた。

「お待たせ。今日は天気が良くて花見客がすごいですね。後で公園を散策しましょう。」

「そうですね。桜も満開できれいですしね。」

黒神は、二人分のチケットを買って一枚を美知に渡し、二人は特別展が開催されている博物館の平成館の方に向かった。

館内に入り特別展会場口でチケットを見せエスカレータを2階に上がると、特別展の主たる展示物を提供する東寺の大きな文字パネルが出迎えてくれた。

「美知さんは東寺に行かれたことありますか?」

「京都には数回遊びに行ったことはあるんですが、京都駅から近いのにまだ東寺に行ったことは無いんです。」

「じゃあ、今回の展示は新鮮ですね。僕は、東寺には何度も行きました。東寺と対を成す西寺の遺跡跡で、五重塔などの本格発掘が今年の秋頃から始まります。僕も参加する予定です。」

「お詳しいんですね。西寺というお寺もあったんですか?」

「東寺と西寺は、今から約1200年前に平安京に遷都された際に、官営の寺として創建されたんです。西寺は幾度かの火災などにより衰退してしまいますが、東寺は嵯峨天皇の時に、密教を携えて唐より帰国した空海に託され、真言密教の根本道場として、密教の流布に重要な役割を担って行きます。・・・前置きはこのくらいにして、さっそく見学しますか。」

「そうですね。何だか楽しくなってきました。」


展示は、第1章から第4章までの4つのテーマで再現されている。


『第1章 空海と後七日御修法ごしちにちみしほ

展示スペースには、遣唐使として共に中国に渡った最澄へ、空海が宛てた『風信帖ふうしんじょう』という書状が展示されていたり、密教法具を使った後七日御修法の道場などが再現されている。

「空海は、経典を解説するだけの従来の仏教に対し、経典に従って修法を実践することでその効用を得るのが密教とし、修法の実践を説きました。空海が実践したさまざまな修法の中で、最も重要な儀式が『後七日御修法ごしちにちみしほ』です。この儀式は、天皇の安寧と国家の安泰・繁栄を祈って、毎年1月8日から7日間に渡って執り行われます。そして、驚くべきことに、この修法は千年以上経った現在でも、空海が持ち帰った密教法具を用いて続けられているようです。」

「空海は、神道みたいに、儀式や祈祷などを通して仏に祈ったということでしょうか?」

「そのとおりです。密教では仏を中心とした神々に祈るのです。だからこそ、神道の神々と神仏習合するのに都合がよく、古代日本に瞬く間に広まって行ったんだと思います。」


『第2章 真言密教の至宝』

ここには両界曼荼羅図りょうかいまんだらずや十二天像の掛け軸などが展示されている。曼荼羅まんだらとは、密教の経典にもとづき、仏を中心に集会(しゅうえ)する図像で、両界とは、インドの異なる時期や地域で個別に成立した『胎蔵界』と『金剛界』の両方を指す。両界曼荼羅は、日本密教の中心となる神仏である大日如来の説く真理や悟りの境地を、視覚的に表現している。


宗派により異なるところがあるが、胎蔵界曼荼羅は全部で12の「院」(区画)に分かれている。その中心に位置するのが「中台八葉院」であり、8枚の花弁をもつ蓮の花の中央に胎蔵界大日如来㊐が位置する。大日如来㊐の周囲には4体の如来である宝幢(薬師)①、開敷華王②、無量寿(阿弥陀)③、天鼓雷音④を四方に配し、更に4体の菩薩である普賢⑤、文殊⑥、観音⑦、弥勒⑧をその間に配して、合計8体が表される。一方、金剛界曼荼羅は、9つの場面に分かれていて、中心の成身会を核として、大日如来が衆生を救済する過程(右回り㋐)と、逆に修行により悟りに到達する過程(左回り㋑)を表している。


『胎蔵界曼荼羅』       南

   **************************

   * *       除蓋障院         * *

  外* ********************** *

   * * *     金剛手院       *空*蘇*

  金*文*釈****************** * *

   *       * ⑤ ② ⑥  *   *虚*悉*

東 剛*殊*迦*遍知院*①中台㊐八葉院③*持明院* * * 西

   *       * ⑧ ④ ⑦  *   *蔵*地*

  部*院*院****************** * *

   * * *     蓮華部院       *院*院*

  院* ********************** *

   * *       地蔵院          * *

   **************************

               北


『金剛界曼荼羅』

********************************

*↓㋑理趣会㋐→ * ←㋑降三世会㋐→ * ←㋑降三世三昧耶会*

********************************

*↓㋑一印会㋐↑ *   成身会 ㋐→ * ←㋑三昧耶会㋐↓ *

********************************

*→㋑四印会㋐↑ * →㋑供養会 ㋐← * ↑㋑微細会 ㋐← *

********************************



「密教では、その教えが奥深く、文章で表す事が難しい事から、図画で表現するのに曼荼羅図が多く描かれています。そのため、密教が美術の発展にも寄与したんです。仏教では宇宙を構成している要素を『地』『水』『火』『風』『空』の『五大』と考えます。密教ではこれに『識大』を加えて『六大』とします。胎蔵界曼荼羅は、宇宙の根源である大日如来を中心に『六大』の内『五大』(物質世界)の(ことわり)を説いたものです。金剛界曼荼羅は『六大』の内『識大』を説いたもので「五大」(客体)を認識する主体(智)から生ずる曼荼羅なんです。『五大』と『識大』は対照的であると同時に本来は一つのものです。男と女、時間と空間、部分と全体・・等、この世界には対照的なものが存在しますが、片方だけでは成立しえません。両界曼荼羅はそれを現したものなんです。」

「むずかしいですね。でも、何となくわかるような気がします。大日如来が天照大御神と同一神ということは、卑弥呼でもあるんですよね。以前に聞いたことがあるんですが、128億光年という途方もなく遠方のビッグバン宇宙論における初期宇宙に存在するという天体が『ヒミコ』と名付けられたそうなんです。仏教の教える宇宙は、ビッグバン宇宙論の教える宇宙と同様、宇宙の根源を卑弥呼と捉えるところなど、きっと共通点があるのかも知れませんね。それに、人を宇宙と捉えると、『五大』は身体(五体)で、『識大』は心と考えらませんか?どちらが欠けても成り立ちませんよね。」

「おっしゃるとおりです。宇宙には無数の天体があってそれぞれ個性があるように、人はみなそれぞれの個性を持った小宇宙であり、そこにも神が存在するのだと思います。我々人間は、これまで宗教によって外なる宇宙の神のみに頼って生きてきましたが、これからは、外なる宇宙が投影された、人の内なる小宇宙の神の存在を自覚して、『五大』と『識大』を磨き高め、外なる宇宙の神と対話しながら、自らを宇宙と調和させて行くことが求められるのではないかと思います。そこには、キリストも、釈迦も、マホメットも、大日如来も、関係無くて、宇宙を創造した神から受け継いだ無数の個性を持った分身の神があるだけなんです。」


『第3章 東寺の信仰と歴史』

ここには、毘沙門天立像、空海ゆかりの舎利信仰を伝える遺品、八幡信仰を伝える遺品、東寺の歴史や宝物についてまとめられた『東宝記とうぼうき』などが展示されており、東寺の信仰と歴史を今日に伝えている。

「この毘沙門天立像は、芥川龍之介の小説『羅生門』などで有名な平安京表門の『羅城門』の楼上で邪鬼が入らぬように見守っていたものを東寺の金堂に移されたと言われています。」

「毘沙門天とは、武勇に関係する仏様なんですね?」

「そうです。毘沙門天は武神ですが福の神としても人気が高く、四天王や十二天、七福神にも名を連ねています。」

「舎利信仰って何ですか?」

「仏舎利とは釈迦の遺骨を意味します。釈迦の遺骨やそれに準ずる遺品を祀り、それを信仰することが広まり、特に鑑真請来の唐招提寺の舎利と、空海請来の東寺の舎利が神聖視されたようです。」

「八幡信仰って、八幡神社を詣でることですよね?お寺と関係があるということは、ここでも神仏習合がなされているんですね?」

「そうです。神仏習合は、まず八幡信仰から始まったのかも知れません。八幡神とは新羅征討などを行った神功皇后とその御子の応神天皇を武神として祀る信仰ですが、仏教においても早くから八幡大菩薩として神仏習合がなされたようです。」


『第4章 曼荼羅の世界』

ここには、東寺の講堂に安置された21体の仏像から構成される立体曼荼羅が展示されている。

「これだけの仏像に囲まれると圧巻ですね。ここに並べられた仏像が、立体的に曼荼羅を表現しているということですね。」

「そうです。空海は、先ほど見た曼荼羅図を仏像で立体的に表現し、密教の教えを説いていたのだと思われます。大日如来を中心に、21体の如来・菩薩・明王・天部の仏像が展示されています。」

「空海は、密教を広めるのに儀式や曼荼羅と共に、神仏習合を進め、それが功を奏して日本に仏教が根付いたんですね。」

「そう思います。空海が居なかったら日本の仏教はこれほど普及しなかったでしょうね。教えを乞うた中国や韓国も日本ほど仏教は広まっていません。」

「とても参考になりました。ありがとうございます。」

「なんか、僕の癖でこの前みたいにガイドの話ばかりで退屈だったんじゃないですか?」

「いいえ、そんなこと、とても深く知ることができて面白かったですよ。」

「そう言ってもらえると、ガイドのしがいがあります。」




六、黒神との別れ




二人は、平成館の1階の考古展示なども一通り観て回り、博物館を後にした。

しばらく人ごみの中を散歩すると、上野の森さくらテラスが見えた。

「お腹も空いてきたから、ここでお昼ご飯にしようか?」

「そうですね。朝が早かったのでお腹が空きましたね。」

二人は、上野の森さくらテラスのイタリアンレストランで食事をすることにした。多くの客で混み合ってはいたが、少し並んで待つと、程なく入店することができた。さっそく、ランチコースのメニューを注文すると、少しずつ料理が運ばれ、ゆっくりとした時間が流れて行く。

「このずわい蟹のクリームスパ美味しいね。」黒神は、スパゲッティをフォークにうまく絡めながら、笑顔で美知のほうを見遣った。

「ほんとに美味しいですね。島根のほうでは、ずわい蟹って冬の味覚として有名なんですよね。」

「そうですね。松葉ガニが有名です。美知さんも冬の蟹をぜひ食べに来てくださいね。」

美知は、黒神の言葉に朝の憂いを思い出した。


デザートとコーヒーで満たされると、すでに午後一時を回っていた。二人はおもむろにレストランを出て、不忍池の周りを散歩した。

「7月頃になると、この池には沢山の蓮の花が咲き乱れるんですよ。泥の中から真っ直ぐに伸びて、清らかな花を咲かせる蓮の花は、泥の中に喘ぐ衆生が修行を積んで悟りを開き仏になる尊い姿を象徴しています。そのため、胎蔵界曼荼羅の中心となる中台八葉院は、蓮の花の八つの花弁に見立てて八つの院に分けられているんです。」

「確かに仏教には蓮の花が付きものですよね。蓮の花を見ていると心が清らかになるような気がします。」

「美知さん、僕は今夜島根に戻らなければなりませんが、これからも時々こうして会ってもらうことはできますか?」

「ありがとございます。でも、私たちはまだ会って間もないし、島根と東京は離れているので、もう会わないほうがいいんじゃないかと思うんです。」

「こんな太ったオヤジじゃいやですよね。」

「そんなことはないんですが、私たちは出会ってはいけない巡り合わせなのかも知れません。」

「僕たちの巡り合わせが悪いということですか?」

「父は、黒神さんの遠い前世が大国主命で、父の前世で遠い昔に自分が大国主命の殺害に関与したんじゃないかって言うんです。そして、その因縁が災いすることを恐れています。」

「そんな非現実的なことを信じるんですか?もし、仮に僕の魂が遠い昔にあなたのお父さんから危害を加えられたのだとしても、今ここであなたと出会ったのは、復讐のためではなく、和解のためなんです。きっと、大国主命は出雲国を守るために自ら進んで犠牲になったのだと思います。その結果、国譲りにより日本は統一され、出雲は出雲大社を中心に栄えたんです。」

「父はまた、私があなたの前世と出雲の隠された歴史を暴いて世の中に公開する役目も担っていると言いました。でも、私は出雲の歴史を調べることに熱心でもなく、逆にあなたの悲しむ顔を見ることになるんじゃないかと不安なんです。」

「それも違うよ。神話と化した大国主命と出雲の歴史が正当に評価されるのなら、それはきっと、闇に隠された真実に光を当てることで、素晴らしいことじゃないかな。それがたとえ犠牲を伴うことだとしても、やっぱり僕は自ら喜んで手伝うだろう。」 

「国のため、皆のために、自ら犠牲になるなんて、おかしくないですか?その思想が日本を太平洋戦争に突き進ませたんじゃないでしょうか?」

「そうかも知れません。しかし、自分のためだけでなく、多かれ少なかれ誰かは誰かのために働くことで世の中が回っているんじゃないかな?誰だって好き好んで自己犠牲にはなりません。そこには、残念ながらお金が絡んでいます。でも、それより尊いのは無償の愛です。仏教では、『慈悲』と言います。」

「黒神さんはキリスト教徒みたいですね。私も大学でキリスト教を学び、聖書を読み返しては、礼拝にも参加しましたが、無償の愛だけでは解決できない問題が多数あるように思います。愛がすべてを解決できるのなら、世界はもっと平和になっているでしょうに。」

「そうですね。でも、私の魂はあなたのお父さんに対して何の遺恨もないのは確かです。・・・もし、美知さんがまた僕と会いたいと思ってくれたら、ラインしてください。ほんとに僕はこの出会いが僕たちの使命を導いていると思っている。そして、その結果はきっと悪くはならないと思えるんです。もう時間だから、じゃあ、今日はここで。お元気で。」

黒神は、そう言って、人ごみの中に消えて行った。残された美知は、漠然とした空白感を感じながら、しばらく、不忍池の水面を眺めていた。




七、魂の和解




あれから一年以上が経ち、美知は大学を卒業し、都内の出版社に就職していた。しかし、黒神のことを忘れたわけではなかった。友人の結衣と果歩にも相談したが、二人とも「美知の気持ちが一番だよ。ほんとうに好きだったら連絡してみれば。」とは言ってくれたが、次の一歩が踏み出せずにいつの間にか時が過ぎて行った。

そんなある日、美知のところに女性向け雑誌の取材の仕事が舞い込んできた。テーマは『出雲大社と縁結びの神』である。フレッシュな感性での記事を期待する編集長が新人の美知を抜擢してくれたのである。美知は、初めての大役を任されてプレッシャーを感じつつも、自分の得意分野でもあるし、自分に課せられた抗えない使命であったことを思い起こし、気を取り直して喜んで引き受けた。そして、黒神との縁を改めて感じ、彼のことが懐かしくなった。彼のアドバイスも受けてみたい。思い切ってラインにメッセージを送る。

「ご無沙汰しています。お元気ですか?美知です。今更連絡しても困るでしょうね。ごめんなさい。実は、都内の出版社に就職して、今度雑誌の取材で出雲に行くことになりました。もし、黒神さんのご都合がつくなら一度お会いできませんか?お返事待っています。」


程なくラインの受信通知が鳴った。黒神からである。

「久しぶり。元気そうで何よりです。美知さんも、もう社会人になったんだね。僕もぜひ会いたいね。できる限り都合をつけるようにするよ。日時が決まったら、また、連絡ください。」

美知は、長い間の空白の後の身勝手な連絡にも、快い返事をくれた黒神に感謝した。

そして、さっそく、記事のアウトラインを練り、取材の計画を立て始めた。すると、隣の先輩の今井が、声をかけてくれた。

「小出さん、やったわね。新人に記事を任せてくれるなんて、あなたラッキーよ。がんばりなさいね。」

「ありがとうございます。ちょっぴり不安ですけど頑張ってみます。今井さん、また色々教えてください。」


まずは、記事のアウトラインだ。元々女性向け雑誌だが、縁結びとなれば対象となる読者は独身だが結婚に興味のある20歳代とする。この年代が興味を持つコンテンツを考える。食事・スイーツ・ファッション・インテリア・アクセサリ・レジャー・マンガ・アニメ・ゲーム・芸能・音楽・美術・スポーツ・ダイエット・・・

そして、欠かせないのは、出雲大社に纏わる歴史・御朱印・ご神徳(ご利益)・逸話・伝説・神話などである。

また、発行される季節、最近のトレンドなども考え合わせる必要がある。しかし、それらをすべて網羅していたら、大変なことになる。美知は、考えあぐねて、再度、自分が出雲を訪れたときのことを思い出してみた。北島国造館の恋みくじ、古代出雲歴史博物館、出雲大社の参道となる神門通りの食べ歩き、万九千神社の八百万の神々・・・。

「そうだ、『千と千尋の神隠し』に准えて、副題を『千と神々の集う謎の世界にタイムスリップ』としよう。」

それらを踏まえて考えたアウトラインは次のようなものである。


『出雲大社と縁結びの神 ~千と神々の集う謎の世界にタイムスリップ~』


①出雲の神話と歴史に触れる

  スサノオの八俣のオロチ退治、因幡の白兎、オオクニヌシの国譲り

  出雲大社の創建と古代出雲歴史博物館、大国主命と縁結び

 ②出雲大社を詣でる

  御朱印、恋みくじ、白兎

 ③神門通りとご縁横丁を食す

 ④玉造温泉の湯屋(油屋)に泊まる


次に、2泊3日で取材の計画を立てる。


1日目

 12時頃:出雲着 午後:出雲大社と神門通りの取材、出雲宿泊

2日目

 午前中:古代出雲歴史博物館でのインタビュー 午後:玉造温泉の取材、玉造温泉宿泊

3日目

 午前中:予備 18時頃 出雲発


美知は、これらを編集長にメールして、認可をもらうことにした。

すると、編集長の宮田は、概ね賛同してくれた。

「いい感じにまとまりそうね。できるなら、『千と千尋の神隠し』をもう少し強調してもいいかしら。取材計画もあれでいいわよ。」

「ありがとうございます。宮崎駿の世界をイラストで紙面に追加するなど検討してみます。」


美知は、黒神に、2日目の9時に古代出雲歴史博物館で訪問取材するので、そのときに会いたい旨、ラインした。

程なく、黒神から返事が返ってきた。

「その日はちょうど講義が無い日なので、一日付き合えるよ。再会できるのが楽しみ。」

「ありがとうございます。黒神さんにも取材のインタビューに付き合ってもらえるとうれしいです。」

すると、すかさず大きめの『OK』のスタンプが返ってきた。


美知は、取材と旅行の段取りを整えて、羽田空港から飛行機で7月の出雲に旅立った。

出雲はつい先日梅雨が明けて、眩しい陽光が降り注いでいる。空港で軽く昼食を済ませ、バスで出雲市駅方面まで出てホテルに荷物を預けると、一畑電車で出雲大社に向かった。

鳥居を潜ると、セミの鳴き声が出雲の夏を告げている。差し当たり、目に入る景色を撮影しては、思ったことをメモに書き留める。すると、季節が変わったこともあるだろうが、前回訪れた時とはまったく違った装いを見せてくれる。松林の参道を進み、手水舎で手と口を清め、本殿に向かう。二礼四拍手一礼でお参りすると、本殿・拝殿をカメラに収め、取材のために御朱印をいただく。摂社・末社・神楽殿なども、境内を一通り廻って、丹念に銘板と共に画像を収集する。途中で出くわした因幡の白兎も勿論撮影する。そして、最後に千家国造館と北島国造館を訪問した。

代々、出雲大社の宮司を務めた出雲国造家は、南北朝の頃に千家氏と北島氏に分裂し、現在では、宮家とゆかりのある千家氏が宮司を務めている。一方、北島国造館は、一般客に開放されていて、恋みくじや御朱印がいただける。ここでも、取材のため恋みくじと御朱印をいただく。しかし、両家とも教団を設立していて、出雲大社の西と東に分かれてそれぞれの館が置かれているのだ。千と千尋の神隠しに登場する千尋の神界での呼び名『千』は、実はこの千家から引用されているのではないかと思いながら、美知は出雲大社を後にした。


大社の周りを急いで廻ったので、美知の身体は汗だくになった。

「次は、神門通りとご縁横丁を休憩しながら訪ねるとしよう。」

美知は、そう思いながら目ぼしい店舗を巡った。

町並みや目立った店などを撮影しては、氷ぜんざいや、ぜんざいラテなどを味わいながら一服する。出雲はぜんざいの発祥の地らしい。


町並みを一通り巡ると、日も傾いてきた。電車に乗り出雲市駅で降りて、コンビニで夕食と朝食の食材を買い込むと、ホテルにチェックインする。前回泊まったホテルと同じなので、勝手がわかっていて安心なのだ。美知は、汗をかいて疲れた身体をリフレッシュしたくて、早々にシャワーを浴びて、バスタブで疲れを癒した。そして、バスローブを羽織って、缶ビールを開けると、ささやかなコンビニ弁当を食べながら、今日の取材データの整理を始めた。すると、四の鳥居の前の参道の左側の『御慈愛の御神像』は写真に収めていたが、右側の『ムスビの御神像』を撮影できていないことに気付いた。

「明日、博物館に行く前に撮影しよう。」

美知は、雑誌の紙面イメージと取材データを突き合わせながら、紙面のイメージを具現化して行く。


そうこうしていると、いつの間にか10時を回っていた。美知は、明日の取材の準備を行い、就寝前のスキンケアとストレッチを済ませると、眠りに就いた。しかし、今夜も夢を見た。


美知は、いつの間にか千(千尋)になっていた。ここはどこだろう。宍道湖の畔だろうか。すると、大空に白銀の光を帯びた龍が・・・龍は降りてきて、千の目の前で、ハクになった。

「千、久しぶりだね。元気にしていたかい?」

「ええ、私は元気よ。ハクも幽神界から脱出できたのよね?」

「そうだよ、君のお蔭だ。だけど、まだ一つ心残りなことがあるんだ。」

「どうしたの?」

「僕たちは、宇宙の意志を継ぐイザナギから生まれた三貴子なんだ。そして、『アマテラス(別名:イクミ)』は日神として昼の世界を司る、『ツクヨミ(別名:タケル)』は月神として夜の世界を司る、そして、『スサノオ(別名:ハク)』は僕で、海神として海原の世界を司っているんだ。でも、僕たちも幽神界の掟には逆らえず、君や僕は幽神界に囚われていた。イクミだって、君のお父さんに助けられて、何とか幽神界から脱出することができたんだ。しかし、タケルは、ヤマトタケルに殺害されて、幽神界の王として君臨することになった。だから、幽神界を脱出することができないんだ。彼を救うには、ヤマトタケルの流れを汲む君の力が必要なんだ。」

「そうだったんだ。それで私は何をすればいいの?」

「タケルは君の友達だよね。君たちが結ばれることで、魂の和解ができる。そうすれば、タケルは幽神界から脱出できると思うんだ。そして、タケルと共にその系譜に火を灯すんだ。」

「ハク、あなたはそれでいいの?私たちも友達だよね?」

「僕たちだって友達さ。だけど、君とタケルが結ばれることで、この争いに満ちた世界に平和が訪れるんだ。」

「あなたはどうするの?」

「僕は宇宙の龍宮から君たちを見守っているよ。白銀の尾を引いて流れて行く星を観かけたら僕を思い出してほしい。君のことは忘れない!いつまでも元気でいてくれ。お幸せに!」

そう言って、ハクは白く輝く龍になり、空高く消えて行った。


そして、朝が来た。美知は、夢の余韻を噛み締めながら目を覚ました。

美知は、もう一度考えてみた。

「出雲を『千と千尋の神隠し』とダブらせて考えていたからこんな夢を見たのだろうか?タケルって、黒神健さんのことだろうか?健さんと結ばれる?そして、彼と共に系譜に火を灯す?」

美知は、今日会う黒神のことを思い浮かべた。「嫌いじゃないが、まだそこまでの関係ではないようにも思う。しかし、ほんとうに健と父親の遠い昔の過去が清算されるのなら、私がここで黒神と結ばれる道を選ぶべきなのかも知れない。そして、それが世界平和につながるというのだ。」美知の心は揺れた。




八、縁結びの神




美知は軽い朝食を取り、身支度を整えて、ホテルを後にした。まず、出雲大社に行って、『ムスビの御神像』の写真を撮らなければと思った。

「大国主命は、幽神界で人々の縁結びに忙しく、自分が結ばれる時間が無かったのかも知れない。」

そんなことを思いながら参道を進むと、右手に『ムスビの御神像』が見えてきた。美知はさっそくそれを数種類のアングルでカメラに収め、待ち合わせの古代出雲歴史博物館に向かった。博物館は、すぐ目と鼻の先にある。


博物館の開館時間までには、まだ15分くらい時間があった。入口で待つこと5分、一人の男が現れた。

「美知さん、久しぶり。元気だった?」

美知は、最初、誰だかわからなかった。

「佐藤健?いや、健さん?」

黒神は、以前と比べて、すっかり痩せていて筋肉質になっている。いわゆる細マッチョである。

「お久しぶりです。今日はお忙しい中ありがとうございます。もしかして、健さん、何かスポーツでもされているんですか?」

「美知さんに振られて、心を入れ替えたんですよ。もう1年くらいジムに通っています。」

「そうなんだ。見違えちゃいましたよ。学生にイジられたりしたんじゃないですか?」

「多少はね。」

美知は、黒神のことが気になっていたので安心したし、変身した姿が頼もしくも感じられた。

「今日は、博物館の館長に取材するのかな?」

「お電話してアポ取っていますが、館長さんかどうかはわかりません。」

「僕は、館長と知り合いだから、同席して紹介してもいいよ。」

「そうしてもらえるとありがたいです。」

博物館の開館時間になったので、二人は館内に入り、受付で取材の申し込みを行った。

しばらくすると、館長が現れて、対応してくれた。

「館長の黒沢です。早くからご苦労さまです。黒神さんもお知り合いなんですね。」

「ええ、こちらが、宝船社の小出さんです。館長、実は私も縁あって、以前に小出さんにこの博物館の案内なんかもさせていただいて、顔見知りの中なんです。それで、今回ご一緒させていただきました。」

「お忙しい中、ご対応いただきありがとうございます。ただいま黒神さんからご紹介いただいた小出です。予てお伝えさせていただいたように、『ソフィー』という女性向け雑誌に『出雲大社と縁結びの神』というタイトルで特集を予定しております。今回はその記事にネット上にあるような単なる出雲大社の説明だけでなく、現地でしか聞けないような出雲の神話や歴史をお聴かせいただいて、縁結びの神となる由来なども掲載できればと思っています。どうぞよろしくお願いします。」

「なるほど、出雲の神のもっと深い話がお聞きになりたいということですね。」

「そうなんです。差支えない範囲で、色々なお話しが聴けるとありがたいです。なお、予めお伝えしたように取材編集にのみ使わせていただくことを前提に録音させていただきますがよろしいでしょうか?」

「ええ、構いませんよ。」

「ありがとうございます。」そう言って、美知はボイズレコーダーをセットした。

「出雲は、元々、鉄の産地だったんです。山陰の山々では山砂鉄と呼ばれる良質な鉄鉱石が産出しました。それを基にたたら製鉄が起こり、多くの武器や農具などの鉄製品が生産されたんです。出雲には多くの神話が残されていますが、それらは実は出雲の製鉄の歴史を物語っているのかも知れません。須佐之男命の八俣の大蛇の神話では、成敗した大蛇の尾から草薙の剣が出てきて、それを天照大御神に献上したとあります。この話は、実はたたら製鉄における苦難に満ちた製鉄技術確立への挑戦を大蛇に見立てて、その工法を克服することにより、立派な剣が造れるようになったことを物語っているように思われます。つまり、須佐之男命が出雲を切り開いた頃には、既に鉄生産が行われていたようです。」

「なるほど、出雲の歴史は、製鉄の歴史でもあるんですね。でも、縁結びとはかけ離れていてあまりロマンチックではなさそうですね。」

「そうですね。しかし、須佐之男命の後を継いだ大国主命は、この製鉄事業をさらに発展させ、強大になり出雲国の領土を拡大して行くんですよ。そして、天照大御神が統治していた高天原に対して、葦原中国と呼ばれる広大な国になっていったんです。それを恐れた高天原は、大国主命に対して国譲りを迫ります。心優しき大国主命は、大きな神殿を建ててくれるなら譲るということになったんでしょうね。その神殿が出雲大社の始まりなんです。でも、生きて神殿の神になるのではなく、死んで神になったんです。つまり、成仏できなかった神様の世界を幽神界とでも名付けるとすれば、その幽神界の王とでも言いましょうか。あの世の世界は、現世も含め統治するのです。ですから、現世の人々の運命をも司っており、大国主大神に祈ることで良縁を結んでもらえるということになったんだと思います。」

「心優しき大国主大神は、自ら死ぬことで、皆の縁を結んでくれるようになったんですね。キリストの十字架にも似た話ですね。」

「そうですね。信仰とは自己犠牲の上に成り立っているのかも知れません。」

「とてもいいお話を聴くことができました。貴重なお話とお時間、ほんとうにありがとうございました。」

「いいえ、お役に立てれば幸いです。どうぞ、館内もゆっくり見学して行ってください。撮影禁止マークの付いていない展示品なら問題ありませんので、ご自由に撮影していただいて構いません。」

「ありがとうございます。」

黒神と美知は、館長にお礼を言って、展示室のほうに向かった。美知は、古代の出雲大社を支えていた大きな宇豆柱や、神殿復元模型など、一通りの写真撮影を行った。そして、二人は博物館を後にした。




九、愛の行方




黒神が車を駐車場に停めていたので、二人は車に乗り、美知が宿泊していた東雲インで預けていた荷物を受け取ると、玉造温泉に向かうことにした。

「美知さん、玉造温泉に行く途中に、荒神谷史跡公園があるので寄って行きませんか?博物館に展示されている大量の銅剣、それに銅鐸や銅矛なども出土した遺跡ですが、そこを整備して公園にしているんです。この時期だと、蓮の花がとても綺麗だと思いますよ。古代遺跡から発見された蓮の種を基に増やした古代蓮で、二千年ハスとか大賀ハスなどと呼ばれています。」

「綺麗そうですね。是非お願いします。それと、今晩はどうされます?」

「明日は土曜日なので、特に予定はないから、いっしょに旅館に泊めてもらって、美知さんとゆっくりお酒でも飲めるとうれしいな。もう一室、部屋を予約してもらえるとありがたいんですが。」

「了解です。じゃあ、旅館に電話してみますね。」

美知が旅館に電話してみると、すでに2名1室で予約されているとのこと。美知は不思議に思いながらも、これも縁結びの神の思し召しかと納得した。

「あのう、お部屋一緒になるみたいですけどいいですか?」

「僕は構いませんけど、美知さん大丈夫ですか?」

「健さんとなら大丈夫ですよ。」

美知は、少しはにかみながら、答えた。


荒神谷史跡公園に着いて、車を南駐車場に停めると、さっそく道路を渡って古代ハス池に向かった。この世のものとは思えないような淡いピンク色の美しい蓮の花が、まだ所々に咲いている。蓮の花は、午後を過ぎると、花弁が閉じてしまう。咲き揃っている蓮を見つけてシャッターを切った。蓮をバックに二人の写真も記念に収めた。

「こうして古代蓮を眺めていると、私たちも古代出雲にタイムスリップしたような気分になりますね。」

「そうですね。時間が止まったみたいだ。」

二人は、しばらく蓮を眺めていたが、夏の日差しを避けて、荒神谷博物館に入ると、冷たいジュースを飲んで休憩し、弥生時代のくらしなどの展示を観ながらしばらく涼んだ。


それから、荒神谷遺跡や古代住居跡などを一通り観て回り、車に戻ると、近くの店で出雲そばを食べることにした。

「冷たい割子そばが甘い出汁に絡んで美味しいですね。」

二人は、お昼の休憩を挟んで、おもむろに玉造温泉に向かった。


1時間もかからないくらいで旅館に着いた。まだ、チェックインまでに時間があったので、二人は温泉街を散歩することにした。美知は、温泉の取材ということで、あちこちで町並みや目につく風景を写真に収める。玉湯川を少し上流に上ると出雲玉作史跡公園があった。玉造温泉の名前の由来になったと思われるが、この辺りは、古墳時代から奈良・平安時代にかけて、勾玉や管玉の生産地として栄えたようである。公園内では、復元された竪穴式住居や玉作工房跡などが点在している。二人は、公園内を散策した後、川沿いの一軒のアクセサリーショップに入った。店内には、勾玉などを象ったアクセサリーが所狭しと並べられている。

「美知さん、これなんかどう?」

「素敵ですね。でも、高そう。」

「気にしなくていいよ。記念にしよう。」

健は、エメラルドグリーンの勾玉のネックレスを購入して、美知にプレゼントした。

「えっ、ありがとうございます。うれしい!大事にしますね。」

「つけてみたら?」

「そうですね。」

美知は、ネックレスを丁寧に首につけてみた。ベージュのニットの胸元に勾玉のアクセントがとてもよく似合っている。美知は、鏡を覗き込みながら、満足そうに微笑んだ。健が、傍らから声をかける。

「よく似合ってるね。古代の巫女さんって感じかな。」

「よくお似合いですよ。」

店員も相槌を打った。

二人はすっかり満足した様子で、店を後に、旅館に戻った。


チェックインを済ませると、美知は、花浴衣が気に入ったようで、好きな柄を選んでから、部屋に案内してもらう。10畳くらいの和室と縁側のある小ぎれいな部屋である。部屋の窓からは玉湯川の流れが見えた。

「食事は18時からだから、その前に風呂にでも入って、ゆっくりしようか?」

「そうですね。お風呂で疲れを取らなくちゃ。この温泉は、1300年も前から湧き出ていて、日本最古の歴史があり、美肌を造る神の湯って呼ばれているそうですよ。」

美知は、『千と千尋の神隠し』に登場する湯屋(油屋)を思い浮かべて、神と入る神のお風呂ではないかと不思議な面持ちで健を見遣った。

美知は、健が洗面所のほうに避難している間に、花浴衣に着替えを済ませた。健も、確認して戻ってくると、浴衣に着替え、二人は大浴場のほうに向かった。風呂は男風呂と女風呂に分かれて向かい合っている。

「ゆっくり入ってきていいよ。たぶん、僕のほうが早いと思うから、出たら暖簾の前の広場でラムネでも飲みながら待ってるから。」

「ごめんなさい。あまりお待たせしないようにしますね。」

二人は、それぞれの暖簾を潜って、風呂に入った。


健が風呂から出てきて、しばらく涼んでいると、間もなく美知も出てきた。

「お待たせしました。」

花浴衣を纏った美知の姿は、とても色っぽい。

「いや、全然待ってないよ。それにしても、美知さん、美人の湯で益々きれいになって、色っぽいね。」

「そんなこと、冷やかさないでください。そういうお世辞は、うちの父みたい。」

「お父さんも上手なんだ。でも、ほんときれいだよ。」

二人が部屋に戻って、テレビを見ながらくつろいでいると、仲居さんが夕食を運んで来てくれた。

テーブルの上には、ノドグロなどの日本海の海の幸や、しまね和牛など、美味しいご馳走が並んだ。二人は、ビールで乾杯すると、さっそく片っ端から食べ始めた。刺身や焼き料理、茶わん蒸し、陶板焼き、次々と出される料理にビールも進む。

「ノドグロって何でノドグロって言うか知ってるかい?」

「いいえ、わからないけど、喉が黒いのかな?」

「正解!でも、喉だけじゃなくお腹も黒いらしいよ。」

「えー、それじゃハラグロじゃない?」

「腹黒い魚なのかな。でも、美味しいよね。」


お腹が膨れてきた頃、デザートの柚子のシャーベットが運ばれてきた。

「ごちそうさま。」

二人はそれを食べると、縁側のソファでくつろいだ。

しばらくすると、仲居さんが夕食を片付けて、布団を敷きに来てくれた。二つの布団が、少し間隔を空けて敷いてある。

「健さん、どっちに寝ます?」

「僕は、明るいの苦手だから、奥のほうでいいよ。」

「じゃあ、私、窓側のほうに。」

布団を見て、二人の間に少し硬い空気が漂った。

「私、歯磨きしてきます。」

美知は、カメラやスマホの充電器をコンセントに繋ぐと、洗面所のほうに行って、歯磨きを始めた。

美知が戻ってくると、二人は見つめ合って、熱い口づけを交わし、愛し合った。そして、結ばれた。


夜が明けて美知が目を覚ますと、健が居ないことに気が付いた。昨夜、二つ敷いてあったはずの布団は美知の分だけしかない。美知は、部屋中の健の痕跡を探したが、何も見つからなかった。

ただ、見つかったのは、健が買ってくれた勾玉のネックレスだけだった。

「健さん、どこに行ってしまったの?」

美知は、途方に暮れて、あれこれ思いを巡らせた。すると、一昨日の夢のことが気になった。

「ハクは、私とタケルが結ばれることで、タケルが幽神界から解放されると言っていた。タケルは開放されて月に帰ってしまったんじゃないだろうか?」


朝食は、館内レストランでの集合食になっている。美知は、身なりを整えると、レストランに向かった。ここでも、やっぱり、一人分の朝食しか用意されていない。朝食を済ませて、ロビーで精算したが、やはり、一人分の料金しか請求されない。

「私、二名一室でチェックインしましたよね?」

「いいえ、お客様お一人でのチェックインだと思います。」

何もかもが、美知一人での宿泊になっている。外に出て、駐車場を確認した。ここにも昨日二人で乗って来た車は無かった。部屋に戻って、昨日荒神谷史跡公園の蓮をバックに二人で撮った写真も見てみた。しかし、写っているのは美知だけである。スマホのラインや連絡先も消えていた。美知は悲しくなった。

「健さん、どこに行ってしまったの?」

悲嘆に暮れている美知に、以前に引いた恋みくじや大黒様の夢のことがふと思い出された。障害や試練があっても、最後には幸せが訪れるのではないだろうか。また、そのうちに、健がふっと戻ってくるかも知れない。

美知は、勾玉のネックレスを付け、気を取り直して、旅館を後に空港に向かった。予定していた取材は終了していたので、夕刻の出発便を変更して、午後一の便で帰途に就いた。




十、弥生の輪廻




美知は、取材してきた記事の編集で忙しかった。しかし、勾玉のネックレスは必ず身に着けるようにしていた。そうすることで、健に守られていると感じることができた。ライティングとレイアウト、主な写真関係は自分でこなしたが、イラストや校正などは、手伝ってもらう。そんな多忙な日々が二週間ほど続いた。そして、いよいよ雑誌の印刷に漕ぎ着けた。美知が担当した雑誌の特集記事は、概ね好評だった。そんなある日、編集長の宮田が美知を食事に誘ってくれた。

「今回はお疲れ様。美知さん、頑張ったわね。お蔭で雑誌の売れ行きも好調みたいよ。」

「まだ、慣れない作業で戸惑いもありましたが、そう言ってもらえると嬉しいです。」

二人は、ワインを片手にフランス料理を味わった。

「小出さんは、彼氏はいないの?」

「いえ、もう忘れました。」

「そう、言いたくないことだってあるわよね。」

「編集長は、どうなんですか?」

「私も、もう、忘れたわ。今は、仕事が私の恋人ってところかな。」

「そうなんですか。編集長みたいに多忙だと私生活との両立って難しいんでしょうね。」

「そんなことないけど、昔の思い出を引きずっていて、恋はもういいかな?みたいな感じかな。」

「私も、今は仕事が楽しいし、当分は勉強の日々です。」

二人は、食事を堪能して、店を後にした。

「編集長、今日は美味しい料理をご馳走いただいて、ほんとうにありがとうございました。」

「いいえ、どういたしまして。小出さん、これからも頼むわね。」

「はい、またよろしくお願いします。」

二人は、そう言って、銀座の街で別れた。美知は、横浜のアパートまで、東海道線に揺られて、帰宅した。アパートに戻り、シャワーを浴びていると、湯気に蒸せたのか、吐き気をもよおした。

「そんなに飲んでないけどな。少し疲れたかな?」

美知は、あまり気に留めず、その夜はゆっくり休んだ。

明くる日は、休日なのだが、朝から気分が悪く、起きるのが辛かった。

「やっぱり、二日酔いなんかじゃないわ。」

美知は、これまでのことを思い巡らせてみた。

「もしかして、妊娠?そういえば、このところ生理が遅れている。健さんの子を身ごもっているのだろうか?」

さっそく、薬局に行って妊娠検査薬を買い求めてきた。そして、検査すると、陽性と出た。健は居なくなってしまったが、彼は、美知の心の中でまだ生きている。そして、美知の身体の中にも生きているのだ。美知は、辛い気分が晴れて、何だか幸せな気分になった。

美知は、実家に電話して、このことを母に相談した。

「私、子供ができちゃったみたい。」

「えっ、それほんとなの?相手の人は?」

「この前話していた黒神健さんよ。」

「黒神さんは知ってるの?」

「それが、彼が居なくなってしまったの。」

「えっ、逃げられちゃったってこと?」

「そうじゃないのよ。私たちが結ばれることで、健さんは幽神界から解放され、遠い所へ行ってしまったんだと思うの。話せば長いので、電話じゃなんだから、うちに帰ってゆっくり話しするわ。」

「それで、あなたはどうするつもり?産むの?」

「産むに決まってるでしょ。」

「一人で育てるつもり?」

「もちろん大変なことはわかっているわ。でも、私は、大切に育てるわ。」

「病院には行ったの?」

「まだ。でも、市販の検査薬で陽性を確認したわ。来週、産婦人科に行くつもり。母さんよかったら付き添ってくれるとうれしいんだけど。」

「仕方がないわね。母さんもいっしょに行くから、また、ゆっくり話しましょう。」

「ありがとう。母さんがいっしょだと心強いわ。また、時間と場所を連絡するね。」

そう言って、美知は電話を切った。自然と涙が流れてきた。美知は、健との繋がりを確認できたことをうれしく思いながらも、行方の知れない神の子を一人で育てていくことの大変さを改めて感じていた。美知は、出版社の編集者としての華やかな生活を諦め、時間の融通がきくフリーライターに転身することにした。編集長は最初残念がったが、事情を聞いて納得し、「できるだけ仕事を回すから」と励ましてくれた。

数日後、美知は、母親の文江といっしょに産婦人科を訪れた。

やはり、医師から妊娠していることが告げられ、エコーで赤ちゃんの胎嚢を見せてもらうことができた。

二人は、そのまま実家に帰り、これからのことを相談することにした。父親の光一が帰宅すると、文江がそれとなく光一に事の経緯を話している。しかし、光一は、思っていたより冷静に応援の言葉をかけてくれた。

「美知、これから大変だが、心配するな。父さんたちは、お前を精一杯支援するからな。健君もきっと空の上からお前を見守ってくれているはずだよ。今度は美知が、健君の意思を継いでおなかの子といっしょに出雲の歴史を紡いで行くんだ。」

「ありがとう、お父さん。そう言ってくれるとうれしいわ。でもね、私には健さんがいつか戻ってきてくれるような気がするの。私夢で見たの。健さんと二人で彼の系譜に火を灯せって告げられたわ。私頑張るから。」

美知は、まだ健が帰ってくるだろうという漠然とした希望を捨てていなかった。そして、以前に夢で見た健と争う父の姿がまだ脳裏に焼き付いていたので、予想外の父親の優しい言葉にまた涙が流れた。


それから、月日が経ち、美知は、両親に見守られながら、元気な男の子を出産した。美知は、自分の子にはもう神様になんかなってほしくないと思った。そして、健から一文字もらい、それに神様でない『人』という漢字を加えて、『健人』と名付けた。健人は、すくすくと育ち、物心がつく頃になると、時々美知に父親のことを尋ねることがあった。

「どうして僕にはお父さんがいないの?」

「お父さんは、みんなの平和を見守るお月さんになったんだよ。遠い所から健人のことも見守ってくれているんだよ。」

そう言って、美知が窓を開けると、空には煌々と丸い月が輝いていた。月には出雲大社の白兎も付き添っているようだ。


また、ある時、健人がこんなことを言った。

「お父さんはどんな人だったの?」

美知は、健人に見せる父親の写真が無いことに改めて気づいた。

「お父さんは、みんなが仲良くなるための縁結びをしてくれたのよ。顔はほらテレビに出ている佐藤健っていう人に似ていたわ。胸に『打ち出の小槌』のデザインがされた服を着ていたのよ。」

美知は、パソコンで佐藤健の写真と、打ち出の小槌の絵を、健人に見せて、改めて健のことを思い浮かべた。


また、ある時、美知と健人が街に買い物に行ったとき、人ごみで健人が叫んだ。

「あっ、お父さんだ!あの人、『うちでのこづち』を付けてたよ。」

美知が急いで振り向くと、健と背格好の似た男の人が人ごみに紛れていくのが見えた。二人は、急いで彼の後を追った。しかし、振り向いた彼の顔は健と似ても似つかない別人だった。


また、ある時、美知がテレビを見て健のことを想い出し、涙することがあった。すると、健人は美知に優しく言った。

「母さん、僕がいるから大丈夫だよ。父さんが居なくても、僕が必ず母さんを守るから、もう泣かないで。」

「ありがとう、健人。」

美知は、思わず健人を抱きしめた。日々逞しくなって行く健人が頼もしくて、うれしくなり、また涙が流れた。




十一、エピローグ




健人と二人の生活がしばらく続いたある日、美知は以前に集めていた御朱印帳を手にする機会があった。すると、そこには健からもらった名刺が挟まれているではないか。健の消息を知る術がなく諦めていたが、まだ、大学に確認するという方法があるのに気付いた。美知は、思わず名刺に記された電話番号に連絡を取ってみた。

「こちらは島根大学です。どのようなご用件でしょうか?」

「私は、小出美知と申します。突然の電話で失礼します。実は、行方不明の者を探しています。私の家族で黒神健という者ですが、以前にそちらに勤務していたはずなのですが、ご存じないでしょうか?」

「クロカミタケルという人物は居りませんが、クロダタケルという者は在職しておりますが。」

美知は、もしや幽神界から解放されて名前も変わったのかもと一縷の望みを託して話だけでもしてみようと思った。

「もしよければ、クロダタケルさんに代わっていただくことはできませんでしょうか?」

「呼び出しますので、しばらくお待ちください。」

「もしもし、お電話代わりました、黒田ですが。」

「私は、小出美知と言いますが、私のことご存じありませんか?」

「やあ、美知さん、久しぶり。どうしてた?」

「健さん、よかった。生きていたのね?」

「何言ってるの。僕は元気だよ。東京で別れてから、美知さんから連絡がないか気になってはいたけどね。」

美知は、うれしくなって思わず涙が溢れた。

「私が出雲に行って、健さんと玉造温泉にいっしょに泊まったこと覚えていないの?」

「えー、そんな楽しいことあったっけ?」

「あなたの息子もいるのよ。」

「僕の子供?」

「そうよ、あなたと私の子よ。あなたの名前をもらって健人って名付けたのよ。」

「そうだったんだ。君たちとゆっくり話がしたい。明日、東京に行くから、会ってくれないか?」

「いいわ。じゃあ、明日の十一時に東京スカイツリーのソラマチひろばの噴水のところで待ち合わせっていうのはどうかしら?」

「わかった。そうしよう。」

「ラインや電話の連絡先が消えてしまってるんですけど。」

「えっ、そんなことはないと思うよ。」

美知が、スマホを開くと、すでに健の連絡先は登録されていた。

「いや、大丈夫みたい。じゃあ、明日の十一時に。」

「了解。明日が待ち遠しいなあ。」

二人は、そう言って電話を切った。


ソラマチは、客で賑わっていた。美知は健人の手を取り、ゆっくりとソラマチひろばに向かった。夏の終わりとはいえ、まだ、日差しが強く、子供たちが噴水に興じていた。健人もその中に入って遊んでいると、まもなく、健が現れた。

「久しぶり。美知さんも変わりないね。」

「健さんも。」

健は、やはり細マッチョを維持していた。出雲での出来事が、美知の脳裏に蘇って来た。そして、これが夢でないことを祈った。

「健人も、もうすぐ、三歳になるのよ。健人、お父さんよ。」

「お父さん?ほんとだ!うちでのこづちだ!」

健は、健人を抱き上げて、頬ずりしながら、スカイツリーを見上げた。

「健人、ごめんな。お父さん、遠くに行ってたから、お前たちに寂しい思いをさせたな。もうずっといっしょに居るから安心していいよ。」

「お父さん、お月さんにはもう帰らなくていいんだよね。健人と遊んでくれる?」

「もちろんだよ。キャッチボールだって、鬼ごっこだって、何でも、健人と遊んであげるさ。これ、プレゼントだよ。」

そう言って、野球のグローブとボールを健人に手渡した。

「ありがとう。僕もこういうの欲しかったんだ。」

健人は、グローブを手にはめて、ボールに興じている。


「健さん、ありがとう。でも、あなたが出雲の旅館から消えたときは、私は困惑したわ。」

「僕にも、何故そうなったかはよくわからないが、たぶん、タントラという即身成仏の類いじゃないかと思うんだ。」

「それって何?」

「それは、君と僕が結ばれて、僕の魂が生身のまま成仏したってことだよ。僕の魂はこれまで幽神界に囚われていたけど、君のお蔭で、生きたまま仏になって、幽神界から解放されたってことじゃないかな。」

「よくわからないけど、とにかくあなたは現世に生きる人でありながら、仏陀のように悟りを開いて、自由になったってことね。」

「まあ、そういうことかな。だから、もうこれからは、君たちのために人として生きて行けるし、急に居なくなることもないはずだよ。」

「それを聞いて安心したわ。悲しい出来事はもう沢山。私たち幸せになれるわよね。」

「もちろんだとも。まずは、籍を入れて、結婚式を挙げてみんなに祝ってもらおうよ。」

「そうね。計画を立てなきゃね。」

「僕も東京の大学に移籍するよ。いっしょに東京に住もう。」

「ありがとう。私たちのマイホームね。」

二人は、双方の両親への挨拶を済ませ、東京の郊外に住居を定めると、入籍して、健人と三人の新しい暮らしを始めた。健の両親は格式のある裕福な家庭だったが、美知と健人のことを温かく迎え入れてくれた。当然、美知の両親も賛同してくれたのは言うまでもない。そして、いよいよ結婚式の当日がやって来た。


美知は、純白のウェディングドレスに身を包み、父親の光一と共にバージンロードを進み、健と健人の待つ場所で父の手を離れると、三人で新しい道を歩み始めた。そして、祭壇で健人を挟んで二人は愛を誓い、指輪を交換した。

披露宴でも、入場、ウェディングケーキ入刀、キャンドルサービスなど、いずれも家族三人で手を携えての作業となった。編集長の宮田は、スピーチの後、中島みゆきの『糸』を歌い、美知の友人の結衣と果歩は、木村カエラの『Butterfly』を歌い、そして、健の友人の翔太は、長渕剛の『乾杯』を弾き語りで歌い、皆で祝福してくれた。健と美知は、参列者にお礼を言って、美知が両親への手紙を読んだ。そこには、父と始めた2次元の世界から広がる隠された弥生の扉を開く旅、健との不思議な出会いと別れ、健人の出産、それを乗り越えて、こうして親子三人でこのときを迎えられたこと、そして、そんな時いつも両親や周りの人が支えてくれたことなど、みんなへの溢れる感謝の気持ちが綴られていた。美知は、途中で涙に声を詰まらせながら、幸せを噛み締めていた。二人は、参列者への引き出物に副えて、勾玉のネックレスと、打ち出の小槌の絵がデザインされた財布を用意した。家族三人を交えてみんなで撮った写真には、しっかりと健と健人と美知の笑顔が刻まれていた。


 健人はやがて成人すると三島に住む大そう美しいと噂されていた三鈴みすずと結婚して二人の子が生まれた。一人目は男の子で名は優弥ゆうやと言った。二人目は女の子で名は美月みづきと名付けた。優弥は日向ひなたと結婚し二人の子が生まれた。美月は、由緒ある貴い方とされる光星という青年と結ばれて三人の子をもうけた。大海ひろみ穂乃香ほのかの間にも二人の子が生まれた。光一は、82歳で家族に看取られながらその生涯を閉じた。文江は、光一を亡くしてから十年後に静かに息を引き取った。いずれもこの世の役割を終えて静かに天に召されたのである。


この物語はここで終わりを告げることになるが、生きとし生けるものの物語は、宇宙の星々が回り続ける限り、流転して子子孫孫へと生まれ変わり永遠に続き、成仏した魂は、智慧を実践することで宇宙意志と繋がり、永遠の幸福を得るのである。



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